カテゴリー「Venezia」の3件の記事

2008.03.29

カルロ・スカルパのこと(トレヴァー・ハウエルズ教授の講演にちなんで)

トレヴァー・ハウエルズ教授というシドニー大学の先生がきて、建築保存についてのミニ講演会をしていただいた。先週のことである。春休みなので動員はあきらめていて、学生も数人であったが、かえってアットホームなゼミのような講演となった。

内容はまったく学生むけのもので、シドニーのいわゆる「アダプティブ・リユース」の概念と例に触れ、さらにパリ(ルーヴル、オルセ)、ローマ、ヴェローナ、イスタンブール、ロンドン(テイト・モダン)の保存再生の例を見せるというものであった。「学生むけのパワポをもっていただけなんだ」ということであった。しかしプレゼの最後が、ヴェローナのカステルヴェッキオ博物館すなわちカルロ・スカルパであったことがぼくの興味をひいた。

スカルパはヴェネツィアの建築家であり、不遇の時代もあったが、70年代になると国際的に有名になった。私見によれば、時代の後押しがあった。つまり近代建築批判、伝統回帰、古建築と町並み保存の黎明期にあって、イタリアの伝統を身体にしみこましながら、伝統的な都市空間のなかで、その文脈を踏襲しつつ、伝統的でもあり個人的でもあるすばらしい造形を展開した。世界がイタリア芸術を忘れつつあったなかで、それを思い出させた。

サンテリーアやテラーニなど合理主義者はやはりミラノ、ローマなどの生粋の古典主義のフレームワークにおさまっている印象である。またスーパースタディオなどのフィレンツェのラディカルたちは、ブルネレスキ流のいわゆるテクノニヒリズムの系統であろう。

それらとの対比においてスカルパはやはりヴェネツィア的なのだ。つまり建築的には中世という最盛期がすぎ、商業的にはルネサンスにおけるピークがすぎ、18世紀以降ははっきりと衰退が顕著になった、澱みつつ蓄積しながらも屈折してゆく、異質なものを受け入れつつつねに自己回帰してゆく、そういうヴェネツィアなのである。

ぼくの恩師である故I先生はスカルパを絶賛していた。そんなこともあって彼は弟子のJ大先輩をイタリアに送り込んだということになっている。そしてそれが日本における保存運動のひとつの流れとなった。だからスカルパは日本の70年代をも象徴している。

おそらく同じ時期に、オーストラリア人であるハウエルズ教授もまた、スカルパに関心をもったのであろうことは容易に想像できる。もっとも70年代においてスカルパはもはや個人的嗜好の対象ではなく、普遍的な大きなうねりを世界にもたらされていたのであるが。

講演のあと、ぼくはハウエルズ教授に2~3質問した。

まずなぜ最後にカルロ・スカルパかという問いには、スカルパは修復家ではなくすばらしい建築家だから、という答え。これが今の学生にはもっとも理解しにくいであろう。今世の中では文化財保存だの世界遺産だのわかりやすいポリティカル・コレクトネスが用意されているので、なにが本物で、本物はなにゆえに良いのか、という本質論を自問するということがしだいに忘れられてゆく。しかしハウエルズ教授がスカルパを最後の〆にもってくるそのメッセージ性を受け取らねば、おじさんになったぼくと、若い学生との距離は無限大になってしまうのである。

つぎにヨーロッパ諸国や日本では、古建築の保存の歴史的なプロセスにおいて、「フランス建築」や「日本建築」という概念が確立していったのであり、日本では1930年代に「日本建築」が確立したとぼくは思っているが、そのような意味での「オーストラリア建築」はあるか、という(すこし意地の悪い)質問もした。オーストラリアは6州がバラバラで、また白人ばかりでなくアジア・中国からも移民が多い(だからひとつのナショナルな文化は生まれにくい)、という返答であった。

オーストラリア建築の状況はSD誌のバックナンバーでも簡潔にして要を得た紹介がなされているし、ヨーロッパへの劣等感が根底にあることも想像の範囲内であった。でもぎゃくに日本式にいえば、保存といっても近代建築の保存しかない。そしてそこでは、日本にように50年経過しなければ保存の対象として考察されることもない、また保存の専門家でありながら(あるがゆえに)現代建築がわからない、だから建築的価値そのものがわからない、といったことではない。

