カテゴリー「宗教と建築」の13件の記事

2009.08.01

五島の島めぐり

7月29日と30日は、長崎、佐世保、五島の教会巡りツアーであった。長崎県、長崎市、佐世保市、新上五島町の関係者の方々、B協会のYさん、ほんとうにお世話になりました。ありがとうございます。

2日間で、出津、大野、黒島、五輪、江上、土井ノ浦、青砂ケ浦、堂崎の教会を制覇した。専門家たちがオーガナイズしたので、とても効率がよかった。

五島の景観がとても美しいので、だまされがちではあるが、教会堂の美的判断については用心してかかるべき、などということを心がけて見学には臨んだ。とはいえ美的解釈を共有するのはとても難しい。べつに威張るのではないが、いちおう西洋建築史の専門家であり、個人写真10万点に及ぶほど建築を見続けているぼくにとっては、その美的判断が言葉ではなかなか通じないということも体験した。

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歴史的連続性の問題。16世紀のイエズス会による布教、禁教、隠れ、19世紀の再布教といったプロセスの連続性、不連続性。このことを関係者たちはいつも気にしていた。ぼくは布教される側ではなく、布教主体すなわちローマ・カトリックの意志に還元して考えると、その意志は連続していると考えられると主張した。また初期の布教、隠れ、云々は世紀をまたいでの対話だと考えられる。

素人が様式を云々することの問題。まず19世紀から20世紀の建築が、純粋にロマネスクである、ゴシックである、などと判定できるわけがない。基本的にこの時代は「折衷主義」である。だから正確には、ゴシックもどき、ゴシックのつもり、といった言い方が正確だ。しかも鉄川といった建築家が、どれほどゴシック様式の理解に自覚的であったか、は再検討の必要がある。

建築も切り取りようでは「モダン」といえる。たとえば下の写真。この光景はとてもモダンとはいえ、建築全体が、建築家がモダンとないえない。言葉の意味が及ぶ範囲を、いつも慎重に識別しなければならない。

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既存の写真集は、建築の魅力を引き出していないのではないか。そこまでいわなくとも、写真の取り方を工夫するといったことで、新しい視点や価値が生まれてくるはずだ。

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様式の完成とはなにか?もちろん鉄川の様式理解もしだいに進化したであろうし、ロマネスク的設計の連作系統もあるので、そのなかで様式の完成というようなものもいえるであろう。しかしだからといってそれは様式の、ということはある時代ある地域の集合的美意識としての様式の完成、とはいえない。

交流とは。19世紀は世界全体が交流モードであり、多少の時間差はあっても情報はどんどん伝わる。そんな状況で文化の東西交流などということが目玉になるのであろうか。むしろ基底として、おなじ課題を共有していた、というような発想と皮膚感覚が求められるであろう。100年前の同時代感覚をもっと考えるべきというのがぼくの意見である。

いろいろ考えながら、案内していただいた県や市や協会のひとたちと話し合った。

長崎の教会堂の原型は、同時代のパリのそれである。この確信がますます強くなった。

フェリーや鉄道の移動中は、読書をする。雨宮処凛『ロスジェネはこう生きてきた』平凡社2009。ぼくの教師としてのキャリアは彼らロスジェネに教えることからはじまった。文章はリズムがいい。檜垣立哉『ドゥルーズ入門』ちくま新書2009。流動/非流動の話しは面白かった。佐々木俊尚『2011年新聞・テレビ消滅』文春新書2009。マスコミを代表する新聞記者が、マスコミの崩壊を語る。語るべきことを所有している人びとが、たとえばブログのような手段で語り始めたら、世は変わってくる。『思想地図』2号、2008。特集は「ジェネレーション」。雨宮処凛の書と重なる。団塊世代の子供たちがロスジェネである。その世代間論争はどうもピンとこない。

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2009.05.02

若桑みどり『聖母像の到来』(青土社)を読んで

うかつにも、最近やっときづいたのだが、若桑みどり先生の遺作(標記)が、半年ほどまえに出版されていた。

ぼくがときどき考えている長崎の教会と、同じような構図で考えることができる。つまり地方の文化財にすぎないと思われていた絵画や建築に、真の意味で国際的なあるいはグローバルな視点をもたらすことで、その深い意味を再構築できる可能性がある、というようなことである。なので、とても面白かった。

これはちょっとまえに流行った世界システム論とも重なっている。まあそれはそれとして。

論じられているのは、宗教改革がおこり、さらに対抗宗教改革がなされた16世紀という時代。ペヴスナーもまた美術を論じることをつうじて16世紀をヨーロッパ精神の危機ととらえるのだが、その視点がふたたび取り上げられている。

この書で具体的かつ綿密に述べられていることを、ぼく流に乱暴に要約してみる。つまり宗教改革は、カトリックにとっては、ヨーロッパ内部布教という点ではおおいな勢力喪失であった。カトリックはその代償を海外布教に求め、スペインの力も活用して、新大陸やアジアに布教する。そのときに「聖母マリア」崇拝を土着の人びとの教化のために活用するという、文化政策をとった。

キリスト教という普遍宗教は、ヨーロッパ内部の布教においても土着宗教と習合することで教化を進めたが、おなじ手法が、アジアでもなされたわけだ。そして日本ではそれは「マリア観音」としてあらわれた。

若桑の壮大な世界観によれば、マリア観音は中国の「子授け女神」や日本の「小安大明神」というアジア的な母性への土着信仰が、キリスト教の聖母子像と一体化したものである。

さらに彼女の指摘で興味深いのは、16世紀に日本にもちこまれた聖母像の芸術的レベルである。従来説ではヨーロッパの二級品にすぎないとされてきた。しかし実際は、海外布教のために念入りに制作された一級品であったという(p.128)。そのヨーロッパの一級品が、やはり高度に成熟していた安土桃山文化と一体化して、すばらしいマリア観音像を生み出した、というのである。

そういわれれば、今まではたったく逆の説明ばかり聞かされていた。マリア観音とは禁教のなかで信仰を守るための隠れ蓑であった、とか。その美術史的な位置づけや、さらにはアートとしての価値の客観的な評価などほとんど聞いたことがない。

そうではない。、マリア観音は、時代の狭間に生まれたエピソード的なものではなく、ヨーロッパのマニエリスム、日本の安土桃山文化の正統な嫡子であり、きわめて芸術的価値の高いものである、という説明である。

・・・・こうした16世紀の状況は、ぼくが考えている19世紀末から20世紀初頭の状況ととてもよく似ている。

フランス革命となり、教会権力は世俗権力の前におおきく後退する。教会は、ヨーロッパ内部での失地を、海外布教によって埋めようとする。16世紀にそうしたように。

カトリックはイエズス会ではなく、こんどは「パリ外国宣教会」に布教をゆだねる。19世紀のはなしはすでに書いたのでバックナンバーを読んでいただきたい。ようするに、パリ経由で長崎にやってきた宣教師は、当時のパリの教会建築の様式も参考にして、日本に教会堂を建設したっておかしくはない。

