カテゴリー「平戸プロジェクト」の10件の記事

2008.06.15

西へ東へ、平戸へ九重へ

6月13日(金)

3年生の設計課題にとってのフィールドである平戸に、日帰りサーベイの強行軍。往路3時間、現地滞在4時間、復路3時間のハードスケジュール。大型バスをチャーターして一行約50人の遠足である。

もちろんあらゆるディテールをじっくりというわけにはいかない。しかしコンパクトな町なら2~3時間の散策と観察で、本質を見抜けなければならない。少なくとも見抜こうとテンションをとことん高めなければならない。

というわけで、先週は1時間をつかって平戸略史を説明し、車中では西先生の『海・建築・日本人』の関連ページのコピーを渡して、簡単な解説をする。

事前に解説してあるので、現地では完全に自由行動、自主責任行動、である。ぼくは他の先生お二方を案内し、オランダ商館跡地、松浦史料博物館、平戸教会、中心街を連れて歩く。

▽写真だが、左から。(1)唐津経由のルート。海が見えて楽しい。道の駅では、海産物のおみやげをたくさん買う。(2)生け垣が、みごとな景観を演出。(3)平戸市内の眺め。(4)レンタサイクルで市内をサーベイする学生たち。偉い。

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市役所に呼ばれていたので、教育委員会の人と、プロジェクトや文化財政策などについて意見交換をする。

オランダ商館の復元について。これから予算措置がなされ、復元がなされるそうだ。なぜ17世紀にここから長崎に移転されたか。ぼくの考えでは、内陸性カソリック国家フランスが、海外通商プロテスタント都市国家ラ・ロシェルを徹底的に弾圧したように、幕府は、平戸が独立した都市国家に成長する芽を摘もうとした。しかし市の人は、長崎の出島がカラになったので、オランダ人を移しただけ、合理的経済政策のため、という。そうかなあ。交易拠点を合理的判断で移したというのは、やはり一国史観だとおもう。通商→植民地化、というヨーロッパ/アジアの決まったパターンを考えれば、やはり戦略的なことが大きかったのであろうと思う。

もうひとつ、平戸はほんとうに海を見ていたのか?という疑問。海を活用したといっても、藩主が海を使って移動しただけ。海沿いの町屋も海から直接物資を荷揚げした、といっても、基本的には町屋の生活は街路に面して展開される。

町民にとっては、海は勝手口である。ロジスティクスが、ひとつの港湾施設を経由してなされるのではなく、各民家がそれぞれ海(船)から物資を補給していた。リゾーム的でおもしろい。しかしそれを、海を見ていた、とはいえない。

海岸通りは戦後の埋め立てである。公共空間が海の面するのはそれがはじめてである。だから海岸通り沿いのファサードには「町並み」が形成されていない。それはあったものが失われたのではなく、最初からなかったのだ。

だから海をみていた、とはいえませんよね、とぼくは指摘した。そうでしょうね、という市の人の感想であった。

平戸を出て、田平教会を覗く。4月に訪れていたときにはあった足場がはずれていて、修復も終わったもよう。ぼくの見立てでは、内部は、ノルマンディー地方のロマネスク建築で、ゴシック誕生の直前の様式にちかい。鉄川は、おそらくしっかりしたお手本に基づいて設計したのではないか。しかもお手本を、3分の2とか、ある割合で縮小しているような気がする。プロポーション、空間構成(断面)などは原型に忠実だが、空間がちいさい、天井が低いのである。

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帰宅。道の駅で買ったさより一夜干しでご飯をいただく。ビールがおいしい。

6月14日(土)

こんどはワゴン車をチャーターして研究室とH大学T先生ご一行とぼくの研究室7名で、福岡を出発。

大分県九重の合宿研修所に1時過ぎに到着。

修論中間発表で、学生たちが発表し、先生たちがご指導(ご批判)する。それにしてもきびしかったなあ。ぼくなら数週間は落ち込むだろうね。この発表会が6時まで続く。

夕食後、7時から懇親会。といっても畳の大広間でのコンパである。

各大学・研究室ごとの自己紹介。ぼくは学生に自己紹介させ、簡単なメッセージ。2点ある。

(1)研究の精度を上げるのはもちろん必要だが、歴史が歴史であるのは、歴史観があるからこそ。そういういみで、今の建築史研究には、「物語を書く」という指向が少ないのではないか。ひとつの大きな流れ、個々の事例を超えた上位の枠組みを、構想し、描くのである。個々の事例はそれがないと生き生きしない。ぼくはどうやったら「物語を書く」ことができるのか、ぼく自身の課題として、挑戦したいと思っている。

(2)ぼくは学生のころ、先生に面と向かって教えていただいたことはほとんどなかった。先生はあまりに偉大であった。ぼくは先生の背中をみて、学習した。そしてぼくも先生の年齢に近づきつつある今、学生を背中で教えることが、ぼくにもできるのだろうか、と自問自答している。背中だけですべてを教えることは今の時代では非現実的だが、そういう部分も必要だと思うのだ。

などと放言する。あとはKy大S先生、Ku大I先生、Ka大K先生、KS大E先生、S大H先生などとあれやこれやと話し合う。途中抜け出して温泉に入り、またもどってビール、雑談、叱咤激励(学生は迷惑でしょうねえ)。12時すぎたので寝ました。最近は行いが正しくなった。

6月15日(日)

H大学T先生の講演。アジア的広がりのなかでの町屋というテーマである。主に中国の都市住宅に、日本の町屋概念を投影して、日中の都市住宅の比較をおこなっていた。さらには日本の近代化は、アジア経由でヨーロッパ文明が伝わった。だから日本近代にはアジア的ネットワークが機構的にインプットされているという指摘は面白かった。

たんなる国際比較、インターナショナルなものの提示、ということにとどまらず東シナ海をメディアとするリージョン、実体的というより関係性的ネットワークにより成り立つリージョンを描いているようで、とても刺激を受けた。

昨晩ぼくがいった「物語を書く」ということ、その背景として大きな枠組みを描くと言うこと、そういうことをちゃんと実践している研究者がいるのであるから、見倣わねばなりませんね。

もう20年くらいまえ、先輩研究者と、ブローデルの『地中海』について論じたことがあった。国や、民族や、時代や、技術的限界を超えて、不変な構造としての、あるいはネットワークのメディアとしての地中海。そんなものを日本から構想できるとしたら、たとえば東シナ海でしょうね、などと放談していたことを思い出した。

そのとき考えたことに近いことを実際にやっている研究者がいたということである。

さて天気は雨。ソフトボール大会は中止になり、早めに解散。

ぼくたちとT先生らは、藤森先生設計の「ラムネ温泉」に直行(途中で迷ったが)。藤森先生の建築は、手、あるいは身体の痕跡を残そうとするものである。あるいは身体を反映していると思える建築である。だから大規模建築にはこの方法論は難しい。建築が巨大化すると、この方法論でできるのはインテリアか、外構の細部であろう。解決法としては、細部が集積した町並みのような大規模建築を造る、ということであろう。あるいはガウディになるか、である。大聖堂のスケールまでなら、可能なのである。

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とはいってもいたって世俗的なぼくたちは、ゆっくり温泉につかり、ギャラリーの絵を楽しみ、食事をし、おじさんたちだけ特権ビールを飲んだ(学生のみなさん、ごめんね)。そしてぼくたちはT先生ご一行をバス停までお見送りして、お別れしたのであった。

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2008.04.14

『シドニー!』から北京へのシュルレアリスム的な小旅行

平戸にいってきた。直行バスも、直行鉄道も、直行舟もない。事情があって、車も運転したくない。のですこぶる能率の悪い移動ではあった。でも読書時間は少しふえた。

行きは村上春樹『シドニー!』(上下)、帰りは塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』という組み合わせ。なにも塚原が引用しているミシンとこうもり傘の手術台上の出会いを、オリンピックとアバンギャルドの高速バス内における混在に置き換えたというつもりはない。結果的にそうだというなら面白いね。

嬉野あたりで事故を目撃した。さいわいけが人はいなかったが、車は小破。乗っていたと思われるカップルが電話をしている。

村上春樹『シドニー!』ねえ。8年前はどうしていたのだろう。ちょうど8月をアメリカ観光旅行に費やして、翌年消えてなくなった対のタワーにもちゃんと上って、帰国して、上機嫌で高橋尚子をみていた。才能あふれるコワイモノシラズの人は輝いていたし、そう見てしまう自分は年取ったなあ、と感慨深かった。しかし2008年予定のオリンピックなど、さらには東京(戦前)、メキシコ、ミュンヘン、モスクワ、ロサンジェルスなどを考えると、シドニーは例外的に平和なオリンピックではあった。しかもアボリジニーなどこれまで内部問題とされてきたのを、あえて表に出して、痛みを出すことでトラウマを解消する道筋がついていった。

