カテゴリー「Rennes」の21件の記事

2009.07.09

『ガルガンチュア』を読んだ

村上春樹のあとでラブレーを読むのはかなりきわどい組み合わせである。でもけっこう良かったりして。読了後、その繋がりを考えるのもおそしろそうだと考えた。

なぜ『ガルガンチュア』かというと、2年前にレンヌを旅したとき、鐘楼の話しを読んだからであった。

レンヌには中世からの鐘楼があって、それは巨大なもので、市民の誇りであったが、1720年の大火でいちど破壊されたが、市長はその残骸を集めさせて、再度鋳造して鐘をつくり、18世紀に市庁舎が再建されるとそこに取り付けさせた、というのである。

大火前の鐘はフランス中に知れ渡るほど大きく有名なものであったので、ラブレーの『ガルガンチュア』のなかで言及されている、というのであった。

そこで宮下志朗訳の3巻本に目をとおした。とりあえずはレンヌの鐘だけでよかったのだが、面白くて読み通してしまった。

肝心の「レンヌの鐘」はこの邦訳では登場せずに、結局、WEBの英語サイトでその記載を発見した。つまり主人公はたいへんな巨人であって、その首飾りにレンヌなどの巨大鐘をつけるほどであった、というそれだけの話しであった。とはいえこの書はさまざまな逸話をかき集めることで16世紀フランスのパノラマになっている点が面白い。

それからルネサンスの書であるという本来的な観点。古代ギリシアや古代ローマの神話、詩、文学、哲学からの引用が充満しているし、たとえば訴訟談義のおいてもローマ法、ユスティニアヌス法などの条文を引用しつつ吟味したりしている。それらが主人公たちの一種の人格形成の(荒唐無稽な)物語として語られている。これらはソルボンヌ的な、ということは中世神学的な知の体型とはまったく異なる世界を描こうとしている。

もうひとつはフランスのサイトで面白かったのは、『ガルガンチュア』というキャラクターはラブレーの発明ではなく、口承物語りとしてフランスに伝統的なものであって、それはメリクリウスという古代の神が、ガリア化(フランス化)したものである、という指摘である。こういう意味でもルネサンス的なのであるが。いずれにせよ中世的な縛りにたいして、古典古代的なものを解放として位置づけている。

16世紀の古典主義もそうなのであろう。この時代の古典古代解釈はとても自由なものであって、17世紀における規則化とはまったく異なるものであった。文学を満たしている雰囲気を念頭において、建築も観察すべきなのであろう。当然。

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2008.02.26

フランスの裁判所(4)レンヌの上座裁判所

 こういうマニアックなことにはまってしまうのは危険なのだが。2カ月のブランクのおかげで自由な発想がふつふつ、というハイな状態はまだである。とりあえず調べごとということで・・・。

 フランスの地方の公共建築はいかなる運命であったかという命題である。それが古典主義が展開される舞台であった。結論としては控えめでけなげ。現在では歴史的建造物に指定されているものが、そうだという理由は・・・。

 GN先生のご説明によれば、上座裁判所(Présidial)は1551年に創設された。些細なことかもしれないが、『小学館ロベール仏和大辞典』によれば1552年設立である。すでにのべたように、これらは主要なバイイ裁判所(初審)にもうけられた控訴審(ゆえに上座)のための裁判所であった。

 上座裁判所の構成員である。まずセネシャル部長評定官(Sénéchal-président)。評定官(conseiller)が7名。王の弁護士。書記官。彼らは司法を管理し、訴訟にかんするあらゆることを知っていることになっていた。彼らの判決は最終判決であった。とはいえ最重要の訴訟ではなかった。

 ブルターニュには4カ所に上座裁判所が設置された。レンヌ、ナント、ヴァンヴ、カンペールである。初審であるセネシャル裁判所から最終の高等法院までにあげられる訴訟の数を中間段階でなるだけ減そうというものであった。

 まずどの建物に入居するかは、当時としては迅速に検討された。1556年10月30日、高等法院は「レンヌ市の上座裁判所の訴訟遂行にとってどこが適切かを調べる任をうけた、法廷の評定官ふたりのによるレポートにもとづいて、裁判所の法廷は、別の定めがおりるまでは市の共通の建物maison communeにおかれるであろう」と決めた。

 要するに市庁舎(に相当する建物)のなかに間借りしようというのであった。しかし市庁舎は手狭であった。なのでレアール通り、現在のラリエ=デュ=バティ小路にあった監獄に隣接する建物のなかにはいった。この建物は1720年の大火で焼失した。ということはここに150年ほどいたわけだ。

 大火後の仮住まい。モンバロ邸(あるいはブリサック邸)に上座裁判所はあった。これはファンヌリFannerie通りにあった。すなわち現在の市庁舎通りとブリラク通りがなす北西コーナー部分。ここには40年ほどの仮住まいであった。

 結局、ガブリエルが建設した新しい「市庁舎+時計塔+上座裁判所」の複合建築にはいったのが1762年。しかし革命でこの上座裁判所の制度そのものがなくなってしまう。ここには30年もいなかった。

 ただ面白いのは、1556年、上座裁判所は市と建物を共有するということがすでに決められていたことだ。その決まりに従うことは困難であった。まず市庁舎そのものがまともに完成されなかった。さらには大火でそれどころではなくなってしまう。結局、復興事業のひとつとしてガブリエルが建設することで、市庁舎と上座裁判所は同じ屋根のしたにはいることができた。待つこと、ほぼ200年である。いちど決まったことは変えないという、ことである。持続力が強かった、保守的であった、権威主義的であったということでもある。ただひとつの意志がつよく継続される社会であったといえる。

 200年待たされ、30年間それ本来の使い方をすることで空間と機能を一致させたと思ったら、そののち200年は機能が変わってしまう。

 にもかかわらず建築が建築として存在するのは、フレキシビリティということで未来を予測するのでもなく、文化財という名目で過去を引きずるのでもなく、「永遠」をどこかで信じているからなのだろう。