スカルパは近代建築をくわしく学習していた。彼はライトを模倣していたつもりであり、ル・コルビュジエもとうぜん知っていた。フィリップ・デュボイがマクミラン建築家百科で指摘しているように、パリのピカソ美術館が遺作なのだが(実施は別の建築家)、そのプロジェクトでル・コルビュジエの建築プロムナードを応用しようとした。

スカルパについては熱狂的な愛好者が多くいるし、文献における解説も少なくはない。なのでとくにオリジナルでもない説明をしておこう。

良くも悪くもヴェネツィアの建築家なのだ。またムラーノ島でガラス職人の訓練をつんでいた時期もあるなど、職人的建築家でもある。小空間、素材、光、すべてが身体的に把握されている。彼がヴェネツィアという濃厚なテキストのなかで体験した、都市空間、建築空間、絵画、彫刻、などが身体にしみこみ、そしてかれのスケッチのなかで蘇生する。

そういう意味では中世のゴシック都市を理想化したラスキンの『ヴェネツィアの石』のもうひとつの解釈であり具現化であるとするのは飛躍だろうか。

ヴェローナのカステルヴェッキオ博物館。既存の800年代に建設された城に、ナポレオン時代の増築がなされた。城郭であり、作りは簡素で、おおざっぱである。そこにスカルパは介入し、小さなスケールの要素を混在させた。空間は分節化され、マテリアルにより意味は重層的に追加され、光による細やかな演出がなされる。それはヴェローナにあるおおざっぱな前身建物のなかで、ヴェネツィア的な空間を展開して、まったく別のものにしてしまうか、あるいは空間を入れ子の二重構造にしてしまうことであった。写真は、自慢ではないが(といいつつ自慢しているが)、25年前の拙写である。

空中に浮遊する騎馬像はむしろ背後の石とレンガの壁を際立たせているように思える。光は、明/暗ではなく、暗/明/暗のコントラストをもたらし、そのことによって空間を分節する。

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ヴェネツィア建築大学の門。新しい門に場所を譲った古い門は、前庭のなかに水平に置かれ、それが枠となって池とされる。ぼくが訪れたときはたまたま水がなかったが。それは基本的にはひとつのエディクラである。そのエディクラ、それを構成するモールディングのなかを、スカルパは彼自身の繰型によって埋め尽くす。彼特有のギザギザ断面のものだ。これにより壁体を軽やかにし、リズムをつける。ミケランジェロが独特のスタイルにより奇妙なエディクアを創作しながら、しかしローマ的な古典主義の枠のなかに収まっていたように感じられるのとは異なり、スカルパの繰型は、しいていえば彼が吸収しようとしたモダンなのであろう。それをライトの影響といえば平板である。そうではなくスカルパがその身体性においてとらえようとしたなにかである。

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それにしてもスカルパは日本を旅行中、1976年、仙台で客死したのだ。

病気があって、事故に見せかけた自殺であったという憶測もある。磯崎新は旅先における死ということで彼を松尾芭蕉に喩えたりもした。ハウエルズ教授はスカルパの客死をしらないはずはない。日本での講演をスカルパでしめるということは、そういう意味でも、とても象徴的なことなのだ。

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2007.08.04

ジョルジョーネ《ラ・テンペスタ》に描かれた円柱

ケネス・クラーク『風景画論』でこの絵画に触れているが、いわばおそらくポリフェロの奇想詩に着想をえた無主題の風景画であって、賢明な批評家ならなにも言わないことだと警告している。だからアカデミア美術館で本物を見るためにはとくに予習はしなかった(2006年7月)。

しかし人物も建物も意味があって存在し描かれているようだ。漠然と、「不安」がテーマであることは知っていた。周知のように、遠くに稲妻が空を切り裂いている状況で、左の男性も、右の女性も、おなじ一枚の絵画のなかにありながら、おたがいに無関係、無交渉のような位置づけられ方をしている。あたかも「不安」は共有されえない感情であるかのように。そして女性の眼差しは訴えるように鑑賞者に向けられる。これは語りかける言葉があるうえでの訴えかけではなく、「不安」が鑑賞者とも共有できないような、自分一人が絵画のなかに閉じこめられていることそのものを訴えているような眼差しのように感じられる。

