カテゴリー「classical architecture」の5件の記事

2008.10.23

パラディオ生誕500年を記念するシンポジウム

ウェブ版Architectural Record誌の記事(2008年10月21日)から。

パラディオは1508年生まれだから、今年が生誕500年。それを記念して、古典主義建築・古典的アメリカ協会(the Institute for Classical Architecture and Classical America (ICA&CA) )がこの金曜日と土曜日にNYでシンポジウムを開催する(といってもぼくは行けません、どなたか行ってレポートしてくださるとうれしい)。「イントラ・モエニア(市壁の内で):パラディオと都市」である。協会の代表ポール・ギュンターは、これは歴史的価値のみならず、「将来の建築のために適用可能なパースペクティブを」検討するものであるという。

記事ではパラディオの紹介など詳しくしていたが、ぼくのブログを読んでくださるみなさんはすでにご承知だから、省略。

シンポジウムで討論されること。パラディオの市民建築、その「公共、都市へのインパクト」である。ヴィラについてはさんざん論じられたので、協会としては、市民社会を彼がいかに構想したかという「新しい角度、新しい視点」を抽出したいとのこと。つまり彼が市民生活をどう考えたか。というわけでシンポでは3点を論じる。

1:パラディオと市民世界

2:パラディオのアメリカ、ヨーロッパ、世界への影響

3:近代のパラディオ主義者たち

なお上記協会のパラディオ生誕500周年記念サイトはここ

Para

・・・・なるほど。アメリカ合衆国が建国されるとき、さまざまな建築的表象がつかわれた。民主主義を意味する古代ギリシア建築様式。共和主義と繁栄を意味する古代ローマ建築。そしてピューリタン的心情にはフィットするのも理解できるパラディオの様式。そのまえにイギリスのパラディアン・リバイバルはホイッグ党的リベラリズムにふさわしいという理解があったわけであるが。

ジェファーソンのモンチチェロはいうまでもない。ジョンソンのグラスハウスも、ある意味で抽象的なパラディアンだ。そしてコーリン・ロウにとっては、パラディオは、普遍的ヴィラの数学的・幾何学的なモデルであった。

今回は、パラディオの建築と、市民社会の理念、その両者の関係をみようというものだ。こういう問題はそもそもアメリカ人の自己意識の反映であるのはあたりまえ。すると彼ら自身の市民社会を再検討するという方向性が下敷きにあるのであろう。

8月に福田先生と立ち話をしたとき、アメリカ人のパラディオ解釈はもちろん偏向しているというようなことを教えていただいた。ヴィラ・バルバロについても、建築家パラディオと画家ヴェロネーゼはそんなに共同していたわけではないそうだ。つまりアメリカ人は、ヴェロネーゼ的マニエリスムを切り離し、もっと純粋なパラディオ像を求める傾向があるらしい。

それはもちろんなことであろう。推測するのは、これはアメリカ建築自身の原点回帰、初心再検討のようなものなのであろう。ということは現在において、アメリカ建築はじつは方向性を見失っており、そのことが自覚されている、というような深読みができるのではないか。

さらに深読みすれば、彼ら自身が築いてきた市民社会そのものの再点検ということか?その上での21世紀への視野ということか?

そんな方向性があるとしたら、たいへん偉大なことです。

さて日本の文化財行政との違いもはっきりしている。いつも指摘しているが、日本では、歴史=過去なのである。だからここでは歴史と現代は別物。しかし西洋では歴史=永遠、であるから、そこから現代的、将来的な価値を導くという発想が自然にできる。アメリカはこうやって16世紀ベネトの文化遺産を再生産し、自分たちの文化インフラとし、さらにそれをグローバルスタンダードなどにしてしまうのであろうか?

ところでぼくのブログのバナーでは、彫像の後ろ姿が映っています。これはパラディオのヴィラ・カプラローラ(ロトンダ)の庭園の一部なのですよ。知ってた?

