カテゴリー「東方旅行(1)スペイン・マグレブ」の28件の記事

2007.09.29

東方旅行(032)1987年12月31日(木)チュニスからカイロへ

 【観光】Bardo美術館。先史、フェニキア、ローマ、アラブ。とくにモザイクがきれい。ミュージアムショップにはパリ碑文アカデミー賞を受賞した文献があった。建築関係も少なくなかった。なかでも『カイルーワンの柱頭』。パラパラとめくってみる。やはりこれら柱頭は古代建築からの転用材であったのだ。その起源は注目に値するものであったのだ。歴史は細部に宿っている。ヴェネツィアの石、カイルーワンの柱頭、東京の・・・新建材?

 チュニジアはコンパクトな国土と比較的穏健な民族気質が特質である。地理的には地中海の要所であった。そのためフェニキア人、ローマ人、アラブ人、オスマントルコ、フランス人に支配されることとなった。20世紀初頭から独立運動が始まり、1956年に独立するが体制は不安定であった。1991年の湾岸戦争ではフセインを支持し、イスラム原理主義に傾斜する。しかし基本的にはここは「ソフトイスラム」である。外国人には寛容であり、観光も重要な産業である。ぼくもここなら再訪してもいい。

 チュニジアにおけるナショナル・アイデンティティとは?基本的には日本などとはまったく異なったものである。民族・宗教的には、イスラム、地中海、アラブ・ベルベル(人口の98%はアラブ/ベルベル)という普遍的枠組みのクロスした形態をとる。建築的にはむつかしいところで、外国人でありスタディしていないぼくとしては、古代建築とイスラム建築はそれぞれ特性がはっきりしており、上位の概念でくくれるものではない。

 しかし「カイルーワンの柱頭」に典型的に示されるように、シリアやヨルダンなどと同様に、古代とイスラムは、柱身や柱頭(そしておそらく壁材そのものもそうであろうが、ビジュアルには訴えない・・)を転用するというきわめて即物的な建設行為によって、モノにより媒介されている。そのかならずしも観念的ではない(とはいっても柱頭のデザインはすぐれて芸術的、観念的なのであるが)、即物的な連続性が、上位の建築概念を構築するための手がかりになるのではないか。それは痕跡とか、模倣とかいうよりも強い何かを物語っている。

 若干考察すれば、死と再生なのであろう。これは地中海の石造建築ではありきたりのことなのだが、使われなくなり無用となった建物は石切場と化す。建物は解体され、転用材の産出場となる。こうした転用材が、たんなる切石などであれば、新しい形式の壁などの一部となって全体に埋もれてゆく。しかし柱、柱頭はそのアイデンティティをあくまで保つ。本来の文脈から切り離され、石切場に置かれ、一時的な死をむかえる。しかしそれはあらたな建物のしかるべき場所に置かれ、再生する。まったく異なる建物の一部となる。それは時代や場所だけではなく、建物の用途だけではなく、宗教というものまでトランスしつつ、そのアイデンティティを保つ。

  【未整理写真】モスク。近代建築(フランス人建築家の奇想であろう)、スークなど。

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 【移動】チュニス空港にて。「ホテルは決まったかい?案内するよ」「これからカイロへのフライトなんだよ」「ああ、じゃあいいよ!」。エジプト航空でカイロへ。到着は深夜。スムーズなフライト。隣のチュニジア人だかエジプト人だかはグッド・パイロットだと絶賛していたことが理由もなく印象に残っている。入国すると熱心なホテルの客引きに遭遇。彼らから逃れ、市内へ。

 【宿泊】Hotel Anglo-Suisse, 10.20EE(約5ドル)。いまとなってはどうやって宿にたどり着いたか覚えていない。部屋(どこもやたら天井が高かった)が見つかったころには新年をむかえようとする時刻になっていた。ホテルのロビーでは宿泊客たちがパーティーをやっていた。カウントダウン。・・・明けましておめでとうございます。1988年になりました。カイロの新年は格別だろうね。

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2007.09.28

東方旅行(031)1987年12月30日(水)ドゥガ(チュニジア)/地中海文明の重層性をあらわす好例として

 