 17世紀ととくに18世紀の古典主義の建築をみていると、その本来の役割を果たしていたのはごく短い期間であった。第二の人生がはるかに長い。ぎゃくにいえば汎用性がある建築であったということ。19世紀におけるゴシック建築の熱狂的な再評価に比べれば、それほど評価もされずむしろ冷遇されているが、けなげにがんばっている。古典主義の実像はそんなところだろうか。ヴェルサイユ宮やルーヴル宮は別にして。

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2008.02.18

フランスの裁判所(3)エクサン=プロヴァンス/上座裁判所ほか

 1999-2000年に短期フランス滞在をしました。すでにご紹介したナント、ヴァンス、そしてここエクサン=プロヴァンスで裁判所が新築されていたことが印象的であった。のちに知ったが、ボルドーでもロジャースのものが建設されていた。司法制度の全般的改革の結果であることは想像はつくが、くわしいことを調べようと思っているうちに雑用に追い回される境遇となった。

 このエクサン=プロヴァンス裁判所がある場所は、もともとプロヴァンスの総監邸、高等法院などの建物があった。これらは18世紀末に取り壊された。

 ルドゥが新しい建築を設計し、基礎まで建設されたが、革命によって頓挫した。このプロジェクトは彼の『建築』に収録されている。ふたつの正方形をずらして組み合わせ、都市的な文脈にあわせたもの。裁判所は巨大なポーティコからなる。監獄は、鈍重なトスカナ式オーダーのポーティコ、開口の少ない壁面、からなる。投獄される罪人が脱出の可能性のなさに落胆する、建物の機能をはっきり表明した「語る建築」の例とされている。この裁判所/監獄の組み合わせは珍しくなく、レンヌでもそうであった。

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 建築家パンショPenchaudは、1825年から1832年、ルドゥのプランに従って建設された基礎のうえに、法廷と監獄を建設した。光が降り注ぐ中央ホールが印象的であったという。裁判所のほうは、ルドゥの新古典主義からはほど遠く、平板な古代ローマ様式かあるいはルネサンス様式であろうか。強引なこじつけをすると、南フランスは成文法地帯ということになっており、土地柄もありローマ法の伝統が強い。だから建築もまたローマ風にしなければならない道理はありませんが。監獄はイタリアのパラッツォ建築のプロポーションを変化させたもののように見える。

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 監獄はやがて1998年に改築され、破棄院(Palais Monclarと名づけられた)となった。もともと監獄であったので、外部にたいしては閉鎖的であった。したがって採光は中庭からであり、中庭に面するルーバーが印象的である。これなどは今風にいえば建築遺産の再利用などということになるかもしれませんが、そうではありません。中世以来ずっと司法関係の施設であることを考えると、これは文化財でも遺産でもなんでもなく、裁判所が姿形を変化させながら、ちからづよく生き続けているのである。

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 ところで話題かわって上座裁判所(Présidial)について説明してみよう。フランス版ウィキペディアによれば・・・。

 まず1551年、アンリ2世が王令により上座裁判所(Présidial、プレジディアル)を設立した。フランスの三審制がここに始まったといえるのではないか。下級審としてバイイヤージュ、セネショセがあり、控訴審としてこの上座裁判所が、さらに最上位に高等法院(パルルマン)がある。

 1551年の王令により、60の上座裁判所が設立されたが、そのうちの32はパリ高等法院から分かれたものであった。ルイ14世時代に国王側からの改革としてこの上座裁判所制度を廃止しようという動きがあったことがわかっている。1764年には全国に100の上座裁判所があった。民事、刑事どとらも扱った。

 1790年、旧制度のひとつであったので、廃止された。

 ・・・というわけでほとんどわからない。どんな社会階層の利害を代表していたかもわからない。滝沢正先生のご著書にもまったく解説なし。中規模問題をあつかう高等法院というようなものなのであろうか。もちろん王権と戦う主体などではなっかたのであろう。

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2008.02.17

フランスの裁判所(2)

 なぜ裁判所か?自分たちの法で、自分たちを裁くというのが地域の権利であり、自律性である。これは地方分権の基盤である。それが歴史的な底流をなしているのがヨーロッパであり、都市や建築を考えるための不可欠の背景である。

 つまり市庁舎、市長公邸、地方議会なども大切だが、司法機関というのも地域が自律していることの象徴にもなりえる。だから重要な建物として注目されるのである。

 15世紀から18世紀までのフランスの裁判所施設に関心をもっていたのだが、遅まきながら滝沢正『フランス法』(三省堂、1997)で体系的に勉強してみる。著者は法学の専門家である。

 素人にとって困るのは、西洋史学者と法学者とでは書き方が違うということであろう。そもそも用語(訳語)が違う。たとえばふつうは高等法院(Parlement)とするのだが、この法学者は「最高法院」と訳す。上訴は不可能、つまりその上位にはもはや上級裁判所はない、のだから。同様に西洋史では「三部会」とするものを、法学ではあえて「全国身分会議」とする。またあたりまえの話し、法学者にとって裁判所は主役であり、歴史学者にとっては登場人物のひとつにすぎない。しかし概念の正確な定義を与えてくれるのはやはり法学者であり、あたりまえのこと、素人にとっては心強い。

 西洋史が強調せず、法学が重要視するのは「法源」という概念である。古代末にはローマ法とゲルマン法の二元論であった。これは属人主義である。しかしこの二元論はやがて克服されて、属地主義にもとづく慣習法のいう方式で統一された。しかし慣習法は地方ごとにことなっており、きわめて多様であった。多様な慣習法は北フランスと南フランスでおおきくふたつのグループにわけられる。北はまさに「慣習法地方」と呼ばれ、南は「成文法地方」である。一般的に北はゲルマン法がよく保存され、南はローマ法に支配されている割合が大きい。しかしいずれにせよ慣習法が地方ごとにまったくことなる状況であった。

 17世紀と18世紀のいわゆる「絶対主義」時代にあっても法源は慣習法であった。この多様な慣習法を統一する動きがこの時期には顕著であった。それ以外に制定法、判例法があった。

 中世の領主裁判権、教会裁判権はもはやなく国王裁判権にほぼ統一されていた。ただ国王がみずからその司法権を行使するのではなく、機関が行っていた。これを委任裁判(justice déléguée)制度というのだそうだ。