人づてに聞いた話であるが、この3月に海外の文化財専門家が呼ばれて、長崎県で教会についての国際シンポジウムが開催されたらしい。長崎県の教会堂については、地元学者らの研究成果もある。しかし現物を見た専門家たちは、ヨーロッパの同時代のものと似ている、とのみ指摘しただけで、ほとんど興味を示さなかったらしい。というわけで世界遺産登録のハードルはすこし高くなった。

ぼくなりに問題点を整理して、考え方の道筋を提言したい。

(1)外国人の視点や価値観から長崎県の教会堂がどう見えるかというイマジネーションがなかった。これは日本の文化財研究が、やはり一国建築史的な視点において閉ざされており、まだまだ国際化していないからである。

→とはいえ日本人研究者もグローバルな展開をしている。そういう新しい発想を取り入れることをためらってはならない。最近ではアジアの建築も、植民地時代を経験している。だからアジア建築専門家もイギリスやフランスのアーカイブまで遡及して調べている。長崎の教会堂を調査するために、フランスのアーカイブを調査することは、現在ではミニマムだと思われる。

(2)しかし外国の専門家が、既知感があるから面白くない、日本の土着建築と混交したのなら面白いが、というように考えるのも、一方的な態度だと思う。

→既知感があるのなら、なぜその既知感がもたらされるかを分析するのが、研究のシーズである。マリア観音も、ぼくが興味をもっている長崎の教会堂も、アーティストらがなんとなく模倣したのではない。その模倣、参照、引用のなかに、当事者たちの深い理念が反映されている。「普遍的」価値とは、そのことを踏まえて初めて明らかになるのであって、たんなる名作主義のことではないはずである。

(3)長崎の教会堂は、しょせん擬洋風であり、世界遺産などという西洋的基準で計ることそのものに無理がある。九州遺産でいいではないか。長崎遺産でいいではないか。・・・こういう意見もある。しかしこれもおかしい。

→擬洋風というのがそもそも自虐歴史観であってよくない。幕末明治の職人たちが見よう見まねでつくった擬洋風建築、といった30年前の語り口である。ぼくは、「単なる擬洋風」だと思われていた長崎の教会堂を、西洋の専門家がはじめて文化的な視点から真摯にかつ批判的に観察する。そのことの歴史的な意義をもっと大切にすることであろう。最初の見学でよい評価が得られなかったことで意気消沈し、180度方向転換するのもどうかと思う。西洋からの見方も一方的なものなのだから、反論し、対話し、主張することだと思う。そういう文化交流さえできなければ、普遍的価値など云々できない道理であろう。

・・・などということを考える次第である。ぼくの愚見はともかく、若桑みどりによる「マリア観音」再評価は、よりダイレクトに長崎の教会堂云々への力強い追い風であるはずだ。

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2009.01.16

フレノ神父と浦上天主堂(長崎)

日本における教会建築の歴史についての研究は、どうも一国史的、国内史的だなあとおもっていた。建築はまず事業者があって実現し、それから利用者がつかう。教会建築の場合、利用者である信者たちの立場から見ているが、建設主体である宣教師たちがいだいていた建築理念、デザイン感覚、などは二の次である。

宣教師の側からみた教会建築史は、ありそうでないので、そういうものを書かねばならないとはおもっていた。そうこうするうちに、アマゾンで19世紀に日本にきたフランス人宣教師のモノグラフ(2008年8月刊)を発見したので、さっそく購入して読んでみた。

ピエール=テオドール・フレノ神父(1847-1911)である。石工・大工の家系だが、カトリックの家系でもあり、カトリックの中等教育を受け、パリにある外国宣教師養成施設にはいって、1873年に長崎にきた。

とうぜんずっとフランスにいて、教会堂でミサをし、パリでは当時の教会堂建築も見ていたはずで、日本にきて浦上天主堂を建設しようというときに、そうした宗教者としての経験がまったく反映されないことなどありえない。しかも神父はみずからプランを作成したのである。

そして19世紀末は、ヨーロッパではすでに近代のさまざまな建築設計の新しい方向性が模索されていた。その近代性という視点から、長崎の教会堂建築を考察するべきである。またそれは可能なはずだ。

そしてそのとき、カトリック教会と、フランス世俗国家、神父が育ったジョンザクという都市とその地域、の19世紀近代における新しい関係を見なければならない。当然だが、フランスはすでに伝統的社会から脱皮して、社会における教会の新しいかたちを模索し、葛藤をくりひろげていたのである。日本における教会堂建築も、たとえ間接的であるにせよ、そうした同時代状況のなかにあった。このことを忘れてはならない。

ぼくが入手したフレノ神父の伝記がかかれたきっかけは、2007年に長崎大司教がフランスの上記地域の司祭であるパスカル・ドラジュ神父に手紙を書いたことによる。つまり長崎司教は35人の巡礼者を従えてジョンザクをちかぢか巡礼する、というものであった。

ジョンザクにとっては青天の霹靂であったらしい。つまりご当地出身であり長崎に布教にいって貢献した神父の存在など、だれも憶えていなかった。だからこれはジョンザクの人びとにとっては再発見であった。そしてもてなしとしてフレノ神父についてのコンフェランスを開催することとなった。そのためにアーカイヴを発掘して、神父の足跡をたどる小冊子を数週間でまとめた。・・・これがぼくが入手した文献のもととなった。

当時のフランスにおける教会/世俗社会の関係をあらわすエピソードをご紹介しよう。

フレノ神父がそだった町でも、教会は困難な時代をへていた。まずフランス革命で教会堂が破壊される。ピエール=テオドール司祭はこの教会堂を修復するために、市や市議会にはたらきかける。苦労のすえ1854年に聖別される。・・・ここで司祭が、市(=世俗権力)に働きかけるという意味がわかるでしょうか。つまり革命によって、教会組織は特権集団ではなくなり、世俗社会によって管理されるものとなった。これは教会にとってはほんとうにつらいことである。

フレノ神父は中等教育としてモンリユ神学校に入学する。この神学校は、1906年、政教分離法によって閉講となる。つまり宗教は、教育の場から完全に追放される。これを「世俗化」(ライシテ)という。ライシテは世俗社会、とくに共和派がつよくいだいた理念であった。これもまた世俗社会と教会のあいだの闘いのひとつ。

渡日する直接のきっかけは、日本にいた宣教師から、パリの宣教団体本部に「テレグラム」で連絡がはいり、新たに宣教士を派遣するよう要請したからである。宣教師は、つねにハイテクを利用していたのだった。