 地中海的なるものといえば、ギリシアよりイタリアより、むしろカルタゴであり、そしてドゥガといった遺跡ではないか。つまり多民族の興亡すなわち支配と被支配が重層的に展開された地中海を象徴するのは、まさにこうした土着のもののうえ に、フェニキア、ギリシア、ローマがつぎつぎと上書きされた遺跡である。ひとつの強い普遍的な文明の痕跡しかないものよりも解読の喜びは大きい。

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 【プチ歴史】前11世紀ごろから北アフリカ圏には先住民族の進出が見られる。まずフェニキア人で、前1101年?にチュニジアにウティカを建設した。彼らは西リビアからスペインを目指した。前6~8世紀にアッシリアの攻勢のまえに勢力は衰えるが、カルタゴを中心に発展をとげた。彼らはあまり建築=遺跡を残していない。

 つぎにギリシア人。前8世紀ごろから地中海に進出。リビア、イタリア南部、シチリア島、南フランスに植民したのは周知のとおり。なかでもパエストゥムは有名。

 そしてローマ人。

 こうした支配者にたいし、リビア人やベルベル人など北アフリカ西方の土着民族がいた。彼らはドルメンやストーンサークルなどの霊廟建築を残している。カルタゴの文化にはこうした土着民のそれが反映されている。「ピュニック(フェニキア風)」と呼ばれる混合的な文化を形成するにいたった。それはローマ時代における地域性としてのこり、さらにはイスラム建築への流れさえ指摘されている。1997:ユネスコ世界遺産

 【遺跡】カルタゴ、ヌミディア、ローマ、ビザンチンの4文明が重層した、そしてきわめて保存状態のよい都市。これはそのうえに近代都市が建設されなかったことによる。丘の上に離散的に建設された都市。ピクチャレスクな古代都市。カピトリウムに神殿が建設され、フォーラムと広場を見下ろしている。公衆浴場があった。給水はどうしているのか疑問であったが、丘の上に巨大な貯水場2基があった。

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 リピコベルベールの霊廟(リビコピュニックとして紹介している文献もある。つまり土着=ベルベルとするかフェニキアとするかの違い)。ヌミディア人王室の数少ない遺構のひとつ。前2世紀。1842年、イギリス人領事トマス・リードがリビア語とフェニキア語の碑文を取り壊した。20世紀初頭修理。碑文は大英博物館にある。それによるとこの記念碑は、パルの子、イエプマタトの子、アテパンのために、アプダシュタルトの子アバリシュが建築家として、助手ザマルとマンギらとともに、建設した。頂上おかれたライオンは太陽、ピラミッド四隅のサイレンは空気の精、の象徴であり、それらは天上界を意味し、死者が騎士に導かれ、戦車に乗って天井のあの世に出発する、ということらしい。様式的にはエジプト、古拙期、ヘレニズム期の要素が融合されたカルタゴ圏における地中海建築の傑作とされる。

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 カピトリウム(カピトル神殿)。166-169年。ローマの三大守護神ユピテル、ユーノー、ミネルヴァに捧げられた神殿。マルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスを記念して建設された。北アフリカに典型的な神殿形式とされ、高いポディウム、前柱形式、ほぼ正方形平面のケラがそうであるという。「アフリカ積み」の壁。すなわち切石と小割石を組み合わせ、一見軸組構造と充填材の組み合わせのような形式。また近くにはフォーラムと公衆浴場があった。

 ユーノー神殿。カルタゴの守護女神Tanitの後継者としてのユーノーに捧げられた神殿。神域の囲壁の一部は残っている。この壁は3世紀のもので、女神のシンボル三日月の形をしていた。

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 劇場。ローマ時代のもの。168-169年に建設。ローマ領アフリカにあるものとしては最も保存状態がいい。ドゥガの人口5000人にたいして、3500人を収容。

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 ケレスティス神殿。

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 その他。

 【移動】南バスターミナルにゆく。Teboursouk行きは北駅だという。バスとタクシーを乗り継ぐ。北バスターミナルにて。Douga行き10時発12:15着、2,500TUD。Dougga市から遺跡まで4KMを歩く。Teboursoukまで5km、ヒッチハイク。運転手はとても親切。Teboursoukからティニスまでバス17:00発、2,150TUD。