 国王裁判権はいわゆる三審制でなされる。まず至高法院(cour souveraine)がいちばん上である。これらはふつう高等法院(parlement)と呼ばれる。しかし滝沢先生はあえて「最高法院」と呼ぶのである。しかしぼくとしては高等法院でいこうかな。さらに中間にあるのが上座裁判所(présidial)。さらにその下級には代官裁判所(baillage, sénéchaussée)がある。後者は西洋史ではそれぞれバイヤージュ、セネショセなどとする。国王の代官だから、国王代官裁判所とする訳もある。ただ西洋史学者がカタカナでそのまま標記するのは、どうもたんにカッコにくくっただけのようにも思える。

 西洋史ではこの高等法院がよく出てくる。ここでは滝沢先生のご説明をまとめてみよう。

 まず高等法院は、地方ごとにある。パリ高等法院のみであった時代は短い。それ以上、上訴できない最終院が、パリだけではくギエンヌ、ブルターニュなどにあるということは、地域の最終裁で決まったことが、他の裁判所で破棄されたり覆ることはないということ。これが自律の意味である。

 貴族階級がその政治的な主張し、国王の権力に対抗するための温床が、この高等法院であった。売官制であり、国王も罷免できなかった。いわゆる法服貴族(noblesse d'épée)が力をもったのはここであった。貴族階級=高等法院は、ルイ15世時代から顕著に王権に対抗した。ルイ16世時代にさらに顕著になった。チュルゴー、ネッケル、カロンヌらの財政改革はその反対のために頓挫した。

 それでは高等法院はいかなる権力をもって、国王にたてついたのか。

(1)法規的判決(arrêt de règlement)の権限。すなわちある事件に関する事柄について立法する権限。

(2)法令登録(enreigistrement)権。王令は、高等法院の登録簿に記載されてはじめてその高等法院の管轄区域内で効力をもつ。つまり高等法院は消極的ながら、王令への拒否権をもつ。

(3)諫言(remontrance)権。国王の立法や行政について注文をつける権利。これを「建言」と訳す向きもあり、素人は混乱しますね。

 では国王はいかなる手段をもって高等法院を支配しようとしたか。

(1)親臨法廷(lit de justice)。

(2)国王顧問会議(Conseil du roi):ここに訴訟関係顧問会議なるものがあって、王令に違反した判決の破毀事件などをとりあつかう。こうして国王の管轄権を回復する。

(3)地方長官(intendant)。各地方総監区に派遣する。これは後の、内務省が派遣する知事のようなものか?

 このように国王と高等法院は競い合っていた。当時の都市プロジェクト、建築プロジェクトの背後にもこうした力関係はつねに反映されている。

 さて裁判所が裁判所であるための根拠、法源は、慣習法であることはすでに述べた。ヴォルテールは「宿場ごとに馬を換えるように慣習法が変わる」と皮肉ったそうである。煩雑であっただろうが地域の独自性の反映でもあった。16世紀にはフランス内のほとんどすべての慣習法の編纂が終わっていたようである。その体系は階層構造をなしている。局地慣習法(coutume locale)、普通慣習法(coutume générale)、大慣習法(grande coutume)。大慣習法のなかでパリのものは1510年と1580年、ブルターニュのものは1539年と1580年に編纂されている。

 ブルターニュ公国は845年に成立し1532年にフランス王国に併合されたが、1980年代にふたたびひとつの地域圏として政治的まとまりをもった。しかしフランス王国の一部であった時代も、独自の慣習法と高等法院をもって自律しようとしていた(ただし王権に反抗してお仕置きをくらったこともあったが)。

 

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2008.02.16

フランスの裁判所

 たぶん2000年であったと思うがナントの裁判所を見学した。ジャン・ヌーヴェルの作としては、それほど評価されていないようだが、なかなかのものであった。まだ開館しておらず、また開館していても観光客など入れないのだが、そういうわけで外だけみた。もともと製鉄関係の施設があったという場所らしく、スチールをふんだんに使った、黒ずくめの、新古典主義である。しかし正面の庇は、柱も細く軽やかで、広々といている。これは見るための建築ではなく、つまりルドゥ的な「語る建築」ではなく、そこから都市を見るためのフレームとして機能する枠組みとなっている。

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 さて以下はフランスにおける裁判所の歴史である。建築の背景にすぎないので、ご興味なければ無視してください。

 高等法院(Parlement)とは、旧制度時代は最高裁判所である。政治的・行政的役割をはたしていた。最高裁判所として、前判決を不服とする控訴を受けいれる控訴院であり、最高裁判所として前判決を破棄する破棄院であった。それらは第三身分の民事と刑事にかかわるものであった。そのほかに貴族同士の起訴を調停する役割もあった。

 そもそも中世初期、王はクリア・レギス(Curia Regis)を主宰し、王国のあらゆることを取り扱った。王権の展開とともに3機能に分割され、コンセイユ・デュ・ロワ(Conseil du Roi:政治)と、会計院(Chambre des comptes:経済)と、高等法院(Parlement、パルルマン:司法)となった。13世紀に発足したパリ高等法院は、15世紀まで王国の全領土に権威を及ぼした。

 1250年頃。パリ高等法院成立。

 1319年、聖職者は高等法院のメンバーにはなれないこととなった。

 1345年、オルドナンス(王令)によって組織形態が最終的に決められた。

 1422年より地方にも設立、18世紀までに13の高等法院が各地域に設立された。1462年、ボルドー高等法院。1477年、ディジョン高等法院。1553年、ブルターニュ高等法院(レンヌ、ナント)。これらの設立にはそれぞれ経緯があって、地域の事情を反映している。各論にはおってふれる。

 教会との関係。前述のように1319年法は聖職者を追い出した。こうして高等法院は、王国がフランス教会を教皇から守るための機関となった。宗教改革と反宗教改革のあいだ、高等法院はトリエント公会議の教義がフランスにもたらされることに抵抗した。