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2007.11.19

スフローさんのこと

 木曜日(11月16日)に行きそこねたパンテオンに、金曜日にいった。この建物はフランスにおける新古典主義の傑作とされる。

 しかしなにより、設計者スフローがここに祀られているのである。

 今さら書くことではないが、ルイ15世快癒感謝のたために旧サント=ジュヌヴィエーヴ教会をスフローが再建したものである。フランス革命のときに教会堂であることが禁止され、フランス革命の英雄を祀る神殿となり、それから歴史上の偉人を祀る神殿となって、今日に至っている。その間、政体によってキリスト教会に戻されたり、非宗教の神殿にされたり、政教条約と政教分離のあいだの揺れをそのまま体現している。

 壁画はその揺れをもっとも能弁に語っている。シャバンヌなどの第三共和制のものが大きな壁を占めている。そのサンボリズム的雰囲気が、新古典主義的な空間のなかで、むしろ違和感がないのが、ああそうか、と思わせた。非宗教の宗教なのである。

 というわけでパンテオンはフランス偉人の霊廟である。地下のカタコンブに埋葬されている。ルソーのフリー=メイソン的墓標から、ユゴー、アンドレ・マルロなどをとくに拝見した。歴史的記念物のことを最近書いたからでもある。

  王たちはサン=ドニに祀られている。無名兵士は凱旋門。偉人はこのパンテオン。そのほかペール=ラシェーズ、モンマルトルの墓地には著名人が祀られる。墓地の歴史を調べたことがあるが、中世からは王や貴族のみが墓碑をもち、一時期は日本の両墓制に近いやり方もされた。しかしそれ以外は、死ねば無名の生命に戻るのである。それが一般人の死というものである。死者になっても名前が存続するのは、近代家族イデオロギーの成立からである。家族が成立するためには、家系が連続しなければならず、そのためには死んで無名に戻られたら困るのである。

 だから革命時に革命家や偉人がパンテオンに祀られるというのは、王制の真似のようなところもある。革命は宗教を否定したというが、実際は、宗教というよりキリスト教を否定したのであり、実際、べつのかたちの宗教性を求めている。それが偉人崇拝であり、またフリー=メイソン云々が言及されるゆえんである。

 ところでフランス建築史のなかでどの建築家がいちばん偉くて幸せだったか。緒論あるであろう。理論を構築し、長期の影響力を行使しているということではヴイオレ=ル=デュクとル・コルビュジエであろう。しかしひょっとしたら1000年はもつかもしれない記念碑を建設したという点では、ペロー、ガルニエ、その他、そしてこのスフローであろう。

 建築関係者のなかでもスフローがまさにこの地下墓地に埋葬されていることを知っているお方は少ないのではないか。建築家でありながあら、フランス偉人の霊廟に祀られる!それはもはや世俗的成功とはいえない、たいへんなことである。

 それほどスフローが評価されたということなのか、パンテオンを設計した建築家だからというのか、じつは調べていない。王の快癒を神に感謝する教会堂の設計者だから、政治的立場を考えれば、じつは奇妙なことでもある。

 だから建築家にとっては、ル・コルビュジエ財団のようなものは例外として、シャイオ宮に模型や資料が残るのがもっとも名誉あることである。しかしそれさえ及ばないのが、パンテオンに祀られたスフローである。

 つまり建築家にとっての究極的な選択。情報(アーカイブなど)を残すか?、実体(正真正銘のモニュメント)を残すか?・・・そして近代建築の不幸。ル・コルビュジエでさえ、実体が情報に服従しているように見えてしまう。

 ・・・などと考えをめぐらしながら、複雑な思いで、ぼくはスフローさんの墓標のまえで立ちすくんでいたのであった。

 さて金曜の夜と土曜の朝は帰国の準備であった。日課のプール・リハビリはもちろん欠かさないが、冷蔵庫内の残飯処理、最後の炊事、シーツの洗濯、掃除、ゴミ捨て、大家と挨拶、すべてやるので感傷どころではない。

 パリに行くよりも、脱出がよっぽどむつかしい。前回は、タクシーがみつからず、絶望的な気持ちになった。すると宿の下にあるレストランの女将が気をつかってくれて、従業員の車で送ってくれた。あとでわかったことだが、タクシー運転手のストライキであったらしい。そんなにあることではない。

 今回も、予約したシャトル・タクシーは15分すぎても来なかったので、ぼくはさもありなんとして平然とタクシー乗り場にゆき、すぐ見つけることができた。運転手はアラブ系のお兄さん。衛星テレビの映りはすばらしく、最初はDVDと思ってしまった。普通はこうじゃないよ、カスタマイズしたんだぞ、と自慢げであった。