【観光客】イタリア人ツアー。アメリカ人家族。フランス人家族。

【現地人】チュニジア人青年につかまる。ひとりは文通を望み、住所を書かされる(結局、便りはこなかった)。もうひとりは政治と宗教にかんする質問。ヨーロッパ人はなんのためにチュニジアに来るのかあきらかにしなお。ヨーロッパ人がコーランを読めば目覚めるだろう。君の宗教は?日本人はどのくらい勤勉か?アラブ語は難しい。アラブをどう思うか?・・・イスラムは諸宗教の統合であり、宗教の最終形態なのだ・・・

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2007.09.27

東方旅行(030)1987年12月29日(火)スーサ(チュニジア)

東方旅行(030)1987年12月29日(火)スーサSousse:【移動】乗合タクシーでチュニス→スーサ、2時間、3.300TUD。【食事】チキン半分5.300TUDとは高い。【帰路】スーサからチュニスまで鉄道。2時間。2.800TUD。チュニスに戻る電車の沿線は住宅街。独立住宅、連続住宅は、RC軸組に中空レンガの補填。表面は白塗り。イスラム風のアーチが装飾的。それを別にすればヴォキャブラリーは冗長ではなく、全体としては清潔。建物の規模もまあまあ。アルジェリアなどとくらべるとはるかに豊か。集合住宅も清潔なデザイン。

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市壁。アグラブ朝の時代859年、ビザンチンの要塞を取り囲むように建設。1205年、修復。1943年、空襲による爆撃。殉教者広場となる。

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大モスク。9世紀に建立。のちに改築。中庭三方の列柱廊はボールト天井、11世紀。礼拝堂に面するギャラリーは1675年。礼拝堂は6スパン、13廊式。要塞都市のなかのモスクである。中庭周囲の回廊部分の屋上も、城壁のようになっており、外側には銃眼飾りがつけられ、またパトロールもできるようになっている。

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Ribat。8世紀。最初は防御、巡礼を受け入れるため建物。のちには純粋宗教施設となる。
スーク。円筒ヴォールトがかかる。カイルーワンのものに似ている。

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その他。町並みなど。

スーサ小史。
紀元前9世紀:フェニキア人が都市を建設。
前6世紀~:カルタゴと同盟関係。
前310:シラクーサに占拠される。
前202:大スキピオに敗北。Hadrumete regional Romeとなりハドルメントゥム Hadrumetumという名称。
437:ヴァンダル人の浸入。
535:ユスティニアヌス帝、港を再整備。「ユスティニアノポリス」と改称。
7世紀:アラブ人到来。「スーサ」と改称。
9世紀:アグラブ朝。シチリア征服のためのアラブの拠点となる。
12世紀:ノルマン人の占領。
1537、1574:スペイン人の占領。
1574-1881:オスマン・トルコの支配。
18世紀:フランス軍(1770)、ヴェネツィア軍(1784,1786)の砲撃。
1881~:フランスの保護領。「スース」とフランス語風に改称。
1884:新しい港の建設。スース市政府の創設。
1988:ユネスコ世界文化遺産

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2007.09.23

イスラム圏のキリスト教会建築

 ふたつの教会は似ていないだろうか。三角のペディメントと大アーチ、大きな円形の薔薇窓 、こまやかなアーケード、3連アーチの玄関という構成である。塔のつきかたが違うが、どちらも双塔である。 

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  これは「東方旅行」ですでに紹介したものである。左はチュニスの大聖堂、右はアルジェのサン=シャルル教会。建築的には同じ系統のデザインであって、同一建築家がさまざまなバリエーションを展開したというようにも想像できる。すくなくとも同じ教団の建築政策のもとで設計されたのであろうと推測される。イスラム圏における植民地時代の建築はまだまだ十分には紹介されていない。また教会はかならずしも国家的枠組みに対応しているわけではない。・・・しかしいずれにせよ、アルジェとチュニジアにおいて類似の教会デザインがなされたことは、なんらかの背景があったことを推定させる。

 残念なことにWEBで検索しても、オルガンの紹介であったり、古い絵はがきの紹介であったりで、建築家や建設年代はよくわからない。20世紀初頭であろう、くらいである。また最新の文献でもくわしくは紹介されていない。