 王との関係。高等法院は王命を登録し、あるいはそれにたいして建言する権限があった。ゆえに高等法院は、君主制をコントロールできる権利をもつようになる。フロンドの乱はその象徴的な事件であった。パリ高等法院は王国における財政管理権を要求する。世襲制であったので、また英国議会を模範として、2院制とし、ひとつは選挙制にすることを要求した。

 1673年、ルイ14世は王令が登録される前に高等法院がそれにコメントすることを禁じた。高等法院は抑圧化にあった。1715年に王が没すると、高等法院は摂政フィリップ・ドルレアンと交渉した。建言をする権利をふたたび持つため、ルイ14世の遺言を破棄することを要求した。

1750年より高等法院は、課税のまえの平等といった、王権による改革を阻止する。ルイ15世は高等法院の数を減した。1771年、高等法院は政治的機能を取り上げられた。しかし1774年、ルイ16世は高等法院を招集してしまったので、その高等法院の反対にであうようになった。1780年代の高等法院の活動は革命への序曲となった。しかし革命のよってその活動は停止した。1790年より国選の裁判官制度となる。

 

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2007.11.05

建築家サロモン・ド・ブロス(Salomon de Brosse, ca.1571-1626)がレンヌにきたことについて

 建築家サロモン・ド・ブロス(Salomon de Brosse, ca.1571-1626)はレンヌには2週間しかいなかった。

 1618年8月8日から22日である。この短期間に、都市レンヌのデザインは決定された。

 高等法院の部長評定官ジャン・ド・ブールヌフJean de Bourgneufは、国王ルイ13世に請願して王の建築家を派遣してもらった。1611年には高等法院は建物建設を決めていたが、レンヌ市の建築監督官であるジェルマン・ゴティエGermain Gaultierの案は、とくに優れたものではなく、不満であった。それで高等法院はパリから建築家を呼ぼうと考えたらしい。1618年7月26日、ド・ブロスはレンヌ行きを命じられる。

 ド・ブロスはエリート建築家であった。叔父は、建築書を出版して影響力の大きかった建築家ジャック・アンドルエ・デュ・セルソ。ド・ブロスはまたアンリ4世、マリ・ド・メディシスから建築家として登用された。後者のためにはルクサンブール宮(1615-20、現上院)を建設した。さらにクロミエ城、ブレアンクール城、1616年以降はパリ市庁舎裏のサン=ジェルヴェ教会ファサード(建築オーダーが3層積層したルネサンス様式のもの)、パリ裁判所の火災後の修復、などを当時手がけていた。パリで多忙であったので、ド・ブロスはレンヌには生きたくなかったが、逆にパリの仕事のためにはジェルマン・ゴティエを呼んだりしている。

 ド・ブロスはともかくも1618年8月8日にレンヌ到着。14日にエスキス提出。16日には最終プロジェクト案を提出。猛スピードのゴティエ原案修正である。しかし彼が修正したのは、中庭、ギャラリー、ファサードであった。一言でいえば、当時のイタリア風にした。とくに地上階は、開口部は少なく、ルスティカ仕上げで、フィレンツェのパラッツォ・ピッティ、自身のルクサンブール宮をモデルとしていた。2階はドリス式オーダーで飾られている。地上階は地元の花崗岩、2階は白い石灰質の仕上げ、それはブルターニュとパリの対比でもあり、地方が首都に支配されていることの赤裸々な表現でもあった。

 さらに2階テラス、そしてアプローチとしての正面外部階段が印象的である。高等法院評定官たちは、ここから都市を見下ろし睥睨するのである。

 さらにローマ風手摺子と、巨大なスレート屋根は、ルネサンス的普遍性とブルターニュ的固有性の両立であった。

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この絵は1690年、レンヌに高等法院が戻ってきたことを描いたもの。前回の投稿で指摘したように、1675年、印紙税にブルターニュ高等法院は反対した。王は、国家の収入にかかわる(ということはヴェルサイユ宮殿の建設に関わる?)この件について激怒し、ブルターニュ高等法院の開催地をヴァンヴに移した。そして王の許しが得られるのに15年かかった。

 画面左はルイ14世とその家臣たち。右は正義、美徳、公平、ブルターニュを象徴するエンブレムたち。国家はすべて男性で、地方(地域圏)はすべて女性で象徴されている。露骨なジェンダー的表現である。

 背景の高等法院建物には、中央に外部階段が見られる。18世紀、これをガブリエルは撤去した。

 さて17世紀にもどって、高等法院メンバーが、パリから王の建築家を呼ぶということはなにを意味したであろうか。国王/高等法院の関係はなかなか難しかったのであり、たんなる服従のポーズではないであろう。ひとつはブルターニュのひとびと、レンヌの市民たちにたいする優越の意識であり、他方では国王の文化レベルに近づこうとする上昇の意識であろう。地方支配階級の自意識といえる。それがこの地方に、パリを経由してフィレンツェのルネサンス文化を導入しようとした、モチベーションとなったのであった。

cf. Szambien, 200, p.78; Veillard, 2004, pp.85-88, etc

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2007.11.04

ブルターニュ高等法院のこと

 リージョンの時代である21世紀を、地域の独自性、文化のアイデンティティという文脈で考えるとき、レンヌにある旧ブルターニュ高等法院を語らないわけにはいかない。建築史とは抽象的理念の継承の歴史であるだけでなく、まさにひとつの建物が歴史の諸段階を生き抜いてゆく歴史でもある。

 この建物は、高等法院としてほぼ150年間生き、そして裁判所として220年間生き延び、そして120年前からは文化財としても生きている。しかしなんとか現役である。

 17世紀初頭にイタリア・ルネサンスの建築として建てられたこの高等法院は、地方ということを考えれば例外的にして特権的であり、その先進性と重要性は過小評価させているのではないか、というのがヴェルナール・ザンビエンの指摘である。

 そもそもブルターニュはケルト系のアルモニア人が住んでいた。ローマ帝国末期にイギリスからブルトン人が大量に移住してきて、9世紀に王国を建設、やがてそれは公国となった。だからもともと独立した公国であった。1532年、フランス王国に併合。しかしそれでも「外国と見なしうる地方」となった。1790年には5つの県に分割されると、ブルターニュは行政主体ではなくなる。しかしブルターニュには独自性の主張が強かった。1970年代にはブルトン語を初等教育で教える運動があった。1980年代初頭に、地方分権法により、ひとつの地方圏(リージョン)となり、ひとつの行政単位として復活した。

