カテゴリー「Paris」の30件の記事

2009.02.09

なぜ都市計画は無宗教的か?

これは前の投稿とセットです。

なんでもかんでもフランスをモデルにする必要はないのですが。まあ今フランスに滞在しているということで。

つまり都市計画には一般的に宗教施設の配置やなんかは考慮されないし、そもそも「都市計画学」というのは宗教など関係なく体系づけられている。このことは明らかだと思う。宗教はそのとき任意の団体にすぎず、あってもいいけれど、なにか「その他」カテゴリーにはいっているように思われる。

もちろん政教分離だ。ただ厳密にいうと、「政教」とはもともと政治と教会のこと。政治と宗教ではなかった。ただ社会の世俗化ということが広まると、カトリック教会のみならず宗教と政治のこととなった。

だが「宗教と都市計画」とは、「宗教と政治」のこと、ではない。「宗教と行政」のことであるはずだ。行政が地域に住むいろいろなことに関わるとすれば、宗教はどうなるのだろう?微妙なところです。ぼくには本質論的レベルで指摘する資格はない。ただ政教分離とは、わかったようで、よくわからないシステムなのである。

こんなことを考える理由は、フランスの宗教建築を考えていると、つぎの3点に気がつくからである。

(1)カトリック教会はもともと行政を担当していた。

いまでは出生、婚姻、死亡の届けは役所にいってするが、かつては教会にいってやっていた。つまり市役所、区役所の仕事をしていた。もちろん日本の近世においても仏教というかお寺はそんな存在であった。しかしキリスト教の場合、宗教は主体的であった。日本の場合、世俗権力が優位にあって、宗教にその仕事をやらせていたという違いはある。

(2)カトリック教会は地理的広がりをよく考えている。

新しい都市が建設されたり、市街地が成長すると、かならずカトリックは教会堂を建設する。この宗教は、布教の空白域をつくりたがらない。だから20世紀、郊外が急速に成長しても、教会はそれに追いつこうとする。

比較すると面白いと思うけれど、日本の郊外は完全に無宗教であることがある。寺、神社、教会のない郊外住宅地は多い。だからそんな空白域をねらって新宗教がはいることもある。ぼくは外国の例をいろいろ見ていると、日本の郊外がこれほどまでに無宗教的でいられるのか、不思議な気がする。

ともかくカトリックはつねに、世界、国土、都市など地理的なものを考えているように思える。だからイエズス会の世界布教も、20世紀における都市郊外への布教も、根は近いように思える。

(3)都市計画と政教分離

フランスでいうと20世紀になってすぐ「政教分離法」ができる。これより、政治は政治、教会は教会。教会は政治には介入できない。いっぽうで国や自治体も、宗教には介入しない。

建築にとって重要なのは、教会堂を建設したり、修復したりするために、基本的には公金は使えなくなった、ということである。それ以前はどうか?19世紀においてそれは可能であった。税金で、教会堂を修復したりしたのであった。

ただ1913年の文化財法のようなものによって、文化財(歴史的記念碑)に指定された教会建築には、公金が使われえる。これは財政的には、世俗国家としては「宗教」は支援しないが、「文化」は支援しましょう、というような意味をもっている。

近代的な都市計画は1910年代以降である。だからものの順番からいえばあたりまえである。「都市計画学」が大学などの研究機関におけるディシプリンとして登場したとき、社会はすでに政教分離であった。だからそこでは宗教や宗教施設が対象とされないことは、理論的には自明のことなのだ。

しかしもし都市計画が1850年頃に成立していれば、これまた理論的に明らかなことに、宗教施設を一種の都市施設として扱わなければならなかったのである。なぜならそれは地方公共団体の所管であるからである。だから都市計画では教会堂を扱わねばならないことになっていたはずである。

世の仕組みというのは、時系列でおってゆくと、けっこうはっきりわかるのである。

ただ実際は、都市計画事業のなかで、宗教関係者がしっかり介入し、教会堂を建設している。よくあるパターンは、都市計画区域のなかで、行政が宗教団体に、その敷地をきわめて廉価に99年間貸与するというようなものである。さすがに上物は募金や喜捨などに頼るのであるが。

でもあらかじめ宗教がインプットされている都市計画を想像しても面白いかもしれない。日本にも実例はあるし、地球上はそんなもののほうが、多いはずである。

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2009.02.08

宗教的なパリの日曜日

またまたパリにきています。今回はパリとボルドーで資料蒐集。日程は比較的余裕をもたせています。

往路は、日仏の航空会社のコードシェア便でした。ありがたいことに出発直前、航空会社がビジネスクラスにしてあげる、という。席があまっていたのだろう。ありがとうございます。とても快適でした。

エコノミー乗客のなかからどうやって選ぶのか、(顧客サービスのシステムということで)知りたいところだが、マイレージの多い順、渡仏回数の多い順、過去の滞在期間の長い順、親仏派の順(まさかね)、などといろいろ推測するが、まあどんなところでしょうね。

パリは、郊外は雪化粧、でも市内はふつう。

夜、ホテルに到着。

日曜の朝は、すこしだけTVの宗教番組を見る。

ミサの日だから、ラジオやテレビでは宗教番組をやっている。これは20年前に留学したときもそうでした。メディアができたときから、そうであったのでしょう。

乏しい体験から言ってるにすぎませんが、番組のスタイルもずいぶんかわったような気がします。

かつては司教、牧師、ラビが信者などに直接語りかけるスタイルでした。

しかし今は、指導者が導くというより、信者の紹介のような感じです。信者たちが、いかに生活し、どんな困難を乗り越え、心が満たされているか、淡々と紹介する。あるいは宗教的モチーフが出発点とはいえ、それがどんな社会活動となって実現されているか、など。

メディアの宗教番組は、基本的にはフランスにある主要な宗派を偏りなく紹介することになっています。

今回は最初から最後まで見たのではないのですが、下記のようなものが紹介されていた。

ユダヤ教については、イエルサレムにおける医療活動。2005年から、女性の活動家が、心臓の平和的な運動を展開している。つまり医師と連携して、先天的に心臓に重大な疾患をもつパレススチナ人の赤ん坊や子供のために、彼らを受け入れ財政支援もやっている。番組によると、パレスチナは社会保障がないので、ただでさえ高額な心臓手術など難しいし、イスラエルの病院がパレスチナ人をこういうふうに受け入れることはいろいろ意義深い。いままでに155件の手術件数であり、ただひとり亡くなったが、大多数は家族生活に復帰しているという。

プロテスタントについて。いろいろな信徒の人生が紹介されていた。スイス在住のアフリカ系スポーツインストラクターは、家庭崩壊の危機をのりこえ、立派なインストラクターとなり、生活も安定し、ボディビルコンクールのようなものでは優勝して、社会に受け入れられた。救急士。彼はの福音とは理論ではなく、実際だという。困っている人を目の前にいるからだ、ともいう。自然災害被災者の心的外傷をケアする精神科医も語ってました。

オーソドキシーでは、集会所に来た信者が信心を語っていました。

カトリックについては、局スタッフが信者の家族を訪問して、取材していました。題材は、金曜日は肉ではなく魚を食するという一般的なものですが、子供も確信を持ってその信心を語っていたのが印象的でした。

ところでこの種の日曜宗教番組では、ミサの中継は定番です。今回は、パリ郊外ルイユ・マルメゾン(裕福な人びとの戸建て住宅地もあるけっこういい地区)のサンテレーズ教会。昔の画像を見せながら、1960年頃の建設、信者たちの寄進、その当時の殺風景な郊外の様子、今の団地とオフィスビルが建ち並ぶ様子、を紹介していた。教会堂を鍵にして、半世紀にわたる郊外成長のパノラマのようなもので、面白い。教会堂そのものはとても簡素なつくり。建築に詳しい人なら、50年代的、といえば「そうか」と理解していただけるようなものです。

普通にしていればあまり見えないが、この社会はとても宗教的であることには、変わりない。共和国としてのフランス。それはしっかりある。共和国は宗教的ではない世俗社会を構築しようとした。だからといってカトリックとしてのフランスがなくなったのではなく、しっかり連続している。もちろん他宗派のフランスも。

・・・蛇足。今回の出張のために誓いをひとつたてました。コーヒーは1日一杯だけ。コーヒー大好き人間なので、ときどき摂取過多で体調を崩す。その悪癖を改めよう。神さまの前ではなくみなさまの前で誓うことにいたします。

・・・蛇足の蛇足。宿の事情で、1時間あまり、カフェで時間つぶしをしなければならなかった。

だからカフェのテラスでこれを入力しています。禁煙となった公共ゾーンのなかで、テラスは喫煙ゾーンのようで、煙は我慢します。道もよく見えます。街中のふつうの歩道でジョギングする人も増えた。日曜とはいってもね。この社会も変わったものです。注文したのはコーヒーではなく、紅茶。

で、近場のおじさんから「あなたはこれ(PC入力)のためにいくら払っているのかね?」と聞かれた。

彼はヘッドフォンでCDを聞いていたのでした。迷惑にならないようにわざわざテラスを選んだのだが。「キーボードを叩くのでうるさいのですね」とダイレクトすぎることを言ったら「いやまあそうじゃなくてね、まあ・・」と返ってくる。静かにキーをたたくことにしました(おじさん、気が利かなくてごめん、時差ボケ+外人だから)。

・・・おフランスでございます。

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2008.10.31

レンゾ・ピアノの「改悛」

「レンゾ・ピアノは『改悛』し、ロンシャンの修道院プロジェクトを手直し」

というのがウェブ版ル・モンド紙文化欄の見出しである。2008年10月31日付、Frédéric Edelmann署名記事

これは5月に問題になって、ぼくのブログでも紹介したことの顛末である。

フランスのロンシャン郊外に、ル・コルビュジエによるノートル=ダム=デュ=オ教会(1955)がある。その丘の中腹あたりに、ピアノが、クララ女子修道会の施設をつくろうとした。歴史的建造物委員会は賛成し、建設許可もおりたものの、カガン、コーエン、ル・コルビュジエ財団などが反対したもの。

記事を要約してみる。

「論争のすえ、土地造成は、11月17日に開始されることとなった。ピアノのプロジェクト第1案は、この夏のあいだずっと、シャイヨ宮の建築・遺産シテにずっと展示された。しかし建設されるものは、これではない。ピアノは違う案で建設することにした。しかし第1案も、目立たないかなり控えめなもので、ランドスケープ・アーキテクトMichel Corrajoud に協力してもらって、敷地になじむ建築とした。しかしル・モンド紙5月29日の記事にあるように、他の建築家から抗議の声がおこった。6月25日、建築・遺産シテでは、激しい論争がおこり、口頭ではかなりに辛辣なこともいわれたようだ。論点はひとつ、新しい修道院施設がすこしでも目立てば、それはル・コルビュジエへの「侮辱」になるぞ、ということであった。」

ル・モンド紙は、ピアノは対話を重要視する建築家であって、論争を沈静化し、引くところは引いた、というような説明をしている。

「ピアノはプロジェクトを修正したが、これはほとんど「改悛」であり、修道女たちの寝室を断片化するという当初のアイディアは守りつつ、丘の上からはほとんど見えないようにした。また丘の上には駐車場もなくなった。森のなかの地面にわずかな切れ目をいれて、そこからヴォージュ山脈が望める。こうしてル・コルビュジエ財団は青信号を与え、建設許可も修正され、着工日も決められた」。

・・・などなど。記事はあきらかにピアノにたいして同情的で、建築家が保守派に遭遇したが奇跡がおこって、云々の常套的説明で締めくくっている。ピアノは対話し、譲歩し、それでも創造のコアは守り抜いたのであった。かつてル・コルビュジエが賛美されたのと同じ書き方で、ピアノが賛美されているわけだ。

これは一種の景観論争であるが、日本でこの種の論争がなされるとき、保存/開発という60年代からの構図を引きずっているので、それはほとんど文化財/非文化財、デザイン性のある建築/もうけ主義の建築、などというステレオタイプとなってしまう。このロンシャンにように、優れた建築家どうしの対決というのも、いちど発生してみると面白いのだが。傷つく人も多いだろうね。でもロンシャンなら、改心、改悛といったとても好意的に受け止めてくれる。信念を通さないことは、ほとんどの場合、マイナスのはずだものね。

それとうがった見方。シャイオ宮のしかも大ホールでピアノ第一案を展示するというのは、宣伝ではなく、もちろん、見せしめなのですよ。そこまでやるか。6月のディスカッションもほとんどイジメだったんでしょうなあ。見たかった。

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2008.10.30

エコール・デ・ボザールで『身体の図像』展

パリのエコール・デ・ボザールでの展覧会である(ウェブ版ル・モンド紙2008年10月30日の記事)。Ensba(ボザール校舎), 13, quai Malaquais, Paris-6e. Du mardi au dimanche de 13 heures à 19 heures. 4 €. Jusqu'au 4 janvier. Catalogue, 510 p., 45 €.・・・ということで、1月4日までならいけるかな?

ダヴィンチの解剖学図像は有名だ。彼はおなじ原理で建築デッサンも作成したこと、それがたとえばローマのサンピエトロ計画の基礎となったこともよく知られている。そのとき、身体が美しき比例を満たしていること、またウィトルウィウス的身体といって、四肢を広げた身体が正方形や、円に内接することを描いたデッサンも有名だ。もっともあれがウィトルウィウス建築十書の挿図であることは、それほど周知はされていないが(建築の人間は自分たちのものと思っているが)。

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頭部のデッサンだけで、Léonard de Vinci, Michel-Ange, Dürer, Le Brun, Hogarth, Houdon, Géricaultなど59点もあるそうだ。

展示されたものはほとんどエコール・デ・ボザール自身のコレクションである。ペヴスナーが『美術アカデミーの歴史』で説明しているように、ルネサンス以降の美術教育の基礎は、まさに人体デッサンであった。16世紀イタリアのアカデミア・デル・ディセーニョからはじまる伝統だ。だからこのエコール・デ・ボザールも、1648年に設立された当初から、この方面に力をいれていた。どうじに17世紀は、解剖学、医学が発展した時期であった(17世紀=科学革命でもあった)。

だから美術=医学・解剖学、という蜜月時代であった。

アーティストは、医学のために、観察し、デッサンした。これはちょうど今日、ヴァーチャルリアリティの専門家と医者が共同して、3D身体モデルを作成しているようなものだ。

さて記事にそくして、内容を説明すると。ルネサンスから18世紀まで。上記のような蜜月時代。Vinci, Michel-Ange, Vésale, Lomazzo, Martinez, Adam et Gamelinなど。1746年、Gautier-Dagoty が彩色をはじめる。Mascagni、Bonamy, Barye, Géricault, Dumoutier, Paul Richer, Marey, Muybridge, Duchenne de Boulogneなどが取り上げられる。

通説どおりだが、18世紀の劇場型の解剖学教室のこと、19世紀前半の病原的興味のことなども紹介されているらしい。それから写真などもっと近代技術が導入され、医学と美術は分離し、おたがいに無関心になってゆく。

記事は、4世紀つづいた美術と医学の蜜月のあと、相互無関心の時期はあったが、美術学生はふたたび解剖学に興味をもちだした、というようなことで終わっていた。

・・・・人体と建築のアナロジーはダヴィンチ以降、というよりすでにウィトルウィウス以来、伝統的なものである。ルネサンスにおいては機械論的メカニズム、数学的比例ということを介してであった。また19世紀末の感情移入論的建築論においては、たとえばヴェルフリンなどが、人間が身体の図式を投影して、建築を観察するという図式を提案している。最近ではA・ヴィドラーが人間がいだく心理や不安などといった概念を投影して建築を解釈している。これなどは、いちど脱人間化を模索したあとの、建築の再人間化なのであろう。フロイトの理論を枠組みとして導入しているように、基本的には19世紀末ウィーンなのであろうという感じがする。

さて人間(身体)との類推で建築を考えるのか、逆方向に、建築との類推で身体を考えるのか、シナリオはふたつだ。当事者たちはひとつをモデルとし、他方を対象としていることは明らかだ。それは自覚的に、方法論的にやっていることだ。

しかし距離をとって第三者的にみれば、アナロジーの2項のより上位に、普遍的な図式が設定されていることは明らかであるように思われる。人間機械論は、機械人間論なのかもしれない。つまり人間も機械もおなじように説明できてしまう普遍的図式、それはメタ機械かもしれないし、メタ人間なのかもしれない。そしてこのメタレベルは、しばしば無自覚的になされることもある。・・・こんなことがずっとなされてきたのではないか、という気がする。

遠目で専門家たちを眺めると、ちょっとまえまでのグニャグニャ建築は、CTスキャンや3Dモデルで人間身体を描いているようなものだし、さまざまな臓器で隙間なく埋め尽くされた身体、などと書いてみると、まったく建築モデルそのものであるし、そのような建築はたくさん製作されたし見られてきた(たとえば伊東豊雄さんのあれ)。VR専門家と医学者の共同研究などもなされているそうで、3DのVRで構築された(描かれた?)身体は、解剖学の検体のかわりにもなるし、手術の練習台、疾患のモデル、などにもなるそうである。ましてや建築など、といった感じである。

CTスキャン、MRIなど20年前はなかった(正確にはあったが一般人の日常からは遠かった)。レントゲンなどは古典的と思えるが、それでもやはり近代のもの。現在は、簡単な手術でも、これらハイテクで患部の内臓、神経、骨格を立体的に把握したうえで、つまり徹底的にサーヴェイし、手術プランをたて、執刀する。逆に、それまではかなり経験と勘に頼っていたはずで、ゴッドハンドなる名医とそうでない人の差はかなりあったのだろうね。ああ怖い。

そして内視鏡手術がますます多くなる。すべて画像データによる世界となって、VR的になる。VRにより身体を構築することの重要性はますます高くなる。

もっとも建築家もいっているように、住宅ていどなら手でやったほうがずっとはやい、のであるが。

ともあれアナロジーで面白いことは、アナロジーは異なる2項目の類似性や関連性を考察することなのであるが、この両項目ともどんどん進化し変化しうるものである、ということだ。もっと都合良くいうと、そこに歴史性があるのであろう。きっと。

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2008.10.14

パリの新しいアート・センター

ウェブ版ル・モンドの記事(2008年10月11日)によれば、パリ19区オベルヴィリエ通り104番にアートセンターができた。

これはもとあった葬儀施設を改装したもの。石造壁体と鉄骨小屋組の典型的な19世紀建築。

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施設名は「104」。社会党市長のもとの市の文化政策の灯台的な存在となるもの。国の財政支援は縮小されたが、市は強力にてこ入れ(こなのあたりが国/市の伝統的な力関係)。芸術家たちに創作の場所をあたえ、だれからのアクセスも許すことで芸術を民主化するための施設。100㎡ほどのアトリエが19室。劇場も。基本的にはアーティスト・イン・レジデデンス。すでに各国から申し込みが殺到しているそうな。

この地区は失業率17%と高く、活性化が望まれる。

市からの補助は800万ユーロ。しかし400万ユーロは自前。テナント(カフェ、レストラン、書店、劇場、ファッションなど)からのあがりに期待している。

続報ではオープニングの盛況ぶりも報道されている。イギリスのミュージシャンTrickyを招いてのオープニング。多数集まり、ホールにはいれた5000人のほか、あぶれたひといた。

