カテゴリー「Nantes」の3件の記事

2008.10.24

ナントの都市プロジェクトについての批評

ナントは都市再生を果たしたということで、日本でもよく知られている。このテーマだとかならず引用される町である。

ウェブ版ル・モンドの記事(2008年10月23日)で、紹介されていた。

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ナントの中州は、ランドスケープ・アーキテクトであるアレクサンドル・シュメトフと整備会社社長ロラン・テリのもと、その姿をあらわして18カ月。プロジェクトはかなり建ってきた。

社会党市長ジャン=マルク・エロの政策は手堅かった。1989年より市長である。ナントは最も住みやすい都市と評価された。プロジェクト用地である中州は、337ヘクタール、30年前までは造船工場が占めていた。今日、エムシャー・パーク、ドイツのルール、バルセロナ、ビルバオとともに、ヨーロッパの最も有名な都市プロジェクトのひとつ。都市、遺産、建築についてのプロジェクトである。造船の名残はほどほどに残し、文化、祝祭、余暇のための空間としている。

裁判所は2000年にジャン・ヌーヴェルが建てたもの。シュメトフが緑を整備。しかしもともと工場地帯であった中州はほとんど更地。そこに多くの建築家が呼ばれた。工場施設をリノベーションしたり、新築の集合住宅をつくったり。Roulleau, Lipsky et Rollet, Doazan et Hirschberger. Portzamparc, Michelin, Dusapin et Leclercq, Pondevie, Devillers, Peneau ou le groupe Tetrarcなどが呼ばれた。

Anne LacatonとJean-Philippe Vassalによる建築学校校舎は、真っ白で、裁判所が真っ黒なのと対比をなす。機械博物館は造船の記憶を保存。

・・・・というように記事では、あまり評価らしい評価をしていない。

ただ再生された工場建築の様子をジョセフィーヌ・ベーカーにたとえたり、バナナ倉庫をフォリーにしたりするのを、アフリカとアンティユ諸島の記憶がよみがえる、などと知ったかぶりでかいている。

つまりナントはかつて大西洋貿易、とくに奴隷貿易で繁栄した都市なのである。

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2008.02.18

フランスの裁判所(3)エクサン=プロヴァンス/上座裁判所ほか

 1999-2000年に短期フランス滞在をしました。すでにご紹介したナント、ヴァンス、そしてここエクサン=プロヴァンスで裁判所が新築されていたことが印象的であった。のちに知ったが、ボルドーでもロジャースのものが建設されていた。司法制度の全般的改革の結果であることは想像はつくが、くわしいことを調べようと思っているうちに雑用に追い回される境遇となった。

 このエクサン=プロヴァンス裁判所がある場所は、もともとプロヴァンスの総監邸、高等法院などの建物があった。これらは18世紀末に取り壊された。

 ルドゥが新しい建築を設計し、基礎まで建設されたが、革命によって頓挫した。このプロジェクトは彼の『建築』に収録されている。ふたつの正方形をずらして組み合わせ、都市的な文脈にあわせたもの。裁判所は巨大なポーティコからなる。監獄は、鈍重なトスカナ式オーダーのポーティコ、開口の少ない壁面、からなる。投獄される罪人が脱出の可能性のなさに落胆する、建物の機能をはっきり表明した「語る建築」の例とされている。この裁判所/監獄の組み合わせは珍しくなく、レンヌでもそうであった。

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 建築家パンショPenchaudは、1825年から1832年、ルドゥのプランに従って建設された基礎のうえに、法廷と監獄を建設した。光が降り注ぐ中央ホールが印象的であったという。裁判所のほうは、ルドゥの新古典主義からはほど遠く、平板な古代ローマ様式かあるいはルネサンス様式であろうか。強引なこじつけをすると、南フランスは成文法地帯ということになっており、土地柄もありローマ法の伝統が強い。だから建築もまたローマ風にしなければならない道理はありませんが。監獄はイタリアのパラッツォ建築のプロポーションを変化させたもののように見える。

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 監獄はやがて1998年に改築され、破棄院(Palais Monclarと名づけられた)となった。もともと監獄であったので、外部にたいしては閉鎖的であった。したがって採光は中庭からであり、中庭に面するルーバーが印象的である。これなどは今風にいえば建築遺産の再利用などということになるかもしれませんが、そうではありません。中世以来ずっと司法関係の施設であることを考えると、これは文化財でも遺産でもなんでもなく、裁判所が姿形を変化させながら、ちからづよく生き続けているのである。