 こうした、地域の自立性という文脈のなかで、ブルターニュ高等法院はきわめて重要であり、象徴的である。

 高等法院(Parlement)とは英語の「議会」とはまったく違う存在である。基本的には裁判所である。しかしやはりアングロ=サクソン的な三権分立のシステムとは無縁な時期であって、この裁判所は、立法権、行政権も所持していたようである。

 この高等法院は、王の行政命令を登録する手続きをしたので、合法的に、かつ代償を覚悟で王の命令に背くことができた。またブルトン人をブルターニュの法で裁くことは、まさに主権の問題であった。このような文脈から、この高等法院は公国の自立性の象徴としてたちあらわれてくる。

 フランス王国に併合される以前、「高等法院」という名の機関はなかった。しかし15世紀後半にはフランソワ2世がヴァンヴで主権を保持するそのような機関を設立していた。しかしフランス統合により、短期間、パリの高等法院が最終審であった。1553年、ブルターニュ高等法院が設立され、その本部は、レンヌとナント交互であった。1561年、最終的に高等法院はレンヌを所在とすることが定められた。1581年、高等法院の建物を建設することが決まった。

 1618年起工だが、竣工までには37年かかった。まず地元建築家ゴルティエが長い時間をかけて原案を作成した。しかし関係者はそれに満足しなかったようで、マリー・ド・メディシスのためにパリでルクサンブール宮(フィレンツェのパラッツォ・ピチィを踏襲したもので、フィレンツェつながりである)を建設したサロモン・ド・ブロスを招聘した。フラワンソワ・ロワイエの研究によれば、ド・ブロスは、原案を若干修正した程度であるが、ともかくもイタリア的建築の原理をよく理解してそれをはじめてフランスの地方にもたらしたのであった。セルリオのグラン・フェラール、パラディオのパラッツオなどがモデルであった。

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 この、地元建築家がすこし計画を立て、それから宮廷から派遣されたエリート建築家が修正をほどこし、作者としていれかわるという構図は、17~18世紀には頻発する。

 1階は重厚な基壇、2階はドリス式カップルド・ピラスターという、ブラマンテ的な構成である。正面中央には外部階段があり、セルリオからの影響が示唆されるゆえんであるが、この階段は2階レベルのテラスにつながっていた。一階と二階のコントラストは、監獄と裁判所の複合建築であったことにもよる。いすれにせよレンヌの古い町並みを睥睨する近代的な公共建築ができたのであった。

 裁判所としての位置づけは曖昧であらねばならなかったようだ。すなわちフランス王国である以上、最終審はパリ高等法院であるが、しかしブルターニュ高等法院こそがそうだという主張がつねにあった。

 併合の帰結として17世紀以来、レンヌ市壁の撤去がはじまった。しかし法的な自立性のためには高等法院と三部会は団結が堅かった。つねに王権からの独自性を主張しようとした。たとえば塩税免除という特権をなくそうとしたとき、反対した。1675年には印紙税への反対運動をおこした。このように高等法院はブルターニュ自律の象徴、どころか実体であった。

 さまざまな人の裁判にかかわった。ブルトン語といってもひとつではなかった。南部ブルターニュの人びとは、通訳が必要であり、ほとんど外国人あつかいであった。

 行政機能をも果たす高等法院の構成員は、地域の貴族であり名望家であって、彼らの権威にふさわしい威風堂々としたデザインであった。

 1720年の大火をうけて、改修がなされた。まずロブラン=ガブリエルのグリッド計画はこの建物を起点として設定されていることは明らかだ。まず建物前に広場をつくった。また正面に至る道も一直線に形成された。今日、南部からまっすぐこの建物の中央部がみえる。

 またガブリエルは広場周囲の建築を整備するとともに、高等法院建物については、屋外階段とテラスを撤去し、階段を中庭の一部に建設した。これはコワズボクス制作のルイ14世像を広場中央に設置するためで、その高さに匹敵する屋外階段やテラスは不敬とみなされたためでもあるらしい。しかし都市空間の文脈からみると、街路からの引きを十分にとるためでもあることは容易に理解できる。しかしなにより、この建物が周囲にくらべて圧倒的に特権的であることはなくなった。

 1735年、法学部がナントからレンヌに移転した。高等法院のある都市がふさわしいのはいうまでもない。しかしこの移転した法学部がコアとなって、19世紀、レンヌ大学の大成長が始まる。人口の三分の一が学生であり、大学でなりたっているような現状を思うとき、この高等法印院の存在は決定的であった。

 フランス革命。1789年、ここで貴族とブルジョワが流血の対立事件を引き起こす。若きシャトーブリアン(ロマン派の文人、政治家、その『キリスト教精髄』は文化財保存理念の出発点となる)はそれを目撃する。1792年「ラ・マルセイエーズ」が最初に歌われる。王像は撤去され、自由の樹が植えられる(現在はサーカス小屋がある!)。

 革命で高等法院が廃止されると、この建物は高等裁判所などになった。まだまだ権威を保っていたとはいえ、都市との関係はうすくなる。

 シャルル・ミラルデCharles Millardetは正面を鉄柵で囲った。1839年から1890年までこの鉄柵は存在した。1839年、店舗が追い出された。1855年、法学部も移転した。1882年にはアーカイブも転出した。しかし1858年にはナポレオン3世が訪問し、大宴会をやったらしい(その時のための特別のインテリアが残っている。蜂に喩えられた彼の装飾などである)。都市との関係はますます薄くなった。

 そのかわり文化財となる。1884年、歴史的建造物に指定される。19世紀末、ジャン=マリ・ラロワは、現状の機能に適合させるというそれまでの方針を撤回し、過去の再構築という修復にのりだす。1972年、市長アンリ・フレヴィルは、18世紀の優れた評定長であったロビアンに捧げられた博物館をそこに設置するプロジェクトを提案した。