・・・・・今はやりのアーティスト・イン・レジデデンスがパリにも、といったことだが、ここの文脈では別のようにも見える。つまり19世紀からここは芸術をしっかりと産業として位置づけていた。だから芸術家向けのアトリエ付き集合住宅が、普通のアパルトマンのなかにまじって建設されていた。ちなみにル・コルビュジエのアトリエハウスは基本的にはこれらを先例としている。

つまりパリではアートはしっかりと産業であり、それを大前提として、個人の才能を支援するという伝統が、近代初頭からある。この産業として認知されているということが、最大のアート・インフラである。

日本でも横浜市などにはアートを政策のなかに取り込む積極性がある。だがパブリックアートの時期を経過しても、まだアートは社会や都市とは一線を画するものだという認識がある。

パリのこの施設の利点は、当然、マーケットが近いということであろうね。

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2008.06.05

グラン・パリ計画の続報と「ヨーロッパ・戦略的建築」がテーマとなる今年のArchilab

>>>>>グラン・パリ計画で、建築家・都市計画家が選ばれ大統領官邸に集合(WEB版Le Moniteur 2008年6月4日)。グラン・パリ(Grand Paris)計画とは、パリ都市圏大挑戦(Grand pari de l'agglomération parisienne)であって、ミテラン以来の語呂合わせ。選ばれたのはChristian de Portzamparc (仏), Jean Nouvel (仏), Yves Lion (仏), Roland Castro (仏), Antoine Grumbach (仏), Djamel Klouche (仏), Richard Rogers (UK), MVRDV (オランダ), Finn Geipel (独/仏) 、Bernardo Secchi (伊)の10組である。10のプロジェクトを展開し、持続可能な発展の戦略をさぐる。これは既報のとおり。大統領は2007年9月17日の建築・遺産博物館のオープニングでこの大計画の構想を発表し、京都以降の21世紀メトロポリス構築を目指す。また文化相クリスティーヌ・アルバネルも彼らを迎えた。ただ晩餐会にはイル=ド=フランスの代表はいなかった。

>>>>>パリ市長ベルトラン・ドラノエの反応(WEB版Le Moniteur 2008年6月4日)。大統領の情報操作により官邸での集会には呼ばれなかった、と指摘した。建築家の選定には積極的に関与した、とも。市長によれば、サルコジの計画はパリ市内にはほとんど関係はなく、大統領を待たずに、今後7年間で、パリ市面積の10%が工事現場になる、とのこと。

・・・ミテラン/シラクも建築を介して争った。大統領のプロジェクトとはいえ、市長が反対すれば進まない。

>>>>>2008年の第8回アルシラブ(アーキラブ)は、ヨーロッパがテーマ(WEB版Le Moniteur 2008年6月3日http://www.archilab.org/)。2006年は日本がテーマであった。今回は「ヨーロッパ・戦略的建築」。30都市の50プロジェクトが展示される。招待コミッショナーはデッサウ・バウハウス財団のオマール・アクバール。10月24日から12月23日まで。

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・・・・アクバール氏はすでに2005年に来日し、ドイツの都市プロジェクトなどを紹介している。こんどはオルレアンに乗り込んでのことである。EU的枠組みでの都市計画・建築の成果を再確認し、知識ベースの産業、経済を発展させるための戦略を練るのだそうだ。

「戦略的建築」(ストラテジック・アーキテクチュア)とは、ポスト計画、というような意味であろうと思うのだが。世間の狭いぼくでもデルフト大学にもボルドー大学にも戦略を冠した学科や専攻があることは知っている。都市と地域の生きたネットワークであるヨーロッパでは、国の「計画」によって導かれるのではなく、都市や地域がそれぞれ戦略をねって生き延びてゆく、そんな21世紀の構図が見えてくる。

これは必見でしょうね。うーん、日程調節。難しいがなんとかしよう。

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2008.05.30

文化財に広告!キャンパス・大プロジェクト!ヌーヴェルに批判!

今日も今日とて・・・。仕事の息抜きに30分、散歩気分のお手軽ブログ。

>>>>>ブーローニュ・ビランクール(パリ郊外)のアルフレッド・ランバール邸は、施主が画家、建物は1920年竣工のアール=デコの秀作、ということで歴史的モニュメントに指定されている。その補修工事のための仮囲いに、そろそろロラン・ギャロス(仏オープン)ということでラコステの巨大広告。フランスも変わったね。

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WEB報道(Le Moniteur 2008/05/29)によれば、上記の事実関係の他に、関係法規が変わったのである。1979年の法律は、指定されたモニュメントでの広告をいっさい禁止していた。去年までその規定が生きていた。しかし2007年10月1日から施行された新しいデクレ(行政命令)は、いわゆる「遺産法典」にも登録されたものだが、指定、登録されたモニュメントの修復工事の仮囲いに、全面積の50%以内なら、広告をだしてもよいことにした。

広告料はとうぜん不動産所有者に支払われる。このお金は、工事代に使われる。すると公的補助が少なくてすむ。広告はMétropole Média & Régiesというところがデザインしたそうである。この社は、これまでも広告が許されていた、郊外、高速道路脇、などに工事用防水シートなどに広告をデザインしてきた。

・・・ここで考察だが、モニュメントを維持するために、所有者の個人資金からの負担を軽減させるためならよいことだが、公的資金だけの節約なら、政策的には後退ではないだろうか。この報道では、具体的な%で負担率を説明していないから、いまのところよく判断できない。しかしともあれ、時代はかわりつつある。しかし文化財というものが、そもそも個人資産への公的介入であったことを考えると、第三者民間資金あるいは商業資本の導入は、本質的におかしいとはいえない。あとは広告景観を市民がどう受け取るかですけれど。

>>>>>フランスの6都市で、キャンパス・プロジェクトLe Moniteur 2008/05/29)。教育大臣ヴァレリ・ペクレスは6都市19大学の施設更新のための予算措置を公表した。ボルドー、グルノーブル、リヨン、ストラスブールなどである。大臣の下に選定委員会(メンバーはすべて「独立の」だから、外部委員会ということ)がおかれ、46のプロジェクトから10案選ばれた。6案が公表され、4案は後日。これはサルコジの「キャンパス」プロジェクトの一環である。しかもこれが、国がもっていたEDF(フランス電気会社)の株を、2007年12月に大量に売却し、その資金の一部(37億ユーロ)も活用したらしい。巨額。プロジェクトの予算総額50億ユーロ。

・・・・50億ユーロ。というから8000億円ですか。計算は正しいかな。フランスは教育予算削減でいろいろ大変といわれながら、でもさすが。年次予算でやらないで、特段の意志によりやるのは、やはり功績を、ということでしょうか。でも建築家たちにとっては朗報です。日本人建築家も呼ばれるかもしれない。TD大のM先生とか、S工大のA先生とか、仕事がいくといいですね。

>>>>>ジャン・ヌーヴェルのラ・トゥール・シニャル案に、ピュトー市の市長が反対している(Le Moniteur 2008/05/29)。「天守閣」「中世への回帰」と罵詈雑言。建設用地はピュトー市内らしく、市長ジョエル・セカルディ=レノは見直しを要求する権利がある、といきまいている。彼は、UMP(右派)の国会議員にして市長、ジュリィのメンバー、ソシエテ・ジェネラルの案を推薦していた。ヌーヴェルの多機能混在というコンセプトを疑問視し、ほんとうの社会的混在(ソーシャルミクスト、ミキシテ・ソシアル)はない、という指摘。事実90戸の住居は床面積が平均200㎡で、とても社会的性格の住居、などといえるものではない。

・・・・・まあラ・デファンスの超高層にいれる住居はこんなもんでしょう。そこに公的補助をうけた住宅なんてだれも想定はしていないでしょう。むしろリッチな外国人に優雅な生活をしてもらって、どんどん外貨を落としてもらうのが国策というものです。あまり強行だと、背景を勘ぐられますね。

さてちゃんと仕事もやってますよ。

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2008.05.29

続報、第二のトゥール・シニャル

ジャン・ヌーヴェルのトゥール・シニャル速報はしましたが、続報がはいってきました(Le Moniteur 2008年5月28日)。落選案?についてです。

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抄訳から。

不動産開発業者エルミタージュ(ロシアのストロイモンタジュ社の系列)は、ジャック・フェリエ案をあきらめない、と宣言。

エルミタージュが指摘するには、自分たちの案は実現される価値があるので、クールブヴォワに建設するし、ラ・デファンス整備公社社長パトリック・ドヴジャンもすべてのプロジェクトは実現される価値があると言っていた、と強調。たしかにドヴジャンは落選案も別の可能性があることを示唆していた。とくにフェリエ・エルミタージュ案についてはいい案で、セーヌ川岸にあるといいかもね、と。

建物は(Hermitageにちなんで)H字型の外観である。

ところでクールブヴォワには社会的住居がある。Damiers d'AnjouとDamiers de Bretagneであり、250戸の中間家賃住宅(PLI, prêts locatifs intermédiaires)と40戸の社会的家賃賃貸住宅(PLS, prêts locatifs sociaux)があり、【訳注:日本でいえば市営住宅があるようなもの、市営そのものではないが】、パリ交通公社(RATP)の系列のロジ・トランスポールの所有である。住人やこの会社はコンペをたいへん心配していた。自分たちが追い出されるかもしれないからである。

エルミタージュはプレスで声明を発表し、居住者全員を再入居させる、すくなくとも同等の、あるいはすこし上のランクの住居に、と述べた。一時転居のための場所を受け入れた21世帯もあり、51世帯分のも確保され、のこりの178世帯も提案をうけるだろう、と。

タワーは多目的。勤労、居住、余暇、・・・・住居、ホテル、レストラン、オフィス、店舗、温泉、文化施設、ホール・・・。環境、エネルギー、対策も万全。HQEと一種の建築環境アセスメントであるBREEAM (Building Research Establishment Environmental Assessment Method)の証明書も取得する予定。

感想。

落選案にもチャンスが与えられるのも、それらが投資をもたらすからである。

公金を使ってのコンペなら、当選案のみ、これは当たりまえ。ラ・デファンス整備公社は、独立採算が原則のはずだから、赤字を税金で埋めるようなことはしない。だから投資グループは大歓迎なのでしょう。

しかし今潤っているロシアの資金を使って、ラ・デファンスに高層建築をつくる。もとからいた、公共政策として準備された社会的住宅に住んでいる人びとは追い出されるが、でもまあ、荒っぽいことはされず、ちゃんと再入居させてもらえる。そうしなければ一騒ぎおこるのだろうけれど、これは金持ち喧嘩せずなのですね。

でもまあほんとうにHermitageのHなのだろうか。最近世界中で建設されている超高層のなかでは特筆されるものではありません。

さて、仕事。

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ヌーヴェルで思い出したので『ジャン・ヌーヴェル、すなわち媒介する建築』を再録させてください

過去論文の再録です。初出は、ギャラリー・間叢書01『JEAN NOUVEL Lumières』(1995)、です。まずはお読みください。自己評価は最後に。

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 ジャン・ヌーヴェルが日本特に若手の建築家たちに及ぼす影響は近年ますます大きくなっている。例えば、様々な原色の蛍光燈を同時に使うこと、広いガラス面を壁体から独立させること、外に面するガラスにロゴを書込むこと、等は彼らも試みていることである。おそらくその影響力はレム・クールハースに並ぶところまできているのではないだろうか。

 彼が日本で認知されたのはアラブ世界研究所(IMA)がきっかけであり、雑誌での本格的な特集としては1988年のa+u誌でのそれが最初であった。しかし当時の日本はいわゆるバブル経済時代の最後の時期であり、建築ではポストモダンがモダンをほぼ完全に駆逐したかのような雰囲気があったので、ヌーヴェルに対して正統な位置付けがなされたとは思えないし、今でもその状況には大きな変化はないと考えられる。モダン対ポストモダンという日本的な議論の平面の中で彼を理解することは困難だろう。

 彼がパリのボブールに事務所を構えているということは単純だが重要な事実である。
19世紀に近代化された、しかし古い闇の部分を多く残しているこの首都は、私の考えでは2つの要素によって支配されている。すなわちオスマン的秩序とベンヤミン的混沌である。

 オスマンは19世紀後半パリに大通りを切り開き、開放的な都市空間を実現した。そうしたオスマン的な秩序とは、構築的で、合理的で、明晰なものの代名詞である。それは軸線とパースペクティヴにより都市空間を支配し、特権的な視線の先にモニュメントを置くことであり、既知の形態言語でそれを飾り、明晰なメッセージを伝えることであった。

 そしてフランスにはボザールに代表される古典主義と、ル・コルビュジエに代表される近代建築という2つの伝統があったが、そのどれもオスマン的である。ボザール的造形とは歴史的様式を使うことであり、軸線を強調し、左右対称を守ることである。近代建築の造形は、こうした手法そのものは拒否するものの、都市は理性的に把握できるという信念にやはり基づいていた。このパリではヴォワザン計画を提案したル・コルビュジエさえも、都市空間の開放性、軸線の強調、明確なボリュームによる構成という点でオスマン的な範疇に属する。

 一方ベンヤミン的混沌とは、その主著『パサージュ』に見られるような世界観であり、非体系性、非構築性で特徴づけられる。あるひとつのパサージュはガラス屋根で覆われた長い廊下という単純な造形であるにすぎない。19世紀に多く建設された博覧会の展示場に比べれば規模でも構造的な大胆さでも較べものにならない。しかしそれらは既存の敷地や建物に拘束されながらも、逆にそのことによって、オスマンが築いた合理主義的なブールヴァールの体系とは別の次元に、不規則で経験論的なネットワークを築く。パッサージュを高いところから眺めたのでは意味はない。それは地上に立ってあちこちを歩きまわることで、体験され把握される。そしてその体験的世界には、19世紀的なパノラマやジオラマといったスペクタクル、19世紀末になれば映画、すなわちテクノロジーによって喚起された感性の世界が広がっていた。それは街灯によって近代的な夜の都市が生まれた時でもあった。

 ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』は映画をテーマとした論文が述べられているが、そこでは大衆が散漫な観賞者という概念で位置付けられている。すなわち建築はもはや特権的な教養の世界に属するのではなく、散漫な観賞者という新しい感性の持ち主たちの知覚の対象となった。

 ところで、フランスの戦後建築の不毛な時期は1970年代まで続いた。都市の郊外では単調なベッドタウンが建設され、ボザール的な建築教育はハウジングといった目の前にある問題に対してはなんの解決案も提供できなかった。1968年の5月革命はそうした不毛な時代を根底から覆す機会となり、この時期に若者だった世代が80年代になって彼らの多様な試みの成果を世に出し始めてはじめて、フランスにおいて文化としての建築が再生した、というのがこの国における共通の認識である。

 学生運動のさなかに建築を学んだヌーヴェルは制度と戦う建築家でもあった。1976年には"Mars 1976"、「建築組合」を組織し、職能団体制度や土地専有制度(POS)等に戦いを挑んだ。

 ヌーヴェルは、全体を知により把握し支配し構築するための建築とは正反対の立場に最初からいたわけである。そうした彼がベンヤミン的な建築家に見えるのは自然なことと思われる。彼は、都市においてはある一つの意志が貫徹されることはなく、そうした意味では都市はカオスであり、都市を生きることはちょうど映画を見るように継起的に発生する光景を次々と体験してゆくことだと述べている。それはベンヤミンのフラヌール(遊歩者)の概念に近い。

 彼の作品からある明確なスタイルやイズムが読み取れるだろうか。彼はあるひとつのスタイルや、従来の意味でのイズムを求めない。彼には概念も方法論もあるが、それをひとつのものに要約しようとはしない。それこそが彼の方法論である。

 彼はテクノロジ志向型のようにも見えるし、一時期ハイテク建築家だと思われたことがあった。IMAが日本に紹介された頃、彼はフォスターやピアノ等の建築家と同一視されていた。しかしどちらかといえばブルータリズムの伝統を引き継いでいた彼らは、機械やテクノロジーそのものを表現することを目的としていた。しかしヌーヴェルのテクノロジーに対する態度はフォスターらとは違うし、さらにフランスの合理主義者たちとも違う。ロジエ、ヴィオレ=ル=デュク、ジャン・プルーヴェらにとっても建築の合理性とは技術のそれであり、技術の論理を表現することがすなわち建築であった。しかしヌーヴェルは自己目的化した技術には興味をもたない。その点でIMAはカメラのメカニズムを持込んだことは注目すべきだ。つまり彼は、支持と支持されるものの関係すなわち静力学を可視的にしたものではなく、カメラの絞りという本来は隠されているが人間の知覚に必要不可欠な光をコントロールする媒介に注目したのである。彼はこの点では、カメラを飛躍的に進歩させたダゲールや、ゴシック建築の内部空間をステンドグラスによる光で見たそうとしたシュジェールにむしろ近い。

 実際「光」を指標として彼と他の建築家たちを比較することで、彼の姿がより明らかになってくる。例えばブレは光と影のコントラストに、ル・コルビュジエは「光の下での形態の戯れ」に言及した。彼らは光を、理性が形態を知覚させるための手段、つまり理性のシンボルとしてとらえていた。フランス語では光はすなわち啓蒙をも意味することを思いだそう。

 しかしヌーヴェルはシュジェールらのように、人間の知覚を刺激し、仮想の世界を生みだすために光を用いる。光はむしろ主役であり、それは透過し、反射し、発光する。IMA、サン=ジェームズ・ホテル、ピエール・エ・ヴァカンス集合住宅、ダックスのホテル・レ・テルムでは透過する光がテーマとなっている。実際、カメラの絞りで覆われたIMAと、鎧戸(ジャルジ)で覆われたピエール・エ・ヴァカンス集合住宅は同じ位相にある。またサンティミエのカルティエ工場では屋根全体が光のフィルターとなっているが、この庇は距離をおいて下から見上げると反射した光で明るく輝くという驚きに満ちた効果を生んでいる。垂直面であろうが水平面であろうが、ここでは透過する光がテーマであり、そこでは建築はフィルターとして位置づけられている。

 光は反射するものとしても扱われる。ニームのメディアテーク+現代美術センター案では、建物を消去するためにガラスによる反射が使われており、地上面よりさらに低くはられた広いガラス面が、メゾンカレという古代ローマ神殿と空を写しだしている。一方、東京オペラ座、トゥール・コンベェンション・センター、リヨンのオペラ座等ではホールの形態が、怪しく黒光りするモノリスとして表現されているが、この鈍い反射はそのボリュームの表面を強調している。ル・コルビュジエは建築を船に例えたが、ヌーヴェルは流線形の自動車や航空機の形態に見られるエロティシズムに例えている。

 反射は、鏡という概念に結びつく。ギャラリ・ラファイエット・フランクフルトには円錐形のヴォイドが見られるが、その内側は湾曲する鏡面となり、そこに様々な光りや光景等が反射されるようになっている。円筒形の鏡によって、平面に描かれた歪んだ絵を正しく見せるバロック的あるいはシュールレアリズム的な手法を彼は反転させる。しかし実在よりも仮象を求める点ではヌーヴェルはこうした伝統に繋がっている。

 「光」という指標でみられた以上の分析からなにが言えるだろうか?ヌーヴェルは、伝統的なヨーロッパ建築の概念、すなわち構築とリプリゼンテーション(representation)の概念を解体しようとしていると、私には思われる。