神父の母親は健康がすぐれなかった。また神父は日本にゆこうとしていたし、当時は、フランスに帰国する可能性などまったくなかった。だから家族は、1872年ころ、最後の家族旅行をした。その先が、スペイン国境ちかくのルルドであった。このルルドもまた、19世紀中盤に少女が聖母マリアの姿を見てその言葉をきいたということで、カトリックはそれを奇跡として公認し、ルルドは大巡礼地として発展した。

1872年、「鉄道にのって」故郷からパリにゆき、宣教団体に入会する。鉄道開設の直後であった。

1873年、訪日するために、マルセイユで船にのり、レセップスが1869年に建設したスエズ運河を通過する。そんなに運河は大きくない、というのが彼の印象であった。

・・・などなどです。

このように宣教師のモノグラフを描いてみると、そのディテールを一別しただけで、時代性がつよく反映されていることがわかる。あたりまえのことだが、宣教師たちもつねに、いま、ここ、を生きている。彼らもまた近代性のただなかで海外布教に携わった。では彼らのその近代性のなかで、建築はどう思念されていたか?そこがこれからの課題である。

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2008.06.08

日曜日は教会にいこう!・・・というわけで美野島教会となぜかロリアン市のノートル=ダム教会

授業のひとつとして美野島教会にいった。といっても引率の先生としてではなく、むしろぼくは学生たちにくっついていったほうなのだが。

築90年くらいらしい教会堂(いちど移築された)、もと付属幼稚園であったNPO活動施設、司祭館と、いろいろ複合的である。

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今の司教さまが15年前に来日していらい、いろいろな社会活動に貢献している。外国人労働者たちの、生活、滞在許可、医療、教育、などさまざま面にかかわる支援。もちろん日曜のミサもふくめて。それからホームレスのための炊き出しなど。

この炊き出し活動もいろいろ面白かった。彼らは携帯もインターネットもないが、炊き出しの日についての情報など、あっというまに広がるのだそうな。口コミの力である。また炊き出しについては、当局は好意的ではなく、むしろ容認してやっているという態度なのだそうだ。

ぼくは20年前、コルーシュというフランスのコメディアンが始めた「心のレストラン」というのを目撃しているし、炊き出し活動がもともと教会活動でありながらいかに社会的広がりを見せているかを知っている。またそもそも教会が、かつて社会的住宅など、人びとの生活にいかに介入しているかを多少は知っている。

だからぼくは、ああこの司祭さまはフランスでやっていたことを、日本でも普通に継続しているのだな、という印象である。

飛び入り参加のぼくだったので、準備がまったくなく、スピーチでもほとんどしゃべれなかった。こんなこともしゃべればよかった。

・・・・いまでは教会は狭い意味での、心の問題にかかわっている。しかし中世においては、社会のすべてに関わっていた。都市のそれぞれの町には教会があった、いや教会を中心として、地域がつくられていた。だから人は生まれると、教会に出生届けを出し、洗礼を受け、結婚式を挙げるだけでなく婚姻届けを出し(今日でも2重届出制と聞くが確認はしていない)、最後は死亡届けを出して、埋葬される。

しかし近代国家は、社会を徹底的に世俗化した。だから教会は心の問題だけをゆだねられるようになった。それ以外は、教育も、結婚も、世俗のものとなった。

しかし人間は、心だけを抽出してそれ単独でどうこうできるものでもない。またひとりひとり個別にどうこうできるものではない。集団としての人間を救済しなくてはならない。教会の社会的存在とは、世俗化した社会であるからこそ、改めて問われるべき性格なのだ。

・・・・といったことです。

で、帰宅してからぼくの演習の準備なんかをする。ロリアンのノートル=ダム=ド=ヴィクトワール教会の写真をどうこうしていたら、気づくべきことにやっと気づいた。

これはビザンチン様式の近代化である。つまりドーム形式の教会堂の系譜であるが、イスタンブールのハギア=ソフィア聖堂、ヴェネツィアのサン=マルコ聖堂、南フランスはペリグーのサン=フロン教会というように、中世においてドーム式の教会堂の系譜がみられる、というのはぼくの授業でも定番にようにやっている。

さらにいえば19世紀末にできたパリのサクレ=クール教会堂はそのリバイバルである。またRC構造によるビザンチン建築もどきの教会も、パリ市内にある。

しかしロリアンという地方にもあったのである。いかにこのビザンチン・リバイバルが広まっていたかを再確認することとなった。

▼まずイスタンブールのハギア=ソフィア聖堂

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▼サン=マルコは省略。ぼくの講義をきいてください。

▼ペリグーのサン=フロン教会

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▼パリのサクレ=クール教会堂

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▼ロリアンのノートル=ダム=ド=ヴィクトワール教会

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ドームは、ルネサンス建築では頂上からの採光だが、ここでは下部のリング状部分からの採光である。

フランス近代には、ペレによるルランシーの教会のようなあきらかにゴシックの系統と思われるものもあるし、ル・コルビュジエによる彫塑的大空間もあるし、もちろん19世紀後半のロマネスク・リバイバルもある。しかしこのロリアンの例は、リバイバルというには遠ざかりすぎているが、それでもビザンチン建築抜きには考えられない。

さらによくよく考えれば、美野島教会とロリアンのそれは、ほとんど同時代のはずです。最大時差10年といったところだろうか(史料が見つからず、すみません)。

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2007.11.10

サント=クロチルド教会(パリ)と様式論争

 昨日は体調がいまひとつだったので、散歩と日用品買い物にとどめた。

 そこで前から再訪しようとおもっていたサント=クロチルド教会にいった。宿から歩いて10分そこそこ、いい散歩である。

 この教会にはまえまえから注目していた。19世紀初頭に形成された新街区における教会建築というまちづくり的視点、世俗国家のなかでの建設という宗教的視点、またパリにおける最初のゴシックリバイバルという建築史的視点が交差されうる、おもしろい例であったからだ。

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 まず1827年、パリ市議会はこの町には、適切な教会堂がないことから、その新築を決める。この地区には教区教会としてサン=トマ・ダカン教会しかなく、信者は多かったからであった。土地はもともとあったカルメル会女子修道院とベルシャス会女子修道院が提供されることとなった。

 これは1802年に成立したコンコルダ(ナポレオンと教皇の和解体制)体制の結果である。公認宗教制度であり、また同時に、教会財産は国家財産であり、聖職者も国が任命する。だから国家がフランス国内の教会を完全管理するということである。反面、だからこそ、国は教会堂建設に公金を使うのであった。

 だから新しいサント=クロチルド教会のために、修道院の土地(=国の土地)を使い、市が教会堂建設を決める、ということが起こる。教会組織が決めたのではないのである。

 さらにその建築様式については、ネオ=ゴシック(ゴシック=リバイバル)にするかネオ=クラシカル(新古典主義)にするかで一悶着があった。

 しかし重要なのはいかにも19世紀的な様式論争であったということではない。2様式で対立したのが、いずれも世俗の、公共的組織であったということである。

 ネオ=ゴシックを支持したのは、当時セーヌ県知事でありそもそもこの教会建設を提案したランビュトと、市議会である。なぜ知事かというと、当時、パリには市長職はなかったからである。オスマンも知事であった。フランスの首都であるパリが首長公選となって自律的な自治体になることは許されなかった。知事は内務省が選ぶのであり、ランビュトはむしろ国家の意思を反映していると考えるべきである。