 1994年に火災発生。おもに木造小屋組が被害にあった。前述のザンビアンはこの小屋組についてくわしく書いている。「森」と呼ばれるほど大量の木材が使われた、立派な小屋組であったが、石造部分だけが注目され、ほとんど研究されなかった。皮肉なことに、火災によってその小屋組が露わにされ、被害は受けたものの、再評価がなされた。

 幸い、インテリアを含め、美術装飾のたぐいはなんとか消失を免れた。いまでは裁判所機能と、文化施設機能を両立させている。

 ・・・・のであった。さて散歩でもしようか。

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1720年のレンヌ大火

 11月4日は日曜日である。目論見どおり市営プールまで歩いて1分20秒。とりあえず10回の回数券を買いました。これでしっかりリハビリである。さっそくひと泳ぎ。しかも市場は日曜日でも朝から開店している。今日は近隣の散歩くらいにして、ブログをやろう。

 フランスの都市は20世紀の大戦でかなり被害を被った。しかしそれ以外では、ロンドン大火に比較される、つまり大火が都市計画の起爆剤になった例としては、1720年のレンヌ大火より顕著な例はない。

 大火までは完全な中世都市であり、建物はほとんどすべていわゆるハーフチンバーのものであった。しかし復興都市計画によりグリッドプランに整備され、建物も石造のアーケード式のものとなった。現在、被災しなかった古い町並みと、18世紀以降の新しい(18世紀は「新しい」のです!)町並みは強いコントラストをなしている。

 それは1720年12月23日の深夜であった。トリスタン通り(現在のシャトールノー通りの隣)に住んでいた職人が、酒に酔って燭台をひっくりかえしたことが原因ということになっている。鎮火は12月29日。雨のおかげで、やっとであった。945棟が消失した。これは当時の40%にあたる。ちなみに県公文書館で当時のアーカイブをみたが、被災した地所、建物ごとに所有者から状況まで詳しく書いている。

 犠牲者は数千人という伝説もあったが、人口規模からすればあり得ない数字であり、都市史の専門家ニエール教授は10人程度としている。

 しかし住まいを失った被災者は8000人にのぼった。

 延焼の原因は、建築の構造である。1720年の時点で、建物はほとんど16世紀、17世紀に建設された木造建築であった。12月というのも悪条件であった。多くの家では、屋根裏に大量の暖房用の薪を蓄えていたからであった。さらにこの地域は、市域の北の丘にある、裕福な街区であった。有力者も多かった。だから地方長官フェド・ド・ブルは防災政策のためにいくつか建物を取り壊したかったが、なかなかできなかったのである。

 下の図で、濃い色の部分が消失地区。面積にして市の1/4くらいか。

Incendie_rennes_1720_small

 再建計画はすぐ練られたが、当初、当局は民間建築で15年、公共建築で20年を考えていたらしい。

 再建案はいつくかあった。地元建築家ユゲの案は、あまりに旧態復帰的として退けられた。ブルターニュ担当のエンジニアであったイザク・ロブランは、石造の耐火建築への転換、グリッドプランに基づく近代的なプランを提案し、またカーブしていたヴィレーヌ川をまっすぐにして運河機能を向上させようとした(これは19世紀に実現された)。しかし経費がかかりすぎるとしてロブランは更迭された。

 かわりにジャック・ガブリエルが王から派遣された。彼は地元勢力との関係を良好に保ちつつ、急進的なロブラン案の大枠は守りながら、現実的な設計にしていった。彼は、市庁舎を建設、高等法院の建物を新しい都市組織に適合できるようにし、グリッド街路にそう都市建築の型を定めた。

 現在の町並みの特徴としては、統一的デザインがされたとはいえ、よく観察すると、パリほどの統一性はない。アーチの大きさ、位置もさまざまで、地主がそれぞれ考えたことが明らかだ。地面が傾斜していることもある。ぼくは地方的な鷹揚さを感じる。

 ブルターニュとしては復興のための財政出動をきめた。王としては、王領の森から木材を提供することを決めた。

 しかしグリッドプランに改めることは区画整理に相当し、その上に最新式の石造建築を建設することはきわめて重い負担となった。だから中小の地主たちは、土地を売却せざるをえなかった。もっとも組合をつくって共同建設できた場合は、地主は地主でありつづけることができた。いずれにせよ資金がなければ去るしかなかった。その結果、もともと裕福な人びとの町であった被災街区は、ますます特権的な町となっていった。

 零細な地主たちはどうしたかというと、200~2000リーブルていどの資金で、仮設住宅を造った。市、地方長官は、取り壊し令を繰り返しつつも、事実上は認めるしなかかった。この仮設住宅は、容易に想像できるように、既成事実化し、その解決は20世紀にずれこんだそうだ。

 この火災の前から、北部=丘(高所)=裕福、南部=低所=庶民(貧乏)というはっきりした棲み分けがあった。大火と復興都市計画は、その差をますます大きくした。20世紀になって古い街区の保存が課題になると、大火以前の古い住宅が建築家たちの注目のまとになった。すると新旧の対比は、別の意味で、ますます強くなった。

 もっともレンヌは火事と縁がある都市である。1994年には旧高等法院、現裁判所で火事があり、木造小屋組が消失した。17世紀の傑作であるこの建物は、むしろこれがきっかけとなり、地方の文化的歴史的な独自性を証明するものという意識はますます強くなった。裁判所として現役であるが、一種のNPOが管理して、文化イベントやガイドツアーなどを企画している。

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レンヌからパリへ

 11月3日、今日は移動日である。

 アパート式ホテルの退去はいろいろ気をつかう。冷蔵庫のなかをカラにするため、つい大食となる。掃除、食器洗いといろいろである。ゴミもまとめておけば、スタッフが捨ててくるのは貸部屋とは違う、ありがたいところである。

 地下鉄までガラガラを転がす。TGVの駅で乗り換え。後発の地下鉄だけに、かえってバリアフリーは徹底しており、ガラガラをもって階段を上り下りすることはなかった。この地下鉄はVAL(自動軽量車両)と呼ばれている形式である。2両編成で、運転手はいない完全自動の地下鉄である。便は多く、安全で(脱線しないということではなく犯罪のこと)、便利である。出発前、ボルドーからの留学生に、レンヌでは地下鉄だが、君のところはトラムだねえ、といったら、川を渡るのと地下水位のことがあるんですよ、と負け惜しみであった。スピード、正確さは絶対VALが優れている。