 彼は1985年に『見かけ-透明性 Apparence-transparence』という論文を書きたが、それはコーリン・ロウによる透明性に関する議論の単なる受け売りではない。すなわち建築はかつてリプリゼンテーションのためにあった。古典主義建築は古代という理想を宣言し、近代建築はテクノロジーの時代の精神を表し、ポストモダンの建築も建築=記号という概念のうえに成立していた。モニュメントであれ、「語る建築 architecture parlante」であれ、記号としての建築であれ、それらはリプレゼンテーションの建築であった。ヌーヴェルが透明性の概念をもってくるのは、それへのアンチテーゼとしてである。

 代理代表でない建築とは、媒介する建築である。無限の搭は材質のグラデーションによって、空中と大地への2方向に消えてゆくのだが、言い換えれば、それは建築として自己主張しているのではなく、大地と大気を連結し、媒介している。これはピエール・エ・バカンス集合住宅にも見られるデザインである。

 オスマン的秩序とは昼の世界であり、そこではすべて現実的で明晰である。ベンヤミン的混沌とは夜の世界であり、そこでは実体と仮象の区別は曖昧である。媒介の建築とはその2つの世界の境界線上に存在する。そこでは軽さ、透明性、はかなさ、脆さ、色、ヴァーチャルなもの、といった概念が浮上する。

 ヌーヴェルは、技術から唯一のスタイルが生まれるのではなく、状況はそれぞれユニークだから、技術の応用の仕方も多様であるはずだと述べる。そこには「時代精神」という超越的なものは拒否されている。

  ヌーヴェルは、社会を構築しリプリゼントするのではなく、都市=社会を時には正確に時には歪めて「反映」するユーモアと批判精神に満ちた「鏡」となろうとしている。

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13年前に書いた拙論ですが、こういういいかたは顰蹙ものですが、よく書けています。細部の危うさはあっても野心的、意欲的なのが印象的です。自分が書いたものとは思えません。あなたは最近なにをしているんですか、田舎教師で満足しちゃだめですよ、という面と向かって若い人から何度もいわれた叱咤激励も、ああそのとおりだな、としみじみ思います。

これはおそらく日本で初めてのヌーヴェル展のためのカタログだったと思います。ジャン・ニーヴェル自身もそのために来日していた。彼がぼくの論文を読んでいい評価をしてくれたことをTOTO出版の人から聞いて安堵しました。レセプションに来ませんか、と誘われたのですが、ぼくは地方勤務で月曜から金曜まで授業があって、泣く泣くお断りしました。自分だけのことを考えて、いってればよかったと今では後悔しています。

それから13年たって体験も少し増えました。だから分かっているつもりなのですが、ドミニク・ペローもそうですが、ヌーヴェルもやはりフランス的なエッセンスを継承している。スケール、都市との連続性といったことでもありますが、とくにヌーベルの場合、19世紀にすでにパノラマ、パッサージュ、などを経験して仮象性、ヴァーチャル・リアリティの端緒を経験したパリの、やはり正統な後継者だと思います。もちろんぼくという外国人から見た偏見もはいっています。でも、それはそれとして、たんなる民族的造形などというものではなく、すこしは普遍性をもったフランス的なもの、に関する分析もまた、このさき、しても面白いのではないかと思っています。

ヒントをいいますと、「モダニズム建築」症候群について批判しましたが、モダニズムなどというのはアングロ=サクソン概念であって、今のグローバル化はアングロ=サクソン的支配だから、まあ、しかたないかもしれません。しかしフランスは19世紀に爛熟した都市文化を開花させ、モデルニテ=モダニティを云々していた。それをも勘案する複眼的な視線が、日本人がとことん疑似アメリカ人化している今日、状況を相対的にみるということで、役立つと思います。だって外国にいって、英語が通じないのはけしからん、などと憤慨している非英語圏の人類は、日本人くらいではないですか。自己植民地化ですね。英語が通じないことは素晴らしいことですよ。

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2008.05.28

ジャン・ヌーヴェルがラ・デファンスのコンペに勝った

まずWEB報道(Le Moniteur2008年5月27日)の抄訳から。

"la Tour Signal"(ラ・トゥール・シニャル)だからランドマークタワーなのでしょうが、直訳すると信号機塔、でも赤・黄・青でもなく、国旗の三色でもないような。都市軸にそってさらに郊外に拡張するゴーサインなのでしょうか。ともかくもヌーヴェルの仕事がひとつ増えた。

ジャン・ヌーヴェルとスペインの投資グループ、メデア、ライエタナ、のチームはシニャル・タワーのコンクールに勝った。ジャック・フェリエ、N・フォスター、D・リベスキンド、J・M・ヴィルモットをおさえて。ラ・デファンスはパリ西部のオフィス街で、設立50年にあたる。高さ300メートル、まさにこの街区の象徴的機能をも果たす。

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パトリク・ドヴジャン(オ=ド=セーヌ県議会議長、ラ・デファンス整備公社社長)によればこの建築は「グラン・パリを象徴する建物」となる。

ヌーヴェルは「グラン・パリの中心は唯一ではなくいくつかあるであろう。ラ・デファンスは歴史的街区のない中心地のひとつの最初の表現となる・・・」

建設費6億ユーロ、竣工2013年予定、延べ床14万㎡のなかに、オフィス、高級住宅、公共施設、商店、レストランなど。

このオフィス街ではこれまで、Cnitとグラン・アルシュが象徴的存在であったが、このタワーは第三の象徴となる。もっとも同規模の高層建築も他に構想中。灯台タワー、など。

今回、最終選考で選に入らなかった案もいくつか建設されるかもしれない。敷地は全部異なるからである。J・M・ヴィルモット+センチュリア融資グループ+ブイグ不動産は、ラ・デファンスの南門近くに。ジャック・フェリエ+エルミタージュ(ロシア)はすでに用地買収を開始して、竣工は2010年。

さて、愚見です。

グラン・パリに向かってスタートはすでにきられたのであろうか。けっこう関係者は意識している。国、自治体の騒ぎ方は、むしろ投資を呼び込むためのお祭り的宣伝なのかもしれない。またそのように機能してしまうであろう。世界の投資家のみなさん!どんどんパリに投資しましょう!ということでしょうか。

ジャン・ヌーヴェルは少なくともグラン・アルシュのコンペのころから挑戦し続けていたので、やっとプロジェクトが実現できそうで、おめでとうございます。20数年前のいわゆる「テット・ド・ラ・デファンス」では立体グリッド案であったが、これはナント市の裁判所で仇をとったのかな。「終わりのない塔」と呼ばれる10年ちょっと前のプロジェクトのほうも面白かったな。上にゆくほど透明感を増して行くタワーで、空のなかに消えてしまいそうな、ポエティックな外観、新しいランドスケープを演出したであろう。ただ内部空間はありきたりかもしれなかった。

とはいえ20年前のプロジェクトは、パリからの大都市軸をそこで終わらせよう、という位置づけであった。しかし新凱旋門は、中央にボイドを持ち込むことで、フランスが好む古典的形態を実現させつつ、それまで欠けていたモニュメンタリティを与えつつ、門、という象徴性、そして都市軸をさらに延長する可能性を残していた。

現在のマスタープランは、大都市軸をここで終わらせず、さらに延長しようとするものである。建築空間の力が、都市計画に影響を与えるという、ヨーロッパ的現象である。

当選したヌーヴェル案は、超高層でありながら、キューブ4つを上下に積み上げ、キューブのひとつひとつがアトリウムを内包しており、そこが人工的・立体的な広場、公共空間になるというもの。箱形のグラン・アルシュの隣にあると、なじんでいます。このアトリウムは、パリ方向、ピュトー方向への大都市軸とほぼ平行なので、このボイド空間(それぞれテーマが違っていそうだ)のかなたに既存都市を感じられる、結構なものになるでしょう。(おそらくヴォイドのひとつをコアにして、空中のゲイティド・コミュニティができるのではないかと想像している)。

このラ・デファンス地区は、オフィス空間を集中させることで、古都パリを機能的に補い、外国からの投資の受け皿になるという立場であって、国内投資は全体の数分の1なのだそうだ。そういう意味ではパリの出島のようなものである。いっぽうでそんなに居心地のいい町でもない。シカゴのようなハードボイルドさもない。むしろヌーヴェルは、キューブとボイドというなかに古典的スケールを導入した、そのことが建築的意味を担っているように感じられる。

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2008.05.24

グラン・パリ構想はやはり国が主導するのであろうか?

ともかくも「大パリ計画」の展覧会が、来年あたりパリで開催されるかもしれない、といったようなことですが。2006年あたりから国や自治体でこのプロジェクトを熱心に議論しているようです。

Grand Parisと書くと、グラン・パリ、大パリということでグレーター・ロンドンみたいな言い方になる。しかしGrand Pariは、グラン・パリと読んで、「大いなる賭け」という意味なのだな。1980年代にフランソワ・シャランが『ミテランの大パリ(大きな賭け)』というシャレた?題名の本を出版して、当時はじまっていた大統領のグラン・パリ計画を解説していた。どちらかというと好意的な立場ではあった。

補助線を引いておくと、かつては小パリ=保守派・右派、大パリ=革新派・左派、という構図であった。今は逆のようだ。どうも保守/革新ということでもなさそうだ。もちろん地方分権、グローバル化、という下から上からの流れの変化のなかで、パリという特殊な都市もいろいろ行き先を模索しているようである。

どこが特殊かというと、1970年代にジャック・シラクが市長になるまで、パリには市長がいなかった。中央集権国家の首都ということで、首都は国家事項なのであった。とはいえパリは独自の意志をもっている。このあたりが、面白いところなのだが。

さらに市町村、県、地域圏、国、欧州という多層構造のなかで、小パリをふくめた広がりの枠組みを決定するというのは、従来にはなかった問題であるからだ。

ボルドーの都市共同体は、市町村と県の間にある。しかしパリの場合、パリは市町村の地位にありながら、パリを含む連合は、県と地域圏のあいだの位階にならざるをえない。類例のない枠組みづくりである。

20世紀までの、国家と都市の対立は、国とさまざまなレベルの地方自治体との対立というかたちにより錯綜している。しかしやはり、国主導でしかありえないようです。

とりあえずWEBをだらだら引用してみる。Le MoniteurのWEB記事からである。

>>>>>2008年4月9日の記事。セーヌ=サン=ドニ県代表上院議員フィリップ・ダリエは、パリを中心とする4県融合案を提案した。これは市町村、地域圏の存在を脅かすものではないと強調。理想的解決ではないが現実的、という弱気の自己評価。

>>>>>2008年4月15日の記事閣外大臣ロジェ・カルチは、「グラン・パリ」について、2008年末までに計画の骨子を決め、2009年にはあたらしいガバナンス形式を決めるのであって、国がリードして法制化しなければならない、という態度である。フィリップ・ダリエの4県融合案は大失敗になるだろうと、反対。ジャン=ポール・ユション(社会党、イル=ド=フランス地域圏議会議長)はビジョンがないと切って捨て、ベルトラン・ドラノエ(社会党、パリ市長)はパリ独裁と、批判。「ガバナンスの信奉者ではない」と自認したうえで、クリスチャン・ブランの首都圏閣外大臣就任を紹介。

彼が考える具体的プロジェクトは、「メトロフェリク」(パリの外側の環状地下鉄で8~10年以内に完成)、「エコポリス」、エコ地区、東部に大規模なオフィス・センター、大規模な大学キャンパス、など。

>>>>>2008年5月6日の記事では、ロベール・スピジチノなる専門家が、諸勢力の構図を開設している。セーヌ=サン=ドニ県代表の上院議員フィリップ・ダリエは県など自治体の力が弱いと指摘。県議会は、地域圏を補強、新たな方向付けで問題に対応できると回答。サルコジ大統領は、首都圏特任の閣外大臣のポストを創設することで、あくまで主役は国だということをはっきりさせた。土木の大物ジャン・マルク・オフネールはすでの『ル・グラン・パリ』を出版して詳しくデータを分析した。建築家ポール・シュメトフとフレデリク・ギリはDIAT(国土整備のための省庁間組織)の要請で、フランシリアン(パリ地方の意)の空間を分析した。

国=文化通信省は、国の内外から意見聴取をしようとしている。スローガンは「京都議定書以降の21世紀のメトロポリス」で、スタディの結果を展覧会にする計画。ジャン・ヌーヴェルは、ガバナンスなどの観点からこうした大パリ計画に前向きであることを表明した。SDRIFやPLUといった現行都市計画についての議論はまったく価値がないと、IAURIFやAPURといった都市計画事務所も意見を表明した。いかなる種類のガバナンスか。ロラン・カストロなどは「グラン・パリ・コンセプトの父」を自称する【訳注:ミテランのグラン・パリのこと】。国が音頭をとって意見聴衆する背景には、地域の左派政治家はこのような構想をする能力はなく、国だけがその任に堪えうる、という考えがみえみえである。この意見聴取では、サステイナブル、環境などは配慮されているが、経済規模、ゲットー化、多文化性、生活様式の発展、などは考慮されていない。クリスチャン・ドヴィレ、レム・コースハースは意見を表明しなかったり、表明することがパリの現状に不適切であることを表明し、正面からの回答を避けた。

・・・・ロベール・スピジチノとしては、市民的、共和的議論をすべき、という。組織改編と、市民参加を呼びかけており、まさに彼の主張は、市民的であり共和主義的である。彼は地方圏議会には好意的で、クリスチャン・ブラン(この大臣はやがて意見表明する)には懐疑的である。

>>>>>同日(2008年5月6日)の記事では、パリ市長ベルトラン・ドラノエが、意見を表明した。この現職のパリ市長は、「グラン・パリ」という表現が嫌いであり、その首長になる意志もない。むしろ「パリ・メトロポール」が好きで、「間市町村=インテルコミュナリテ」の信奉者である。つまり独立した地方自治体の共同体がいい、という主張である。彼はパリ周辺29の市町村の長を集めた会合を2006年から開催しており、連合の形式をいろいろ模索中である。たとえば都市共同体(パリと123の市町村)、パリを含む4県を融合する、自治体連絡協議会の形態、など。ただ周辺自治体にもパリ・メトロポール案に反対意見もある。周辺部はパリのねぐらになるだけ、といったハウジング問題は大きいようだ。この自治体首長会議は、国のグランパリ計画が2009年に法制化されるか法案が出るかなので、それまでに意見表明しなければならない・・・。

>>>>>2008年5月13日の記事では、首都圏開発を担当する閣外大臣クリスチャン・ブランは就任2ヶ月後、5月13日、大パリ計画について声明を発表した。「ガバナンス」にもとづくプロジェクトだが、「国」はほかのパートナーと同格というわけではない。インフラ、交通機関の整備。2030年がめど。新しいかたちの財政方式、すなわちPPP(partenariat public-privé )【訳注:おそらく伝統的な混合経済のかたちを変えたもの、株式会社方式ではない官・民資金の結合方法】、「地代騙受」などというアングロ=サクソン方式の導入。すなわちインフラ整備、施設整備による地価上昇による利益を、整備事業に還元する。こうしたことを念頭に置いて、意見聴取をはじめる。ミッションの中心人物はピエール・ヴェルツ(ヨーロッパ領土開発整備高等研究所所長)。

>>>>>Le MoniteurのWEB記事(2008年5月22日)によれば、「パリ都市圏の大いなる賭け」のためのスタディ・開発のための国際ヒアリングがなされた。38人の建築家が回答した。そのうち10人が選ばれた。誰であるか、公表は6月3日。しかし「ル・モニトゥール誌」は大胆にも、独自の情報源から予想を出している。それによると;

ポルツァンパルク、ジャン・ヌーヴェル、イヴ・リヨン、ロラン・カストロ、アントワーヌ・グランバック、ジャメル・クルーシュ、リチャード・ロジャース、MVRDV、フィン・ガイペル、ベルナルド・ゼッキである。当然ほとんどフランス人だが、イギリス、オランダ、イタリアから各1エントリー。

2007年9月17日に建築・遺産都市の開館式においてサルコジ大統領は、グランパリの包括的再整備のための新プロジェクトを望み、そのために国際ヒアリングをすることを表明した。問題意識、戦略、理論、理念などを共有するためで、サルコジによれば「京都以後の21世紀のメトロポリス」を構想するためであった。(・・・おやおや「京都議定書」って日本で考えるより、時代の転換点として重要視されているのですね。)

意見聴取の暫定スケジュール:(*実体・実態を知らないでの訳語は適切でないかもしれません)

2008年6月3日:選ばれた建築家たちによる最初の会合
2008年9月15日:専門部会の調整会議(のようなもの)
2008年9月16日:スタディ作業の第二期の始まり
2008年11月07日:コンセプト決定版、活動計画の中間報告
2008年11月14日:専門部会の調整会議・第二回目(のようなもの)
2008年11月17日:スタディ作業の第三期の始まり
2009年01月09日:活動計画の決定版
2009年01月16日:専門部会の調整会議・第三回目(のようなもの)
2009年01月09日:建築・遺産都市における展覧会

意見聴取の背景。2006年に文化通信省が構想して大スケール建築(AGE)についての省庁横断型スタディを開始した。エコロジ発展サステイナブル整備省、などが参画。

・・・などなど。

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2008.04.22

サルコも「グラン・パリ」構想をもっている

ミッテランの「グラン・パリ」構想についてすでに回想した。20年以上してサルコジ大統領もおなじタイトルの計画をたちあげた。見通しは暗いようだ。左右それぞれ「大パリ構想」には賛成する理由も、反対する理由もある。歴史的にそうだ。

もしこの「大パリ構想」が実現すれば、ナポレオン3世が1860年ころにおこなったパリ市域拡大(周辺市町村統合)いらいの大改革となるであろう。パリの発展を考えてのことであったが、同時に、革新戦力の牙城である周辺市町村の切り崩しという政治的ねらいもあった。しかし彼は19世紀的大パリが実現すると、そのなかで労働者階級のための政策を展開した。

サルコジはかなりデコボコのある市町村の差をなくそうとしている。この点ではナポレオン3世に近いといえる。

ナポレオン3世にとってはなかったが、サルコジにとっては重大な新課題。それはリージョン(地域圏)の存在である。もはや国家/都市の二項対立ではなく、その中間に介在するリージョン。あるいは特権的でありすぎたパリを、いかにその他に結びつけてゆくか、という歴史的?大事業である。都市共同体、広域行政はパリ以外ではちゃんとできている。パリはその例外性ゆえに、まとめにくい。

パリと周辺自治体は、経済的、社会的、文化的にまったくバラバラであり、統合は困難であろうが、それをすればメリットもあるだろう。左右それぞれにメリット・デメリットがあるようだ。しかし政党の支持基盤かどうか、というのが隠れたハードルではないか。

WEB版ル・モンド(4月19日13:50)の記事を抄訳してみよう。

グラン・パリ計画の撤退か?自治体選挙における交代いらい、大統領府とパリ右派は、イル=ド=フランスの中心地区をきりとって、そこを新しい行政区画とすることをあきらめたようである。

この地域の経済的求心力と交通網を展開するために、サルコジはパリ都市圏スケールの「都市共同体communauté urbaine(注:複数の市町村が結ぶ都市計画・行政協定であり、ボルドーなどすでに例がある。日本の広域行政に相等)」を創設するという案をすでに2007年6月に表明している。