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サン=シャルル教会の古い絵はがき。WEBより。

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2007.09.22

【書評】八束はじめ『思想史的連関におけるル・コルビュジエ---一九三〇年台を中心に10』10+1, no.47, 2007, pp.176-192

 連載の途中の回だけの読解なので全体を見ていないが、アルジェについて(東方旅行020~)書いたあとで、そのアルジェにおける近代都市計画にふれた八束論文にたまたま目にとまったので、理解を深めるよい機会とさせていただいた。

 内容は表題からあるように、アルジェ都市計画をめぐるプロスト、ル・コルビュジエ、CIAM、TEAM Xなどの思想とプロジェクトの展開である。ぼくなりの位置づけとしては『思想としての日本近代建築』(岩波書店2005)と同じ視点からかかれている著作である。すなわちエリート=前衛である建築家たちがその近代主義をいかに展開したかを、賞賛と批判を公平に書き分けながら、彼らの思想的な転向問題をも含めて、書いている。おそらくこの連載はこの視点からル・コルビュジエや彼と同時代の建築家たちの思想を描こうとしている。ちなみにフランス人にとっての北アフリカは、日本人にとっての満州であって、こうしたアプローチは当を得たものであろう。1931年の植民地博(そのときの建物がパリのヴァンセンヌ門近くの太平洋植民地館である)、衛生指向の都市計画、カスバへの介入、住居計画などとしてフランス人たちが介入していったということが先行研究を丹念に読解しつつ描かれている。

 しかし彼の文章を読んでいつも感じることがある。その広範な読解をとおして学習させていただいているとともに、あるいはそれ以上に、こうした物語を描く八束本人の思想の軌跡としてどうしても読み始めてしまうというということである。

 ぼくは長い経歴の八束読者なのだが、彼が30年近くまえにヨーロッパのラショナリズム、フォルマリズム、コテククスチュアリズムの紹介でデビューした当初は、進歩的思想の移入という近代的インテリと思っていた。しかし転向論、日本近代についての論考、そして丹下健三の最後の弟子であることの自負などを知るにおよび、彼は西洋も日本もおなじ視点からきわめて一貫した変わらぬ視線で批判的に考察しつづけた人物であることを知るにいたった。

 アルジェそのものについてはコーエンのモノグラフが主著であるがそれには言及していないこと、また1930年代に的を絞っていることの不満はある。つまりアルジェは植民都市である。それは西洋がアラブを支配したということにとどまらず、植民、すなわち民を植え付けるといった直な表現のとおり、それは既存集落の傍らに建設されたヨーロッパ人によるヨーロッパ人のための都市である。それは1840年代から建設がはじまっている。つまりオスマン以前である。おそらく植民都市における新規性というものがあれば、オスマン以前にオスマン的なものが建設されたはずであったということである。それを19世紀的なものと位置づけることができる。

 つまりル・コルビュジエたちの近代主義は、カスバ=アラブ的ということのほかに、19世紀的なヨーロッパ植民都市としてのアルジェに対抗するといったことがあったはずである。そしてここが満州との違いである。もちろん八束が最後に指摘しているように、オリエンタリズムはユニラテラルであり、近代的であることの問題はそこにもあるのであろう。そのとおりであろう。しかしそのほかに国内問題、国内の対立の構図を、海外(もっとも植民地だから外国ではないのだが、歴史的にはやはり異国である)にそのままもってくることのはた迷惑でということであろう。八束が最最後にいった「バナキュラー」問題も、60年代に注目されたバナキュラー概念をいっているわけで、たんなる近代=普遍/伝統=土着という時間軸の話ではなく、西洋/非西洋という別の問題を含んでいるといっているわけである。ただそれは近代主義よりもっと普遍的な問題となるのではないか、という気もするのでわざわざ指摘したのである。

 最初の話題にもどって、読者にとって学習になること以上に、八束自身の思想が見えてくるということである。彼の同世代人がいわゆる近代批判ということでほぼ一致しているのとは違って、彼は両義的である。彼は近代主義を批判するときでも、自分が批判することに意義があるといったスタンスでそうするのであり、そこにはモダニストであることの自負が顕著である。近代主義はたとえ批判されるべきであっても、それは近代主義がさまざまなものを引き受けようとした、その重さにあるのだ、と語っているようにも感じられる。彼がもし最後のモダニストとして生き、そしてモダニストとして終わろうという決意であるなら、それはぼくの昔の予想をはるかに超えた、とても重いことであることは明らかだ。

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2007.09.21

東方旅行(029)1987年12月28日(月)チュニス/保護領下であり政教分離でありというクロスした状況とはいかなるものであったか?