作家の文章で感心するのはいつも「比喩」である。建築専門家が建築について書くときは、いつも技術的、事実主義的、統計的、である。建築史家も比喩が苦手だ。もちろん機械的な事実が大きな歴史を背負っているということはあるし、それを発見したからこそ書いているのだが。しかし事実をもって語らせるのを中心にすえてきたので、「比喩」能力はかなり退化している。ぼくはこれを鍛え直さねばならないかもしれない、と考えている。

たとえばオーストラリアは動物の宝庫だが、ある動物は編集者のようにフルーツパフェをばかっぽく食べる、であるとか。つまり比喩とは、森羅万象のなかで関係ないと思われたことがらどうしを、関係づける作業でもある。

さらに比喩の例。退屈な開会式で、ブラジルの国歌を聴いたあと、君が代を聴きながらの日の丸は「サイドブレーキを引いたまま、いそいそと坂道を上っている自動車」のようである。そんな自動車見たことないけれどね。これは非現実の比喩。それからマラソンの選手が「まるで映画の『タイタニック』で、傾いたデッキから乗客がずるずる滑り落ちてゆくみたいに」(下巻139ページ)脱落してゆく、だとか。これは無関係の関係のおかしさ、という比喩。

作家はさらに、オーストラリア、イギリス、アメリカの歴史的な関係だとか、アボリジニとの和解のこととか、それからオーストラリアらしさのようなものを皮肉と愛情をこめて書くのである。

そのなかでもスポーツとはそもそもなにか?的な論考も面白かった。もちろん人間の本能である闘争が形式化したものという一般的な理解からはじまって、オリンピック観戦とは「クオリティーの高い退屈さ」(下113)なのであって、そこでは「意味というのは、一種の痛み止めなのです。」(下113)などと展開する。

そしてスペインの哲学者オルティガを引用して、「冒険とは物質界の脱臼であり、非現実なのだ」ということであり「意志は現実そのものだが、欲求されたものは非現実的なのである」。そして「結果的に達成されたものが、どのくらい大きく現実から脱臼しているか、それが問題なのだ」(同176)。

ううむ。「物質界の脱臼」ですか。スペイン人という、大航海時代の立役者の子孫からいわれると納得です。

平戸。史跡をめぐって、坂をのぼって、写真をとって、博物館で図録を買って、人にあって、温泉にはいって、ビール飲んで、寝る。チャンポンはちゃんといただいた。クジラはありつけなかった。

やはり平戸。ここには大航海時代さなかにオランダ人も、スペイン人も、オランダ人も、イギリス人もやってきた。最初は、大航海のあげく船は数隻のなかで一隻、人も例外的に生き残るという、たいへんな訪日であった。これがなければ今の平戸はない。人間は現実が退屈なのでときどき非現実で憂さ晴らしをする、のではない。むしろ非現実が現実をつくってゆくのだ。非現実という名のひろいひろい荒野があって、そのなかにぼくたちは現実という名の城壁を築いて、その内部の町に住んでいるのだ。その外部の広大な非現実からのさまざまな補給がなければ、現実は現実でなくなってしまうのだ。(ぼくもすこし比喩が上達しましたね!)

帰路では塚原史の『ダダ・シュルレアリスムの時代』を読む。320ページほどをすらすら読めたが、それほど頭に残っていなくて申し訳ありません。記憶にのこっているのは、2点。

まずツァラらが考えたのは、言葉を意味から切り離すということ。つまりブルジョワ的正統派文化では言葉は意味そのものであり、両者は完全に調和しているのであって、そもそも両者などと考えることはおかしい。しかし「DADA」という名前そのものが辞書ランダム検索から偶然に選ばれたように、ダダはなにも意味しない、ことが重要なのである。

同時期ソシュールがシニフィアンとシニフィエを切断したように、まず意味にむすびついていないなにか、というものの存在が考えられるようになる。

もうひとつはこうした過去から切り離された前衛運動が、20世紀初頭の政治文化と地下水脈でつながっていたのではないか、という指摘である。ムッソリーニやヒトラーの全体主義におけるプロパガンダには、前衛運動的な表現なしには考えられない手法がある。

しかし1896年という近代初頭に再開された近代オリンピックも、物質界の脱臼だとしたら、そこには前衛的なものもすでにはいっているのであろう。そして商業主義、国家主義、グローバル化という要素の先駆的なものも。それにしても、意味を切り離すこと、は物質界の脱臼、ではないか。

・・・というわけでオリンピックとダダは、高速バスのなかでうまく出会えたのだろうか。

ところでシドニーから平戸だろう。シドニーから北京へ、の「北京」はどこにあるんだ、とおっしゃるでしょう。下をクリックしてください。

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オヤジギャグで申し訳ありません。おふざけと受け取られてもしかたありません。

しかし平戸の真実のなにがしかがあります。歴史の道という、特別な場所ですが、そこでも住民はどんどん去っていっています。中華料理店・北京の両側も転居してパーキングになっています。地方都市の典型的な風景です。

6月になったら学生たちといっしょに取り組んでみます。

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2008.03.31

平戸の年表

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平戸の略史
1191年。栄西、南宋から平戸島に帰着。平戸滞在中に禅宗を伝え、茶畑を作った。
1225年。松浦党の一族持(平戸松浦氏祖)、小値賀から平戸に移る。館山(松浦史料博物館裏山)に館を築く。
1550年。ポルトガル貿易船、平戸に入港。
1550年9月。フランシスコ・ザビエルが平戸で布教する。
1561年。宮ノ前事件。
1562年。大村領の横瀬浦が、ポルトガル船の貿易港となる。
1584年。スペイン貿易船が入港。
1587年(天正15年)。豊臣秀吉の九州征伐。松浦鎮信(しげのぶ)は、北松浦郡、壱岐を安堵される。
1600年(慶長5年)。関ヶ原の戦い。松浦氏は東軍。徳川家康より6万3000石の領地を安堵される。松浦藩の成立。
・第1大藩主は鎮信(しげのぶ、1549-1614:法印、平戸松浦市26代当主、平戸藩初代藩主として1587-1600)。久信(2代藩主、1600-102)。三代藩主は隆信(たかのぶ, 1592-1637、平戸藩第三代藩主1603-1637。)

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1609年。オランダ商館が設置。
1613年。イギリス商館が設置。(1623年閉鎖)
1615年。イギリス商館長リチャード・コックス、九州(日本本土)で初めてサツマイモを栽培する。(当時の沖縄にあった琉球王国では、1605年初めて栽培されたとされている)
1620年。三浦按針(ウィリアム・アダムス)、平戸で病没。
1637-1638年。島原の乱。
1639年。長崎出島からポルトガル人追放(布教、植民地化を阻止するため)。
1641年。オランダ商館、長崎の出島に移転。平戸での南蛮貿易の終わり。

1880年。猶興書院(猶興館高校の前身)、開設。

1977年4月4日。平戸大橋開通。平戸島と本土がつながる。

行政区域
1871年。廃藩置県で平戸藩が廃され平戸県となり、さらに長崎県へ併合される。
1889年4月1日。町村制度施行により、以下の各町村が発足。北松浦郡平戸町・平戸村・中野村・獅子村・紐差村・中津良村・津吉村・志々伎村・田平村・南田平村・生月村・大島村。
1925年4月1日。平戸町と平戸村が対等合併し、新町制による平戸町が発足。
1940年4月17日。生月村が町制施行。生月町となる。
1954年4月1日。田平村と南田平村が対等合併し町制施行。田平町が発足。
1955年1月1日。平戸町・中野村・獅子村・紐差村・中津良村・津吉村・志々伎村が対等合併して市制施行。平戸市が発足。
2005年10月1日。周辺の大島村・生月町・田平町と対等合併。新市名は平戸市。この結果、長崎県から村が消滅。

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松浦史料博物館
国の登録有形文化財。
江戸時代初期:平戸藩藩主・松浦家の館。
1893年。松浦詮(あきら)が「千歳閣」(謁見・応接の間)を建設。現在の史料陳列室。
1950年。松浦家当主陞、敷地と屋敷を平戸市に寄贈。
1950年10月:現資料館が開館。

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平戸城
松浦鎮信(法印)は豊臣秀吉の九州征伐に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵された。
1599年(慶長4年)。安土桃山時代末期。松浦鎮信(法印)が城を建設。
1607年(慶長12年)。完成間近にもかかわらず火を放ち城を破却。理由:江戸幕府からの嫌疑を免れるため(豊臣氏と親交が厚かった)。あるいは嗣子久信の死。
鎮信、「中の館」と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁を建設とする。1893年に松浦私邸が建設され、それが1950年に松浦史料博物館となった。
1702年(元禄15年)。鎮信(天祥・4代藩主)、築城を幕府に願い出る。
1703年(元禄16年)。築城、許可される(きわめて異例)。理由は、将軍家との姻戚関係。あるいは東シナ海警備の必要性。
山鹿素行の軍学に沿って縄張り。鎮信(天祥)は山鹿素行の弟子。素行と全国スタディをし、資料を収集、山鹿流軍学による縄張りがなされた。素行を平戸に迎えるという希望はかなわなかったが、素行の子、高基・義昌の兄弟が藩士として迎えられた。築城は義昌が指導した。
1704年(元禄17年)2月着工。5代藩主棟による。
1707年(宝永4年)完成。 天守はなし。二の丸に建てた3重3階の乾櫓が、その代用。
1871年(明治4年)。廃藩置県により廃城
1872年。建物解体。狸櫓、北虎口門(搦手門)、は残され、現存。
1962年(昭和37年)。模擬天守及び復興の見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が建設。天守内は、松浦党などの資料館(国の重要文化財の環頭大刀(亀岡神社蔵)も展示)。現在の城跡には、亀岡神社境内、亀岡公園、市民グラウンドなどの施設がある。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(90番)に選定。
2007年(平成19年)6月~。全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始。