国家元首の頭を占めているのは、人口650万の区域のなかに相互主義的財政をきづくという行政的解決を構想することである。この区域は、自治体間の貧富の差がきわめて大きい。それとともに、パリは専門職からの税収が大きく、ラ・デファンスはオフィス街ということで税収が大きいという利点がある。課題としては、市長や県の個人的利害を調節することである。

右派は地域圏での市町村・カントン選挙で議席を失った。サルコジ氏にとっては逆風である。オ=ド=セーヌ県の知事や、小環状帯(パリ直近の市町村)の市長たちにからその特権を奪うのはますます難しくなった。メトロポリスの中心はパリだ。そのパリの市長は社会党ベルトラン・ドラヌエだ。県議会における多数派の議長であるロジェ・カルチは「グラン・パリが、首都がその権力を周辺の市町村に及ぼすだけというなら、反対だ」と4月17日にすでにのべている。

カルチは2010年の地方選に立候補しているが、2007年12月にすでに「決定権のあるメトロポリス構想」(注:メトロポリスがひとつの自治体として自己決定権があるということ)を出していた。彼は選挙の前日、メトロポリス規模の市町村「混合組合」という案を擁護していた。今日、彼は、イル=ド=フランス地域の組織大改変を加速するためには、「国家がより力強く、あらたに推進力を発揮し、財政投資する」というプロセスが必要だとする。新しい「ガバナンス」というよりは、クリスチャン・ブランの方針に望みをかける。ブランは首都圏発展担当の閣外大臣であるが、夏までには首都圏を「統合するための10あまりの大プロジェクト」を決定するとしている。

グラン・パリをなりふりかまわず擁護する右派もいる。セーヌ=サン=ドニ県の上院議員(UMP)フィリップ・ダリエは、4月上旬に上院に提出したレポートのなかで、パリとその隣接3県(オ=ド=セーヌ県、セーヌ=サン=ドニ県、ヴァル=ド=マルヌ県)を融合することを提案している。「国はとっくに予算不足だ」と彼は嘆く。予算捻出の唯一の方法は、はしご状の制度を廃止することだ。ダリエは自分ひとりではないと確信する。4月14日、県議会で彼の発言を聞いた、100人あまりの市長、県会議員、UMP議員のなかで、明確な指示を表明したものはひとりもいなかった。

左派もグラン・パリ構想については分裂している。首都圏の緑の党と共産主義者たちは、パリ周囲の「マーガレットの花弁」モデルの大「地方自治体相互性」(注:従来ばらばらであった市町村のつながりを深めようということ)をふたたび強化することを訴えている。県議会における社会党党首のジャン=ポール・プランチュは4月17日、県会議員たちのまえで、メトロポリスが地域圏から孤立した場合のリスクを示した専門家レポートを擁護した。パリやオ=ド=セーヌ県の税収が増えるとしても、都市圏はその交通、公共住宅、研究拠点のために単独で財政出動することができないという。したがって地域圏(リージョン)の財政支援が必要なのだ。ユション氏はグラン・パリにかんする「安易なスローガンに固執した論争は終わりである」としている。

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2008.04.10

故ミッテラン大統領の「郊外89」と「グラン・パリ」構想を思い出した

前稿でラ・ヴィレットの改造計画にふれたとき、ミッテランの大パリ構想を思い出した。今回すこし補足する。

故ミッテラン大統領というと、《グラン・アルシュ》や《ルーブル・ピラミッド》などのいわゆるグラン・プロジェが有名で、社会党なのに建築の趣味は、新古典主義的な王様趣味という評判である。これらはパリ市内のプロジェクトである。

しかし彼は、パリをとりまく郊外を含めた大パリ構想をもっていて、建築家たちにスタディをさせ、一時期は大ムーブメントになっていた。こちらは社会主義者としての立場をより鮮明に出したものである。

ところで郊外。近年、郊外に居住している移民労働者二世=失業者たちが暴動を起こしたので、パリの郊外問題が日本にも知られるよになった。この問題は、基本的には、ナポレオン3世の時代に現行のパリ行政域が定まったことによる。政府は政策的に、ブルジョワのパリ市内/労働者が住む郊外、という構図を堅持してきた。パリを取り囲むコミューン(市町村)はおおむね革新政体である。さらに戦後の一時期、郊外に団地ができ、そこに中産階級がすむようになった。高度経済成長のおかげで豊かになった中産階級は、パリ市内に移住するか、戸建て住宅を求めて別の郊外に移っていった。すこしずつ団地の住民は交代していった。中産階級から、低所得者、さらには失業者などの社会的弱者たちへと。

1980年代、この郊外問題は顕在化し、ミテランは大々的にこの問題に取り組んだ最初の大統領となった。問題はあまりに深刻であった。近年の暴動が示すように、80年代の試みは問題をすべて解決はできなかった。しかしそのプロジェクトのいくつかは実現された。

ことのあらまし。

1982年~83年・建設局にあつまった建築家たちは、郊外について、建築家が創造的なイニシアティブをとれるように検討を定期的におこなった。

1983年6月26日。共和国大統領は郊外を視察。ロラン・カストロ(この人も左翼であった)が案内する。

1983年11月7日。大統領の要請により、総理大臣は、ロラン・カストロとミシェル・カンタル=デュパールに、委任状を送り、3項目からなるミッションを与える。
・郊外の整備についての検討と提案。
・市街発展(まちづくり)のための国民委員会からの諮問をうける。
・パリ周辺地区の長期的な整備計画となりうるものを検討(《ル・グラン・パリ》計画)。

1983年12月11日。建築家・都市計画課集会。ロラン・カストロとミシェル・カンタル=デュパールは同僚の専門家たちにこれらプロジェクトに「着手」することを呼びかける。

1984年2月29日。「郊外89」の73プロジェクトについての展覧会。大統領がオープニング。

1984年6月24日。「間省庁都市委員会」(都市について検討する省庁横断型の委員会)の設立。

1984年7月14日~8月4日。要塞の祝祭。

注:フランス好きの日本人にもあまり知られていないが、パリを取り巻くように、一定の間隔で、要塞が設置されている。場所はまさに郊外の市町村。城壁ではもはや首都防衛はできないようになって、要塞が建設された。19世紀初頭、いわゆるティエールの市壁がパリを防衛するために建設されたが、そのさらに外側に20カ所ほどの要塞が建設された。19世紀の戦争の時代にそなえてであった。しかし「防衛」とは、外国軍からとともに、国内の反乱軍からでもある。それはパリ=コミューンのときに赤裸々で悲劇的な真実となった。潜在的には、政府に反抗的な勢力を多くかくまっている郊外の自治体を監視するためであると、ぼくは推測している。下は地理学の文献から、要塞配置図を引用したもの。

Wefew

ミッテランの《グラン・パリ》計画では、これら要塞を結ぶような環状道路が構想された。郊外の自治体を監視するためであったかもしれないこれら要塞を、こんどは自治体どうしの連帯のために、活用するのである。

1984年7月26日。「郊外89」の第二回展覧会。220件のプロジェクトが展示された。

1984年9月。「郊外89」展覧会に展示されたもののうちのいくつかに補助金を出すことが、はじめて、「間省庁都市委員会」により決定される。

1984年9月~1985年10月。毎月「間省庁都市委員会」が開催された。

1985年10月24日。1985年最後のCIV=「間省庁都市委員会」。100プロジェクトに補助金が出された。

1985年12月5,6,7日。「カジノ・ダンジャン郊外会議」。220の市の市長たちが、彼らのプロジェクトを展示した。建築家、都市計画家たちはそれを説明。行政はその実現可能性を検討。法規の検討。住民との対話が必要なことの再認識。《グラン・パリ》計画についての図版など展示。この会議の議事録、それにともなってプロジェクト図録などが出版された。ぼくはたまたまそれを購入して、今も持っていた。

全体としては社会党大統領によるばらまき政策のような感じがしないでもない。しかし緒プロジェクトを一挙に公開し、相互検討をするなど、ショーアップされた補助金行政という面もある。

《グラン・パリ》プロジェクトでなにが目指されたかというと、パリ市内/郊外という分断されたふたつの世界の統合であり、また郊外の自治体という相互に分断されたコミューンの統合であった。

つまり前述の経緯があって、パリ市内は行政区画によって制度的に、環状高速道路によって空間的に、完全にその周囲から孤立している。これは1902年まで存続した入市税の負の遺産でもある。さらに郊外のコミューン(市町村)は、道路網、公共交通機関などによって、放射状の構造のなかで、パリとの連絡はとれている。しかしコミューンと、隣のコミューンをつなぐインフラはきわめて脆弱である。だからコミューンどうしの連帯は弱い。社会主義政権は、こうした支持基盤の社会的空間を改善しようとしたのであった。

だから《グラン・パリ》は、同心円状のインフラを整備しようとした。まず道路。それからトラム。下は、ポール・シュメトフ立案の、パリ郊外東北部のトラム計画である。この資料ではまだ「詩的プロジェクト」とされているが、しかしこれは実現された。

Tram_paris_nord

さらに郊外には、上述のように、パリ市を取り囲むように要塞が一定の間隔で建設されている。1984年7月14日~8月4日の要塞の祝祭では、そのうちのいくつかが公開され、祝祭が開かれた。パリを取り囲む要塞を、地理上の拠点として、郊外の一体性確保のために役立てようという理念がある。

プロジェクトは詳細に記述されていて、ここですべてを紹介する余裕はない。以上はほんのさわりである。しかし、都市ネットワークの充実、成長なき郊外の整備(成長ではなく「深化」)、ランドスケープの向上、産業施設の再利用など、先進的なアイディアがいっぱいであった。いっぽうで「連帯」などという80年代ですでに古くさいスローガンも掲げられた。レーガン、サッチャーの新保守政策が展開されていた時代だったのに。

ぼくの解釈では、父親的イメージを抱かせていたミッテラン大統領の、慈善あふれるプロジェクトであり、その意味では19世紀的でもあり、また政策としては典型的な大きな政府によるものであった。しかしこの時点ではいわゆる「ヨーロッパ統合」や「グローバル化」がまちづくりにどのような枠組みを与えるかは、そんなに議論されていなかったと思える。それより80年代初頭に法制度が整備された、地方分権の枠組みが意識されていたように記憶している。

数年前にパリのシャイオ宮で開催された遺産会議では、招待された地方の市長たちが、この「郊外89」を回顧していた。それなりに評価していたが、現在行うに価値のあるものとも考えていないことは明らかであった。

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2008.04.08

パリのラ・ヴィレット公園がたいへんなことになっているらしい

WEB版ルモンド(現地時間4月8日14時26分)によると、ラ・ヴィレット公園の大改造プロジェクトがもちあがっているらしい。

まずは記事の抄訳。

開園25年のラ・ヴィレット公園は、パリ最大規模の公園施設である。55ヘクタール。科学博物館(注:旧精肉施設の改装)。音楽院(注:ポルツァンパルク設計)。大市場建物(注:19世紀)。これが前例のない大改修となる。2012年末にはアクセス、施設、人の流れ、訪問者の性格まで、根本的に変わるであろう。公園園長ジャック・マルシアルは「わたしたちのミッションを見直すべきであろう」。

南にはパリ・フィルハーモニーの建物。2万㎡。ジャン・ヌーヴェル設計。北では科学博物館の第四スパン、1986年から入居者がいなかった部分に、商業複合施設がはいる。映画館16室、店舗1万1000㎡。科学博物館も改修され、アクセスなどが変更され、広場、玄関ホールは改修、スタッフ専用の建物も新築される。公園施設と大市場(Grande Halle)については、「エコロジー」建築が建てられる。

アクセス。トラム新線が建設され、3つの駅から公園にはアクセスされる。パンタン門、ラ・ヴィレット門、そしてその中間の、パンタン・コミューン(市町村)からのアクセスとなるもの。最後の駅は、このコミューンからのアクセスとなるもの。また2009年にはフラン・ムーラン・ド・パリが改修されそこにパリ国立銀行の勤労者がはいるが、彼らにとってもアクセスとなる。

公園施設の改装には3億ユーロが計上されている。たいへんな現場である。さまざまな工事の日程調節、企業組織をどう入居させるか、そしてとりわけ公園の利用者たちの便宜をかんがえねばならない。施設のひとつでも閉館するなどとんでもない。だから駐車場もまた問題だ。

フィルハーモニーの敷地は、今の屋外駐車場であり、ここは600台収容できる。南の音楽院には300台収容、これでは足りない。音楽院だけでなく、大市場、ゼニット(多目的ホール)にくる人もいるのだ。なので科学博物館と契約が結ばれた。そこには1500台収容なので、ゼニットの客にも使わせるのだ。ゼニットは毎年80万人がくるのだから。

以上は経過措置だが、そこには最終計画が予見されねばならない。渋滞もおこるだろう。そくにペリフェリク大通りのパンタン門。とくにコンサートの夜。全体計画はこれを計算に入れねばならない。

2012年、科学博物館とゼニットにくる利用者は公園の北側に駐車する。大市場、音楽院、フィルハーモニーへの客は南側に駐車。

道路網は問題山積。パンタン門はよくても、ラ・ヴィレットはどうか。云々。

人の流れは公園内に及ぶ。運河をまたぐ通路は容易には見つからない。云々。運河に浮かぶ橋を要する案も。

「トラムと呼ばれる希望」。車でなくてトラムで来てくれれば。しかしクラシックを聴きに来る人びとはトラムにのるか?(注:クラシックはお金持ち、トラムはむしろ貧乏人という社会的格差が背景にある)。云々。

社会的問題。地域の人びと。公園を訪問する何百万人もの人びと。ジャック・マルシアルは「それがラ・ヴィレットなんです。ソーシャル・ミクストこそがここの存在理由なんです」というが。

・・・・ということらしい。大プロジェクトはいいですね。

これはミッテランの遺産である。この社会党の大統領は、パリ東部=労働者の地区という構図のなかで、まさに東北部に位置する、運河がつながっている、市場、精肉施設、倉庫、工場があった産業施設を、公園にかえ、パリの魅力あるれる場所のひとつにしようとする。

ミッテランは80年代後半にグレイター・ロンドン・プランを模範にした「グラン・パリ」構想を世に問うた。これは都市的というより社会的なものである。つまりパリ市内=ブルジョワ・保守的、郊外=労働者・革新的という構図のなかで、両者の統合をねがったのであった。それは歴代の保守政権が、伝統的に、パリ市内と郊外の分断をはかってきたことへのアンチテーゼでもあった。

トラムはそのグラン・パリ計画の目玉でもあった。しかし今日、トラムはやはり低所得者の足という位置づけが事実上、できているのではないか。なかなか快適で、死角がないので犯罪も起こりにくいのは確かであるが。

ラ・ヴィレットは市内と郊外を結ぶ地理的位置にある。またサン=マルタン運河など、物資をとおく郊外、地方からパリに供給してきた要所でもあった。ラ・ヴィレットは、ブルジョワ的視点からはインフラとして蔑まされたが、今日、公園、科学施設、文化施設として、その要所としての重要性を、ちがう意味で強調してきている。

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2007.11.19

スフローさんのこと

 木曜日(11月16日)に行きそこねたパンテオンに、金曜日にいった。この建物はフランスにおける新古典主義の傑作とされる。

 しかしなにより、設計者スフローがここに祀られているのである。

 今さら書くことではないが、ルイ15世快癒感謝のたために旧サント=ジュヌヴィエーヴ教会をスフローが再建したものである。フランス革命のときに教会堂であることが禁止され、フランス革命の英雄を祀る神殿となり、それから歴史上の偉人を祀る神殿となって、今日に至っている。その間、政体によってキリスト教会に戻されたり、非宗教の神殿にされたり、政教条約と政教分離のあいだの揺れをそのまま体現している。

 壁画はその揺れをもっとも能弁に語っている。シャバンヌなどの第三共和制のものが大きな壁を占めている。そのサンボリズム的雰囲気が、新古典主義的な空間のなかで、むしろ違和感がないのが、ああそうか、と思わせた。非宗教の宗教なのである。

 というわけでパンテオンはフランス偉人の霊廟である。地下のカタコンブに埋葬されている。ルソーのフリー=メイソン的墓標から、ユゴー、アンドレ・マルロなどをとくに拝見した。歴史的記念物のことを最近書いたからでもある。

  王たちはサン=ドニに祀られている。無名兵士は凱旋門。偉人はこのパンテオン。そのほかペール=ラシェーズ、モンマルトルの墓地には著名人が祀られる。墓地の歴史を調べたことがあるが、中世からは王や貴族のみが墓碑をもち、一時期は日本の両墓制に近いやり方もされた。しかしそれ以外は、死ねば無名の生命に戻るのである。それが一般人の死というものである。死者になっても名前が存続するのは、近代家族イデオロギーの成立からである。家族が成立するためには、家系が連続しなければならず、そのためには死んで無名に戻られたら困るのである。

 だから革命時に革命家や偉人がパンテオンに祀られるというのは、王制の真似のようなところもある。革命は宗教を否定したというが、実際は、宗教というよりキリスト教を否定したのであり、実際、べつのかたちの宗教性を求めている。それが偉人崇拝であり、またフリー=メイソン云々が言及されるゆえんである。

 ところでフランス建築史のなかでどの建築家がいちばん偉くて幸せだったか。緒論あるであろう。理論を構築し、長期の影響力を行使しているということではヴイオレ=ル=デュクとル・コルビュジエであろう。しかしひょっとしたら1000年はもつかもしれない記念碑を建設したという点では、ペロー、ガルニエ、その他、そしてこのスフローであろう。

 建築関係者のなかでもスフローがまさにこの地下墓地に埋葬されていることを知っているお方は少ないのではないか。建築家でありながあら、フランス偉人の霊廟に祀られる!それはもはや世俗的成功とはいえない、たいへんなことである。

 それほどスフローが評価されたということなのか、パンテオンを設計した建築家だからというのか、じつは調べていない。王の快癒を神に感謝する教会堂の設計者だから、政治的立場を考えれば、じつは奇妙なことでもある。

 だから建築家にとっては、ル・コルビュジエ財団のようなものは例外として、シャイオ宮に模型や資料が残るのがもっとも名誉あることである。しかしそれさえ及ばないのが、パンテオンに祀られたスフローである。

 つまり建築家にとっての究極的な選択。情報(アーカイブなど)を残すか?、実体(正真正銘のモニュメント)を残すか?・・・そして近代建築の不幸。ル・コルビュジエでさえ、実体が情報に服従しているように見えてしまう。

 ・・・などと考えをめぐらしながら、複雑な思いで、ぼくはスフローさんの墓標のまえで立ちすくんでいたのであった。

 さて金曜の夜と土曜の朝は帰国の準備であった。日課のプール・リハビリはもちろん欠かさないが、冷蔵庫内の残飯処理、最後の炊事、シーツの洗濯、掃除、ゴミ捨て、大家と挨拶、すべてやるので感傷どころではない。

 パリに行くよりも、脱出がよっぽどむつかしい。前回は、タクシーがみつからず、絶望的な気持ちになった。すると宿の下にあるレストランの女将が気をつかってくれて、従業員の車で送ってくれた。あとでわかったことだが、タクシー運転手のストライキであったらしい。そんなにあることではない。

 今回も、予約したシャトル・タクシーは15分すぎても来なかったので、ぼくはさもありなんとして平然とタクシー乗り場にゆき、すぐ見つけることができた。運転手はアラブ系のお兄さん。衛星テレビの映りはすばらしく、最初はDVDと思ってしまった。普通はこうじゃないよ、カスタマイズしたんだぞ、と自慢げであった。