 車中の暇つぶしは読書と相場が決まっている。Jean-Yves Veillard, Les Champs Libres--Naissance d'un projet culturel, Edition Apogée, 2006をぱらぱらとめくった。ヴェイヤールは建築史関係の文献を書いている人で、最近では『レンヌの遺産事典』という、建築、都市、無形文化、風俗一般、芸術などをまとめた文献を編集している。レンヌの建築史を勉強するためには必読の書を書いている人である。

 それでどういう本かというと、レンヌ市の一種の文化センター(図書館、博物館、科学博物館)であるシャン・リーブルのプロジェクトが1980年代に持ち上がって最近建物が完成したが、博物館学芸員としてこのプロジェクトに中心的に関わったヴェイヤールが綴った日記であり顛末記である。

 公式の議事録や建築文書よりも、関係者間の意見交換や、秘話などが書かれていて、おもしろい。基本的には1970年代に、レンヌ市では一体であった美術館と博物館が分離するのをきっかけとして、文化センターを建設するのだが、それが都市計画、新しい交通システムなどと関連づけられながら、人口の三分の一が大学生という文教都市においてまさに死活的であるはずの文化センターが、さまざまな交渉の末できたプロセスを内部から紹介してくれる。

 都市計画的におもしろいのが敷地の選択である。南西部の司法地区、北部のオシュ広場西(ホテルに近い場所)、そして旧練兵場で、駅に近い敷地、という三候補があって、最終的に最後の今の場所になった。都市計画としてはここは再開発の目玉であり、広い広場の周囲を、この文化センター、シネマセンター、職業斡旋所などが取り囲む、若者の活気あふれる街となるであろうことが、工事中の今であったも予想される。

 学芸員でありながらヴェイヤールは、ローラースケートなどをする若者が、やってきてくれる文化センターはどうあるべきか、それにはどの敷地が最適化などと思案する様子が、まさに学芸員でありながらすでに都市的思考となっていることがこの国らしい。この日誌ではさらに、交通システム、コンペでポルツァンパルク案が選ばれたこと、ビルバオのグッゲンハイム美術館というトラウマをなんとか払拭したこと、地方の独自性とは予算ではなく精神の問題だなどという指摘、などが書かれている。

 個人的には、この新しい都市施設がヴィレーヌ川の南の低地地区に建設されたことに注目したい。あとで投稿しようと思うが1720年の大火後の都市計画によって近代のレンヌが始まった。そのときに都市計画の大枠を決めた建築家ロブランは、川の北にある丘の上の都市と、南にある低地地区の対比(上は高級、下は庶民的)をなんとか薄めようとして、低地地区に公共施設を建設することを提案した。しかし彼の計画は、あまりに強引で経費がかかりすぎると判断された。そして彼は更迭された。

 しかしそれでも後任の建築家は、より現実的な方法を選びながら、大枠ではロブランの計画を継続した。

 そして20世紀末かた21世紀初頭にかけて建設されているシャン・リーブルはまさにこのロブラン案の継続と解釈できるのである。もっともそれはロブラン案が本質的に優れていたというよりも、都市のあるべき展開の方向性については、さまざまな議論がかさねられても、自然にある方向に決まっていゆく、というようなことであろう。ただ大火以来3世紀近くになるレンヌ市の近代都市計画の歴史が、ひとつの上位の意志により導かれているかのように見える(実際はそのときどきの判断なのだが)ことが印象的である。

 さて2020年まであと13年しかないが、そのときレンヌ市は大火300年を記念してなにかやるのであろうか。

 ・・・とはいっても2時間半の移動では最後まで読み通せない。続きは時間があればあとで。

 定刻どおりパリ=モンパルナスに到着。宿はサン=ジェルマン=デ=プレという街にある。喩えていうなら、オペラ座界隈は銀座でしょうな。すくなくとも18世紀から銀行家、投資家がいて、証券取引所やフランス銀行もあって、それだから駅、百貨店、劇場ができた。ここサン=ジェルマン=デ=プレはさしずめ原宿であろう。サルトルがコーヒーを飲んでいた実存主義の街であり、今日ではまさにパリ的であることを楽しみに外国人がくる街である。実際、教会も、劇場も、百貨店も、美術館もとくにないのである。しかしぼく含め、パリであることに意義を感じる外国人がやってくる。建築の専門書店がかたまっている、建築の聖地、巡礼地でもある。

 とくに宿のある界隈は、レストラン、バー、サッカー・パブ、アイリッシュ・パブ、ベトナム・レストラン、はたまたアメリカ風のオイスター・バーまであるという、にぎやかな場所である。部屋でブログしていても、ざわめきがいつも聞こえる。寝れないのではないか、と不安にもなる。でも大昔、留学していたときも、都心の貸し部屋で、こんな感じだった。17世紀にできた古い建物に下宿して、17世紀の建築を勉強しておりました。そうすると異国の過去と一体化できる幸福感に満たされるのでした。・・・昔を思い出すねえ。

 部屋そのものは超コンパクトな「ストゥディオ」である。狭い。シャワーも、通常のフィットネスのブースに比べても半分の面積しかないぞ。洗面も最小サイズ。おお!トイレの上は、電気式の温水タンクが露出しているぞ。ぼくが泊まっているあいだはおっこちないでね。狭いのに、冷蔵庫、洗濯機、食器洗い機、電子レンジ、ステレオ、壁掛けテレビ、Wifi、そろっている。おもしろいのはソファベッドで、その展開の仕方は、超からくり的である。ベッドはぎりぎり収まっている。それはいいが、どうやって運んだのかね。とはいっても天井が高いので快適である。床より壁のほうが広いぞ。

 日本のマンション広告で、よく新世代マンションなどとある。しかし設備など、どんどん更新できるし、どうにでもなるものである。つい最近まで、台所の場所を変えるなどということを提案した学生にたいし、そんなことできるわけないなどと叱りつける教師がいたが、困ったことである。建築はけっこうどうにでもなるし、人間はけっこうどこにも住めるものである。