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セティス『絵画の発明』(原著1978、翻訳2002晶文社)のなかで「図像定型」すなわち類似した図像の系譜のなかに位置づけることでその主題を明らかにしようとしている。G.A.アマーデオの浮彫《神によるアダムとエヴァの懲罰》では、左にアダム、右に子を抱くエヴァ、そして中央に彼らに警告を与える神が描かれているが、この擬人化された神を稲妻におきかえれば、ほぼ《ラ・テンペスタ》の構図になる。そして稲妻は、古代においてはユピテルの、ルネサンス以降においてはキリスト教の神、あるいはその神の声を意味する。これらから彼の結論は、《ラ・テンペスタ》は原罪を背負ってしまったアダムとエヴァの、死に向かう未来、その運命の自覚と不安を描いているというものである。エヴァに抱かされ子供カインでさえ、本人は無自覚であるとはいえ、やがて兄弟殺しの罪を背負う運命にある。

ここで建築として興味深いのは、折れた円柱という廃墟のエンブレムである。ここでもセティスは図像定型の豊かな系譜を披露して読者を納得させるの。まずソロモン神殿のなかに折れた円柱にまつわる物語が紹介される。カール・ルートヴィヒの『キリスト教の象徴』で、尊大なものが、精神的な強さが、たとえば稲妻に直撃され、挫け、挫折する、それが円柱に託される。雷に打たれてまっぷたつに折れる円柱は、挫折、死をあらわす。そして彼はさまざまな類例を引用しつつ、「死によって絶たれた生命」、ポリフィロの愛のために死を選んだ者たちが眠る墓地、異教徒の死、個人の死、「原罪」にたいする懲罰、などと円柱のさまざまな意味をつむいでゆく。ここでも結論は「二人に挟まれた二基の折れた円柱は、人間の生の筋書きのなか----労働の苦労と出産の苦痛を伴って----入り込んでしまった「死」を表すエンブレム」なのである。

 柱が二本なのはアダムとエヴァのふたりという意味なのか、二本の高さがすこし異なっているのは男女を区別したのか、というところまでは論述していない。白い色であることが、エヴァが肩にかけている白い布と、アダムのシャツの白を結びつけている。構図としては、近景にはふたり、中景には柱=死、遠景には無人のイエルサレムとしてのエデンである。ここは廃墟ではない。ただ無人である。そしてエデンと彼らの間にあるのが、廃墟、折れた円柱、原罪による死、なのである。

  ここで気づくのは、この円柱は古典主義のオーダーとしてはスタイルのないもので、このような簡素な柱基は建築とはいえない。しかしセルリオが舞台の書割として区別した3種類のどれかをつよく意識しているとも思えない。つまりジョルジョーネの建築的教養は、建築家たちのそれとはまったく次元が違うようだ。

 ジュリオ・ロマーノが建設した《パラッツォ・デル・テ》にも、崩壊する円柱の下敷きになろうとする巨人族の壁画(1530年代)があり、中庭には切断されたアーキトレーブと、それにより下のずれたトライグリフがみられる。それらは建築オーダーの意味を知っているがゆえに可能な、意味の転倒がある。同様な転倒は、庭園の四阿にもしばしば見られる。しかしそれらは例外だから歴史に残ったのであって、転倒された意味というより、意味の転倒の行為そのものにまさに意味があるようなものだ。

《ラ・テンペスタ》の壊れた円柱にはそうした転倒の意識はないように思える。挫折、原罪、死をきわめてストレートに意味している。

 070804_2 それにたいしてティツィアーノ《カール5世》(1548の背後に描かれている円柱は、オナイアンズ『建築オーダーの意味』によれば、「力強さ」「光沢」「高さ」を表している。安定をもたらす堅固な基壇を背景としている。私見によれば、下部しか描かれていないとはいえ当然折れていない力強いコラムであり、その柱基はきわめてオーソドックスなアッティカ式である。フルーティングがないのでトスカナ式ということなるが、実際にある柱の描写はないので、決められない。しかしすくなくともティツィアーノは意図して、認識して、アッティカ式を選択したと思いたい。