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 ところで話題かわって上座裁判所(Présidial)について説明してみよう。フランス版ウィキペディアによれば・・・。

 まず1551年、アンリ2世が王令により上座裁判所(Présidial、プレジディアル)を設立した。フランスの三審制がここに始まったといえるのではないか。下級審としてバイイヤージュ、セネショセがあり、控訴審としてこの上座裁判所が、さらに最上位に高等法院(パルルマン)がある。

 1551年の王令により、60の上座裁判所が設立されたが、そのうちの32はパリ高等法院から分かれたものであった。ルイ14世時代に国王側からの改革としてこの上座裁判所制度を廃止しようという動きがあったことがわかっている。1764年には全国に100の上座裁判所があった。民事、刑事どとらも扱った。

 1790年、旧制度のひとつであったので、廃止された。

 ・・・というわけでほとんどわからない。どんな社会階層の利害を代表していたかもわからない。滝沢正先生のご著書にもまったく解説なし。中規模問題をあつかう高等法院というようなものなのであろうか。もちろん王権と戦う主体などではなっかたのであろう。

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2008.02.16

フランスの裁判所

 たぶん2000年であったと思うがナントの裁判所を見学した。ジャン・ヌーヴェルの作としては、それほど評価されていないようだが、なかなかのものであった。まだ開館しておらず、また開館していても観光客など入れないのだが、そういうわけで外だけみた。もともと製鉄関係の施設があったという場所らしく、スチールをふんだんに使った、黒ずくめの、新古典主義である。しかし正面の庇は、柱も細く軽やかで、広々といている。これは見るための建築ではなく、つまりルドゥ的な「語る建築」ではなく、そこから都市を見るためのフレームとして機能する枠組みとなっている。

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 さて以下はフランスにおける裁判所の歴史である。建築の背景にすぎないので、ご興味なければ無視してください。

 高等法院(Parlement)とは、旧制度時代は最高裁判所である。政治的・行政的役割をはたしていた。最高裁判所として、前判決を不服とする控訴を受けいれる控訴院であり、最高裁判所として前判決を破棄する破棄院であった。それらは第三身分の民事と刑事にかかわるものであった。そのほかに貴族同士の起訴を調停する役割もあった。

 そもそも中世初期、王はクリア・レギス(Curia Regis)を主宰し、王国のあらゆることを取り扱った。王権の展開とともに3機能に分割され、コンセイユ・デュ・ロワ(Conseil du Roi:政治)と、会計院(Chambre des comptes:経済)と、高等法院(Parlement、パルルマン:司法)となった。13世紀に発足したパリ高等法院は、15世紀まで王国の全領土に権威を及ぼした。

 1250年頃。パリ高等法院成立。

 1319年、聖職者は高等法院のメンバーにはなれないこととなった。

 1345年、オルドナンス(王令)によって組織形態が最終的に決められた。

 1422年より地方にも設立、18世紀までに13の高等法院が各地域に設立された。1462年、ボルドー高等法院。1477年、ディジョン高等法院。1553年、ブルターニュ高等法院(レンヌ、ナント)。これらの設立にはそれぞれ経緯があって、地域の事情を反映している。各論にはおってふれる。

 教会との関係。前述のように1319年法は聖職者を追い出した。こうして高等法院は、王国がフランス教会を教皇から守るための機関となった。宗教改革と反宗教改革のあいだ、高等法院はトリエント公会議の教義がフランスにもたらされることに抵抗した。

 王との関係。高等法院は王命を登録し、あるいはそれにたいして建言する権限があった。ゆえに高等法院は、君主制をコントロールできる権利をもつようになる。フロンドの乱はその象徴的な事件であった。パリ高等法院は王国における財政管理権を要求する。世襲制であったので、また英国議会を模範として、2院制とし、ひとつは選挙制にすることを要求した。

 1673年、ルイ14世は王令が登録される前に高等法院がそれにコメントすることを禁じた。高等法院は抑圧化にあった。1715年に王が没すると、高等法院は摂政フィリップ・ドルレアンと交渉した。建言をする権利をふたたび持つため、ルイ14世の遺言を破棄することを要求した。

1750年より高等法院は、課税のまえの平等といった、王権による改革を阻止する。ルイ15世は高等法院の数を減した。1771年、高等法院は政治的機能を取り上げられた。しかし1774年、ルイ16世は高等法院を招集してしまったので、その高等法院の反対にであうようになった。1780年代の高等法院の活動は革命への序曲となった。しかし革命のよってその活動は停止した。1790年より国選の裁判官制度となる。

 

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