 ネオ=クラシカルを支持したのは市民建築評議会はであった。評議会は革命によりできたものである。詳しいことは調べていないが、共和国の理念にもとづいて、公共建築を市民の立場からチェックするためのものである。制度としてどの様式を支持すべきという決まりはないが、革命=共和制の理念=新古典主義(古代ローマの共和主義)という流れはあった。

 この論争においても肝心の聖職者たちはどこにいたのかわからない。

 問題が紛糾したのは、19世紀の文化政策制度にも原因がある。

 プロスペール・メリメは歴史的建造物検査長官であった。彼は、「歴史的建造物委員会」でとりくまれる修復工事が、かならず前述の「市民建築総評議会」に提出されるようにしてしまった。

 歴史的建造物委員会は全員ではなかったが、ゴシックに賛成であった。評議会はリバイバルに反対し、古典主義の支持者たちであった。

 この対立が原因で、古い教会の修復など、いちいち意見が対立し、たいへんなことになっていた。

 ゴシック擁護者のひとりが、1844年から『考古学年報』を刊行していたディドロンであった。中世の、音楽、ステンドグラス、建築などの価値を力説した。ゴシックは国民的芸術だと力説した。建築家ラシュは13世紀の様式を最良とした。またヴィオレ=ル=デュクもまたゴシック建築理論をこのころには構築していた。

 そうした後押しがあったので、1845年市議会は、様式はゴシックだと決議した。市議会が議決できめるというのは最終手段であるとしか考えられない。委員会、評議会では決められないのであった。

 同時に市議会は、守護聖人を聖クロチルドと聖ヴァレールだとして決議した。これもかなり政治的判断であろう。聖クロチルドは、フランク王といしてカトリックに改宗した最初の王であるクローヴィスの妻である。下の写真は、左=聖クロチルド、右=クローヴィス。(聖ヴァレールはもともと地区にあった小礼拝堂の聖人であった)。すなわちフランス国家の起源、キリスト教国家の起源にかかわるような守護聖人の選択は、すぐ近くに下院議事堂があることなどの関連が考えられ、ランビュト知事の意気込みであろうか。

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 ケルン出身のフランソワ=クリスチャン・ガウが設計し、その弟子テオドール・バリュが仕上げた。ブルゴーニュの石材、小屋組は鉄である。鉄構造をつかったパリで初めての教会建築となった。

1857年に奉献。今年はなんと献堂150周年である。

 この町中の教会堂ひとつのなかに、フランス近代の本質がかいま見えることが理解されるであろう。乱暴なスケッチをしてみよう。

(1)革命は、教会組織を解体し、美術、建築、土地など、教会財産であったものをすべて国家財産とした。(美術とは略奪であるという文化帝国主義は国内的にもそうなのである)

(2)国家はいちど過去から切断された。それは失われたキリスト教社会を回想し、取り戻そうとする「ロマン主義」を生んだ。シャトーブリアン、ユゴーである。

(3)国家の文化政策として、このロマン主義的な雰囲気を基調として、中世芸術を一種の国民芸術とし、その保護と修復をする機関ができる。つまりフランスでは、記念碑、文化財、遺産はまず中世芸術のことであった。そののち一般化された。

(4)一時期、新古典主義=革命的=共和主義的、ネオ・ゴシック=中世的=国民的というような構図が生まれた。この構図は、市民建築評議会と歴史的建築委員会という制度的対立にも反映された。

(5)もちろん様式の対立が、そのまま政治的立場の違いと整合するわけではない。しかしそれぞれの様式が支持されるその出自を確認することは大切だ。

 蛇足だが、シャイオ宮では、古建築ギャラリーはほとんどゴシック建築、近現代建築ギャラリーはテクノロジーと新工夫の建築、となると、これはかなりヴィオレ=ル=デュクの理念に忠実なのである。つまりそこには古典古代、古典主義、折衷主義がみごとに排除されている。さらにいえば「ボザール」が排除されている。

 これはまさに「フランス建築」のひとつの定義である。

 別の定義があることはド・モンクロの『フランス建築』を読めばわかることではあるが。ともかくもシャイオ宮は、国内的にも国外的にも、きわめて党派的ではっきりしたメッセージをおくっているのである。

 

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2007.11.08

大浦天主堂とパリ外国宣教会

 ボンマルシェ百貨店の裏にパリ外国宣教会があって、宿から歩いてもいけることから、今日はその書店にいってきた。

 この宣教会の施設全体のつくりもおもしろい。チャペルがあって、その地下はクリプト(地下礼拝堂)になっていて、そこから階段をすこし下りると書店の地下売り場であり、その上が売り場とカウンターである。地下礼拝堂はミュージアムを兼ねている。展示の目玉は殉教絵画である。おもにベトナムで殉教した宣教師が描かれているが、これはベトナムからみれば処刑であって、リアリティを求める絵画ではないが、凄惨である。

 これが地下礼拝堂にあるのは理にかなっている。そして殉教が海外布教のモチベーションを高めたこともよく知られている。だから長崎に26聖人殉教のためにまず大浦天主堂が建設されたことは、きわめて自然な心情のなせるわざである。

 書店は、殉教そのものにかんする文献のほかは、むしろアジア・スタディの専門店といった感じであった。これから布教に旅立つ宣教師が、訪問国の言語や文化などを学習する、そのための書店であるかのようである。

 宣教会にはアーカイブもあり、またそれに基づいて宣教会自身が研究報告書をだしている。その『研究・資料 etudes et documents』第7巻は日本布教の初期にかんするものであった。

 大浦天主堂建設については、日本ではベルナール・プチジャン(1829-1884)を中心人物として描かれているが、この文献ではむしろルイ・フュレ(1816-1900)が創設者である。

 フュレは、宣教師となるまえ、1840年代、パリのコレージュ・スタニスラスで物理などを勉強していた。琉球滞在ののち、フュレとプチジャンは1862年10月22日に横浜に到着。フュレは事情でプチジャンを横浜に残して、1863年初頭、オランダ船で長崎に上陸した。

 フュレは長崎にカトリック教会堂を建てるために、パリのサン=ロラン教会堂をモデルにしたという。彼はプランをすでに描いていた。そののちおくれてプチジャンが長崎に到着する。

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 左がパリのサン=ロラン教会堂。右はパリ外国宣教会アーカイブ所蔵(no.569)の長崎教会堂ファサード。大小の塔のリズムが似ている。ただ右はゴシックとはいえない。さらに現天主堂は改築のあとのものである。