 チュニスは見所の多い都市であるが、日程の関係でカテドラルとスークしか拝見していない。しかしカテドラルは、コロニアルな状況のなかでキリスト教建築の建設、しかも本国では政教分離といった、単純には整理できない状況での建設であったことを考えると、即断できるしろものではない。(なお建築解説は後半)

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 【航空券】Hotel Internationalにあるエジプト航空オフィスで購入。12月29日は満席だったので、12月31日チュニス→カイロ、227TD(=280ドル、4万円)。ヴィザカードで支払い。【宿】Hotel Central, rue Suisse。ダブル、一泊5TUD。移動疲れがたまっていたので、今日は一日チュニスでゆっくりすごそう。【両替】60ドル=45.800TUD。【新聞】1987年12月27日付のル・モンド紙によると「1ドル=125円という円高ドル安は日本の成長を促進するであろう」。

 【チュニス略史】チュニス小史。古代、フェニキア人が都市チュニスを建設。それは侵略者が交代していった歴史であった。フェニキア人、紀元前18世紀にカルタゴを建設。ローマ人。ビザンツ人。ヴァンダル人。シチリア経由のノルマン人。アラブ人(7世紀、ウマイヤ朝。750年、アッバース朝。800年、アグラブ朝。909年、ファーティマ朝、969年、カイロ遷都。1229年、ハフス朝)。スペイン人。フランス人。オスマン・トルコ(1574年~)。17世紀、レコンキスタでスペインから追い出されたムーア人たちが住み着く。1881年、バルド条約、フランス保護領。1943年、連合軍による解放。1956年、独立。

 【暴言】これだけ遺産に恵まれながら、それを生かそうとする精神がなかったのか?古代、中世、イスラムをもちながら、建築にたいする自我をもてなかった。ここにある近代建築もフランスの2流業者がすきかってにやったという感じである(それをおもえばヨーロッパの古典主義は空前絶後である)。あまりに保守的でダイナミズムに欠ける。発展の可能性をみずから見ようとしなかった?いやむしろ「完成」という概念があったというべきかもしれない。これこそが日本になくてイスラムにあるものか?

 【文献】モロッコ、アルジェリアとは異なり、ここには建築史の学術研究書がちゃんと書店で売られている。

 【テレビ】イタリアの番組が流れていた。地元番組はフランス風。

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 大モスク。732年建設。内部は15廊式で6スパン。186本の円柱は、カルタゴにあったローマ時代の神殿からの転用材。カイルーワンの場合は不明であったが、ここのモスクは転用材の出所がわかっている。柱が、とくに柱頭が、古代と中世を媒介にしている。

 どうじに古代建築からヨーロッパ建築に一本の線をひきその排他性を強調することがいかに現実を無視していることがわかる。イスラム建築もまた古代を継承しているのである。つまり古代はあとのさまざまな文明にとって共通の基盤でありOSであったということができる。

 スーク。とても狭い。はやく歩けない。

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 チュニス大聖堂。フランス式のとくにイル=ド=フランスのゴシック建築にはよくある対の塔。中央大アーチは、中世ではなく、むしろ19世紀的な都市性(都市空間に見合った大要素)のための演出に思える。下大アーチ上のアーケードはロマネスク風。ドームはビザンチン様式がペリゴール地方に伝わった様式に近い。ドーム見上げであるが、スキンチ・アーチであり、これはビザンチンにもフランス中世にも見られる。感覚的にはクリュニーとかあのへん。平面はフランスに一般的な、周歩廊がめぐっている巡礼式のもの。身廊のアーチはブルゴーニュ風。20年後、ウエッブで調べるのだが、20世紀初頭の建設ということしかわからない。ステンドグラスは当時の抽象絵画の影響を受けたものがあり、同時代性がわかる。