 世間話ははずんだ。「日本で建築教えてるのか。教師と建築家とは違うのか。建築家ってえ、現場で偉そうにちょっと指示して、それでがっぽり金稼ぎやがって、なんでえあれ(べつに江戸っ子ではなかったが建設現場でガテンしていたのかな)」「いやアシスタントは給料安くて生活たいへんなんだよ」「そうかい」「建築家にもクラスがあるんだよ」「クラスというかカテゴリーだな」「そうカテゴリー」。スフローさんは現場ではどうだったのだろうか。・・・そのほか仕事、身の上、パリジャンの週末(金曜日に出発、別荘などで2泊し、日曜の夜に戻ってくる)、ぼくのブルターニュ自動車旅行、日仏スイスの高速道路の比較、空港のセキュリティ(いたずらを含めテロもどきはけっこう多いらしく、不審物を小爆破させることがあるらしい)などで、空港まで退屈しなかった。

 ・・・というわけで帰国できた。いまから出勤である。

 

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2007.11.16

パリでパラディオに出会う

 ストは終わらない(現地11月15日)。土曜日の空港への移動さえ心配だ。公共交通がまだ動かない万が一の場合を考えて、タクシーを予約する。ネット+カードで簡単にできる。便利になったものである。

 今日も今日とて、水泳、買い物、書籍の日本への郵送、炊事、洗濯、掃除をすませ、収集した資料に目などをとおす。仕事もしているのである。しかしどうも集中できない。パンテオンの空間によって精神を浄化してもらおうと、散歩にでかける。オデオン座のとなりにある書店から数冊日本に送ってもらう。

 ところがパンテオンは、ストのあおりをうけて早めに閉館だという。ぼくは間に合わなかった。さらに気がついたことに、拝観料をとるようになっていた。1200円ていどである。まあそのくらいの価値がある建築だが、映画一本とくらべると割高感は否めない。もっともあれだけの建築だから、メンテを考えればよいことかもしれない。拝観料の使い道など情報は透明なのだろうか?

 パンテオンの正面に、5区の区役所がある。そこでパラディオの展覧会をやっているらしく、次善策と考えて拝見する。とはいっても、弟子スカモッツィが編纂したパラディオの作品集を展示しただけだ。ようするに本をばらして各頁を並べただけ。もっとも区役所レベルのことと考えると上出来であろう。

 やはりスカモッツィの責任であろうが、図面になにかが欠けている。寸法に気をつかったそこそこ正確な再現というのみであって、まるでパラディオの「念」が伝わってこない。それよりずっと前のセルリオやドロルムの建築書は、図面の精度はまったくいい加減だが、その不正確な図版をとおして理念が伝わってきたものであるが。

 それはそれとして、あらためてパラディオがヴィラを神殿として建設したということなのである。このことの重要性はすでにアッカーマンが指摘している。パラディオはあえてそうしたのである。ウィトルウィウスのデコルム理論によれば、いや近代の建築タイポロジー理論にてらしても、神殿の様式を住宅につかうことはおかしい。

 パラディオは住宅でありながら、古代の建築オーダーをつかったポーティコをつくり、神殿のように設計する。古代神殿の形態をまねて住宅を建てるのではなく、そもそも古代において、神殿こそが住宅をまねたのだ、と主張する。つまり彼は、論理を転倒させるのである。

 しかし実際は、神殿のように住宅を建設していることにはかわりない。神殿もどきである証拠に、内部はヴェロネーゼによるフレスコ画が描かれ、そこに描かれたバッカス(ワインの神様はブドウ栽培の守護神となる)、ヘルメスらは住まう家族の肖像画と混交している。住人は神話的世界と一体化し、そのことで自然を支配する。自然を人間化するのではない。人間が神格化され、そのことによって自然と一体化するのである。第二の転倒である。

 ヴィツェンツァ郊外のロトンダであれ、マゼールのバルバロ荘であれ、農業経営の拠点であり、ランドスケープ的にも自然と一体化している。しかしこの一体化はきわめて抽象的な次元のものだ。前者は丘のピークにあって東西南北を指示し、後者は丘の中腹にあって、丘の中腹の水源をシンボライズし、平地と丘のエッジを指示している。

 いすれにせよパラディオは、通常の住宅設計の外部で、構想していた。

 現代の日本における住宅設計を考えてみよう。私見によれば、近代において先輩たちが蓄積した遺産を食っている状況ではないかと思う。才能ある建築家は多い。瀟洒であり、趣味がよく、写真写りもよい。しかしこれらは住宅を模倣する住宅である。そこには外部がない。外部がないから意味の転倒も起こりようがない。外部がない、ということは閉塞状況ということだ。しかし幸か不幸か、日本がこれから膨大な個人貯蓄をゆっくり食いつぶしつつ、なんとかやっていけるように、この閉塞は長引き、しかもけっこう温室で居心地がいいのである。