 1864年、日本布教では上司であったジラールがやってきて、フュレとプチジャンに会った。ジラールは、フュレ案が小規模すぎると判断して、長崎市により広い敷地を許可してもらうことを考えた。彼らは敷地をいろいろ検討した。その結果、選ばれた土地は、かの有名なグラバーの広大な敷地のなかであった。

 広い敷地が得られて教会堂もより大規模にされたが、フュレ案の骨子はそのまま保たれたという。

 ところでグラバーはスコットランド出身のプロテスタントであった。その彼がカトリック教会に土地を提供するのだから、いろいろあったのだろうが、基本的には長崎にすでにあったプロテスタント社会は、あらたにできつつあるカトリック社会にたいしてそんなに意地悪はしなかったという。

 いずれにせよ大浦天主堂のスタイルを決めたのがフュレとすると、彼は1840年代のパリで勉強をしたのであれば、いわゆるゴシック・リバイバルの影響を受けていたと考えるが自然である。その彼がサン=ロラン教会というゴシックの教会堂をモデルにしたことは時代的には、ごく自然なことであった。

 パリ=コミューンの悲劇を乗り越えるためにサクレ=クールが、南西フランスのロマネスク=ビザンチン様式で建設されてことに象徴的に示されるように、19世紀後期はむしろロマネスク様式の教会堂が一般的である。

 長崎の教会堂はゴシック系の教会堂が20世紀になっても建設されていった。同時代、フランスやその植民地では、むしろロマネスク様式であった。長崎は同時代の世界の動向とはまったく無関係であった。そこには、説明できる理由がなければならない。フュレの選択が、そのまま固定化されたというのがひとつの説明である。

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2007.11.06

シャトーブリアン、パリ外国宣教会、長崎の教会という三者の意外な関係

 散歩しながらの偶然の発見であった。ボンマルシェなる百貨店の近隣のバック通りをふらふらあるいていると、シャトーブリアンが住んでいた住宅を発見した。この種の「発見」はその人間に依存した言い方である。パリ市の文化財看板で見つけただけのことで、まあ、これを発見というのは大仰なのだが。

 しかしこの建物が、以前このブログでとりあげた「パリ外国宣教会」が建てた建物だと知ると、このリンクはちょっとした発見ではないだろうか。しかもこの並びにいまでもこの宗教団体が活発に活動しているのである。

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 シャトーブリアン(1768-1848)はロマン主義の父とよばれ、作家にして政治家であった。とくに建築の文脈では1802年の『キリスト教精髄』が重要である。この書のなかで彼は、キリスト教こそが文学と芸術をはぐくむ基盤だとして、とくにゴシック芸術と中世芸術を高く評価し、廃墟のもつロマンティックな価値を認めた。彼は、反近代的あるいは反啓蒙主義的であって、実際、啓蒙主義者たちを嫌悪し、フランス革命にも反対であった。

 彼の『精髄』は、19世紀におけるフランス・カトリシズムの復興に貢献したとされる。

 しかし彼はたんなる反動ではない。革命によって、教会財産が国に没収された。教会関係の今日でいえば文化財は、それを支えていた社会的基盤から切り反されたのである。その価値を認めさせるには新たなロジックが必要である。

 彼は、文化や芸術を高めるのは、古代文明でもなく世俗文化でもないとした。つまり伝統的な、古典古代文化の意義を認めないことであり、宗教から切り離された科学を信じないことである。つまり中世の再評価である。

 つまり教会堂建築であれ、修道院建築であれ、その組織そのものが解散させられ、土地も建物も国がいちど没収した。そうした宗教芸術を、その宗教性ゆえに認めさせるというのは、自明であったことを、再度意図的に別の言葉で説明してゆくことである。ぼく自身はこのような再評価は、宗教芸術がその宗教性により評価されるべきことを、まったく世俗的な方法論でなしとげる、というまさに近代的な営為であると思う。

 いわゆる「保存」概念の成立について、フランスの文献と、日本のそれとではかなり書き方が違う。フランスでの一般的な説明は、まずフランス革命直後にロマン主義の萌芽があり、そこには中世芸術の再評価が含まれるのであり、それを文学的文化財保存などの表現する書き方もある。

 なにはともあれ、フランスにおけるごく一般的な書き方として、通説として、この『精髄』とヴィクトール・ユゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』が、ロマン主義の形成ということをとおして、記念碑、歴史的建造物、文化財ということの意味を打ち立てたのであった。

 すなわち教会芸術は、いちど教会組織から切り離されて、所有者がいなくなった。管理維持する主体がいなくなった。だから国民一般の財産と読み替えて、国民の精神を養ってきた芸術である、とする。だから国家がそれを記念碑、文化財と認定し、保存する。これが文化財の「保存」の根本的な意味である。それは所有者が変わったことを契機とする。だから「遺産」という表現が正統性をもつのである。

 フランスの文化財政策においていまだに国家の力が強いのは、国家がそうした文化財、文化遺産を宮廷、貴族、教会から没収したことによる責任の所在が、歴史的にはきわめてはっきりしているからだ。

 さらにはシャトーブリアンは、中世を再評価した点で、文化財と保存の思想的先駆者である。フランスの古建築保存は、まず、なにより中世建築のそれであるからである。

 文化財だの遺産だのを考える場合、どうしても法制度のなかにその根拠を求める傾向があって、よろしくない。法制度は、哲学と思想をいだく人びとによって確立されるのであって、そうした哲学に遡及しなければならないのである。

 ・・・それはともかくシャトーブリアンはバック通り120番地のこの建物(上の写真)で晩年をすごした。

 これは「パリ外国宣教会」が、18世紀に、土地経営として館を貴族階級に貸すために建てた邸宅である。建築家はクロード=ニコラ・ルパ=デュビュイソン、彫刻はデュパンとトロ。ルスティカ積みの対になったポーチが印象的な、新古典主義の建物である。ルドゥほどの厳格さはないが、端正である。革命で没収され、19世紀初頭に転売された。彼はここで『墓の彼方からの回想』にとりくんだ。

 カトリックに帰依し、宗教が芸術を高める力について力説したシャトーブリアンが、宣教会が建てた邸宅に住んでいたというのが、偶然ではあろうが、辻褄があう話である。もちろん彼がそこを借りたときには、没収され転売されたあとであろう。しかしこの「パリ外国宣教会」は、いちど没収された地所を第三者を経由して買い戻したのであり、現在もバック通り128番にあるし、この邸宅も買い戻されて、カトリックのご縁で、彼が店子になったのかもしれない。

 そしてこの「パリ外国宣教会」こそが、長崎の教会堂を建てた宣教師を送り出した本拠なのであった。

 ちなみにこの宣教会は現在でもかなりの地所を所有しているようで、道路に面してはその書店、土産物店、宣教活動事務所などがあり、中庭に面しては礼拝堂、図書館などがある、かなり大規模な組織であり、財政的にも順調であるように見受けられた。そのうちのぞいてみようかな。