 世間話ははずんだ。「日本で建築教えてるのか。教師と建築家とは違うのか。建築家ってえ、現場で偉そうにちょっと指示して、それでがっぽり金稼ぎやがって、なんでえあれ(べつに江戸っ子ではなかったが建設現場でガテンしていたのかな)」「いやアシスタントは給料安くて生活たいへんなんだよ」「そうかい」「建築家にもクラスがあるんだよ」「クラスというかカテゴリーだな」「そうカテゴリー」。スフローさんは現場ではどうだったのだろうか。・・・そのほか仕事、身の上、パリジャンの週末(金曜日に出発、別荘などで2泊し、日曜の夜に戻ってくる)、ぼくのブルターニュ自動車旅行、日仏スイスの高速道路の比較、空港のセキュリティ(いたずらを含めテロもどきはけっこう多いらしく、不審物を小爆破させることがあるらしい)などで、空港まで退屈しなかった。

 ・・・というわけで帰国できた。いまから出勤である。

 

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2007.11.16

「フランス建築」とは、「日本建築」とは

 パリ、11月16日。依然としてストは続いている。驚きはしない。留学していたころに1カ月以上のストを経験しているからである。とはいえこの時間を利用して、今回の旅行でした本来の研究とはべつにして、雑感のまとめぐらいはしてみよう。日本にもどればすぐ自分を初期化して仕事を継続しなければならない。

【1】「フランス建築」なるものは、もちろん実体ではなく概念である。概念である以上、それが創作された経緯に立ち戻らねばならない。

 まずシャイオ宮の建築・遺産都市では以前からあった中世建築ギャラリーに、近現代ギャラリーが加わった。これはヴィオレ=ル=デュクの建築博物館に、戦後できたIFA(フランス建築協会)の近現代コレクションが追加されたものである。

 結論からいうとこれは「フランス建築」のひとつの定義である。

 中世建築ギャラリーはヴィオレ=ル=デュクの理念でできている。彼はゴシックを構造的合理主義として再解釈し、普遍的な建築モデルとして格上げした。彼の合理主義はひからびた計算至上主義ではなく、創意や夢想をも可能にするものであって、喩えていえば、むしろ今日の構造設計家のような発想をもっていたといえるであろう。だからヴィオレ=ル=デュクの真骨頂は、ゴシック・スタイルの住宅ではなく、大ホールのための立体トラスであろう。

 追加された近現代ギャラリーは、ロンドンの水晶宮の展示から始まり、コルのユニテ・ダビタシオン、ヌーヴェルのアラブ世界観、コースハースのボルドーの住宅などがラインアップされている。そこにあるのはテクノロジー至上主義ではないが、新しい技術、それによって喚起される建築家の創意、というものへの注目である。

 これにたいし、17世紀の古典主義、18世紀の新古典主義、19世紀の折衷主義は排除されている。もちろんエコール=デ=ボザールなり、オルセ美術館なり、それぞれ別の場所にあるし、なにより現物がそのままの場所にしっかり残っている。都市そのものがミュージアムならばすでに殿堂入りしている。

 しかしそれでも、すくなくとも結果論として、それらはフランス固有のものではない、のである。それらはむしろヨーロッパ的、あるいはローマ帝国的であるかもしれない。

 この「フランス的」という系譜論で、中世と近現代はしっかり繋がっている、というのが僕の実感である。たとえばヴィオレ=ル=デュクは、スケルトンと皮膜という二元論でゴシック構造を解釈した。すなわちリブは骨格であり、それによって皮膜としてのボールトが支えられる。同様な構図が、コルのユニテ・ダビタシオンの原寸大模型によって示される。構造であるRCのフレームと、インフィルである間仕切り壁や設備や仕上げが、はっきり区別されて模型化されている。コルは、ヴィオレ=ル=デュクの合理主義を後継しているのだ、という説明が可能なように、演出されいる。

 シャイオ宮が「ひとつの定義」であると書いたのは、別の定義もあるからだ。

 ペルーズ・ド・モンクロという偉い建築史学者がいて、まさに『フランス建築』という文献を書いている。そのなかで彼は、16世紀のフィリベール・ド・ロルムにはじまるルネサンス、古典主義の系譜を中心にすえる。この系譜もイタリア・ルネサンスの形態を表面的に模倣したのではない。近代の数学や幾何学の知識をそれまでの職人技術に適用することで、中世の石造技術をバージョンナップし、表現性と技術性を兼ね備えたフランス建築が誕生した、ということが主な主張である。たとえば中央に柱のない大螺旋階段であるとか、この系譜では可能になる。この技術は18世紀のロンドレにおいて頂点に達し、セーヌ川をほとんど1スパンでまたぐような石造アーチ橋も可能となった。

 このように古典主義の系譜のなかにも、構造技術としっかり結びついた実質的な側面もある。古代建築のパスティッシュではないのである。それをもって「フランス建築」の本質と考える、シャイオ宮とは違う見解の学者もいたわけである。

 しかしそれでもシャイオ宮はこの路線をあえて見ない。これはヨーロッパ文化の根底にある、ゴシック/古典主義の葛藤の構図そのままである。

 ゴシック派はそれほど意識していないかもしれないが、ヴィオレ=ル=デュクの思想は、プロスペール・メリメを経由して、ユゴー、シャトーブリアンにまで遡及する。彼らは国民精神を象徴する芸術としてゴシック建築を解釈しなおした。つまり過去の遺産を解釈しなおして、あらたな受容のしかたを考案したのであった。

 この中世建築=国民建築という出自(この出自は、中世にあるのではなく、まさにこの概念が生じた近代初頭にある)がある以上、古典主義は別の位置づけを余儀なくされるのである。

【2】それでは「遺産」とはなにか?

 こちらで遺産論の文献を読むと、1970年代以降の文化財概念の広がりのみならず、それこそアウグスティヌスや古文書学にまで遡及する、ヨーロッパ文化全体の組み替えのような印象を受ける。その全体を把握することは今後の課題である。

 しかしヨーロッパの動向を把握しようとするときに重要なのは、その重層性ということであろう。つまりヨーロッパ統合といっても、一元化されて差異が消去されて普遍化するのではない。各国は各国のままである。ヨーロッパ統合と地方分権化は同時並行であったことは重要である。つまり今日、市町村>市町村共同体>県>地域圏>国>ヨーロッパという6層構造でものごとは動いている。これは17世紀のオランダ人が考案したシステムだそうだが、このヒエラルキーのなかで政策展開は、それが可能ななるだけ下の、現場に近い階層でなされる。住民票は各市町村で受け入れるが、ゴミ処理は市町村共同体であろう、文化財は地域圏だろう、国防は国とヨーロッパであろう、といった感じである。だから階層がたくさなるほど、政策展開の次元がいろいろ選択できるわけである。

 同様に遺産法典のなかでは、歴史的建造物、考古学、アーカイブ、著作権などの従来法が、整理されている。つまりいろいろなカテゴリーの壁が撤去されて一元化されて遺産と称されているのではない。より普遍的な概念が、それらのより上位に、設定されている。だからメタ概念なのである。このヒエラルキー構造を頭にいれないと、ものごとはわからない。そして階層が深くなると、それぞれの立場の専門家があらたに必要とされ、ひとつのプロジェクトにおいてそれぞれの階層の専門家のあいだでの調停が必要となる。ゆえにガバナンスなのである。

 ゆえに歴史的建造物は歴史的建造物であるままである。全体のなかでの位置づけが変わってくるだけである。

 そして歴史的建造物という概念の内部も、なにも博愛主義的に普遍化されるのではなさそうだ。ゴシック/古典主義の葛藤はそのまま残されている。いや葛藤こそをまさに遺産としてそのまま残すことが活性化をもたらすという大人の知恵が背後にあるのではないか。

 こうした構図は、考えてみると、封建時代の土地所有制度そのままではないか。かの時代はいわゆる重層的土地所有といわれ、下級所有者のうえに上級所有者がいて、上にいくと領主、そして最終的には国王が国土の所有者であった。だからヨーロッパは慣れ親しんだ構図に戻るということであろう。永遠の中世などといわれるゆえんである。

【3】日本は「永遠の現在」なのか?

 外国にいると、むしろナショナリストになるらしい。

 最近小耳にはさんだことだが、イギリスの建築雑誌の編集者が、日本の建築批評はそっくに死んでしまって、どうなるのだね、などといっているらしい。そのとおりであろう。建築家たちがクリエイティヴな創作を展開しているかたわらで、言葉と概念によるアピールはどうみても弱い。

 ではいつが建築批評の充実した時代であったか。私見によれば、浜口隆一、神代雄一郎、伊藤ていじ、らであろう。つまり彼らは、日本建築を西洋的な概念で解釈することで、普遍的近代と個別的日本を調停しつつ、概念を交換しそして広げていった。反面、ある意味では日本売りでもあった。しかし彼らが「日本建築」という概念を構築した。

 しかし日本の建築批評がすくなくとも戦後は展開がない。死んでしまったと外国人はいう。理由のひとつは、日本売りがなぜか有効性を失っているか、日本/近代、日本/西洋という構図がすでに批判的なものとは成り立たないのである。

 この「日本建築」という概念は1930年代40年代にほぼ完成しており、そののちは再利用の時代であったにすぎない。戦後は、そういうことであったのであろう。結果的には。

 「フランス建築」も「日本建築」も同じことである。中世においてフランス建築という概念はなかったのであるが、中世が遠い過去になった時点で、反省的な意識のもとで、再解釈がなされ、そこではじめて「フランス建築」なるものが前景化された。おなじ構図で「日本建築」は、日本が西洋的な枠組みの国となってはじめて、意識の対象となるのである。

 時間論の専門家もいっていたが、過去は端的に存在する実体ではなく、過去とは不在そのものである。だからこそ過去は構築されるものである。あるいは自由の根源は、現在ではなく過去にある、ともいう。過去があって現在があるという因果論的な理解がないとなひまらないのであるが、この過去をどう組み立てるか、それによって今=自己がきまってくる。

 日本の建築批評が不毛なのは、このような意味での「過去」をうまく設定できていないからであろう。あるいは歴史叙述としては、戦後はまだ対象化するような「過去」になっていない、ということである。つまり「永遠の現在」なのである。だから過去を構築することもできない。過去がないのだから。

 歴史家の責任は大きい。近代建築の歴史は、稲垣栄三、村松貞二郎、藤森輝信、八束はじめなどが書いているが、すべて戦争で終わっている。戦後は書けないのである。

 ここで解決法を提案することもできない。しかし最低限、グローバル化だからすべて一元化されるなどと思いこまないで、その下にそのまま残されている世界の階層的構造に注意を払うことであろう。

 ヨーロッパが中世に回帰するなら、日本は永遠の現在であろう。「遺産」は歴史研究にとっては悪影響しかないであろう。遺産は、歴史研究とおなじ階層に所属するのではない。遺産はその上位でいばっていればよろしい。しかし今日、ものごとを重層的に考えることは意識されず、一元化して遺産=歴史と短絡的に考える傾向が生まれつつある。そうなれば歴史研究に必要である批判的、批評的な精神が弱くなるであろう。それは永遠の現在という構図をますます固定化するであろう。

 

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パリでパラディオに出会う

 ストは終わらない(現地11月15日)。土曜日の空港への移動さえ心配だ。公共交通がまだ動かない万が一の場合を考えて、タクシーを予約する。ネット+カードで簡単にできる。便利になったものである。

 今日も今日とて、水泳、買い物、書籍の日本への郵送、炊事、洗濯、掃除をすませ、収集した資料に目などをとおす。仕事もしているのである。しかしどうも集中できない。パンテオンの空間によって精神を浄化してもらおうと、散歩にでかける。オデオン座のとなりにある書店から数冊日本に送ってもらう。

 ところがパンテオンは、ストのあおりをうけて早めに閉館だという。ぼくは間に合わなかった。さらに気がついたことに、拝観料をとるようになっていた。1200円ていどである。まあそのくらいの価値がある建築だが、映画一本とくらべると割高感は否めない。もっともあれだけの建築だから、メンテを考えればよいことかもしれない。拝観料の使い道など情報は透明なのだろうか?

 パンテオンの正面に、5区の区役所がある。そこでパラディオの展覧会をやっているらしく、次善策と考えて拝見する。とはいっても、弟子スカモッツィが編纂したパラディオの作品集を展示しただけだ。ようするに本をばらして各頁を並べただけ。もっとも区役所レベルのことと考えると上出来であろう。

 やはりスカモッツィの責任であろうが、図面になにかが欠けている。寸法に気をつかったそこそこ正確な再現というのみであって、まるでパラディオの「念」が伝わってこない。それよりずっと前のセルリオやドロルムの建築書は、図面の精度はまったくいい加減だが、その不正確な図版をとおして理念が伝わってきたものであるが。

 それはそれとして、あらためてパラディオがヴィラを神殿として建設したということなのである。このことの重要性はすでにアッカーマンが指摘している。パラディオはあえてそうしたのである。ウィトルウィウスのデコルム理論によれば、いや近代の建築タイポロジー理論にてらしても、神殿の様式を住宅につかうことはおかしい。

 パラディオは住宅でありながら、古代の建築オーダーをつかったポーティコをつくり、神殿のように設計する。古代神殿の形態をまねて住宅を建てるのではなく、そもそも古代において、神殿こそが住宅をまねたのだ、と主張する。つまり彼は、論理を転倒させるのである。

 しかし実際は、神殿のように住宅を建設していることにはかわりない。神殿もどきである証拠に、内部はヴェロネーゼによるフレスコ画が描かれ、そこに描かれたバッカス(ワインの神様はブドウ栽培の守護神となる)、ヘルメスらは住まう家族の肖像画と混交している。住人は神話的世界と一体化し、そのことで自然を支配する。自然を人間化するのではない。人間が神格化され、そのことによって自然と一体化するのである。第二の転倒である。

 ヴィツェンツァ郊外のロトンダであれ、マゼールのバルバロ荘であれ、農業経営の拠点であり、ランドスケープ的にも自然と一体化している。しかしこの一体化はきわめて抽象的な次元のものだ。前者は丘のピークにあって東西南北を指示し、後者は丘の中腹にあって、丘の中腹の水源をシンボライズし、平地と丘のエッジを指示している。

 いすれにせよパラディオは、通常の住宅設計の外部で、構想していた。

 現代の日本における住宅設計を考えてみよう。私見によれば、近代において先輩たちが蓄積した遺産を食っている状況ではないかと思う。才能ある建築家は多い。瀟洒であり、趣味がよく、写真写りもよい。しかしこれらは住宅を模倣する住宅である。そこには外部がない。外部がないから意味の転倒も起こりようがない。外部がない、ということは閉塞状況ということだ。しかし幸か不幸か、日本がこれから膨大な個人貯蓄をゆっくり食いつぶしつつ、なんとかやっていけるように、この閉塞は長引き、しかもけっこう温室で居心地がいいのである。

 ・・・それにしてもスカモッツィは凡庸であるぞよ。彼は結局、パラディオの内部にとどまっていたのだろう。こんな迫力のない図面をかいてしまって。師匠の偉大さが周知となったのはバーリントン卿のおかげでしょ。といいながらパラディオが偉大なのは、イギリス人、アメリカ人、フランス人、日本人にとってであって、肝心のイタリア人にとってはどうかわからないが。いまやパラディオは外貨獲得装置である。

 というわけでスト下、やけに自転車の多い市内をフラヌールする。駐輪公害までもうちょっとですな。エチエンヌ・ダオの最新CDなどを買う。夕刻のブルバール・サン・ジェルマンはなぜか年末の日本のような雰囲気。ストなどある問題が共有されると、この街はなぜかいつもとは違う雰囲気につつまれる。仕事話が終わらないサラリーマン。杖つく老人。重装備のポリス。無邪気な小学生。はしゃぐ外国人。物乞い。それぞれの人生、それぞれの仕事、それぞれの休息、それぞれの幸せ、それぞれの悲しみ・・・。帰宅。午前中に仕込んだポトフが・・・おいしい!

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2007.11.15

フランスの有力建築家たちがモニトゥール誌への掲載を拒否しているそうな

 今日もストである。動けない。ネットサーフして、おもしろい記事はないかと探す。すると下記が目にとまった。

 WEB版ル・モンド紙(パリ時間15日12時半)によると、フランスの有力建築家たちとこれまた有力な建築専門書籍の出版社であるル・モニトゥールとが対立している。

 同社がやっている建築賞に「銀定規賞」というのがあって、これは「建築におけるゴンクール賞」であるとされているが、10月22日に決まった2007年の銀定規賞は、無名の建築家の控えめな作品に与えられた。ル・モニトゥール・グループは選出の理由を「建築的なスタンドプレーをやめて、基礎的なことに立ち戻ろうとしている」と説明している。

 ちなみに写真はその銀定規であるが、□○△である。なるほど建築の基本形態である。

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 建築家たちはこれに抗議文をだした。彼らは、建築的創造というものをスタンドプレーと日常的建築との対立に解消しようとするものであり、建築家たちが展開してきた込み入った思索を否定するもの、批判する。

 彼らは対抗措置としてル・モニトゥール誌が出版する年報(AMC)の2007年版に、自分たちの建築の写真を掲載することを拒否している。また自分たちで出資して固有の年報を2008年1月に出版するのだ、と力んでいる。名乗りをあげた建築家のなかには、 Frédéric Borel, Jérôme Brunet, Jacques Ferrier, Manuelle Gautrand, Rudy Ricciotti, Marc Mimram, Nicolas Michelin, Ibos et Vitart など著名人がおり、対抗年報がでれば本家のものの内容が薄くなるのは避けられない。

 ル・モニトゥール誌の建築部門長でありジュリイのメンバーであるFrédéric Lenne氏は、ジュリイの選択を説明するよう求められているだけで、この賞が問題視されているのではないと、強気である。ル・モンド誌によれば、建築業界の「不透明さ」が問題なのであって、論争は避けられない、とのことである。

 ・・・ぼく自身は建築賞の選定などにはかかわったことはないが、雑誌の特集などで、建築家の作品を選定することはある。だからまったくの人ごとではない。このように建築家有志が抗議するということは、私企業の出す賞でありながら、すでに公共的存在となっており、ゆえに透明性と説明責任が求められる、ということを、抗議者自身が認めているということである。ただぼくの作品を写真掲載させませんよ、というのは、強気ですね。なにか宮廷闘争的な雰囲気がします。

 よく考えてみると、日本にも企業、企業広報誌、学会、自治体、マスメディア、国などが建築賞を出していている。誰が賞をだしているか、ということはあまり考えていない。賞は、脱利益還元的、脱イデオロギーを指向するという暗黙の了解があるからだろう。また賞はいろいろあるので、選出に不満があってもいちいち抗議はしないものだ。これがコンペなら違うのであるが。

 選ぶ側の問題もいろいろあって、本当に選出理由など練っているのだろうか。ぼくはある有名新聞社に3年連続でひそかに打診され、××××氏の作品はどんな点が評価されるんですかね、などと聞かれい、ろいろ答えてきた。基本的にぼくは建築家擁護の立場であることも言っておこう。しかしこんなヒアリングもいっそのこと透明化すればどうだろう。

 日本における問題は、表現や思想をめぐって建築家たちが連携するような契機も機構もないということであろう。それぞれの設計活動は活発でありながら、思想はまったく個別に表明する、おたがいに干渉しない、というスマートな棲み分けが発達している。