 ジョルジョーネにもどると、彼の建築理解はまだ専門家的レベルではなかった。《ラ・テンペスタ》の年代も専門家は決めかねているようだが、155-07年頃とするのが一般的である。おなじヴェネツィアを活躍の拠点としてセルリオが建築書を出版しはじめたのが1537年であるから、すくなくともセルリオをとおして知識を得ることはできなかった(ティツィアーノの《カール5世》は1548だから可能であった)。しかし建築の知は、当時にあってはきわめてフィレンツェ的、ローマ的でもあった。だとすれば円柱の擬人化についての理解は、図像的、絵画的、象徴主義的なレベルがまずあって、それとは別にウィトルウィウス的、アルベルティ的、ブラマンテ的なレベルがあったと考えるべきであろうか。

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2007.08.03

ティツィアーノの《聖母マリアの神殿奉献》:パノフスキー『ティツィアーノの諸問題』とジョン・オナイアンズ『建築オーダーの意味』を比べて読んでみる。絵画としての建築、建築としての絵画。

 2006年7月ヴェネツィア。ぼくは大学のミッションで出張していた。ついでにアカデミア美術館にも立ち寄った。気になる絵画があったからだ。いわずとしれたジョルジョーネの《嵐》とティツィアーノの《聖母マリアの神殿奉献》(1534-38)である。とはいえ当時の持病がずっと悪化傾向にあったが、ヴェネツィアというカンフル剤のおかげでなんとかもっていた。破局は帰国してからということとなるのだが。

 絵画を専門的にも体系的にも勉強したことがないので、美術館では絵画との格闘でくたくたになる。稲妻=ゼウス、鏡=虚栄、時計=時間、鍵=聖ペトロ、などとたまたま脳に残っている断片的な知識をもとにイコノロジー的解釈を試みていると、結局だれか権威に依拠せざるをえないのではないかと弱気になる。これが建築だと、通説とは異なる解釈をあえてするぞ、などと意気込むのではあるが。アカデミアでは展示の最後がティツィアーノの《聖母マリアの神殿奉献》になっており、階段に腰掛けて、ほとんど放心状態でしばらく眺めることになる。既存の部屋に描かれた壁画なので、絵のなかにドアが食い込んでいるかっこうである。このドアの両側には卵売りの老婆と古代トルソが描かれている。この両者に挟まれたドアから出ることの意味を解説した文章はまだ読んだことがない。

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 ところでジョン・オナイアンズ『建築オーダーの意味』(中央公論美術出版)のなかでこの《聖母マリアの神殿奉献》をくわしく説明している。オナイアンズはつぎのように説明する。建築家セルリオが、ティツィアーノにかなり影響を与えており、その絵画の建築的要素にはその反響が見られる。これはマリアを描くための枠組みに背景としての建築を使っている、その使い方にある。まずマリアが上っている階段は人生の象徴なのであるが、『黄金伝説』によれば彼女は13歳まで神殿のなかにとどまっていたように、階段は13段からなる。つまり1段が1年である。マリアは8段を上りきり、踊り場におり、9段目に足をかけている。ここで背景の円柱もまた、おなじことを象徴している。すなわち彼女は背景にある7本の円柱の前をすでに通り過ぎていて、8本目からまさにぬけだそうとしている。マリアはまさに9本目の円柱である。背景の8本目の円柱もまた、ある意味でマリアそのものであり、なぜなら両者のシルエットは曖昧に解け合っている。列柱は柱のつらなりであることに意義があるように。

 オナイアンズはさらに絵画右下の粗石積みとトルソにも言及している。ルスティカ積みすなわち粗々しい石積みは、力と権威の象徴であり、またすでに廃墟のエンブレムであるが、雑草が生えていることが念をおしている。さらにこのトルソは衣装からすればローマ皇帝か将軍なのであることは自明である。これもまたセルリオが古代ローマ建築をあつかった第3書からの影響である。すなわち権威に満ちた力強いローマ時代はすでには廃墟として過去のものとなっている。時代はすでにキリスト教のものとなりはじめている・・・・という解釈である。