 シャトーブリアンと長崎の教会堂の、不思議な因縁である。

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2007.09.23

イスラム圏のキリスト教会建築

 ふたつの教会は似ていないだろうか。三角のペディメントと大アーチ、大きな円形の薔薇窓 、こまやかなアーケード、3連アーチの玄関という構成である。塔のつきかたが違うが、どちらも双塔である。 

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  これは「東方旅行」ですでに紹介したものである。左はチュニスの大聖堂、右はアルジェのサン=シャルル教会。建築的には同じ系統のデザインであって、同一建築家がさまざまなバリエーションを展開したというようにも想像できる。すくなくとも同じ教団の建築政策のもとで設計されたのであろうと推測される。イスラム圏における植民地時代の建築はまだまだ十分には紹介されていない。また教会はかならずしも国家的枠組みに対応しているわけではない。・・・しかしいずれにせよ、アルジェとチュニジアにおいて類似の教会デザインがなされたことは、なんらかの背景があったことを推定させる。

 残念なことにWEBで検索しても、オルガンの紹介であったり、古い絵はがきの紹介であったりで、建築家や建設年代はよくわからない。20世紀初頭であろう、くらいである。また最新の文献でもくわしくは紹介されていない。

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サン=シャルル教会の古い絵はがき。WEBより。

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2007.09.17

パリ外国宣教会(Missions Etrangeres de Paris)についての情報収集/フランス人宣教師たちは原風景を長崎にうつそうとした?

 長崎の教会についてぼくの周辺では騒がしくなっている。地元の人びとが取り組んでいる最中なので、ぼくなどが余計なことをすることはできない。しかし西洋建築の専門家として、フランスからあるいは宣教する側から見た長崎の教会堂はいかなるものかについて若干スタディしたので、ご披露したい。意欲的に取り組んでいる若手の研究者のみなさんには、これを参考にして、ぜひ頑張っていただきたい。

最初に気がついたことを結論先取り的に箇条書きする。

・パリ外国宣教会は、いわばポスト・イエズス会として18世紀に布教の任を失った同会にかわって、アジア布教を教皇からまかされた。

・パリ外国宣教会は、インドシナ、中国などと貿易・外交関係を結ぶためのフランス政府の先兵としての役割を果たすこととなった(これはイエズス会とポルトガルの関係と同じ)。日本においても、フランスの先端技術は大胆に輸入されていたし、宣教師の来訪はそれと平行している。

宗教の側からの近代批判であった。フランスではフランス革命以降、19世紀全般にわたって、世俗化、近代化、産業化により社会は急激に変化していった。地方の、田舎の、信心深い人びとはそうした変化にたいし、たんに適応できないといったものだけではなく、確信犯的に対応したくないという心性がつねにあった。パリ外国宣教会に入会して、海外へ布教することは、そうした人びとにとってのはけ口であった。

・アジアは、とくに日本は、そうした現代文明に不満をもつ宗教家にとっては、布教のフロンティアであり、フランス母国において失われつつあるキリスト教的理想郷を、べつの形で実現しようというものであった(のではないか?)。すくなくとも世俗化してゆく母国、だからアジアをキリスト教化しよう、というモチベーションがあったと推定する(仮説である)。

・長崎にゴシック様式の教会堂が多いのは、こうした宣教師の原風景である。彼らはフランスの田舎の小さな町や村の教会という環境で育った。そしてフランス的現代文明には批判的であったとしたら?明言はされなくとも近代都市に批判的であったら?パリやアルゲでは流行最先端の様式がつかわれているが、それが表層的なものに感じられたら?彼らは自分たちの理想的風景を異国の地において実現しようとした。(仮説としてはこんなところである。もちろん証明するにはかなりの調査と研究とをようする)。

・1例としてマルマン神父の郷里の教会堂である。みごとに高窓がない(長崎の教会堂にみられる傾向。高窓のある教会は少数)。

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以下は情報収集。なお「パリ外国宣教会」の名称は時代によって、呼ぶ主体によって違う。外国宣教神学校、外国宣教協会・・・など。フランス語のHPでも一定ではない。

  日本語のウィキペディアとフランス語のそれとではずいぶん違う。情報量も違う。とりあえずフランス語版に準拠する。パリに拠点を置くカトリックの使徒団体。世界に福音伝道(布教)が目的。厳密に定義すれば、修道会でも教団でもなく、その会員たちもかならずしも修道士と見なされているのでもない。

 設立は1658-63年。アレクサンドル・ド・ロド(1591年アヴィニオン生)はイエズス会士としてヴェトナムで布教していた。聖書を現地語に訳す活動をしていた。しかし1630年に迫害にあい、戻ってきた。彼は教皇アレクサンドル7世に支援されて、3人のフランス人司教を説得して、アジア布教のためのミッションの旅に出発させた。3人とは、ピエール・ランベール・ド・ラ・モット、フランソワ・パリュ、イニャス・コトランディである。彼らがフランス宣教会の事実上の創設者であった。彼らは総勢17名でフランスから出発したが、2年にわたる旅のあいだに、8名がなくなった。そのうちのひとりがイニャス・コトランディである。
  フランソワ・パリュ猊下(ヘリオポリス司教、使徒座代理区長vicaire apostolique)であった)、ピエール・ランベール・ド・ラ・モット猊下(Bertyus司教、コーチシナ=現在のベトナムの使徒座代理区長)らが創設者。

 目的:教会の設立と、司教裁判権に従属する地元聖職者の育成によって、キリスト教を布教すること。宣教師を志願する人びとをリクルートするために、パリのバック通りに1663年、拠点が建設された。外国宣教神学校(Seminaire des Missions Etrangeres:アクサン省略)となのり、教皇アレクサンドル7世から承認され、フランス政府の法的認可をうけた。

 当初、これは修道会でも教団でもない。メンバーである司祭は、なんらかの教区に入籍したままであり、「布教聖省」(1662年、グレゴリウス15世によって布教を目的として設立された機関、今日のCongrégation pour l'évangélisation des peuples)の枠組みのなかで、外国のその地域の「使徒座代理区長」のもとで布教活動をするのであった。

  1710年。宣教会の規則が確立された。1840年、宣教師になれるのは司祭だけであったが、神学校生徒でも可能になった。神学校生徒はこの協会に入籍した。1917年、教会法が改正され、「外国宣教会」は司祭の協会であることをやめ、在俗司祭で構成された宗教団体となった。こうしてこの団体はその長と規約を投票で決めるようになった。