 フランスのこの例は、賞を与える側が、なんらかの釈明をしなければならないことを意味する。賞を出す主体が、はっきり立ち現れる、ということだ。日本でもときどきこんなことをすれば、人様を選ぶ立場も、すこしは襟を正そうというものであろう。フランスも日本も、まだまだ不透明であるようだが、フランスのほうが論争好きということか。

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2007.11.11

展覧会のハシゴ

土曜なので午前は仕事して、午後は美術館をはしごした。

■まずアルベール・カーン美術館(ブーロニュ=ビランクール)。

 アルベール・カーン(Albert Kahn, 1860-1840)は銀行家であり、投資(南アフリカの金・ダイヤモンド、中国鉄道、日本の台湾開発)で大もうけをした。

 そこで彼はさまざまな団体を創設して慈善事業に乗り出した(1898-1931)。学生が世界旅行をするための奨学金を出した。また世界各地の文化を記録しようと写真とフィルムの撮影をさせた。写真はステレオコピー4000点、カラーフィルム72000点。フィルムのそれは18万キロメートルで、100時間分あるという。かれはそれを「惑星アーカイヴ」であると考えていた。

 彼はグローバルな視野をもっていて、世界各地にはいろいろな文化があって、それを写真などで記録することで、相互の認識と理解が深まるという、素朴な理想主義をいだいていた。

 1909年には日本にもやってきた。フランスが組織した資本家グループの一員としてであった。渋沢元治(栄一の甥)にも会ったらしく、元治の写真を展示していた。(明治維新に資金提供した銀行家などと紹介されていて、これは困ったことである。)

 ブーロニュ=ビランクールに豪邸を構えた。エドモン・ド・ロートシルト(ロスチャイルド)の邸宅の隣であった。その庭を、イギリス風庭園、日本式庭園、フランス式庭園などたくさんのテーマ庭園により構成して、地球のミクロコスモスとしようとした。

 1928年の世界恐慌で破産した。セーヌ県はその資産を買い取った。それはさらに1964年にはオ=ド=セーヌ県にものとなった。現在の美術館と庭園はそれをもとに1986年に設立された。

 常設展のほか「マグレブの色:アルジェリア、モロッコ、チュニジア、1910-1931」をやっていた。これが目的でいった。

 1920年代のマグレブの写真は東方旅行のノスタルジー的興味があって楽しかったが、おもしろかったのは映画である。「惑星アーカイヴ」の一部を編集して作成されたものであった。

 フランスは、植民地政策にカーンの写真活動をかなり利用して、記録をとらせていたようだ。カーンもまた有力な銀行家であったから、政治的コネクションとして利用したことも考えられる。だからカーンは、諸民族の相互理解という理想があったが、実際の活動のなかでは、政治に利用されたというわけである。これがこの映画の主張であった。

 1931年の植民地万国博覧会の鮮明な映像があって、これだけで見てよかったと思わせるものがある。

 ほかの印象的な映像としては、モロッコの軍隊が7月14日の祭典でシャンゼリゼを行進したり、現在パリにあるモスクが建設されたいきさつなど、植民地の状況がいかなるものかがわかる。

 「惑星アーカイブ」のなかでは、さまざま人種のポートレート(動画と静画)を写したフィルムがあって、これを博覧会で上映しよういう計画があったそうだ。さすがにこれは差別的で民族の品種区別のようだということで、禁止された。

 また当時フランスが拠点としていたアルジェ、ラバトのフランス都市の光景があって、1920年代の都市の動画はまことにおもしろい。超近代都市なのである。フィルムはタブーにも踏み込んでおり、ラバト郊外に建設された売春街の映像もあった。この面でもフランス式がアフリカに広がったそうである。

 リヨン・アフリカ宣教会の怪しげな宣教師がアフリカ各地で宣教する様子も撮影されていた。この宣教会についてはよくわかっていない。子供を当時の世界基準以上働かせていたり、いろいろ国際機関から批判されていたそうだ。今フランスではあやしげないわゆる人権団体がチャドの子供たちをさらったかどうかで、大問題になっているが、なにかそんなことを思い出させる。

■それからシャイオ宮の海洋博物館。スエズ運河の工事現場を撮影した写真家エメ・デジレEmé Désiréの展覧会である。

 資料によれば150万人のエジプト人が動員され、コレラで12万5000人が亡くなったとある。さぞやたいへんな工事であったろう。

 しかし写真にうつされた光景は、まったくそれとは異なっていた。写真家はそもそも人間には興味がなかったのである。しかも当時の写真はかなり長時間露出であり、労働者が動けばすべて映像から消えてしまうのであった。労働者の施設も小規模な都市となるはずであるが、それほど大規模なものでもなかった。

 そればかりでなく、工事のほぼ完全な機械化が始まっておいた。石炭で動いていたという当時の工作機械はなかなかおもしろかった。写真家はそれに関心があったのである。パノラマ写真もあり、運河がもたらす風景の変化にも興味があったようだ。

 しかし世界戦略を変えた大土木工事も現場でみると、殺風景である。

 これになぜ興味をもったかというと、19世紀であったので多国籍民間企業がおこなった、からである。つまり20世紀なら公共事業であるはずだ。しかし民間企業であり、株式であったので、やがてイギリスが株を買い占めて乗っ取ってしまう。つまり今日のグローバスな状況などというものは、今がはじめてではないのである。

 機械化、株買い占めなど、きわめてドライな大土木工事であった。

 それはそうと、海洋博物館そのものはきわめて充実した常設展であり、ヴェルネの絵画、ガレー船、巨砲時代の戦艦、原潜などの模型・・・などの充実したワンダーランドであった。子供のころに見ておけば人生がかわったかもしれない。

■ルクサンブール美術館でジュゼッペ・アルチンボルドの展覧会である。

  6時台のいちばんすくであろう時間をねらったが、子供連れが押し寄せ、たいへんなことになっていた。

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 彼はまずミラノ大聖堂のステンドグラスの図案家としてキャリアを開始する。展覧会ではこのミラノ大聖堂の写真から始まって、同時代の文献、美術工芸品、文献、ドイツ語圏で伝統的なブンダーカマー的諸例など、彼の背景や同時代現象をたんねんに紹介するものであった。

 プラハに移ってからの活動はぼくがいまさら説明するようなことではないが、ポートレートを静物の組み合わせとして描く手法であるとか、ポートレートのテーマも四季とか四元素(水、風、火・・・など、土はなかったが)など、考えてみればかなりオーソドックスなものであった。シンボル、アレゴリーが重層的に描かれる芸術のなかで(彼にはアレゴリーに詳しい詩人が専属でアドバイスしていたらしい)、具象はその極端までいけば抽象に反転するのではないか、と思える。ここでは抽象と具象はコインの裏表であって、切り離せないものである。

■ハシゴが終わって。

アルチンボルドから帰宅する途中で「無印」パリ支店の前を通る。違う惑星である。今日は早起きして、泳いだし、仕事もしたし、展覧会も見た。夕食はポトフである。よく眠れるであろう。

 

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2007.11.10

サント=クロチルド教会(パリ)と様式論争

 昨日は体調がいまひとつだったので、散歩と日用品買い物にとどめた。

 そこで前から再訪しようとおもっていたサント=クロチルド教会にいった。宿から歩いて10分そこそこ、いい散歩である。

 この教会にはまえまえから注目していた。19世紀初頭に形成された新街区における教会建築というまちづくり的視点、世俗国家のなかでの建設という宗教的視点、またパリにおける最初のゴシックリバイバルという建築史的視点が交差されうる、おもしろい例であったからだ。

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 まず1827年、パリ市議会はこの町には、適切な教会堂がないことから、その新築を決める。この地区には教区教会としてサン=トマ・ダカン教会しかなく、信者は多かったからであった。土地はもともとあったカルメル会女子修道院とベルシャス会女子修道院が提供されることとなった。

 これは1802年に成立したコンコルダ(ナポレオンと教皇の和解体制)体制の結果である。公認宗教制度であり、また同時に、教会財産は国家財産であり、聖職者も国が任命する。だから国家がフランス国内の教会を完全管理するということである。反面、だからこそ、国は教会堂建設に公金を使うのであった。

 だから新しいサント=クロチルド教会のために、修道院の土地(=国の土地)を使い、市が教会堂建設を決める、ということが起こる。教会組織が決めたのではないのである。

 さらにその建築様式については、ネオ=ゴシック(ゴシック=リバイバル)にするかネオ=クラシカル(新古典主義)にするかで一悶着があった。

 しかし重要なのはいかにも19世紀的な様式論争であったということではない。2様式で対立したのが、いずれも世俗の、公共的組織であったということである。

 ネオ=ゴシックを支持したのは、当時セーヌ県知事でありそもそもこの教会建設を提案したランビュトと、市議会である。なぜ知事かというと、当時、パリには市長職はなかったからである。オスマンも知事であった。フランスの首都であるパリが首長公選となって自律的な自治体になることは許されなかった。知事は内務省が選ぶのであり、ランビュトはむしろ国家の意思を反映していると考えるべきである。

 ネオ=クラシカルを支持したのは市民建築評議会はであった。評議会は革命によりできたものである。詳しいことは調べていないが、共和国の理念にもとづいて、公共建築を市民の立場からチェックするためのものである。制度としてどの様式を支持すべきという決まりはないが、革命=共和制の理念=新古典主義(古代ローマの共和主義)という流れはあった。

 この論争においても肝心の聖職者たちはどこにいたのかわからない。

 問題が紛糾したのは、19世紀の文化政策制度にも原因がある。

 プロスペール・メリメは歴史的建造物検査長官であった。彼は、「歴史的建造物委員会」でとりくまれる修復工事が、かならず前述の「市民建築総評議会」に提出されるようにしてしまった。

 歴史的建造物委員会は全員ではなかったが、ゴシックに賛成であった。評議会はリバイバルに反対し、古典主義の支持者たちであった。

 この対立が原因で、古い教会の修復など、いちいち意見が対立し、たいへんなことになっていた。

 ゴシック擁護者のひとりが、1844年から『考古学年報』を刊行していたディドロンであった。中世の、音楽、ステンドグラス、建築などの価値を力説した。ゴシックは国民的芸術だと力説した。建築家ラシュは13世紀の様式を最良とした。またヴィオレ=ル=デュクもまたゴシック建築理論をこのころには構築していた。

 そうした後押しがあったので、1845年市議会は、様式はゴシックだと決議した。市議会が議決できめるというのは最終手段であるとしか考えられない。委員会、評議会では決められないのであった。

 同時に市議会は、守護聖人を聖クロチルドと聖ヴァレールだとして決議した。これもかなり政治的判断であろう。聖クロチルドは、フランク王といしてカトリックに改宗した最初の王であるクローヴィスの妻である。下の写真は、左=聖クロチルド、右=クローヴィス。(聖ヴァレールはもともと地区にあった小礼拝堂の聖人であった)。すなわちフランス国家の起源、キリスト教国家の起源にかかわるような守護聖人の選択は、すぐ近くに下院議事堂があることなどの関連が考えられ、ランビュト知事の意気込みであろうか。

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 ケルン出身のフランソワ=クリスチャン・ガウが設計し、その弟子テオドール・バリュが仕上げた。ブルゴーニュの石材、小屋組は鉄である。鉄構造をつかったパリで初めての教会建築となった。

1857年に奉献。今年はなんと献堂150周年である。

 この町中の教会堂ひとつのなかに、フランス近代の本質がかいま見えることが理解されるであろう。乱暴なスケッチをしてみよう。

(1)革命は、教会組織を解体し、美術、建築、土地など、教会財産であったものをすべて国家財産とした。(美術とは略奪であるという文化帝国主義は国内的にもそうなのである)

(2)国家はいちど過去から切断された。それは失われたキリスト教社会を回想し、取り戻そうとする「ロマン主義」を生んだ。シャトーブリアン、ユゴーである。

(3)国家の文化政策として、このロマン主義的な雰囲気を基調として、中世芸術を一種の国民芸術とし、その保護と修復をする機関ができる。つまりフランスでは、記念碑、文化財、遺産はまず中世芸術のことであった。そののち一般化された。

(4)一時期、新古典主義=革命的=共和主義的、ネオ・ゴシック=中世的=国民的というような構図が生まれた。この構図は、市民建築評議会と歴史的建築委員会という制度的対立にも反映された。

(5)もちろん様式の対立が、そのまま政治的立場の違いと整合するわけではない。しかしそれぞれの様式が支持されるその出自を確認することは大切だ。

 蛇足だが、シャイオ宮では、古建築ギャラリーはほとんどゴシック建築、近現代建築ギャラリーはテクノロジーと新工夫の建築、となると、これはかなりヴィオレ=ル=デュクの理念に忠実なのである。つまりそこには古典古代、古典主義、折衷主義がみごとに排除されている。さらにいえば「ボザール」が排除されている。

 これはまさに「フランス建築」のひとつの定義である。

 別の定義があることはド・モンクロの『フランス建築』を読めばわかることではあるが。ともかくもシャイオ宮は、国内的にも国外的にも、きわめて党派的ではっきりしたメッセージをおくっているのである。

 

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2007.11.09

パリのシャイオ宮に新設された建築・遺産都市は新たな建築の神殿となるのだろうか?

 昨夜、シャイオ宮にいって展示をみてきた。一階の旧フランス記念碑博物館のコレクションはほぼそのままだが、その上階に近現代建築のコレクションが追加された。

 知らない人のために補足説明すると、一階は中世建築のコレクションである。とくに教会堂の正面入口(フランス語でポルタイユと呼ばれる)上部のタンパンの彫刻や、そのほかの建築の部分の原寸大レプリカが置かれている。展示室から展示室への境界が、このポルタイユであるので、教会の門をいくつもくぐりながらつぎつぎとコレクションを見てゆくことになる。

 もちろん鋳型で復元したものだけでなく、木造屋根組の模型などもおかれている。

 上階の近現代コレクションはあらたに追加されたものである。18世紀の証券取引所、19世紀のサント=ジュヌヴィエーブ図書館(ラブルーストの傑作)からはじまり、ヌーヴェルのアラブ世界会館、コースハースによるボルドーの住宅まである。

 最重要の扱いはル・コルビュジエによるマルセイユのユニテ・ダビタシオンの復元である。これは森ビルでの展覧会による復元とはまったく次元の違うものであった。つまりRCのフレームにユニットが挿入されていることを示すため、RC躯体そのものが復元されていた(とはいえ素材そのものは違う)。つまり今の言葉でいえば、スケルトン・インフィルというコンセプトそのものの模型化である。内装も、素材、色、洗面台などの細部まで、かなりオリジナルに忠実であった。そして吹き抜けの広い窓からは、この近現代コレクションの展示室そのものが俯瞰されるようになっていた。コルの窓から、近現代史を一望するのである。

 それらのなかでロンドンのクリスタル・パレスは外国勢のなかで大きな扱いをうけていた。完成状態の模型ではなく、工事途中のそれである。だから馬が建材を運搬していたり、現場でどのように部材を引き上げたりするか、ロープで仮固定している様子、などを示した現場模型なのである。これはかなり詳しい考証のいることで、さすがである。

 総じて、模型の見せかたにポリシーがあり、よりくわしく、はっきりしている。

 シャイオ宮のこの展示には思い出がある。それはなんと24年前である。1983年秋、留学してパリについてそうそう、日本建築史学会から依頼があった。このフランス記念碑博物館のコレクションの配置を確認してほしい、というのである。展示物をすべてノートして東京に報告した。建築史学誌ではそれをふまえて大岡實先生がシャイオ宮の紹介し、あわせて日本における古建築博物館を創設する提案と『日本古建築博物館建設の提案』を書かれた。具体的な展示方法まで提案されていた。シャイオ宮については飯田喜四郎先生がチェックされたようで、飯田先生からは、自身が留学していたころと配置はまったく同じで、感慨深い、というようなコメントをあとでいただいた記憶がある。

 『建築史学』創刊号、1983、pp.96-102を参照されたい。

 飯田先生と同様、ぼくも感慨深い。時代は変わった。

 大岡先生は、フランス歴代大統領が文化政策に個人寄付まですることを紹介している。フランスの文化政策の偉大さである。しかし今日では国家がすべてをカバーするのではなく、グローバル化政策を展開し、財政もまったく新しくなっている。

 展示についても、配置はひょっとしたらそのままだろうが、細部は違っているものもある。レプリカ技術が進み、現物にふれなくとも、写真をデジタル処理してかなり高精度な鋳造ができるので、この技術を応用した模型もある。ラベルにそういうことが書かれていた。

 ・・・しかし最大の変化は、近現代コレクションが追加されたことである。公式の文書などのなかで、このコレクションで800年のフランス建築が一望できることになっている。いわゆる古建築=伝統的建築と近現代建築をまさにひとつの概念で一望できるという視点は日本にはないものである。

 ただし16世紀から18世紀は扱いが小さい。このことも意味を明らかにするには精査が必要だが、即物的に解釈すればいわゆる古典主義はフランスにとって重要ではなかった、ということであろう。

 ではフランスにとってなにが重要であったか。中世と、近現代である。それらは彼らの意識では連続している。

(1)ゴシックを中心とする中世建築。

 中世建築についてはヴィオレ=ル=デュクの功績が大きいことは周知である。しかし中世を理想化する考え方はシャトーブリアン、ユゴーのころからの流れである(ぼくの印象としては、ゴシックは王党派の芸術であった)。だからヴィオレ=ル=デュクは最初からこの大枠のなかにいた。それで修復、研究、執筆、設計などをするのだが、彼を合理主義の系譜に位置づけたり、近代建築の先駆者として認知するのはことの一面にすぎないと思われる。彼は近代建築運動に大きな影響を与えるのだが、それは鉄の使用であったり、構造合理主義的な、あるいは機能主義的な側面をとおしてであったり、とされる。しかしこれらは彼の側面であるにすぎない。

 ぼくの解釈である。ゴシック・リバイバルにおけるゴシック解釈を俯瞰しているとわかることだが、ウォルポールにとってゴシックは古典古代にとはことなる奇怪なものであったり、ピュージンやラスキンにとっても古典古代、近代とはちがう徳のある時代がゴシックであった。彼らは固有のゴシックを考えた。しかしヴィオレ=ル=デュクは、ゴシック建築の合理性は普遍的にどの建築にも応用できると考えた。つまりゴシックは建築のための普遍的モデルとなった。この点を強調したい。

 フランス(建築)文化帝国主義のコアにゴシック建築があり、それが普遍的モデルとされ、さらにはそのコレクションがシャイヨ宮にあり、さらにそも目前にエッフェル塔がそびえている。結果なにが生じるかというともはや自明であろう。それはミュージアムの神殿化である。

 これも周知であるが、そもそもミュージアムは神殿である。18世紀に近代的なミュージアムの構想が練られたとき、それらは美の女神に捧げられる神殿として構想された。それからドイツ的な、分類をプラン化する機能主義的な時代がくるのだが。

(2)産業革命以降の近現代建築。

 古典主義と19世紀の折衷主義は冷遇されている。19世紀でも、クリスタルパレスや、鉄骨ボールトをつかったラブルーストの図書館は扱いが大きい。それからコル、ジャン・プルーヴェ、ポンピドゥ・センター、ヌーヴェルとつづけば、新機軸を打ち出してゆく豊かな創造性という面を強調したコレクションである。

 中世建築も、石造技術が飛躍的に進歩し、職人がさまざまな創意をこめて彫刻したじだいであった。そういう視点から見れば、中世と近現代はあっさりつながってしまうのである。

 別の視点からみると、中世と近現代の結合はとても唐突であるかもしれない。しかしその唐突さをならしてしまう、より上位の視点がある。建築の神格化である。

(3)美(建築)の神格化とは?