 さてもうこちらでも日がかわった。でも窓の外からはレストランのざわめきとロックが聞こえてくる。きっと朝までこうなのであろう。土曜の夜だからなおさら。電車のなかのほうが居眠りできるように、これも子守歌なのでしょう。世界のなかに自分のニッチがあることを幸せと思うことにしよう。

 

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2007.11.01

リージョナリズムと建築のアイデンティティ

 レンヌの図書館にいる。ポルツァンパルク設計の洒落た現代建築である。階ごとにテーマが決められており、ここ6階はなんと「文化遺産」の階である。最上階なので、レンヌの景観を楽しみながら、文献に囲まれて、いい雰囲気で投稿してみよう。PC用のコンセントもLANコンセントもある。文献検索から執筆まで、なんでもできる。これで、景色を見に来るだけの関係ないうるさい人びとがいなかったらなあ、コーヒーがいつでも飲めたらなあ・・・・。ちなみに下の写真は昼過ぎで誰もいなかった。今は学生でいっぱいである。

 Img_6041

 レンヌの書店や図書館を徘徊して感じるのは、地方文化の独自性にかんする意識が極めて高いことであろう。フランスではおおむね第三共和制の時代、すなわち1870年ころから第一次世界大戦のころまで、建築においてもリージョナリズムというものがあった。それを地域主義と訳してしまうと、20世紀後半のそれと混同されそうだが、基本的には区別されるべきとしても、おなじ部分も見えてきそうである。

 ここブルターニュにおける19世紀末の地域主義とは、おもに戸建て住宅でブルターニュの風土を反映したものが多かったことを指す。以前の投稿でイアサント・ペランという地元建築家を紹介したが、花崗岩、複雑な形態の屋根など、100年前にできた地方様式のクリシェである。またサン=マロなど沿海部ではリゾートタウンが多く建設されたが、その別荘にも地域を反映した造形が使われた。石造で勾配屋根のロマンチックな形態が見られる。

これはイギリスのドメスティック・リバイバルや、スケッチェスクといった動きと同じ類もものである。パリの郊外でも、地方色豊かな、別荘風の戸建て住宅が建設された。スイスの山小屋風の「シャレ」が建設されたのであった。

 このポルツァンパルクの建物も、地域に産出する石材をつかっており、典型的なリージョナリズムである。しかも景観をながめて文化遺産の勉強をすれば、ますますリージョナルな気持ちになろうというものである。

 というわけで今、レンヌ市の図書館にいてアンドレ・ミュサ『ブルターニュ;建築とアイデンティティ』1994などをぱらぱらめくっている。ミュサはブルターニュの地方建築を研究した大家であり、没後しばらくして、その弟子がまとめたアンソロジーである。

 ミュサはまず「記念碑」概念の再考から始める。ヴィオレ=ル=デュクがゴシック建築を合理的に定義づけ、それが13世紀のイル=ド=フランスの様式を理想化したのだが、それはパリの様式が普遍的ゴシックの基盤であり、それがヨーロッパに国際化した、という構図で歴史を構築したのであった。ミュサは、「記念碑」と「ネーション」は相互依存的に構築されたと考える。記念碑はナショナルなものであり、ナショナルは記念碑を共有することで成立する。しかしそれにたいしアンリ・フォションは、その時代の建築はあまりに多様であり、フランス的ゴシックというようなものに総括できるのではなく、さまざまな「派=スクール」があっただけだ、と反論していた。

 ミュサは主張する。ひとつの普遍的基準を決め、それがナショナルなものだというのが19世紀的な記念碑の概念であり、その概念がもたらす排除と蔑視の構図を批判しなければならない。しかし同時に、その普遍的基準がもらたす、ロマンティックで空想的なもの、「民衆芸術」という概念をも批判しなければならない。

 実際、フランスでは「民衆芸術」なる概念は、1830-60年ごろろに形成された。近代的な美術史が確立され、規範が成立するのに即応して、ピクチャレスクでロマンティックな「民衆的なもの」が反動的に再発見された。日本は「民芸」という言葉で、ほぼ同じことを繰り返した。

 別の文献MONUMの『リージョナリズム:建築とアイデンティティ』によれば、ヨーロッパにおいて祖国というナショナリズム概念が生まれるのは、やはり日本と同様の構造においてであった。日本美術、フランス美術というアカデミックな概念が成立して、美意識を共有する共同体としてのネーションが生まれる。しかしその共同体はブルジョワなど支配階級のものである。

 社会の周縁に位置する、しかし上昇することでネーションに参加する人びとは、むしろ故郷を経由して、ネーションの一員となる。つまりいかに首都に出て立身出世をしようが、地方文化、兎追しかの山、へのロマンティックな憧憬、それがネーションへの入口である。第三共和制の時代のリージョナリズム建築はこうした意識で作られたのであった。

 ということは19世紀的なリージョナリズムは、かならずしもリージョンの固有性、独立性、自立性を目指したものではなかった。ナシュナルな美意識からは第二義的に下位に位置づけられながら、しかし逆説的なことに、にもかかわらずそこに故郷を再発見し、心情的に一体化することで、ネーションに参加するのであった。

 リージョナリズムとナショナリズムの関係はこのように倒錯している。日本であれ、フランスであれ、ドイツであれ「故郷」がネーションへの入口であったが、ナショナルなものは上位に、リージョナルなものは下位に位置づけられ、相互に補完していた。

 ミュサが「アイデンティティ」というとき、それはこうした通常のリージョナリズムとは区別するためである。つまりかつてリージョナリズムは、ナショナリズムを補完することでそれをむしろ強化する下位概念であった。

 彼は「アイデンティティ」の定義を与えていないように思える。つまりアイデンティティの実践はこれまでなかった。しかしあったのはリージョナリズムの視点と実践であった。リージョナルなものをもとめて19世紀のツーリズムは成立し、またリージョナルな表現をするために、多くの建築が建設されてきた。地域文化の「アイデンティティ」を確立するためには、そのリージョナリズムの長い歴史をまず払拭しなければならないのである。

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