 神学校に入れるのは35歳までであり、最低3年間の布教経験ののちに、この協会のメンバーとなれた。

 布教史であるが、1658年から1700年まで。協会の布教本部はタイのアユタヤにあった。そしてトンキン(ベトナム北部)、コーチシナ、カンボジア、タイに布教をおこなった。4万人が洗礼。女性の教団も設立された。33人の現地人司祭が生まれた。

 もちろん協会の布教活動は、インドシナやインドにおけるフランスの商業活動の先兵でもあった。当時フランスはこれらの国々と通商条約をむすび、大使を置いた。バンコクを占領したし、インドシナ全体を支配する寸前までいった。しかし地域の司祭と司教のもとに、地域教会組織を管理した。

 18世紀前半、イエズス会はインド布教の担当を禁止されると、この宣教会がそれを担当した。イエズス会士たちは現地に残ったが、布教の成果はあがった。18世紀末、現地人の司教は6人、司祭は135人を数えた。神学校は9カ所。信者は30万人。洗礼は年3万人ほど。しかしフランス革命で一時頓挫した。

 19世紀に宣教会は活動を再開した。その財政を援助したのは、教皇に支援されローマに本拠をもつ教団Congregation pro Gentium Evangelisationeであった。

 布教の過程で、殉教するものは多かった。重要なのはこうした事件が、新聞、雑誌、書籍によって描かれ、ヨーロッパ諸国(とくにフランス、イギリス)の国民の感情に訴えたことである。これがコーチシナと中国に、さらなる宗教的、商業的、そして軍事的介入をすることに、国民的な合意をとりつけることに貢献したのであった。ちなみにスエズ運河もまた、布教の拡大という目的からも支援されたのであった。

 宣教師たち。19世紀と20世紀、宣教師になろうとする人びとの大部分は地方の田舎の出身者たちであった。これら僻地の田舎では、そもそもフランス革命の新憲法に宣言を拒否した司祭たちがいて、抵抗の精神をもち、暗躍するひとびとがいた。宣教会が1815年に再開すると、参加した若者たちはほとんどこうしたメンタリティの持ち主たちであった。数年ののちローマの布教本部は、こうした地方のあらゆる教区に海外布教活動を呼びかけた。教区組織が再建されるにつれ、さまざまな不満へのはけ口として、布教活動は教区の司祭たちの心をとらえた。彼らのほとんどは信心深いが貧しい家の出身者たちであった。家族は勉強のためにお金を出せない。彼らは布教活動をしたいと打ち明けると、家族や親近者たちはは猛反対した。それは家族の断絶、逃げるような別れ、別れの言葉もない離別、といったことが多かったようである。もちろん時がたって和解することもあったようだ。

 殉教がさらなる宣教熱を呼んだ。フランスの教区、司教区から宣教に旅立った誰かが殉教すると、その教区から次の宣教師が名乗りをあげるのであった。こうした司教区は、ブザンソン、ポワチエなどであった。さらに殉教が縁で、フランスの司教区と、海外の使徒座代理区が友好関係を結ぶということもある。

 宣教会の活動領域。当初はタイ、トンキン、コーチシナ、カンボジア、中国の一部であった。1776年、イエズス会が南インド布教から解任されると、その布教を引き継ぐ。教皇グレゴリウス14世は1831年、朝鮮半島と日本における布教を任せた。1838年、満州、1841年、マレーシア。1846年、チベットとアッサム(インド北東部)。教皇ピウス9世、1849年、中国のさらなる一部、1855年、ビルマ。ピウス12世、1952年にハワイと台湾の布教を命じた。しかしこうした過程のなかで、中国、ビルマ(ミャンマー)、ベトナム、カンボジア、ラオスからは追放された。

 宣教会は17世紀以来、4500人の司祭をアジアに派遣している。今日では379人を数える。

 バック通りの宣教会本部であるが、17世紀に建築家ランベールが礼拝堂を建設した。定礎式のときルイ14世のメダルが基礎の石におかれた。竣工は1697年。革命時に、すべての教会財産と同様に国の財産として没収され、売却されたが、ひそかに買い戻された。1802年、聖フランスシスコ=ザビエル教会となった。1848年、シャトーブリアンの葬儀。列席者のなかにはヴィクトール・ユゴー、サント=ヴェーヴ。バルザック。

  またパリ外国宣教会のHPから情報収集する。なおかなりの量のアーカイブがHPで公表されており、教会堂建設の経緯などもこれによりわかるのではないか。若い研究者に期待したい。研究の宝庫です。ぜひご活用してください。
http://www.mepasie.net/

(1)ベルナール・タデ・プチジャン神父;1829年にブランジ=シュール=ブルビンス生。オータンの神学校で学ぶ。1853年に司祭となる。2年間オータン神学校の教授、そしてヴェルダン=シュール=ル=ドゥ教区の司祭となる。彼は多くの教区で説教活動を展開知る。1858年、宣教会に入会し、1860年に日本に出発した。2年間琉球に滞在したのち、横浜、長崎に移る。大浦天主堂(宣教会では26聖人教会堂とある)については日本の文献・HPにあるとおり。

(2)ド・ロ神父;1840年にバイユ(カルバドス県)生。両親も信心深い人びとで、純粋な宗教的環境のなかで育てられる。幼くしてデュパンループ神父のもとにあずけられ、父親とは休暇のときにのみ再会した。1862年に外国宣教神学校(のちのパリ宣教会)に入会した。このとき22歳だから司祭としてではなく神学校生徒としての入会のはずである。バック通りには1年半いた。聖母マリアへの信仰が厚く、建築にも関心があった。神学校の中庭に、ノートル=ダム・デ・パルタン祈祷所の建設を指揮した。こののち病気のために司教区に戻る。1865年、カンのサン=ジュリアン教会の司祭となる。2年いた。プチジャン神父はリトグラフのできる人間としてド・ロ神父を日本に連れて行った。事実、日本に到着してはリトグラフでの出版にいそしんだという。あとは日本の書籍・HPのとおり。・・・ルトグラフというのがみそで、19世紀の建築書の挿図にもリトグラフは多用されている。現物を紹介するためには写真も銅版画や木版画もあったのだが、リトグラフが表現力があって、プロジェクト記述には向いているのは確かである。

(3)ジョゼフ・フェルディナン・マルマン神父;1849年、シマンドル=シュール=シュラン(ベレ司教区)生。シマンドル=シュール=シュランはスイスとの国境ちかくの町。現在の人口は638人。一度ペストで大打撃をうけ、僧侶たちが町を再建したという。両親もまた大変信心深い人びとであったようだ。普仏戦争ののち神学校に通っているうちに、海外への布教を進める神の声が聞こえるようになった。学長の許しは得たが、父親の涙と説得に直面したくはなかった彼は、一言もつげずにバック通りにやってきた。父親の狂乱ぶりはたいへんだったらしい。父親との葛藤は、困難で長く続いた。彼は田園の人であったようで、フランスにおいても日本においても、人びとが郷里を離れ都会に移住することにあくまで抵抗しようとした。長崎においては10棟ばかりの教会堂を建設したという。