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聖フランシスコ・ザビエル記念教会
正式にはカトリック平戸教会。
平戸市・松浦市・北松浦郡地区における主管教会。
1931年(昭和6年)4月。現在の教会堂が建てられた。
1971年。献堂40周年。聖フランシスコ・ザビエル(日本に初めてキリスト教を伝え、平戸にも三度にわたって布教に訪れた)の像が建立。「聖サンフランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになった。
2006年。献堂75周年。ルルドの泉が建設。
*「ルルドの泉」。ルルドとはフランスの町。スペイン国境に近いところにある。1858年に村に住む少女が、聖母マリアの出現を目撃した。それより奇跡の起こった村として、巡礼の対象となった。

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2008.03.21

ウェルギリウス『牧歌』について

ウェルギリウス(Publius Vergilius Maro, B.C.70-B.C.19)はローマの詩人で、『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』を書いて牧歌文学の原型となった。ランドスケープ史や庭園史のなかではかならず言及される作家である。

その邦訳が2004年に京大学術出版会の西洋古典叢書として出ていたことを知ったので、通販でとりよせて読んでみた。以前他の邦訳に目をとおしたことはあったが、途中で飽きてしまった。

今回あらためて気がついたのは、『牧歌』は十歌構成であるということだ。ちなみにウィトルウィウスの『建築書』も十書構成である。ふたつの古典にはなにか共通点があるのではないか、と気がついてがぜん興味がわいてきた。ようするに建築にからめないとはじまらない習性は直らないのである。懺悔。

まず、ウェルギリウスの『牧歌』は十歌が円環構造をなしている。第一歌の冒頭で、ウェルギリウスのことであるティテュルスが、森のなかの木陰で葦笛により森の歌を奏でるところから始まる。そして第十歌は、やはり森が舞台である。森のなかで愛する女性への思いを歌にして奏でるのであった。しかし森の木陰にいつづけることを体によくないと、家に戻ろうとするところで、終わる。その間さまざまな逸話が展開されるが、それらは森のなかで繰り広げられる豊かな回想と空想であるように思われる。

つぎに、ある危機意識が『牧歌』の根底にはある。京大出版会版の解説にあるように、帝制ローマの政策によって、ウェルギリウスはマントヴァ近郊の農地を没収されたことを背景として、「私たちは祖国を逃げ出すのだ」・・・という衝撃的な一句からはじまり、不敬な軍人すなわちアントニウスとオクタウィアヌスが戦勝の褒美として退役軍人に没収した農地を与えたことを暗に揶揄するように、不幸な市民について触れる。

『牧歌』のおおきな部分を占めているのが、ふたりの登場人物による歌や音楽の競い合いである。つまり田園は音楽と結びついている。田園は、大きな楽器でもある。

第四歌は特殊であり、クマエの予言どおり新しい時代、アポロの時代が始まることが語られている。この第四歌は、悲惨な現状を乗り越えるための勇気を与えるためにあるように感じられる。この新しい時代には、商品交換はなくなり、すべての大地からあらゆる物が生み出される。つまり都会の商品経済に従属しない、田園の自給自足の生活が示唆されている。

『牧歌』における歌や音楽の競い合いということに戻る。それはダプニスへの頌歌でもある。ヘルメスとニンフの息子で、牧人の理想とされる美男子であり、歌と音楽とにひときわすぐれていた。だからこの『牧歌』そのものがダプニス頌といえるのだが。

しかしこのダプニスは非業な若死にをした。彼についての歌は、挽歌でもあり、過去に想いをはせる歌でもある。つまり第四歌だけが未来を歌い、そのこととの対比において、挽歌が詠われるのである。

第八歌はクライマックスである。ダモンが歌う。牧神パーンの故郷アルカディアにある山脈であるマエナスルでは、松と牧人とパーンがいつも音楽を奏でていることを歌う。「始めよ、わが笛よ、私と一緒にマエナスルの歌を」。アルペシボエウスは死んだダプニスを蘇生させるためのまじないの歌を繰り返す。「町から家へと連れもどせ、私のまじないよ。ダプニスを連れもどせ」。田園のなかに歌と音楽をもたらしていた彼を回復せよというのである。それは田園そのものの回復を叫んでいる。

ダプニスを連れもどせ。

『牧歌』はある意味で喪失の歌であり、つよい批評精神にもとづいている。

同様なのがウィトルウィウス(Marcus Vitruvius Pollio, B.C.80/70-B.C.25)の『建築書』である(それを『建築十書』と呼ぶのは、古典を翻訳したフランスやイギリスの事情であった)。生没年からわかるようにウェルギリウスとウィトルウィウスはほぼ同時代人である。彼らが古典となった経緯も似ているのではないか。

『建築書』も円環構造をなしている。第一書では建築家が備えるべき資質が列挙された後、まず都市の城壁について触れられる。第二書では都市計画のような話題となり、以降、神殿と建築オーダー、バシリカなどの公共建築、建材・石材、日時計、揚水機、建設機械と展開し、最後は敵の攻撃から市壁とそれによる防御を巧妙にしくんだ建築家が賞賛される。彼は市民の自由を守ったことが、手短に言及される。つまり建築家たるものの解説を除けば、これは市壁にはじまり市壁におわる物語りであり、その中間にあるものは都市、建築、機械という段階をおった、その内部の叙述である。これは建築というディシプリンを機械的に分類したものではない。建築家が生身でかかわる緒断面のいきいきとした、まさに物語りなのである。そして彼が守るのは都市の市民の自由なのである。

音楽の重要性もやはり強調されている。劇場の音響効果のみならず、都市という小宇宙は天空の音楽に応答している。ルネサンスの新プラトン主義で復活したテーマである。

危機意識も同様である。オナイアンズやリクワートは、アウグストゥスがレンガのローマを大理石のローマに変えたあいだに、建築は奢侈に流れ、そののモラルは低下したが、その危機的状況のなかでモラルを強調したのが、ウィトルウィウスであるというように位置づけている。ウィトルウィウスの書はひからびた建築技術の百科全書的体系化ではなく、まさに現実が体系を失い、崩れ、流動化しているからこそ、それに歯止めをかけようとしたのであった。危機意識のもとづく体系化なのであった。

このように比較するとウェルギリウスとウィトルウィウスは、同時代人であるのみならず、その価値観や叙述の仕方においてよく似ているといえる。前者は田園を描き、後者は都市を描いた。そういう対比はあるが、似た精神をもっていたのではないか。それはローマが共和制から帝政に移行する時代のきしみであったといえよう。

21世紀初頭、そんなきしみはないのであろうか。

ダプニスを連れもどせ。

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2008.03.17

建築家シンケルと景観

シンケル(Karl Friedrich Schinkel, 1781-1841)はプロイセンの建築家で、ドイツ建築史のなかの最大の巨星といっていいでしょう。ロマン主義の流れのなかで、古典主義を継承しながらも、ゴシック建築を再評価し、さらにランドスケープのなかで建築を群としてとらえ設計するという新しい展開に成功した建築家でした。

1794年にベルリンにうつり、そこで1798年に建築家ジリーとの運命的な出会いがあり、その弟子となった。下図はGilly, 《フレデリク大王のための記念碑》、ベルリン、1797。これは建築プロジェクト図ですが、雲の描き方などは風景画のつよい支配下にあることがわかります。新古典主義は、ときにはロマン主義的古典主義といわれるゆえんですが、つまり建築家はその内面、自分が訴えようとする偉容、偉大さ、超越性を、景観に託して表現しようとしているのです。

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1803年にイタリア旅行に出発する。とくにミラノ大聖堂が気に入った。シチリアには1803-04年に滞在した。

とはいえ古代建築はすでに学習済みのものであって師ジリーにも、古代建築はすでに知っているので、古代建築を見学してもたいした効果はないと書いている。しかし、建築が自然のセッティングのなかで、ピクチャレスクな群としての造形を展開している様は驚きであった、と書いている。下左は古代ギリシアの景観を、下右は古代都市を描いたもの、下右は宿からローマ市、とくにサン・ピエトロ聖堂を描いたもの。

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さらに「ゴシック建築は、スタイルは別物としても、ギリシア建築とは共通点だらけである」とも書いている。つまりランドスケープにしかるべき場所を占める建築、中世のゴシック建築、という彼の生涯を決定づける指向がすでにはっきりと意識されている。