 通説にならって、19世紀の首都はパリであった。都市改造と大胆な建設技術の適用があった。パリのボザールが世界中の建築家を養成した。20世紀の首都は、メディアならロサンジェルス、建築ならニューヨークであった。後者MoMAのことであり、キュレーティングにより建築の動向が決められる時代となった(インターナショナルスタイル、建築家なしの建築、デコン、ポストモダン、ライトコンストラクション、すべてそうである)。21世紀は?シャイオ宮の新しいミュージアムは、パリがふたたび建築世界の首都になるという立候補宣言である。

 こうしたグローバル化のなかにおける世界戦略は、具体的にはそろばん勘定であって、いかにコレクションがあっても、その活用、運用ができないとミュージアムは成立しない。ボブールにこもってはやっていけないことはポンピドゥセンターの館長もいっていた。ルーブルも大衆化しただけでなく、中東の産油国や日本にも支店をもたなければならない。日本は居直って、コレクションなしの美術館をつくった。あうんの呼吸というべきである。

 グローバル化するなかで象徴的中心が必要である。新しいシャイオ宮のコレクションはかなり偏っていると思われるが、ともかくも800年の歴史を内包することで、その超越的、象徴的な中心であろうとしている。コレクションも必要だが、なにより場である。中心となりうる場を指示するという、場所の指定、その行為、が意味を持つのである。

 建築の神格化、神殿化という発想がある国でないと、グローバル化には対抗できないであろう。フランスは革命のときに宗教と芸術を入れ替えたと思える。芸術は、世俗社会の宗教である。フランス革命にはじまる、記念碑、文化財、遺産の歴史はそのことを念頭におかないと理解できない。大多数の日本の専門家は、制度論としてしか理解しようとしないので、よろしくない。建築がいかに神格化されているか、これは文明の問題として再考しなければならない。

  いい喩えではないかもしれないが、拝金主義者である。彼らは、他人を信用しないことになっているが、彼らこそがもっとも人間を信じているそうだ。つまり貨幣の価値を信じるということは、自分以外にも他人があるいは人間一般というものがあって、彼らが貨幣を信じている、だから自分もお金を信じている、という了解の上に成り立っているからである。だから貨幣を信じることは人間を信じることだ。他人もお金が大事、だから自分もお金が大事、である。このときお金は、ソフィストケートされた物々交換、等価交換ではなく、まるで神様のようなもの、いわゆる超越的なものになっている。個々の貨幣、紙幣、商品ではない、その背後のお金一般というものが、神様のようなものだそうだ(文化人類学的な発想をする経済学者によれば)。

 建築もまた、個々の建築という発想にとらわれていると、良い建築と悪い建築、指定される建築とそうでない建築に分類される。これでは抽象度、超越度、神様に近づいた程度、が弱い。

 自戒も込めていうと、日本人が書く建築史はすべて、近代化トラウマにもとづくルサンチマンの歴史である。そこからは超越的建築観は出てこない。

 ・・・さて24年前もシャイオ宮には子供たちが見学にきていた。骨折した手をギプスでおおっていた小学生が、引率の先生に「ここにいてもいいのよ!」などと乱暴にからかわれていた。周囲は中世の石造建築のレプリカだらけであったからだ。今日、さらに多くの子供たちが押し寄せ、建築模型見学でなぜこれほど高揚するのか不思議なくらい楽しげである。

 日本では浮世絵システムによって建築アーカイブは外国にもっていかれ、現物は取り壊され、近現代は伝統ではないと差別され、遺産は蓄積されず、とんでもないことになるであろう。日本はこれから衰退する(すでに衰退している?)。そのことを確認できた一日であった。

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2007.11.08

大浦天主堂とパリ外国宣教会

 ボンマルシェ百貨店の裏にパリ外国宣教会があって、宿から歩いてもいけることから、今日はその書店にいってきた。

 この宣教会の施設全体のつくりもおもしろい。チャペルがあって、その地下はクリプト(地下礼拝堂)になっていて、そこから階段をすこし下りると書店の地下売り場であり、その上が売り場とカウンターである。地下礼拝堂はミュージアムを兼ねている。展示の目玉は殉教絵画である。おもにベトナムで殉教した宣教師が描かれているが、これはベトナムからみれば処刑であって、リアリティを求める絵画ではないが、凄惨である。

 これが地下礼拝堂にあるのは理にかなっている。そして殉教が海外布教のモチベーションを高めたこともよく知られている。だから長崎に26聖人殉教のためにまず大浦天主堂が建設されたことは、きわめて自然な心情のなせるわざである。

 書店は、殉教そのものにかんする文献のほかは、むしろアジア・スタディの専門店といった感じであった。これから布教に旅立つ宣教師が、訪問国の言語や文化などを学習する、そのための書店であるかのようである。

 宣教会にはアーカイブもあり、またそれに基づいて宣教会自身が研究報告書をだしている。その『研究・資料 etudes et documents』第7巻は日本布教の初期にかんするものであった。

 大浦天主堂建設については、日本ではベルナール・プチジャン(1829-1884)を中心人物として描かれているが、この文献ではむしろルイ・フュレ(1816-1900)が創設者である。

 フュレは、宣教師となるまえ、1840年代、パリのコレージュ・スタニスラスで物理などを勉強していた。琉球滞在ののち、フュレとプチジャンは1862年10月22日に横浜に到着。フュレは事情でプチジャンを横浜に残して、1863年初頭、オランダ船で長崎に上陸した。

 フュレは長崎にカトリック教会堂を建てるために、パリのサン=ロラン教会堂をモデルにしたという。彼はプランをすでに描いていた。そののちおくれてプチジャンが長崎に到着する。

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 左がパリのサン=ロラン教会堂。右はパリ外国宣教会アーカイブ所蔵(no.569)の長崎教会堂ファサード。大小の塔のリズムが似ている。ただ右はゴシックとはいえない。さらに現天主堂は改築のあとのものである。

 1864年、日本布教では上司であったジラールがやってきて、フュレとプチジャンに会った。ジラールは、フュレ案が小規模すぎると判断して、長崎市により広い敷地を許可してもらうことを考えた。彼らは敷地をいろいろ検討した。その結果、選ばれた土地は、かの有名なグラバーの広大な敷地のなかであった。

 広い敷地が得られて教会堂もより大規模にされたが、フュレ案の骨子はそのまま保たれたという。

 ところでグラバーはスコットランド出身のプロテスタントであった。その彼がカトリック教会に土地を提供するのだから、いろいろあったのだろうが、基本的には長崎にすでにあったプロテスタント社会は、あらたにできつつあるカトリック社会にたいしてそんなに意地悪はしなかったという。

 いずれにせよ大浦天主堂のスタイルを決めたのがフュレとすると、彼は1840年代のパリで勉強をしたのであれば、いわゆるゴシック・リバイバルの影響を受けていたと考えるが自然である。その彼がサン=ロラン教会というゴシックの教会堂をモデルにしたことは時代的には、ごく自然なことであった。

 パリ=コミューンの悲劇を乗り越えるためにサクレ=クールが、南西フランスのロマネスク=ビザンチン様式で建設されてことに象徴的に示されるように、19世紀後期はむしろロマネスク様式の教会堂が一般的である。

 長崎の教会堂はゴシック系の教会堂が20世紀になっても建設されていった。同時代、フランスやその植民地では、むしろロマネスク様式であった。長崎は同時代の世界の動向とはまったく無関係であった。そこには、説明できる理由がなければならない。フュレの選択が、そのまま固定化されたというのがひとつの説明である。

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2007.11.07

シャイヨ宮の建築・遺産都市でシンポジウム/建築の実測記録とは真実性をとらえられるものなのかどうか

 シャイヨ宮の建築・遺産都市でシンポジウムがあったのでのぞいてきた。「建築実測図面---終わりなき真実性の探究」である。11月5日と6日開催であった。図書館がよい、アーカイブがよいの傍らでのぞいたので、一部しか聞けなかったがそのさわりである。

 シャイヨ宮の新しい建築ミュージアムの開館を飾る企画であり、ヨーロッパ各国から研究者が集まった。なんとなく演出過剰ではあったが、ブラマンテの話や、グッドイアの物語はよかった。

 relevé en architevtureを、建築実測図面と訳すのはすこし強引だが、要するに設計図ではなく、実際に存在する建築を観察し計ることで描かれた図面である。

 まずは要約から:

(1)最近のレーザー測量装置、ITなどハイテクの発達により、現物にきわめて忠実な実測ができるようになり、建築史はまったく新しい時代にはいった。

(2)これまでの実測図面は、忠実性という点では、かなり劣る。

(3)しかしそれ以上に、これまでの実測図面、それを集めた建築図面集、は忠実ではないというより、理想的建築の姿を描くために、意図的に現実よりも美化され、理想化されてきたのである。実際は傾いた壁を完全に垂直だとする、実際は88°しかないのに90°だとする、実際は若干カーブしているのにまっすぐだとする、云々。

(4)高度な現実忠実性、しかしそれでも実測はある選択であり、現実のすべての情報を再現するのではないいじょう、理想化はさらに別の次元でなされるであろう。

(5)だから真実性の追求には終わりがない、のである。

 建築関係者にとっては常識だが、設計図と実際の建築はぜったい一致しない。今回のシンポジウムの前提は、それだけではなく、これまで建築史の研究が前提としてきたさまざまな実測図面もまた、実測者の主観と目論見により、かならずしも現実には一致しないし、そのことは最近のテクノロジーの発達でますます顕著になってきた、という点である。

 「まったく新しい時代の始まりですね」という意見さえあった。

 建築史の専門家としては喜ばしいかぎりだが、あらたに勉強もしなければならない。

 ローマ大学のサピエンツァ建築学部教授Tancredi Caruncho教授は、ブラマンテのサンタ・マリア・デラ・パーチェ教会について、工事資料、業者領収書、詳細な実測調査の結果、建設がひとつの設計図によって一気になされたのではなく、業者ごとに部分部分を発注して、段階的になされたことをつきとめた。イオニア式柱頭もひとつひとつ異なっており、それぞれ違う彫刻家が彫ったものであることが証明された。つまり一貫したプロジェクトとしての建設がルネサンスではじまったという通念が否定された。またヴィラ・ジュリアーナでは中心軸がわずかに曲がっているし、ファサードもすこし曲がっている。図面では、これが一直線、そして直角になっているが、これは先入観からくる理想化である。実際は曲がっているのはなぜかというと、アプローチの方向にあわせたかららしい。

 ローマ大学工学部教授Guiseppina Enrica Cinqueは、ヴィラ・アドリアーナの最近の復元作業の紹介であった。ピラネージの時代からその復元図面は多いし、文学的復元もおおいが、信頼性はまったくない。コンピュータ、レーザー、X線などさまざまな専門家の方法を結集して、この10年で格段に精度の高い復元図が可能となり、新発見もあった。このヴィラはけっこうビオ・クリマティクであり、床下暖房、床下冷房、風向きを考えた水盤に配置など、最新のエコ建築でもあったらしい。おもに様式の展開を根拠に再現する建築史家にたいし、テクノロジーの粋を集めて復元する彼女のプレゼンは、圧倒的な拍手で歓迎された。

 それにたいしパリ=ベルヴィル建築大学のJacques Fredetは、市井の建築を、「解剖学図面」で分析するのだが、ローマ派の圧倒的存在のまえに、わざと卑屈な感じでしゃべるのであった。写真、ITなどとんでもない、時間をかけて観察し、理解を展開させながらフィールドノートをつけるのだ、という主張である。しかし木造の大梁や小梁がいかに配置されているかをしめした平面図、ハーフティンバーの壁(パリの場合、プラスターなどで隠されていることが多い)の構造を示したスキャン立面図など、なかなか楽しめた。ひとつの都市建築(1階は店舗、2階以上は住居という典型的なもの)が、ここは16世紀、ここは18世紀、ここは19世紀なのだよ、と紹介しながら、でも市井の通常の(すばらしい=エクストルディネール、に対して、普通の=オルディナール=オーディナリ)建築なのだから、ハドリアヌスの別荘にはひけめを感じているのである。

 もっとも、近代建築運動が革命であったとするギーディオンには絶対反対のようで、工事明細書のレベルで建築がほんとうに変わるのは、パリでは第二次世界大戦のあとだ、という主張である。まあそうでしょうね。よくもわるくもパリは伝統的であった。

 マドリッド工科大学教授Javier Giron Sieraによれば、W.H.Goodyearは、建築写真の専門家であったが、1870年にピサのサンタンブロジオ教会の柱の傾きに注目し、フランスの中世建築などが、柱も、壁も、垂直方向に傾いており、これは視覚補正によるものという説を公表した。これは建築写真というメディアが投げかけた大問題であった。これはフランスの学会ではまったく受け入れられなかったが、彼と親交のあった、建築史家A.ショワジだけはこの理論を認めた。そればかりかショワジは1903年の『建築史』のなかで、ギリシア神殿を視覚補正の観点から分析したばかりでなく、これまで歴史的建造物の実測図面は、過度に規則的なものとして描かれており、実際は、壁はまっすぐでないし、身廊もなだらかなカーブを描いているし、柱も垂直からはころんでいることを認識すべきことを説いたのであった。

 視覚補正というようなことはルネサンスから理論としてはあったが、写真というテクノロジーにより新しい現実性を帯びたばかりか、「ほとんどの建築はじつは歪んでいるのだ」というあられもない事実を見せつけた。写真はまさにその役割を果たしたのだ。

 教訓:西洋建築史の図面は、実際以上に、規則正しいものとして(つまり線はまっすぐ、角度は90°)描かれている。実際は、まっすぐでも、直角でもない。これを過度の「理想化」「規則化」と呼ぶことにしよう。

 古代史・考古学の専門家Anne Moignet-Gaultierもまたギリシア建築の実測図面における過度の規則化を指摘しており、「明快さ」と「正確さ」は違うとした。つまり過去の実測図面はほとんどが、明快さのために、現実の姿からむしろ離れていったのであった。

 バンブルク大学の専門家Frank Bekerもまた、タケオメーターなどレーザー装置による実測の有効性をいいながら、手による実測の重要性も忘れない。

 リエージュの大学教員Serge Paemeは、写真のパースペクティブ、オプチック補正をして、斜めからとった写真を正対してとったように補正する技術を披露したが、それにとどまらず色、テクスチュアまで再現することで、石積みのモルタル目地の細部、壁画のタッチや筆の幅までの情報が伝わるような、ハイフィデリティの実測を展開する。

 ミュンヘン大学のAlexander von Kienlin教授も、虚空写真、各種レーザー計測器での実測を披露した。

 ・・・・・パラディオの建築四書や、ピラネージが描く古代ローマ復元図などがかなり空想がはいっている。また18世紀にギリシアにわたったヨーロッパ人も、ローマ大賞を獲得してローマなどに留学した建築家の実測図面も、多様な現実からの特定情報の選択でしかなく、現実そのままではない。

 しかしヨーロッパの建築書はそういうものとして見なければならない。建築書は、記録でもないし、設計図でもない。現実の建築とは異なっている。しかし現実の建築とは違っているだけではく、それを超越し、ある理想を描くことがそもそも目的なのである。だから書物こそが建築なのだ。たちえばルドゥのそれは典型的なものだ。

 現実を理想化するという意識の作用は終わりがないであろう。客観性、事実性を編集するには強い観念性が必要であり、それこそが建築史を建築史たらしめているものである。

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2007.11.06

シャトーブリアン、パリ外国宣教会、長崎の教会という三者の意外な関係

 散歩しながらの偶然の発見であった。ボンマルシェなる百貨店の近隣のバック通りをふらふらあるいていると、シャトーブリアンが住んでいた住宅を発見した。この種の「発見」はその人間に依存した言い方である。パリ市の文化財看板で見つけただけのことで、まあ、これを発見というのは大仰なのだが。

 しかしこの建物が、以前このブログでとりあげた「パリ外国宣教会」が建てた建物だと知ると、このリンクはちょっとした発見ではないだろうか。しかもこの並びにいまでもこの宗教団体が活発に活動しているのである。

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 シャトーブリアン(1768-1848)はロマン主義の父とよばれ、作家にして政治家であった。とくに建築の文脈では1802年の『キリスト教精髄』が重要である。この書のなかで彼は、キリスト教こそが文学と芸術をはぐくむ基盤だとして、とくにゴシック芸術と中世芸術を高く評価し、廃墟のもつロマンティックな価値を認めた。彼は、反近代的あるいは反啓蒙主義的であって、実際、啓蒙主義者たちを嫌悪し、フランス革命にも反対であった。

 彼の『精髄』は、19世紀におけるフランス・カトリシズムの復興に貢献したとされる。

 しかし彼はたんなる反動ではない。革命によって、教会財産が国に没収された。教会関係の今日でいえば文化財は、それを支えていた社会的基盤から切り反されたのである。その価値を認めさせるには新たなロジックが必要である。

 彼は、文化や芸術を高めるのは、古代文明でもなく世俗文化でもないとした。つまり伝統的な、古典古代文化の意義を認めないことであり、宗教から切り離された科学を信じないことである。つまり中世の再評価である。

 つまり教会堂建築であれ、修道院建築であれ、その組織そのものが解散させられ、土地も建物も国がいちど没収した。そうした宗教芸術を、その宗教性ゆえに認めさせるというのは、自明であったことを、再度意図的に別の言葉で説明してゆくことである。ぼく自身はこのような再評価は、宗教芸術がその宗教性により評価されるべきことを、まったく世俗的な方法論でなしとげる、というまさに近代的な営為であると思う。

 いわゆる「保存」概念の成立について、フランスの文献と、日本のそれとではかなり書き方が違う。フランスでの一般的な説明は、まずフランス革命直後にロマン主義の萌芽があり、そこには中世芸術の再評価が含まれるのであり、それを文学的文化財保存などの表現する書き方もある。

 なにはともあれ、フランスにおけるごく一般的な書き方として、通説として、この『精髄』とヴィクトール・ユゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』が、ロマン主義の形成ということをとおして、記念碑、歴史的建造物、文化財ということの意味を打ち立てたのであった。

 すなわち教会芸術は、いちど教会組織から切り離されて、所有者がいなくなった。管理維持する主体がいなくなった。だから国民一般の財産と読み替えて、国民の精神を養ってきた芸術である、とする。だから国家がそれを記念碑、文化財と認定し、保存する。これが文化財の「保存」の根本的な意味である。それは所有者が変わったことを契機とする。だから「遺産」という表現が正統性をもつのである。

 フランスの文化財政策においていまだに国家の力が強いのは、国家がそうした文化財、文化遺産を宮廷、貴族、教会から没収したことによる責任の所在が、歴史的にはきわめてはっきりしているからだ。

 さらにはシャトーブリアンは、中世を再評価した点で、文化財と保存の思想的先駆者である。フランスの古建築保存は、まず、なにより中世建築のそれであるからである。

 文化財だの遺産だのを考える場合、どうしても法制度のなかにその根拠を求める傾向があって、よろしくない。法制度は、哲学と思想をいだく人びとによって確立されるのであって、そうした哲学に遡及しなければならないのである。