あと何人かの神父もMEPで拾い読みしたが、・・・ここで中間まとめをしよう。

・ほとんどが地方の小さい町か村の出身で、きわめて宗教的な環境で育ったひとびとである。つまり社会的にはマージナルな立場であった。

・世俗化してゆく社会のなかできわめてピュアな宗教的環境でそだった。

・裕福な家庭出身の例もあるが、通説にあるように、貧しい家庭出身のひともいたし、布教出発で親との葛藤に苦しんだひともいた・・・。

・マルマン神父は出身村の教会堂の写真がWEBで検索できたが、まさに高窓のない教会堂であった。1例から法則化することはできないにしても、興味深い例である。日本にやってきた宣教師たちの原風景は、のどかな自然環境、そのなかの村、さらに集落のなかにある住宅よりはすこし大きいくらいの教会堂・・・であったのではないか。彼らは故郷の風景を、長崎に映してこようとしたのではないか。

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2007.09.15

【書評】三沢博昭・川上秀人他『大いなる遺産 長崎の教会』智書房2000/本書そのものがすでに大いなる遺産である

 長崎県では2001年いらい、長崎総合科学大学の林一馬教授らを中心に、長崎にある教会堂を世界遺産に登録しようという運動が展開されている。そして「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がこのほど暫定リストにはいったという。この活動も、本書に集結した地域の人々の活動の集積があったからであろう。

 著者であるが、写真家の三沢博昭は土木建造物を撮影する専門家であり、川上秀人教授は長年建築史の立場から長崎の教会を研究してきたし、結城了悟はイエズス会士であり二六聖人記念館館長であり、亀井信雄は文化庁建造物課であり、柿森和年はかくれキリシタンにして長崎市役所文化財課である。関係者の総力を結集した一冊であることを示している。

大いなる遺産長崎の教会 改訂版―三沢博昭写真集 Book 大いなる遺産長崎の教会 改訂版―三沢博昭写真集

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 とくに興味をもった点を箇条書きにしてみる。

 1853年、東洋布教の拠点を香港に置いたフランスのパリ外国宣教会が大浦居留地に本格的な教会堂・大浦天主堂(国宝)を建設しはじめたとある。つまり布教主体の変化である。ザビエル以来、日本を担当したのはポルトガルを後ろ盾としてゴアを拠点としたイエズス会であった。ところが明治以降は、香港を拠点とするフランスの教団であった。

 川上秀人教授は1971年より県に現存していた164棟の教会堂を実測調査し、その平面図を作成したという悉皆調査がなされた点である。長崎の教会群は国宝になり、やがては世界遺産にもなるかもしれないが、しかし遺産というものは現物の教会堂そのものだけではないということである。フランスの文化財の考え方からすれば、文化財のリスト、それらを情報化したものは、あるいは追記されてゆく文化的価値判断もまた、すでに当の文化財の価値の一部を構成している。であるなら川上教授の実測図面など情報化したものはすべて遺産の一部と考えていいはずである。一般的に、建築物の歴史的、文化的な価値判断は建築史家などがおこなっている。しかしそれを活用しようという後進の人びとは、そうした価値判断が所与の当たり前のものとして軽視しがちである。そうした方向にながされると、文化財登録件数は増えるのと反比例して、文化そのものは衰退するであろうことが容易に予測されるからである。

 棟梁建築家鉄川与助の存在。宣教師の指導をうけつつ、多数の教会堂を建設した彼は、建築学会の名誉会員でもあった。

 川上教授による教会堂分析のためのタイポロジー。構造(木造、レンガ造、RC造)、貫、内部立面構成、などにわたって長年の充実した研究の成果が示されている。

 さてぼくは川上教授とは同業の建築史の専門家である。したがってその偉大な成果をあえて批判する愚挙をお許しねがいたい。つまり教授の分析そのものは明確な基準にもとづくゆるぎないものであるが、それでも西洋的な様式の概念からは遠いのであり、それですぐれてヨーロッパ的な建築類型である教会堂を分析できるのであろうか、という不満である。すなわちゴシック様式を例にとってみれば、この様式の3大クライテリアは、尖頭アーチ、リブ・ボールト、フライングバットレスである。しかしこの3点を満たしていればゴシックかというと、そうではなく、それらがひとつの(リーグル、ヴェルフリン的な意味での)芸術意志によりひとつの様式を構成しなければならないのである。そしていくつかの基準をみたしつつ、それがひとつの様式として昇華されているかどうか、というのは機械的判断ではなくまさに高度な芸術的・様式的な判断である。そして川上教授の分析はひとつひとつの基準は厳密にあつかいながら、それらを統合しているはずの芸術意志はなんであったか、という視点が欠けているのである。おそらくそれは日本近代を専門とする建築史の研究者には一般的に不足しているものである。

 おそらく建築文化財が社会的に認知され広がりを見せるなかで、ユネスコ世界文化遺産的な枠組みのなかで、明快ないくつかの基準を満たせば遺産と認定されるといった、きわめて機械的な思考様式が広がりつつある。それにたいし建築史は、様式判定の下請け業者であってはならない。その総合判断ができるのはこれからも建築史の専門家なのである。そうした意味で、様式判断の総合性というあるべき姿に立ち戻ることが必要なのである。

 もうひとつの不満な点は、ド・ロ神父など宣教師についても詳細に研究されているようであるが、建築家として施主としての宣教師の分析としてはまだ物足りない点である。つまりここで問題とされているパリ外国宣教会にしろ、かつてのイエズス会にしろ、もっとまえのシトー会にしろ、およそ教団というものはコアたる教義はもちろん、宗教芸術や宗教建築についてもしっかりした方針をもつのが当たり前であって、それは宣教師個人の恣意でもなく、なんとなく時代の流れに沿うのでもない。きわめて意図的な建築政策がないのがむしろ不思議なのである。それを考える場合、パリ外国宣教会とカトリックとの関係、あるいはフランス国内問題として第三共和制における社会の世俗化の流れ、そして20世紀初頭の決定的な政教分離といったことが、日本においてどのような光と影を与えていたか、などなど、まさに世界戦略的な視点からすれば、長崎の教会は、日本の一地域のしんみりした閉鎖的世界ではなく、世界と連動したダイナミックな一部として見ることができよう。そうしたときに真の意味での「世界遺産」となることができよう。

 さてぼくは若輩者として偉大なる川上教授を批判しすぎたかもしれない。しかし川上教授のご研究は、本書をもってしてもまだまだ過小評価されていると判断する。上にのべたように、文化財ということを考えるとき、教授の研究や情報化そのものがすでに文化財の一部を構成していると考えるべきなのであって、それを遺産として引き継ぐということは、それを神格化することではなく、その労作を基盤としてそこからさらに発展させることであろう、と考えるのである。

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