 ・・・それにしてもスカモッツィは凡庸であるぞよ。彼は結局、パラディオの内部にとどまっていたのだろう。こんな迫力のない図面をかいてしまって。師匠の偉大さが周知となったのはバーリントン卿のおかげでしょ。といいながらパラディオが偉大なのは、イギリス人、アメリカ人、フランス人、日本人にとってであって、肝心のイタリア人にとってはどうかわからないが。いまやパラディオは外貨獲得装置である。

 というわけでスト下、やけに自転車の多い市内をフラヌールする。駐輪公害までもうちょっとですな。エチエンヌ・ダオの最新CDなどを買う。夕刻のブルバール・サン・ジェルマンはなぜか年末の日本のような雰囲気。ストなどある問題が共有されると、この街はなぜかいつもとは違う雰囲気につつまれる。仕事話が終わらないサラリーマン。杖つく老人。重装備のポリス。無邪気な小学生。はしゃぐ外国人。物乞い。それぞれの人生、それぞれの仕事、それぞれの休息、それぞれの幸せ、それぞれの悲しみ・・・。帰宅。午前中に仕込んだポトフが・・・おいしい!

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2007.11.05

建築家サロモン・ド・ブロス(Salomon de Brosse, ca.1571-1626)がレンヌにきたことについて

 建築家サロモン・ド・ブロス(Salomon de Brosse, ca.1571-1626)はレンヌには2週間しかいなかった。

 1618年8月8日から22日である。この短期間に、都市レンヌのデザインは決定された。

 高等法院の部長評定官ジャン・ド・ブールヌフJean de Bourgneufは、国王ルイ13世に請願して王の建築家を派遣してもらった。1611年には高等法院は建物建設を決めていたが、レンヌ市の建築監督官であるジェルマン・ゴティエGermain Gaultierの案は、とくに優れたものではなく、不満であった。それで高等法院はパリから建築家を呼ぼうと考えたらしい。1618年7月26日、ド・ブロスはレンヌ行きを命じられる。

 ド・ブロスはエリート建築家であった。叔父は、建築書を出版して影響力の大きかった建築家ジャック・アンドルエ・デュ・セルソ。ド・ブロスはまたアンリ4世、マリ・ド・メディシスから建築家として登用された。後者のためにはルクサンブール宮(1615-20、現上院)を建設した。さらにクロミエ城、ブレアンクール城、1616年以降はパリ市庁舎裏のサン=ジェルヴェ教会ファサード(建築オーダーが3層積層したルネサンス様式のもの)、パリ裁判所の火災後の修復、などを当時手がけていた。パリで多忙であったので、ド・ブロスはレンヌには生きたくなかったが、逆にパリの仕事のためにはジェルマン・ゴティエを呼んだりしている。

 ド・ブロスはともかくも1618年8月8日にレンヌ到着。14日にエスキス提出。16日には最終プロジェクト案を提出。猛スピードのゴティエ原案修正である。しかし彼が修正したのは、中庭、ギャラリー、ファサードであった。一言でいえば、当時のイタリア風にした。とくに地上階は、開口部は少なく、ルスティカ仕上げで、フィレンツェのパラッツォ・ピッティ、自身のルクサンブール宮をモデルとしていた。2階はドリス式オーダーで飾られている。地上階は地元の花崗岩、2階は白い石灰質の仕上げ、それはブルターニュとパリの対比でもあり、地方が首都に支配されていることの赤裸々な表現でもあった。

 さらに2階テラス、そしてアプローチとしての正面外部階段が印象的である。高等法院評定官たちは、ここから都市を見下ろし睥睨するのである。

 さらにローマ風手摺子と、巨大なスレート屋根は、ルネサンス的普遍性とブルターニュ的固有性の両立であった。

De_brosse

この絵は1690年、レンヌに高等法院が戻ってきたことを描いたもの。前回の投稿で指摘したように、1675年、印紙税にブルターニュ高等法院は反対した。王は、国家の収入にかかわる(ということはヴェルサイユ宮殿の建設に関わる?)この件について激怒し、ブルターニュ高等法院の開催地をヴァンヴに移した。そして王の許しが得られるのに15年かかった。

 画面左はルイ14世とその家臣たち。右は正義、美徳、公平、ブルターニュを象徴するエンブレムたち。国家はすべて男性で、地方(地域圏)はすべて女性で象徴されている。露骨なジェンダー的表現である。