1806年から舞台デザインの活動をはじめる。当時はディオラマ、パノラマと呼ばれていたものであった。とくに1815年にはモーツァルトの《魔笛》のためのデザインをしたのは有名。(下左は夜の女王の場面。下右はランス大聖堂の眺め。)

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シンケルは当初からプロイセン王室の御用達建築家であった。国民にも人気のあったルイーゼ王妃(1776-1810)は、彼に宮殿のインテリアを依頼したばかりか、公共事業局の局長に指名した。

王妃は不幸にも1810年に若くして亡くなる。その霊廟のためのデザインも、彼は提案した。彼がゲンツとともに設計した厳格なドリス式神殿にものはシャルロッテンホフに建設された。さらにゴシック様式の幻想的なものも設計した(下図)。同1810年、ベルリン・アカデミーの展覧会で展示された。

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ところで前稿との関連で興味深いのは、この展覧会にはC.D.フリードリヒも絵画2葉を展示していたことである(cf. Watkin, 1987, p.87)。フリードリヒもシンケルもロマン主義運動のおおきなうねりのなかにあった。とはいえシンケルは巨匠画家の真似をしていたのではなかった。画家はゴシック建築の廃墟を描くことをこのんだが、建築家はそうではなかった。

下の4葉は左からそれぞれ芸術家の妻、木々に隠れたゴシック教会堂、 川辺の城、朝、を描いたものです。対象の正確な描写というより、観察者の内面を投影したその画風は、フリードリヒと同様、あきらかにロマン派のものです。しかしフリードリヒと若干異なるのは、肖像はこちらを向き(背中を向けられては肖像画にならないのですが)、木々はやさしい。しかし川辺の城では、光源が木の幹で隠されており、神=超越の存在がそれだけ強調されています。また最後の《朝》でも同様に光は扱われています。超越ゆえにそれに到達できない。しかしその超越と一対一のはっきりした関係が保たれている。

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シンケルはゴシックリバイバルの建築家であった。さらにそれはナショナリズム的な理念にもとづく復興であった。なぜならゴシックは「国民精神の発露」であり「人間を神や超越的な世界に結びつけていた顕著で目に見える記号」であった。そしてゴシックは「古代よりも優れた原理を備えている」のであった(cf. Watkin, 1987, p.90)。

シンケルの大聖堂は、都市生活の頂点であって、高台の上にそびえていなければならなかった。ゴシックは高邁な理念の表現であり、とくにプロイセンの文化的・政治的な立場の表明であった。

下左は、現実には市中にあるミラノ大聖堂を、海のみえる丘の上に置いた、舞台装置。様式はゴシックだが、ランドスケープとの関係は古代的といえます。下中は大聖堂の風景を描いたもの。いわゆる逆光で、隠れた光源から光はむこうから(つまり超越から)やってきます。塔は透かし彫りのように、半透明です。古典主義建築は、光を反射し、はっきりした輪郭を示します。しかし中世建築は、光を吸収し、光と一体化します。あたかも人間が神の教えと一体化するように。下右では、川辺の中世都市が描かれている。兵士たちが、大聖堂を目指している。その大聖堂は塔が一基未完成であり、旗がはためいている。これはプロシア、ドイツが近代国家としてこれから建設する途中にあり(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ!』)、その完成のための国民的な情熱を注がねばならないことが主張されている。虹は、完成への希望の表現です。

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1815年からベルリンの都市計画の担当者となる。新衛兵所、劇場、古代博物館などを建設した。ここでは古典主義を展開した。このプロシアの首都は、その厳格で清廉な性格を表さねばならなかった。下3葉はアルテス・ミュゼウム(古代博物館)です。景観との関連で、ギリシアのストア建築を再現したものが、描かれています。とくに下右は、列柱廊の階段から、都市景観を眺めたものです。19世紀のベルリンは、古代ギリシア都市の景観をまとうように設計されたのです。

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1820年から王室の依頼により、ポツダム郊外のシャルロッテンホフ宮殿の整備を進める。ここで彼は、ロマン主義的なゴシックでもなく、国家的偉容を体現すべきベルリンの厳格な古典主義でもなく、若い頃にイタリア旅行で驚嘆をもって眺めた、自然のなかで群としての建築がのびやかに展開してゆく様を、再現したのであった。

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さらに晩年のプロジェクトでは、ランドスケープの意識がさらに強くなっています。下左図はオリアンダ城計画です。これはギリシア風です。下右は、ライン川沿いにある城の景観で、これはドイツ風というか中世風。しかしどちらも、ランドスケープのなかに展開してゆく建築が強調されています。

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シンケルが亡くなったときプロイセン国王はその葬儀を国葬扱いにし、毎年シンケル祭を開催しようとしたそうです。ベルリン中心部の公共建築を建設し、王宮を整備した彼は、まさに国家的建築家であった。しかし業績ゆえではなく、彼がドイツ的建築の心情そのものを形成したからであろうと思われます。

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2008.03.16

風景画家フリードリヒについて

ドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich, 1774-1840)についてです。この稿も平戸プロジェクトの一環でして、ランドスケープ解釈の一助とするためです。絵画史を専門とするものではありません。

ロマン主義の風景画家である。略歴。13歳のとき、自分を助けようとした弟が溺死してしまう。これが一生のトラウマとなった。コペンハーゲン美術アカデミーに入学するが、ドレスデンに引っ越す。ベルリンの美術アカデミー、ドレスデンの美術アカデミーの会員であった。

クロード、プッサンらが理想的風景画を描いた古典主義画家であったとしたら、フリードリヒはロマン主義という範疇にはいります。

古典派は、ウェルギリウスなどの古代文学から題材を得て、風景を描きます。そこには人間の運命、悲しみ、偉大さ、徳、死、などが描かれますが、いちどテキストに描写されたものを絵画としております。ゆえに型にはまった感じがするし、既存のテキストにそって人物の立ち振る舞いが決められるという点では、演劇的にもなります。プッサンの絵もときには舞台の書き割り的に見えます。

いいかえるとあらかじめ立派なテキストがあって、個々の人間はそれをなぞるだけなので、どうも人間には自我や内面が薄いような気がします。もちろん人間だから心はあるのですが、芸術の創造にとってとくにそれらは必要とされないのです。

ロマン派は近代人の心性を反映しています。

ここで「近代」とは今から200年ほどまえに幕あけた新しい時代をさします。啓蒙主義、科学の発展、フランス革命などの大きな変化によって、王権やキリスト教社会は瓦解し、それに連動した伝統的諸価値は崩壊します。

ロマン派とは、この変化を「新しいものを獲得した」と考えるのではなく、ぎゃくに「なにかを(古き良きものを)喪失した」とする考え方、感じ方をさします。

近代人は矛盾しています。いっぽうで進歩や発展をあくまで追求しながら、他方では本来の自分は、心は、失われただの傷ついたなどと考え、喪失感にさいなまれ、そして失ったものを回復しようとします。

歴史的建造物の保存、今日の用語でいえば文化遺産の概念は、200年ほど前に、このロマン派的心性とともに誕生しました。「歴史的建造物」「遺産」そのものの歴史があるのですが、これらは政策、制度として自動的に動くようになっています。ですのでその文化的、哲学的なからくりは忘れられているといえます。

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それはともかく、アイネム『風景画家フリードリヒ』(高科書店、1991)を要約しつつ、ぼくなりにコメントさせていただきます。上左は《雪の中の巨人塚(ドルメン)》、上右は《リーゼンゲビルゲ山の朝》、山頂に十字架が見えます。荒涼たる自然です。古代的な親和的なランドスケープとはまったく違います。

ロマン主義ということですが、アイネムは、18世紀の啓蒙主義、文化の世俗化という危機を乗り越えて、ドイツ人は「自我」を「創造的な性の統一体として発見」したのであった、と指摘している。フリードリヒの風景画は、まさに彼の内面をそのまま描写しているのであり、風景はたんなる料理の素材にすぎないような感じがします。

主観性。風景はもはや客観的に与えられた単なる物質的なものではなく、主観的な体験の神秘的な反映となります。風景はたんなる観察の対象ではなく、感情の対象です。自然は、神が意味をあたえたり、それ自体に象徴的な意味をもつのみならず、人間の感情がそこに描かれたもの、になってきます。風景は、こうしてあらたに「人物芸術の代わりに宗教的表現の担い手」になります。フリードリヒは「芸術のたた一つの真実の源泉はわれわれの心である」(p.46)と主張します。

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上左の《山上の十字架 テッチェン祭壇画》ですが、ここにはキリストの苦痛は描かれていなく、観察者の心情を投影することが求められています。上右《森の中の猟兵》も、奥にひそむ不安を想像せよといわんばかりです。

宗教性。フリードリヒの風景画はすべて宗教画といえる。しかし伝統的な意味での宗教画ではない。伝統的な信仰は、共同体的であり、宗教画のアレゴリーや書き方は決まりがあった。しかし彼の信仰は、孤独なものであった。その絵画は、自然との孤独な対話(p.133)いがいのなにものでもなかった。トラウマ故に人間嫌いとなったが、反面、自然との親密な交流がなされた。