 ・・・それはともかくシャトーブリアンはバック通り120番地のこの建物(上の写真)で晩年をすごした。

 これは「パリ外国宣教会」が、18世紀に、土地経営として館を貴族階級に貸すために建てた邸宅である。建築家はクロード=ニコラ・ルパ=デュビュイソン、彫刻はデュパンとトロ。ルスティカ積みの対になったポーチが印象的な、新古典主義の建物である。ルドゥほどの厳格さはないが、端正である。革命で没収され、19世紀初頭に転売された。彼はここで『墓の彼方からの回想』にとりくんだ。

 カトリックに帰依し、宗教が芸術を高める力について力説したシャトーブリアンが、宣教会が建てた邸宅に住んでいたというのが、偶然ではあろうが、辻褄があう話である。もちろん彼がそこを借りたときには、没収され転売されたあとであろう。しかしこの「パリ外国宣教会」は、いちど没収された地所を第三者を経由して買い戻したのであり、現在もバック通り128番にあるし、この邸宅も買い戻されて、カトリックのご縁で、彼が店子になったのかもしれない。

 そしてこの「パリ外国宣教会」こそが、長崎の教会堂を建てた宣教師を送り出した本拠なのであった。

 ちなみにこの宣教会は現在でもかなりの地所を所有しているようで、道路に面してはその書店、土産物店、宣教活動事務所などがあり、中庭に面しては礼拝堂、図書館などがある、かなり大規模な組織であり、財政的にも順調であるように見受けられた。そのうちのぞいてみようかな。

 シャトーブリアンと長崎の教会堂の、不思議な因縁である。

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2007.07.11

Nasrine Seraji, "Logement, Matière de nos villes", Picard, 2007---- ヨーロッパのハウジングを読み解くための枠組み

  パリのアルスナル博物館で、ヨーロッパのハウジングに関する展覧会が開催されています。最新のプロジェクト(日本からはアトリエ・バウワウが参加している)が、1世紀にわたるさまざまなプロジェクトの最後を飾るように展示されています。この博物館には、常設展としてパリ市を構成してきたさまざまなプロジェクトが通史的に理解させるようになっていて、パリ固有の歴史軸と、ヨーロッパの普遍的住宅供給史というふたつの文脈がクロスするような展示となっています。対象とする目下のプロジェクトは展示全体のごく一部です。常設展と企画展の関係づけかた、企画展のなかの対象と文脈の関係づけかたのなかに、これを論じようとする企画者がいかに広いパースペクティブをもっているかがわかります。歴史家であるぼくにとってはたいへん評価できるやり方です。日本にいると、現在と過去、同時代と歴史がいつも画然と区別されていて、歴史家は特殊な存在とされがちです。しかし現在をも歴史の一断面として位置づけるこうした方法にはたいへん勇気づけられます。

英仏バイリンガルの図録"Logement, matiere de nos villes"は、20世紀と21世紀の代表的なハウジングの例を収録しています。ハワードの田園都市、ガウディのカサミラからはじまってタウトのブリッツ・ジードルング、ル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオンを経由して、21世紀のプロジェクトまで解説されています。

Img_4911_1_5     図録をめくって感じるのは「ヨーロッパ的な枠組み」がやはり実体なのだなあということです。19世紀に市民社会が成立して、最初は労働者にいい生活環境を提供することが社会の課題だった。19世紀末から国家が介入しはじめ、国の政策課題となりました。20世紀後半からこれが解体しはじめ、ソーシャル・ハウジングは民営化され、あるいはリージョンの課題となります。さらにはパリ郊外の問題など、社会的棲み分けの問題としても共有されています。これらはヨーロッパの各国がまさに共有する諸過程であり諸問題であるということです。

 これはEU統合の結果ではなく、こうした共有の構図のうえにEU統合があることを見誤ってはいけません。去年、フランスにおける田園都市研究の第一人者のひとりであるベルヴィル建築大学教授トルニキアンさんのお話しを聞く機会があったのですが、20世紀の田園都市建設の際にも、行政や建築家たちの横の連携は活発であったようです。実際、建築家は同時代の他国のプロジェクトはほぼすべて知ったうえで、自分の仕事をしているといった状況であったそうです。アーカイブなどを調べても、ベネボロの文献にも紹介されていない国際田園都市協会、国際ハウジング協会(会議)といった名前がかなり初期からありました。

 日本人がヨーロッパの研究をする場合、やはり技術的な問題から国ごとに住み分けることになります。なるほど政策、法律、建築スタイルは国ごとにバラバラです。しかしそのことによってヨーロッパという共通のパラダイムをはっきりとは対象にできないことになっています。いろいろ考えさせられる展覧会とその図録です。資料としても有用ですが、ヨーロッパ的なパースペクティブを見るべきでしょう。

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ポルツァンパルクはラ・ヴィレットの国立音楽院をめぐって国に賠償することに

  LeMonde.fr(現地時間2007年7月10日16時33分)によれば、行政裁判所は建築家ポルツァンパルクと関連コンサル会社などに、200万ユーロの賠償を国にするよう判決を下しました。これは1990年にオープンした国立音楽院(ラ・ヴィレットにある)が、ガラスの強度不足、浸水、練習室の床の風化など、かなりの欠陥があったとされることによります。賠償金額は損害の実費に相当するという見解で、双方が納得しているようです。築家は控訴しない考えで「12年にわたる大仰な訴訟」をはやく終えたいようです・・・。

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 日本でも、瑕疵による損害賠償請求は2006年で511件であったそうです。(cf. KEN-Platz)

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2007.07.04

ベルジェのガラスの大屋根(パリ、レアール)についてのメタファー合戦

 LeMonde.fr(030707, 17h15現地時間)は、7月2日に市長に提示されたパトリック・ベルジェらによるレアール新建物について、論じている。「ガラス職人頭が再繁殖させたメドゥーサ」、「波打つエイ」、「見知らぬ空間の大胸郭」などと形容されるいっぽうで、担当するベルジェらはそれを「林冠canopée」(土居注:森林の枝や葉が茂る最上層の広がりという意味だが、建築ではキャノピー、天蓋という意味にもなる)だとしている。

 ベルジェの発言を引用すると「自然は無駄な努力を受け入れない。この幾何学的に単純な建物としたかった。大地から育ったような形態、自足する建物、敷地のそのままの大きさの覆いとし、そこから庭園もサン=トゥスタシュ教会も労働センターも眺められるようにしたかった」ということである。

 マンジャンが提案した庭園がそのままガラス屋根のしたに滑り込むことで、まさに林冠となる。地下へのアクセスは改善されるであろう。

 ル・モンド紙は「レ・アールのためのガラスの傘、パリ Un parapluie de verre pour les Halles, à Paris」という見出しをつけている。つまり建築家の言葉はつかわないで、みずからは「傘」だとしている。

 不安要因としては、2012年オープンという工期の短さ、工事中、地下鉄の運行、利用者、地下街商店の被雇用者をディスターブしないことなどである。しかしとりわけ技術的課題が大きく、都市計画担当の市長の側近ジャン=ピエール・カフェ氏は「プロジェクトが機能するかどうか」を問題とするが、「乳白色、透明、メンテフリー」の素材、構造、交通軸といった実際的な問題が大きく、計画の「ポエジー」は無傷ですむかどうか懸念している。

 LeMonde紙が紹介したこうした懸念は、ペイによるルーヴル美術館のガラスのピラミッドに比べれば、まだ建築家への個人攻撃に至っていないだけましであろう。

 個人的興味からいえば技術的問題はエンジニアに解決してもらえばよいが、メタファーの政治的問題のほうが面白い。つまり、だれも気がついていてしかし誰も明言していないのが、ナポレオン3世が「大きな傘」という表現をつかったことだ。ル・モンド紙は見出しのなかで「ガラスの傘」と書いているが、建築家自身は「キャノペ=林冠」としていることの行間を悪意で読んでみることは興味深い。つまりル・モンド紙は第二帝政のなかで生まれたキーワードを使うことで、19世紀志向の建築家の方向性にそいながら、揶揄される政治家であるナポレオン3世の言葉を当てこすりとしてつかう。建築家は、自分が皇帝の夢を実現するというような位置づけを慎重に避けるために、環境思想に沿うような、庭園にあるさまざまな植生の上限においてひとつの高さをさだめ、そこをガラスのフラット屋根をおくのだ、といっているようだ。ぼくはそう解釈する。

 世界中の重要な都市がそうであるようにパリはさまざまなプロジェクトが追記され上書きされる重層的な場所である。新しいプロジェクトが、過去のどのプロジェクトと、言葉、イメージ、メタファーに関わる位置づけを得るのか、どれと連想されるのか。概念は自由に飛び交いうるものであるだけに、意中のものではない困った政治的あるいは歴史的な立場と連動しないよう、建築家も言葉の闘いをしなければならないようだ。

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2007.06.30

パリの新プロジェクト-----パトリック・ベルジェとジャック・アンズィティが「キャロ・デ・アール」の建築家に

昨日パトリック・ベルジェが設計したブルターニュ建築大学校舎の話をしたばかりであるが、本日WEBを眺めていると、LeMonde.fr, 290607, 19h32によれば・・・・・

070630_les_halles_lemonffr

「パリ市長が主宰するジュリイは、629日、パトリック・ベルジェとジャック・アンズィティを「キャロ・デ・アール」の担当建築家に選定した。この建物は1970年にクロード・ヴィスコンティが首都のただなかに建設した地下ショッピングセンターであるフォルム・デ・アールにとってかわるものである。・・・・この新プロジェクトを実現するにあたって当選者たちは建築家ダヴィド・マンジャンが定義した工事義務明細書を遵守しなければならない。マンジャンがこの「キャロ」アイディアの創案者である。キャロとは、地上9メートルに、一辺145メートルのガラス屋根を架けるというもの。着工は、庭園が2008年、フォルムは2009年の予定。新しい建物は2012年に竣工の予定。・・・・パトリック・ベルジェはパリですでに、アート高架橋、アンドレ=シトロエン公園の温室、ジャック・アンズィティはレンヌ都市共同体の行政本部を手がけている。」

http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3246,36-929898@51-929899,0.html

現状のレ・アールは、傘状デザインの地上建物も古くなった、駅へのアクセスもわかりにくい(エスカレーターはよく故障する)、高速地下鉄の乗り換えがわかりにくい、空間が断片化しバラバラ、周囲の都市と融合していない、など改修は必至である。現地をみればわかるが、地下街は死角がおおく、迷いやすく、犯罪も多い。

レ・アール再整備計画のコンペは、コールハースやヌーヴェルらも参加して、結局マンジャンが当選した。その計画は、ショッピングセンターにはガラスの大屋根を架け、既存の庭園部分はバルセロナ風並木道(rambla)に改めようというものであった。ほかの案とくらべると控えめであった。

 2007年1月にマンジャン案に決まったとき、パリ市長は社会党であったこともあり、もっとも建設費が安くてすむのと、既存商店経営者たちのロビー活動に逆らえなかったという評判であった。当選時にはガラスの大屋根については、マンジャン自身も今回は都市計画の主体を決めるコンペであったと優等生的コメントをし、庭園下の地下街を手がけたポール・シュメトフも建築やイメージを決めるのではなく、定義づけを協議したということ、という理解であった。市長はこのプロジェクトをZAC(協議都市計画区域)としてさまざまな意見をとりいれて検討する意向であった。

今回ベルジェらが建物担当となったことで、ガラスの大屋根建設に弾みがつくことが期待される。

 ところで中世におけるフィリップ・オーギュストのレ・アール再整備まで遡らなくとも、1848年のコンペでバルタール案が当選し、ナポレオン三世の「大きな傘、それだけあれば・・・」の一声で鉄とガラスの軽快な建物ができたことくらいは押さえておこう。市場は1970年代にランジスに移転するが、その間、ジスカール・デスタンは国際商業センター構想をあきらめて、フランス式大庭園とする決定をし、高速地下鉄RERの地下駅ができ、1978年、当時市長であったジャック・シラクはボフィールを呼ぶも果たせず。1980年代、ポール・シュメトフがサン=トゥスタシ教会横の庭園下に地下街を建設した。PC構法によるもので、ヴィオレ=ル=デュク以来の正統的な合理主義を貫いたと自画自賛していた。

 マンジャン(案)が保守的と指摘するのは容易である。しかしどの意味において保守的なのかという中身を指摘しないことには批判になっていない。また「歩行者優先でヘテロジーニアスであるのが都市空間」というマンジャンの理念もとくに矛先を向けるようなことではない。ド・ボドーがゴシックを、ペレが18世紀古典主義を、ル・コルビュジエが人文主義的伝統を、シュメトフがヴィオレ=ル=デュク的合理主義を、D.ペローが古典主義のスケールを回復したように、マンジャンもナポレオン三世の理念を違うかたちで実現し、そのことによって19世紀の首都であったパリのそのまさに19世紀性、それがパリにおいて実現されるべき都市性であることを主張しているのではないか。つまり19世紀パリは、都市のありかたにおけるひとつの古典なのだ、という理念が根底にあるというように解釈できる。

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2007.06.29

近代建築におけるスイミングプールの位置づけ

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まず写真はレンヌ市にある公営スイミングプールのひとつである。ちなみに英語でスイミングプール、フランス語ではピシーン(piscine)。マニュエル・レという名の地元建築家が1925年に建設したものである。浴場、サウナもあり、いまでも営業している。アールデコの時代を反映して、多彩色タイルにより、水の精、流れ出る水を直截にあらわしている。内部は白いタイルである。構造はもちろんRCであり、時代の最先端の構法によりできている。

 1920年代に確立されたと思われる近代的な水泳プールの概念と制度の背景として、いくつか遠因が考えられる。まず普仏戦争における敗北、1870年代における世俗の初等教育の確立、さらには19世紀後半に鉄道が開設されてブルターニュ、ノルマンディ、ギエンヌ、地中海沿岸などで臨海型リゾートが広まったことなどであろう。より直接的には、近代オリンピックの種目として水泳が採用されたことも忘れてはならない。また第一次世界大戦の戦死者は、兵器によるもののほか、病死が多かったことから、衛生思想の徹底が求められたこともある。

 私見ではこの衛生思想の発展が大きかったと思われるが、これだけを単独でとりだすことはできず、20世紀全体のライフスタイルの変更という流れのなかで見なければならない。たとえばソーシャル・ハウジングでも、各戸にシャワーなり浴室があるのがミニマム、という考え方ができたのがこの頃であった。だからプールもそこで泳ぐだけでなく、まずシャワーを浴びること、入浴すること、サウナにより北欧風の衛生観を知ること、など衛生思想の教育機関でもあって、この点で同時代の住宅概念と根底のレベルで共通している。全体として、それまで健康だの衛生だのには無頓着であったフランス国民に、それらの重要性を認識させ、生活のなかで実践させる大がかりな啓蒙プロジェクトであった。

 アンリ・ソヴァージュのパリ6区の集合住宅にもプールがあったではないか。いっぽうアドルフ・ロースによるジョゼフィーヌ・べーカー邸はこの衛生思想という建前をエロティシズムによって軽妙に裏切ろうとするプロジェクトであった。ちなみにパリ13区には彼女の名前が冠された公営プールが実在する!・・・だからレム・コールハースが『デリリアス・ニューヨーク』のなかで水泳に耽るメトロポリス住民を描き、自身も時差解消のために泳ぐのは、堂々たるモダニティの継承である。

 そういえば私自身も戦後における水泳熱の最後の洗礼をうけており、大学時代は武蔵大学のプールを借り、留学時代はポール・シュメトフ設計のパリ・レアール地下街の公営プールで泳いでいたし、最近ではふたたび健康と時差解消のためプールがよいをはじめた。

 前述のレンヌ市公営プールは、20076月の調査旅行のさいに利用した。プールの長さが33メートルほどなのが興味深く、当初は25あるいは50メートルという規格、あるいは競泳用プールという概念はオールマイティではなかったのであろうし、確認していないが100尺ということなのかもしれない。ここは計5回ほど利用した。パリ市内では、前述のレアール地下プール。あるいはイタリア広場の南あたりにある、やはり20世紀初頭のRCアーチ+レンガ化粧の遺産もののプール。15区ブロメ通りにある50メートルプール。公営プールはきわめてきめ細かく配置されている。しかし公共サービスの充実、などと喜んでもいられない。20年前留学生であったころ、貸部屋にはシャワーがなかったのでフィットネスとプールに通わざるをえなかったように、パリ市内には衛生設備が欠如した住宅はかなりの割合にのぼる。そうした住民がプールを利用することは、今では相対的に少なくなったはずだが、かつては多かったはずである。最近は、衛生というよりレジャーという由緒正しき使用法に重点が移っている。「アクア・ブールバール」はプールを中心にすえた都心型総合レジャーセンターである。個人的に気に入っているのは、旧市場を改装した地下プールである。スノッブな町中なので、(すくなくとも朝は)おとなしい中高年しかこない。ただし中年の水着姿を見せてもしかたないので、場所は教えられない。最後に、パリ市内の公営プールは朝7時からの営業であり、仕事前にも楽に泳げる。こうしたきめ細やかな公共サービスはこちらならではである(パリにて書いている)。

 

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2007.06.28

metroを読んで

パリのメトロで配布されているmetro紙(07年6月28日)を読んだ。Vélo'vなる、共同使用の自転車である。リヨンではすでに2年前からはじまっている。大リヨン(リヨンを中心とするコミューンのコミュニティ、自治体連合)が主体となっている。国は道交法を改定するなど対応すべき、対応しているが、積極的に自転車促進ということでもない。あくまで自治体が主体。リヨンでは7万人が登録ずみである。盗難、修理はそれに比例して増える。2006年は盗難が400台、修理が350台。利用形態は、男性が朝通勤に使うのが大部分で、まだまだ「メンタリティが変わらねばならない」。自動車信仰はまだ根強い。オランダ、ドイツ、北イタリアなど自転車先進地域ほどは進んでいなく、しかしイギリスほと自動車一辺倒ではなく、フランスの諸都市はそこそこ、という自己評価である。そういえば6月中、レンヌでもパリでも駐輪施設が整備中であった。パリでは2007年7月15日からパリでも利用可能になる。とりあえず1万台準備する。特別仕様である。重量22キロ。頑丈。ワイヤなし。照明完備。カゴ付き。3段変速。・・・など。パリでは10年以上前から自転車の日というのかしらないが、道路を自転車に完全解放する日があったが、今日では自転車専用レーンも増えて、より便利になるのだろう。しかし自転車のデザインがタウンスケープの重要なエレメントとなるはずだが、色、形ともいいデザインとは思えない。

metro紙のもう一件。大学改革。フィヨン内閣はバレリー・ペクレス高等教育研究担当大臣のもと、大学改革案を提出したが、それをすこしゆるめる方向。学士から修士に進学するときに、学生を選抜するという方針が撤回された。大学の財政的独立性というものがより選択的となった。運営会議のメンバーは60人から20人に減らすつもりだったのが、30人となった。教員組合もこれは許す見込み。もっともこの改革で、エリート校と特定職業に結びついたプロ養成校との分化がよりはっきりするという論調もあった。フランスでは教育改革は年中行事なのであるのでとくに驚かないのだが・・・・

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