 背景の高等法院建物には、中央に外部階段が見られる。18世紀、これをガブリエルは撤去した。

 さて17世紀にもどって、高等法院メンバーが、パリから王の建築家を呼ぶということはなにを意味したであろうか。国王/高等法院の関係はなかなか難しかったのであり、たんなる服従のポーズではないであろう。ひとつはブルターニュのひとびと、レンヌの市民たちにたいする優越の意識であり、他方では国王の文化レベルに近づこうとする上昇の意識であろう。地方支配階級の自意識といえる。それがこの地方に、パリを経由してフィレンツェのルネサンス文化を導入しようとした、モチベーションとなったのであった。

cf. Szambien, 200, p.78; Veillard, 2004, pp.85-88, etc

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2007.07.11

Magali Vène, "Bibliographia serliana", Picard, 2007----セルリオは建築書の出版をとおしてなにを探求したのか?

 マガリ・ヴェーヌ『セルリオ建築書の書誌学』(Magali Vène, Bibliographia serliana, Picard, 2007)です。著者は古文書学者であり、フランス国立図書館の管理員であり、とくに16世紀の文献が専門です。

 ルネサ070712_serlioンス最初の建築書であるセルリオのそれを対象に、そのそれぞれの巻のそれぞれの版の出版の経緯や、没後の出版、その影響について詳細に書いています。それだけでもセルリオの人生が描けてしまうかと勘違いしてしまいそうです。それが解説文となって前半を構成しています。本書の後半ではカタログとなり、それぞれの版の表紙とデータが示されています。

 セルリオは1537年にヴェネツィアで、計画された全7書(ウィトルウィウスにようになぜ10ではなく「7」かということについても詳述されています)第四書にあたる『建築の一般法則』を出版していらい、ヨーロッパ都市を転々とし、メセナをさがしつづけます。ローマではサン=ピエトロ聖堂担当であったペルッツィの弟子として建築を学び、そののちヴェネツィア、生地ボローニャ、フェラーラ、フォンテーヌブロー、リヨンなどです。しかしメセナに恵まれたかどうか、判断に苦しむところで、ヴェネツィア総督、イポリット・デステ、マルガリト・ド・ナヴァル、イギリスのヘンリー3世、カール5世、ボーランド国王などなど。またヴェネツィア、パリ、リヨンの印刷業者のだれそれとそりがあわなかったなど、本好きにとっては豊かな話題が提供されています。

 さて通説では、セルリオははやばやと建築書出版を天命と感じて、それに一生をささげたとされています。しかしほんとうにそうか、と本書を読みながら感じました。それはグラン=フェラールなどの例外を除き、彼は実際のコミッションには恵まれなかったが、建築書をとおして後世に影響を与えたので、そういうバイアスからそう評価されたのではないか、と考えたくなりました。

 ぼくの仮説は、まずペルッツィのもとで学んだ建築を展開するために、仕事を得ようとおもったが、まず自分の学識と設計能力を示してパトロンを獲得するために建築書の刊行を考えた。彼の建築書が、建築オーダー、建築平面、門、ルスティカなどのタイポロジーを確立した最初の書だとされていますが、それは自身の方法論的な能力を示すために、そうしたのではないでしょうか。富豪にも庶民にもあう住宅を設計できる、どんな仕事でも受注できる、といった能力です。また5オーダーのゲネスを区別するということは、都市門でも宮殿でも公共施設でも設計できるということかもしれません。

 しかし当初はどちらかというと手段であった建築書が、しだいに目的化してゆく。というのは各都市で彼はライバル建築家に負け続けています。ヴェネツィアではサンソヴィーノに、フランスでは実際の建築を担当するのはピエール・レスコーやドロルムになってしまう。イタリアではライバルが多すぎるのであえてフランスを選んだのに、です。

 こうした経由で、手段であった建築書出版が目的そのものとなってしまう。そういうことにしてしまわないと自分が崩壊してしまう、といった事情があったと想像したくなります。だから、これは建築書一般にいえることですが、書物は建築の代用ではなく、補完物でもなく建築の観念そのもの、建築そのものかもしれない。さらにいえば、日本人の研究者は前提がちがうとぼくは思っているのですが、建築書に展開された理論にもとづいて建物が建てられるのではなく、不純でノイズに満ちた建物をいくつもたててその試行錯誤の結果、純粋な理論と書物ができるのです。ですから理論と実践が食い違っているのはあたりまえで、むしろ期待すべきは、理論そのものの純粋さであろうということです。

 ぼくにこうした妄想をいだかせた本書を書いたのが、建築家ではなく古文書学者であったということが面白いですね。

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