廃墟。教会の廃墟が描かれる。彼の描く廃墟は「無常」ではなく「明確な過去の象徴」である。つまり古い信仰をそのまま再確立しようというのではなかった。現存するゴシック聖堂が廃墟に変形して描かれた。

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ランドスケープの普遍性。特定のランドスケープを忠実に再現しようとはしなかった(p.123)。たとえばエルデナ修道院、近くにあったが、山の世界のなかに移している。上は左から《エルデナの廃墟》《雪の中の修道院の墓地》 《樫の森の修道院》です。同じ廃墟モチーフをいろんな風景のなかに描いています。風景は、目の前に展開する固有の具体的なものではなく、あらかじめ心のなかに描かれた、超越的、先験的、観念的、一般的なものなのです

人物は風景の「点景」ではなく「意味の担い手」である(p.97)。彼が描く人間は、特性をもった個々の人間ではなく、一般に人間的なものの代表であり、さらには被造物一般の代表である。ということは人間はかんぜんに自然の一部であり、その特別な立場を失っているのであり、木、岩、道具がその代理であってもよい。これはまさに「自我の中に世界への鍵を見出すというロマン派一般の謎」(p.100)なのである。シェリングの「世界霊魂」というものに近いという。

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上の左右は《海の月の出》《人生の諸段階》。これらでは人物も舟も、風景のなかでは等価であるような印象さえ受けます。

アイネムによれば、フリードリヒの絵画は彼のキリスト教的経験に根ざしている。被造物どうしの親密性、孤独であることの苦悩、おなじ内面を有しているという期待、自然との一体性、望郷の念、など。

垂直性。垂直的エレメントが支配的である。水平的エレメントは従属的。これなどは北欧/南欧、ゲルマン/ラテンという典型的な対比となっています。

エレメントの孤独。個々のものを独立させる。個々のものは独立的であり、画面全体の構築性とはつねに対立関係にあった。このエレメントはときには木であり、人間であり、岩であったりする。

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上はそれぞれ《日の出に立つ女性》《霧の海を眺めるさすらい人》《窓辺の婦人》です。これらからわかるように、まず遠近法が否定されています。それまでの風景画では遠景、中景、近景というレイヤーを考え、さらにはそれらが連続的につながるように、プッサンなら蛇行する小道を描いた。しかしフリードリヒは「非常な近さ」と「遙かな遠さ」という対比を描いた。これはルネサンス以来の遠近法を否定するものであった

さらに人物はつねに後ろ向きで描かれている。この人物は、無限や超越にむかってあこがれながら、しかし自分の肉体という有限性に囚われている

「理想の風景」の稿で、風景画とはようするに奥行き、距離、を描くことではないか、と書きました。古典主義的な芸術のなかでは、距離としっても、船出するアエネイス、アテネから墓地に運ばれる有徳のフォキオン、といったように、いくら遠くても到達できる距離であったのです。しかしロマン主義の描く距離とは、超越的なものです。つまり絶対的に到達できない類のものです。しかし近代人にとって、距離とは、絶対に到達できないからこそ意味をもつようです。無限を発見した18世紀啓蒙主義の帰結でしょうか。しかしよく考えてみれば、超越的な、絶対に到達不可能な距離、というのは現代人がイマジネーションをいだけないものとなっているようです。

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2008.03.15

「理想の風景」について

ケネス・クラーク『風景画論』読書レジメのつづきである。建築設計演習のための素人のノートなので、絵画のプロはパスしてください。

クラークは本書3章で「幻想の風景」について述べている。舞台は16世紀、宗教改革などで価値観が揺らいだ時代である。のちの表現主義につながる北方的な感性がうまれ、火、火災、などが好んで描かれたこと。マニエリスムが誕生し、人体がデフォルメされて描かれ、ビザンチン風の奇石などが描かれた。・・・ことなどが書かれている。これはのちに触れることにします。「平戸プロジェクト」には直接関係しないからです。

 第4章が「理想の風景」である。もともと風景は、英雄や神話の背景であり脇役にすぎなかった。しかしそれがひとつの理想とされることで、主役となった。

 これは常識的なことだが、そこでは古代文学が風景画家のインスピレーション源とされた。

オウィディウス『変身譚』。ギリシアやローマの神話において人物が植物、動物、鉱物などに変身してゆく物語。ナルキッソスが自己愛によってスイセンになる。ナルキッソスを愛するエコーは木霊になる。イカロスは蝋の翼で空をとぶが墜落する。ダプネーは、アポロンに追いかけられて、木に変身する。など。(下はプッサンの《エコーとナルシス》)

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ウェルギリウス『アエネイス』。アエネアスはトロイア滅亡ののち、カルタゴ女王との悲恋があったが、イタリアに到着し、ローマ建国の礎となる。その流転におけるさまざまな景観(下はクロード《デロス島のアイネイアスのいる風景》)。『牧歌』は田園を賞賛する「アルカディア」概念をもたらして、ヨーロッパにおける理想的田園概念の出発点となった。『農耕歌』には農民の生活、農作法、牧畜や養蜂やブドウ栽培の仕方などが書かれている。

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とうぜんのことながら、これら古代文学はたびたび読み返されることで、風景画のみならず、文学(ダンテ『神曲』など)、パラディオのヴィラ建設、イギリス貴族のカントリー・ライフ、造園運動、ピクチャレスク美学の成立、をもたらしたのであった。

はからずもクロード描くカルタゴは「港市」ですので、平戸プロジェクトの参考になるかもしれません。

こうした古代的インスピレーションを復活させたのがジョルジョーネとティツィアーノの《田園の合奏》や、ベリーニの《寓意》、ジョルジョーネの《テンペスタ》、ティツィアーノの《聖愛と俗愛》などだが、これら前書きはそれだけで独立させて論じるべき対象でもあり、ここでは割愛します。

クラークの本題はもちろんクロードとプッサンである。

クロード・ロランはフランスのロレーヌ地方出身なので「ロラン」と呼ばれるのだが、その生涯のほとんどをローマで画家として過ごした。

彼はローマにおいて野外での写生を行い、それをアトリエにもちかえり、ひとつのタブローとして再構成した。つまり細部は忠実な描写でありながら、全体は構想されたランドスケープなのであった。

その構成法は、同時代の劇作家ラシーヌの「三一致の法則」に匹敵するという。つまり時の単一、場の単一、筋の単一であり、1日のうちにひとつの場所で、ひとつの行為だけが完結するべきである。これがフランス古典演劇での重要な規則となった。ラシーヌの手法として「アレクサンドラン誌行」も言及されている。

クロードは近景、中景、遠景を描き分ける。近景は、画面の一方の書割と、それがもたらす暗い影である。中景は、いくつかの樹木であることが多い。遠景は、古代風の建築であり、光に満ちあふれる。(下左《アポロン神殿》、下右《アイネイアスの出発のあるカルタゴの眺め》

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ところで風景画とは距離を描く絵画であると思う。ジャンルでいえば、静物画や人物画には距離はほとんどない。もちろん絵として描く、あるいはそもそも対象として見るためには、あるていどの距離は不可欠である。しかしその距離は描くべき目的ではない。しかし風景画においては、アレゴリーの組み合わせであることは静物画と同じであるが、距離をどう描くかが課題となる。遠近法はそのための技術だが、必要条件でしかないと思われる。つまり距離を客観的にではなく、主観的に描かねばならない。つまり距離感なのである。

理想的風景の絵画では、距離感がみごとに描かれている。この距離は、自分がかつていた遠方でもあり、これから到達できる彼方でもあり、到達できなくとも心情的に親和的でありうる遠方である。これにたいしロマン派絵画は、まさに到達できない彼岸が、まさにその不可能性がテーマであるがごとく、描かれる。

クリードにおいて古代風の建物が描かれるのは、これが古代であるか、その遺跡が残っているかという、古代のサインである。しかし建物が不可欠なのではない。「クロードにおいてもっともウェルギリウス的なものはといえば、光にみちた静謐な空のもと、やさしく小川が流れ、羊の群れが草を食む、あの黄金時代的感覚」なのだと指摘されている。

*注:個人的には、風景画と舞台デザインとの関連はないのであろうか、と考えている。16世紀の建築家セルリオは劇の種類にあわせて背景を決めた。悲劇=古典主義、喜劇=中世、風刺劇=田園、である。スタイルの合致である。

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ニコラ・プッサンもまた17世紀のフランス人画家であり、生涯の大部分をローマで過ごした。

クラークによれば、プッサンは印象派の先駆者でもあるが、その絵画構成はきわめて幾何学的である。水平線と垂直線を、ときには黄金分割にしたがって、配置する。古代建築は、古代であることを示すとともに、自然のなかには少ない垂直要素を付加するために有効であった。ゆえに直線、正面性が強くなる。それを中和するかのように、補助として、斜行する小道を対角線要素としてつかっている。