ここで思い出すべきはパノフスキー『ティツィアーノの諸問題』(原著1969;翻訳・言叢社2005)における同絵画の解説である。彼もまた、絵画全体の構図についてはセルリオの舞台デザインからの影響を指摘しているのだが、図像学的分析としてはむしろ別のものに力点をおいている。まずトルソはギリシア、ローマ時代の象徴であり、律法以前を示している。オナイアンズが対象としなかったのは卵売りの老婆である。パノフスキーによれば、風貌と衣装からすれば老婆はあきらかにユダヤ人であり、しかもこの商人が祭儀には必要とされない卵を売っていることは、ユダヤ教は生きてはいるがもはや主要な存在ではないことを意味している。そしてトルソも老婆も、神殿奉献という主たるできごとが発生している場所の外側に置かれているにすぎない。すなわち古代の異教は過去のものとなり、ユダヤ教も傍系となった、キリスト教の勝利である。

パノフスキーの図像学的な分析を前提として、オナイアンズは論を進めていることは明らかである。パノフスキーが扱わなかった、階段や円柱の図像学的解釈はさらに展開するが、しかし老婆への言及は注意深く回避している。パノフスキーは、絵画構成のなかでマージナルな扱いをうけているもの(トルソ、老婆)の意味を際だたせることで、むしろ主要テーマを浮き彫りにしようとしている。いっぽうオナイアンズはその主要テーマそのものを、建築的なイコノロジーにより、解釈しようとしている。

『諸問題』においてパノフスキー自身が図像学的アプローチと様式的それとのバランスを説いているように、訳者あとがきでも、図像と様式の相互関係があるいはそれらの葛藤が描かれる。パノフスキーはティツィアーノにおける「純粋色彩」の発見をことのほか強調する。絵画を図像のシステムとして解釈してゆくとき、絵画は哲学、思想、慣習、などのさまざまな系の網の目に浮かぶものとなるだろう。そして他律的に解釈される。しかしこのヴェネツィアの画家が到達した「純粋色彩」が、ほんとうに近代に成立した「純粋絵画」の先駆けであるとしたら?訳者は、このイコンの深淵と、純粋絵画への希求が、このヴェネツィアの画家のなかで交接しているとするのであるが・・・

いっぽうでオナイアンズの『意味』はまさにこのイコンの深淵を建築のなかに見ようとしている。その意味の積層と厚みや深みを描くことに成功している。いっぽうで、彼はとりあえず純粋建築などというものはまったく念頭においていないようである。むしろイコンの変遷であり、それを古代からルネサンスまで追体験することで、歴史的一体性をもった建築という宇宙を構築しようとしている。

ここで二つのことが指摘できる。まずイコンの体系としても、絵画と建築は異なるのではないかということ。建築オーダーにもウィトルウィウス以来の図像学的意味があったが、そうした建築書の伝統の中で確立された意味の体系と、絵画に描かれた建築の意味体系はそれほど整合していない。画家がインテリであり建築書も読み得たということは部分的にしか発生しないのであろう。さらにオナイアンズは建築をイコノロジー的に解釈することを目的としながら、まさにティツィアーノの絵画のような作品を、一種の建築として、ヴァーチャルな建築として分析している。建築書の宇宙と、建築のそれは、もちろん重なっているとはいえ、まったく別物だということである。さらには建築としての《神殿奉献》はまだ絵画史のなかに位置づけられていない。

もうひとつはイコン的底流/純粋可視性(ヴェントゥーリ)という相克が近代にもみられるという訳者の指摘はそうなのだろうと、建築畑からの同意はできるのだが、しかし建築にはそのままでは適用できないというあたりまえのことでもある。上にパノフスキー解釈とオナイアンズ解釈を比較したが、両者はそもそも前提が異なっている。パノフスキーはティツィアーノにおけるイコン/純粋色彩の諸問題の総体を論じているのにたいして、オナイアンズはイコンの重層としての建築である。いいかえればそもそもパノフスキーはかれなりの絵画のイデアを、オナイアンズは建築のイデアを論じている。両者は交差しない。

建築が外部依存的であり文脈依存的であることは当たり前である。しかし建築家の探求は、そうした他律的な実務の積み上げのなかに、まさにそのなかから、自立的な建築のイデアが発生せざるをえないというパラドクスのなかにある。そうした点では画家とそれほど異なってはいないはずだが、しかし、その純粋建築の立ち上げメカニズムはかなり異なっているような気がする(継続テーマとする)。

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