ぼくの観察では、プッサンの絵は舞台装置的である。近景の両側には、暗い樹木が描かれている。近景に人物が配置され、主題となるストーリーが展開される。中継は、小道、川、湖などであり、近景と遠景をつないでいる。遠景は、登場人物以上にじつは主役かもしれない。そこには古代建築、神殿、などが描かれる。建物でない場合は、神域のような山が描かれることが多い。

《ヘビのいる風景》(下)は、オウィディウス『変身譚』第3巻を描いたものとされている。フェニキアの王子カドモスはポイオーティアに到着し、従者をマールス泉に水を汲みになったが、マールスの竜が従者を絞め殺してしまった。プッサンはこの竜をヘビに書き換えたのであった。この絵では、ヘビと絞め殺された男が横たわっており、それを目撃した男が驚愕し、さらにそれを見た画面中央の女がおののくという、恐怖の連鎖が描かれている。それは連鎖であるがゆえに、ある時間の幅があり、恐怖が画面手前から奥にむかって展開している途中が描かれている。もちろん遠景までは恐怖は到達していない。

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この絵についてはルイ・マランが『崇高なるプッサン』のなかで多層的な解釈を示しているが、それに触れるのは次の機会といたしましょう」。

《フォキオンの葬送》(下左)はプルタルコスの『フォキオン伝』による。アテネの有徳の政治家フォキオンが誤った民衆の裁判により、ちょうどソクラテスのように、死罪となった。市内での埋葬を禁じられた遺体は、アテネから郊外に運ばれる。その光景を描いたものである。プッサン自身もストア派哲学に傾倒し、徳性を強調する絵画を描こうとしたのであった。絵としては、遠景はその遺骸が出発した場所であって、たんなる背景ではない。

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《フォキオンの遺骨を拾う》(上右)はその続きと見ることができます。近景中央ではフォキオンの士の遺骨が拾われている。遠景中央は、厳格なたたずまいをみせる神殿です。両者を、湾曲する小道がつないでいる。しかし画面全体に緊張感と厳格さをもたらしているのが、中央の神殿であり、それを中心とする強い正面性です。さらにいえばこの神殿は、非業の死をとげた有徳の士の擬人化であろうとさえ考えることができます。

そのほか私見によれば、プッサンの絵画では近景における人物と、遠景における建物が、なんらかの性格上の意味上の対応関係を持っていると推察される。しかし確信をもって主張できるものはないので、やめておきます。

理想的風景=古代の風景、であるのですが、古代の風景といってもタイムマシンで遡ったりギリシアやローマで彷彿するものではなく、古代の神話、英雄、建築、生活(=田園的生活そのもの)をふたたび蘇らせようとするものであった。神話や物語の背景として、風景が描かれる場合でも、背景の風景や建物は、人物のなんらかの特性を反映したものであった。そういう意味ではセルリオが舞台デザインを悲劇=古代都市、喜劇=中世ゴシック都市、風刺劇=田園風景と使い分けたことを思い出させます。

さらには現代の景観思想も、基本的には理想的風景の一派にすぎないようにも思われます。

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2008.03.10

「事実の風景」について

ひきつづきケネス・クラーク『風景画論』の読書ノートです。今回は第二章「事実の風景」について。

キーワードは「光」「雲」「空間」である。しかし「空間」は透視図法との関連も示唆されながら、近景/遠景といったもののことにすぎないように思える。オランダ絵画の話しのなかでわかるように、クラークは「光」(と「影」)によって演出される「空」「雲」について語りたいのである。19世紀イギリスへの序曲とするためである。

だとすると「事実」は、空と雲について述べたかったクラークが、自然主義と事実主義という迂回をしたということだったのではないかと思いたくもなります。しかし「事実」とはなにか、はそれなりにいい設問です。クラークの論を紹介しつつ、ぼくなりに再解釈してまとめてみよう。

(1)小画面/大画面(p.55):目の前に広がる風景を描く風景画は小画面である。構成を工夫しさまざまなものを書き込んだ大画面の風景画は、たいがいアトリエで制作されたものである。ゆえにそれは現地/アトリエの対比である。現地では事実がそのまま見える。しかしアトリエでは、事実は再構成されるか、ねつ造される。

(2)理想/事実:歴史画も宗教画も、面前でおこったことの忠実な記録ではない。聖母マリアの慈愛あるれる表情を描いても、それは事実ではなく理想を描いているのである。それは事実でないからこそ重要視される。いっぽう事実そのものを描くのは、下等なこととされる。ゆえに風景画は蔑視されることもあった。これはイタリア・ルネサンス/北方ルネサンスの対比でもある

(3)理想主義/自然主義:前項の言い換えかもしれないが、クラークは自然主義にたびたび言及している。

(4)風景とはそもそも「事実」なのか?とぼくなりにかんがえると、歴史的には明らかで、風景とはまず目の前にはない、理想化された、空想されたものであった。だから風景=非現実、が歴史的出発点であった。近代になって人間は自然を征服してしまったところで、風景は現実のものとなった。のではないか?自然は芸術を模倣する、といわれるゆえんである。

(5)背景としての風景/単独としての風景:クラークは区別していないが、宗教画などの背景として描かれる風景と、まさに主人公として描かれる風景とは異なると思われる。私見では、風景とは遠景でしか描きようがない。では風景としての風景画は、近景がない、あるいは工夫して近景が空白、不在、虚無として描かれることになる。ぼくはそう考えるのが好きなのである。

ということでクラークは「事実の風景画」=「17世紀オランダ風景画」をこの章で説明しようとしている。そこにいたる前書きは30ページにもわたる。ペヴスナーもそうであるが、イギリス風の語りは個人的には嫌いである。語りに完全に身を委ねるとそれなりに心地よいが、批判的な距離を保とうとするととたんにイライラする。

いちおう読書レジメ風にだらだらと書いてみよう。

フーベルト・ファン・エイク《トリノ時祈書》(p.55)はきわめて小型の風景画であって、最初の近代風景画と呼べる。彼は「事物をみたす光の感覚を色彩でもっていかに見事に描出したか」を示す例であった。

ヤン・ファン・エイク《宰相ニコラ・ロランの聖母子》(下左)(p.60)には「前景から後景へと滑るように進んでいける感覚」が見られる。風景画とは「遠景」の発明であった。さらに《聖女バルバラ》(下中)には、異なる建物の習作が、組み合わされている。これは現実の風景を伝えようとする「地誌学的」なものではない。《ゲントの祭壇画》も(下右)。

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上左の《聖母子》であるが、近景は聖母子などテーマが描かれている。3連アーチ窓が、近景と遠景をしきるスクリーン。遠景はそれ単独で存在しうる風景画となっている。橋の欄干に向かって、こちらには背中を向けて、川か遠くかを眺める人物は、まったくの日常と解釈させていただきたいものだ。聖と世俗=日常がレイヤーをなして共存していると解釈したいのである。

「事実の風景画」が成り立つための条件 として「新しい空間感覚」が必要とされる。この感覚は、ヤン・ファン・エイクなどフランドル絵画にとってはあくまで経験的、まさに感覚的であった。これを科学的に理論化したのがフィレンツェの芸術家たちである。クラークは、ルカ・パチョーリ、アルベルティ(カメラ・オブスクラ)、ブルネレスキ(教会堂をつかった実験)らに言及しているがここでは割愛する。彼が強調するのは、ブルネレスキの方法論では「空」が描ききれなかったように、フィレンツェ的な「明確に科学的な透視図法は、自然主義的芸術のための基盤とはならない」ということである。

だからファン・エイクの「事実の風景」をさらに発展させたのは、フィレンツェではなく、ヴェネツィアであり、とりわけジョヴァンニ・ベリーニにおいてである。《聖フランチェスコ》(下左)ではその「遍満たる光」のもと、膨大な自然物が描写されながら、細部描写は統一的である。天からふりそそぐ陽光は、地上のすべてにあふれるのであり、「神はすべてのものに住み、すべては神のうちに在る」のである。さらに《牧場の聖母》(下右)では、肌寒い日のつかのまの微光が描かれている。

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しかしベリーニの風景画は発展しなかった。ローマのルネサンスでは、あくまで人間中心主義的な芸術観が支配的であって、風景はテーマとされなかった。ミケランジェロにとっては、フランドル人が発明した風景画は、芸術の名に値しない些末事であるばかりか、シンメトリーや比例を満たさない、有害なものでさえあった。

そうした偏見のなかでも傑出した画家として、クラークは、ヒエロニムス・ボス《マギの礼拝》(下左)、ヨアヒム・パティニール《ステュクス川を渡るカロン》(下中)、ブリューゲル《イカロスの墜落のある風景》(下右)らを挙げている。彼らはローマ的な理想主義とはまったくことなる自然主義的な画家たちである。とはいえ面前のランドスケープの写真的描写ということではない。さまざまな営みを展開する人間たちを、その無数の細部を、きわめて綿密に描ききる彼らは、17世紀オランダ風景画の前史なのであった。

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上の3葉は、左から右にいくほど、画題となったテーマの扱いがしだいに軽くなってゆく。

カロンはギリシア神話の登場得人物であり、死者の魂を冥府に運ぶのであるが、この絵ではそれは口実にすぎない。画家はむしろ空想的な風景を描きたいのである。

イカロス墜落の光景など、画中のだれも注目していない。付随的テーマが本来のテーマを凌駕してゆく一例だが、ぼくはこういうのもけっこう好きである。

クラークはやっと本題の「17世紀オランダ風景画」に言及する。その背景として3点。(1)社会学的には、ブルジョワ芸術、市民階級的芸術であって、彼らは理想主義的というより現実主義的であった。(2)自由な科学的精神がオランダでは残っていた。曰く「自然観察の時代」「レンズの時代」。(3)芸術がいわば通俗芸術化していた。

しかしクラークは「目に見えるままを表現することを好むネーデルラント人の古来からの性癖」(p.91)とあるように、民族的性格という視点はぬぐいがたくあったようだ。だから彼は、時間軸に沿って、ひとつの絵画形式がすこしずつ発展しているように記述しながら、根底では、オランダらしさのことを考えているのである。

オランダ風景画の例としては、レンブラント《風車》、ライスダール《アルンヘム近くの渡し舟》1561、フェルメール《デルフト遠望》1660-1661、らが挙げられている。クラークの関心の対象は、ブルネレスキが失敗した「空」であり、その空につねに微妙な表現をあたえつづける「光」であった。ここでコンスタブルの「光と影は決して静止せぬものと心得よ」が引用されている。オランダ風景画の核心であるとともに、クラークにとってオランダ絵画とイギリス風景画をつなぐ絆であった。フェルメールの《デルフト風景》では、空と雲を描こうとしたのにたいし、地上の建物たちは、それぞれ違う姿をもちながら、等価なものとして扱われている。光、影、空などが目的であって、地上のものは絵を描くための口実のようなものとなっている。

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18世紀は風景画にとっていい時期ではなかった。絵画は科学ではなくトリックになり、カナレットなど例外のほかは、自然主義的絵画はきわめて困難となった。しかしながら、英国のロイヤル・アカデミーにおいて絵画教授フューリスが風景画の劣等性を述べているとき、コンスタブルはアカデミーの生徒であった、などとクラークは物語を演出するのであった。

以上です。

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2008.03.09

「象徴としての風景」について

 これはケネス・クラーク『風景画論』の第一章のレジメのようなものである。建築設計演習のための副読本、という位置づけだから、物足りなさそうと思われる人はパスしてください。だいぶ前の岩崎美術出版のものとちくま学芸文庫のものがある。どとらも目を通しましたが、今回は後者を参考にしての要旨です。

 まず古代ギリシアでは、芸術家の関心はもっぱら人間にあったので、風景は対象とされなかった。ヘレニズム時代も、風景はたんに装飾として描かれるだけであった。

 このように古代芸術では風景への関心はあまりなかった。しかし風景を描くその手法、とくにビザンチンの手法、光や空間を描く方法、は影響を与えた。

 中世人は自然を象徴のシステムとして読んでいた、というのがこの章の要旨である。

(1)象徴/感覚 

 中世において特徴的なこと。「象徴」が「感覚」よりも圧倒的に重要であった。

 中世絵画は「象徴」的なものである。万物のかたちをシンボルとしてとらえ、あらゆるものはキリスト教の教えのなにがしかを反映していた。シンボルは、その自然物のありのままの姿とはまったく無関係であった。記号学におけるシニフィアンとシニフィエのようなものである。観念こそ神にふさわしいものであった。

Photo 《カンタベリー詩編挿絵》

 中世人は世界を象徴化して理解していた。花、木、は美しいのみならず、神がなんらかの意志を表明しているものであった。

 それに比較して「感覚」は卑しいものであった。人間の感覚を喜ばせるようなものは、それだけで罪深いものであった。庭園には薔薇の花が視覚や嗅覚に快楽をあたえ、歌や物語が聴覚を満足させる。

 一般的に、農夫や漁民にとって自然は観賞の対象ではなく、生活の糧、生命の危険、などより直截な利害にかかわっていた。

(2)庭園/荒野

 12世紀になって「庭園」が「再発見」された。もちろん聖書にも庭園は描かれているからヨーロッパ人が知らなかったのではない。しかし東方文化に触れることで、ふたたびそれを意識することとなった。

 まず「パラダイス」はペルシャ語に由来する。「壁で閉ざされた囲い」を意味する。十字軍活動によりイスラム文化圏の文化が移入されたのであった。

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(左:ケルン派《パラダイスの庭》、右:《一角獣と貴婦人》)

 『薔薇物語』やダンテ『神曲』やスペンサーの『神仙女王』などの中世文学はそれを反映している。あるいはパリのクリュニー博物館所蔵の《貴婦人と一角獣》。これらは〈閉ざされし庭(ホルトゥス・コンクルスス)〉として描かれるのであった。

 庭園と対概念となるのが荒野であり岩山である。庭園は愛らしく、安全である。しかしそこから出れば、自然は、錯乱し、広大で、危険で、畏怖すべきものである。

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(左:《荒野に赴く聖ヨハネ》、右:フィレンツェ派派《隠修士の生活》)

 かくしてゴシック絵画では、荒涼たる奇妙なかっこうをした岩山が、人間に敵対的な自然として描かれる。フィレンツェ派による《隠修士の生活》やジョヴァンニ・ディ・パオロの《荒野に赴く聖ヨハネ》などが典型例である。人間にやさしい庭園とは対極的に、荒野や岩山は人間に敵対的で試練を与えるのである。

 クラークはチェンイーノ・チェンニーニを引用している。孫引きしてみよう。「山を描くためによい方便を得ようと願い、これを自然のものの如くに見せかけようと願うならば、ごつごつした、磨きのかからぬ大きな石をいくつか用意せよ。そそて理性が汝に好しと許す通りに明暗を用いつつ、ありのままにこれを描写せよ」。これはプッサン、ゲインズバラ、ドガらの方法の先取りでもあるそうだ。

 つまり自然の描写とはいいながら、観念的なのである。実際の自然を観察するまえに、あらかじめ定型=自然もどき、を制作しておくのである。

 ゴシック絵画に描かれた山岳がこのように想像上のものであるのは、当時はまだ登山の習慣がなかったからである。生業との関係は注意しなければならない。狩猟は貴族のスポーツであり、登山は近代人の娯楽であり、彼らがそれを楽しんだから絵画として描かれる。農民は海や畑や田園の風景には関心をもたない。それらは美しいと鑑賞するにはあまりに生活に密着している。田園はそれ単独で再発見されたのではない。農民と田園は1セットとなって、領主や、近代人=都会人によって、「再発見」されたのである。これはヨーロッパでも日本でも同じである。

(3)中世的な風景概念からの離脱

 典型例がランブール兄弟による《ベリー公のための豪華時祈書》(15世紀初頭)である。中世的な象徴的伝統が影をひそめ、ネーデルラントに特徴的な、事物をありのままに見ようとする姿勢があらわれている、という。

Photo_6 (ランブール兄弟《時祈書》

 さらにクラークは1420年ころに、人間精神は変化し、「光」と「空間」についての初期科学的なとらえ方がはじまったとして、後段における説話展開を示唆している。

(4)まとめ

 現在では建物と景観が「なじむ」ことのみ評価されている。しかしもともと自然は人間と敵対的であった。荒野と岩山はまた、神のシンボルによって満たされていない、その意味で反宗教的、反人間的な空間であった。

 現在の景観思想、風景思想を生み出した根源にあるのが、人間が自然を支配したという歴史的事実である。風景観はその支配が進展するプロセスのなかで変化してゆく。

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2008.02.27

平戸とラ・ロシェル

 口上から。「平戸プロジェクト」という新カテゴリーをつくりました。

 これは大学でおこなう建築設計の演習のための、背景の説明です。ピックアップすべき背景としては、網野善彦の中世都市論、港湾都市の世界史論、海からの日本史論、港市(こうし)概念、教会建築(とくにゴシック建築)、景観論、とくにロマン派芸術における景観のとらえ方、おなじくロマン派建築におけるランドスケープと建築の一体化という発想、17世紀の世界史的状況、などなどたくさんある。これらの多岐にわたる文脈を、授業でいちいち説明してゆくのはたいへんである。多くの視点を学生がいつでも参照できるように、あらかじめ用意しておかねばならない。そのため、ブログなので断片的で順序だってはいないが、学生と教員が共有すべきカードとして複数枚あらかじめつくっておこうというものである。

 あくまで建築設計教育の補助教材である。建築史、都市史、絵画史、政治史、経済史、国際関係史、宗教史にふれるが、書いているぼくも多くの分野では素人であり、参考文献を読みっぱなしの抜き書きであり、未整理な読書レジメのようなものである。むしろ専門家からのアドバイスも欲しい。そこでブログというオープンな形態をとったしだいである。

 今回はまず平戸は特殊なようで、17世紀の世界史的状況の典型であったというようなお話です。フランスの大西洋側の港湾都市ラ・ロシェルとの類似性である。

 まず事件としては、平戸では1640年前後にオランダ商館取り壊しとその出島移転が決められるが、ほぼ同時期、ラ・ロシェルでは1628年に国王軍は市に侵攻して壊滅させ、王権に従順な都市に去勢化してしまう。その背後に、海外貿易、宗教など、相違点はたくさんあるとはいえ、おなじ問題群を抱えていた。

 ラ・ロシェルLa Rochelleは大西洋を望む港湾都市であり、安野眞幸のいう「港市」であった。深沢克己『近世フランスの港町』(山川出版社2002)にその17世紀の状況がよく書かれている。

海港と文明―近世フランスの港町 (歴史のフロンティア) 海港と文明―近世フランスの港町 (歴史のフロンティア)

著者:深沢 克己
販売元:山川出版社
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 12世紀にこの都市はアキテーヌ公領に併合される。しかし一種の自由港となる。国王代官、総監はいなかった。市政体による自治がなされた。市長と24名の参事会員たちがいた。

 イングランド国王ヘンリ二世は1199年に、ラ・ロシェルを自治体として認知する。自治体、すなわち封建領主、教会領主から解放された。13世紀より城壁が建設された。イギリス、フランドルとの外交関係が樹立された。ワインと塩が輸出され、布が輸入された。銀行や商人が、ブルターニュ、スペイン、イギリス、フラマンから集まってきた。15世紀より、カナダ、アンティユ諸島と交易し、奴隷貿易も始まった。

 プロテスタントの都市であった。宗教戦争のさなか、1565年、司祭たちは海に投げ捨てられた。

 深沢克己によれば、ここはプロテスタントの都市であり「国家のなかの国家」であった。1568年、市長たちはカトリックを排除した。権力はプロテスタントが握った。新教徒の安全地帯であり1572年のサン=バルテルミ残虐事件ののちは新教徒たちの避難場所であった。フランス国王軍をとおざけ、イギリスやネーデルラント北部7州と独自の外交関係を維持した。ほとんど「独立都市共和国」であった。

 しかし1620年より、ルイ13世とリシュリユは攻囲戦を展開する。兵糧攻めのすえ2万人が餓死した。1628年、ラ・ロシェルは降伏する。市政体、特権は廃止された。

 宗教的にはカトリックがプロテスタントを、体制的には内陸性国家が海洋性都市を、経済的には農本主義が通商主義を、政治的には絶対主義が都市国家を制圧したのであった。

 ここでラ・ロシェルの観光写真である。撮影は2000年。

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 上は、要塞のような港湾都市の面影はわずかである。いまではリゾート用のヨットハーバーというところか。

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 市門は要塞のように頑丈である。 

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 裁判所。王政時代の古典主義。中世自由都市の自由なスタイルではなく、大国家フランスが強要する厳格な古典主義である。

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 プロテスタント都市ラ・ロシェルが国王に屈服してから、このサン=ルイ大聖堂が建設された。ルイ16世時代のファサードはいわゆる「イエズス会式」であるが、あくまでファサード様式であって、この教会がイエズス会というわけではない。フランス・カトリック教会であることを主張する様式である。十字軍で功績のあった聖ルイ王を祀っているところがあれである。この教会堂の裏には地方長官(国王が直接派遣する官吏)邸があった。

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 広場の地下駐車場。遺構の一部をそのまま露出し、光庭としている。

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 中世以来の市庁舎。15世紀末からの建設。ゴシック様式。ここにいた市長が、カトリックを追い出し、国王と戦った。この市庁舎のすぐ裏に、プロテスタント教会、プロテスタント博物館がある。

 地方長官+大聖堂という国王が支配する空間、市庁舎とプロテスタント教会というかつての都市国家的なものが支配する空間は、今でも都市のなかにそれぞれの場所を占めているのである。

 さて平戸については萩原博文『平戸オランダ商館』(長崎新聞新書2003)である。ラ・ロシェルと比較するためには最適の文献である。具体的、簡潔にして的確である。学生のみなさんにはプロジェクト着手まえの一読をお勧めします。

平戸オランダ商館 日蘭・今も続く小さな交流の物語 (長崎新聞新書) 平戸オランダ商館 日蘭・今も続く小さな交流の物語 (長崎新聞新書)

著者:萩原 博文
販売元:長崎新聞社
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 オランダの東インド会社は1602年に設立された。ところで1598年にロッテルダムを出港した5隻のうちリーフデ号は、紆余曲折のすえに、1600年大分県に到着した。乗組員20数名のなかにはかの三浦按針ことウイリアム・アダムスがいた。80年代に人気のあったテレビドラマ『将軍』は彼の波瀾万丈の日本滞在記である。とうぜん今の学生たちはしらないであろう。自慢ではないが、ぼくはロンドンのB&Bで見ていたぞ。ともあれ按針は家康に気に入られ、彼の外交使節となり、旗本という身分まで与えられて活躍するのであった。

 このリーフデ号の日本到着を知った東インド会社は、日本との通用をすることとし、船団を派遣した。1609年、船団は平戸に到着した。ところで松浦鎭信(1614年没)は、ポルトガル以外の貿易対象をもとめていた。家康もまたカトリックの国スペイン・ポルトガルではなくプロテスタントのオランダにたいして好意的であった。オランダ人たちはこのような好条件のもと、平戸に商館を建設することとした。1611年より平戸にオランダ商館が建設された。

 ところで平戸藩主・松浦隆信はオランダと強い協力関係の構築を目指した。1624年、タイオワン(台湾島南部)事件もあったが、日本とオランダの貿易は黄金期を迎える。とくに平戸藩はその日本側の窓口であって、萩原博文は「平戸藩とオランダ商館は運命共同体」であったと書いている。

 隆信は、1635年にはマカオ侵攻をクーケバックルと話し合い、1636年はマニラ遠征計画を練っていた。1637年、島原の乱では、オランダ船は乱の鎮圧に貢献した。これらは東アジア貿易圏の支配を、平戸とオランダが共同で目指そうというものであった。

 平戸の商館関連施設は充実していった。1636年、オランダ商館は石造大火倉庫を。台湾サッカム製のレンガがつかわれた。1630年代末は倉庫や商館増築など建設ラッシュであった。しかしそれがあまりに豪華な建物であったので、幕府は1639年、すべての建物の取り壊しを命じた。そして1641年には長崎出島への移転が命じられた。平戸では20年ほど前から商館関連施設の発掘調査がなされており、また、オランダ商館建築の復元プロジェクトも練られている。

 ラ・ロシェルと平戸との比較。

 地理的類似性。どちらも島であった。ラ・ロシェルは大陸の一部とはいえ、大西洋に面し、さらに沼地に取り囲まれておりほとんど大陸から切り離された島であった。平戸もまた、東シナ海を望み、半島、大陸、東南アジアなどを望む、島であった。

 内陸性国家と海洋性都市国家の矛盾。ラ・ロシェルはオランダのように海外貿易で冨を蓄積し、政治的にも自律し、ほとんど独立国にようになりつつあった。フランス王国はこれが許せなかった。これは平戸と幕府の関係でもあったのではないか。たんに宗教や海外貿易独占の話しではないであろう。幕府は幕府で、統一したはずの端部が、独自に海外とネットワークを構築することで、自律した強大な勢力になることをもっとも恐れたのではないか。

 交易主義と農本主義の矛盾。ラ・ロシェルは交易で自律と冨を獲得しようとしたが、フランスはコルベールの重商主義とはいいながら18世紀になると重農主義で経済を立て直そうとするなど農本主義ともいえる方向を選んでいた。これは幕府による日本統一のシステムとほぼ同様といえよう。網野善彦はこの農本主義的なものがつくられた視点であることを強調している。

 宗教的な問題もあったこと。ラ・ロシェルは、プロテスタント都市が、カトリック国家によって侵攻され支配されたという結末であった。とはいえフランスは教皇の支配力から自由であろうとする国家であって、ヨーロッパ内での覇権争いにおいてもスペイン(ハプスブルグ家)とは敵対関係にあった。平戸では、まずカトリック=ポルトガル・スペインを追放するために、プロテスタントが利用され、つぎにプロテスタントも結局は出島に幽閉される。などと考えるとブルボン王朝と幕府は、同じ宗教を共有しているのではないが、独自路線の選び方はなんとなく似ているではないか。

 フランスは内陸型大国家をめざし、海洋性都市国家を破壊しようとした。そのためグローバルな情勢のなかではつねに遅れてしまい、イギリスとの植民地争奪戦争では連戦連敗であった。大陸内部のグローバルな状況を支配しつづけた。幕府は、島国日本の天下統一を維持するために、島国でありながらどこか内陸的大国家のような路線をとったと表現できないか。鎖国とは、そういう矛盾に満ちた選択であったように思える。日本には大陸はなかったからである。

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