 ところが大聖堂身廊の柱と柱頭がおもしろい。すべて違っている。これもまた転用材である。そこから推測できることは、古代建築が(ひょっとして古代神殿が?)解体され、柱と柱頭が、イスラムのモスクに転用され、さらにそれが教会に転用されたとしたら?3宗教を渡り歩く柱たちがいたとしたら?この仮説は歴史家のロマンである。

 また上で述べたように、保護領下で、しかも政教分離下で、キリスト教会堂を建設するということがどういう具体的な状況であったのか、判明を要する。つまり国は財政支援しない、宗教団体が自助努力で建設する。しかし、ここからは可能性の話だが、宗教団体が建設の財源確保のために植民地でさまざまな活動をしたのではないか、それはなにか・・・・ロマンは続く。手前みそだが、こういうことが「長崎の教会」などと比較して検討されるべきなのだ。

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2007.09.20

東方旅行(028)1987年12月27日(日)カイルーワンの大モスク/建築の過渡期性ほど感銘を与えるものはない

東方旅行(028)1987年12月27日(日)仏Kairouen:英Qairouan:現地人の発音は「ケルワン」と聞こえる。

 あまり生産的な一日とはいえなかった。旅行日記によれば、この不満の残る一日は・・・ 。

7h30-9h30:乗合タクシー乗り場をさがすのに2時間もかかった。

9h45-11h45:タクシーの車中(3.400TD)。

12h00:ガイドしてやろうというチュニジア人青年ふたりにつかまる。親切そうではあったが、彼らにぼくの一日は支配された。

12h15:大モスクに到着。しかしキップが必要だという。

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12h30-15h00:くだんのチュニジア人青年の自宅で食事をごちそうになる。クスクス。彼は絨緞製造業者の息子であった。その自宅は裕福な生活ぶりを物語っていた。お母さんがやってきた。若い人はたくさん食べて元気にならないといけないよ、とありふれたことを語っていた。アラブ語でしゃべっていたが、そのときだけは理解できた。チュニジア人青年はアジアや日本にも興味があった。なぜヨーロッパの国ではないのに高度経済成長ができたか、などと質問してきたので、江戸時代すでに高度に発展していたのだよ、識字率も高かったし、などと解説した。

 15h00-16h00:やっと大モスク見学。かのチュニジア人青年はどこまでもついてくる。彼はアジア好きで、空手にも興味があった。組み手のポーズをとらせ、一緒に記念撮影させろというので、そうした。どこまでも友好的で親切であったが、建築のディテールをこまかく観察する余裕などない。

 16h40-17h40:乗合タクシー、カイルーワンまで1.700TD、そこからスースまで2.800TD。

 18h12-20h30:鉄道でスースからチュニスまで移動。車中、50歳くらいのチュニジア人男性と世間話をする。とても親切な人であったが、女性の社会的地位にかんしてはイスラム的理解を示していた。お国自慢をひとしきり。「アフリカといっても地中海側とサハラのむこうは違う。ここはイスラムの国で、地中海をとおしてむしろヨーロッパと交流していた。イスラムはヨーロッパよりも進んでいた時期もあったよ。ぼくたちには地中海アイデンティティといったものがあるんだ。それはヨーロッパに近いものなんだ」云々。

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カイルーアンの大モスクは836年以降建設。アグラブ朝(800-909年に北アフリカを支配した王朝で、首都はカイルーアン)の主要建造物。後述の将軍が南のベルベル人、北のビザンツ人から逃れるために、この地を選び、都市と同時に建設。ひとたび破壊されるが、695、774年に再建。たびたび改築。中庭のポーティコは9世紀、13世紀。ウマイヤ朝やアッバース朝の首都との関係が深かった。塔は礼拝堂の中央軸線上にたつ。9世紀に増築。ミヒラブのこの時期に充実された。その光沢のある化粧材で覆われたミヒラブの様式はイラク起源。

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 壁面装飾はごくわずかで、レンガがむきだしで、ローマ的威厳を感じる。簡素で純粋。イスラム建築はすぐれて表面と装飾の建築である。塔、礼拝堂の中央部の天井が高いこと、ミヒラブの様式・・・などがマグレブ、スペインのイスラム建築にとっての模範となった。

 柱頭、円柱はローマ時代の別の建築からの転用材である。ドームはビザンチン的。塔は閉まっていた。一般的によくメンテされている。このモスクは西イスラム世界では最古のもの。4角の塔はテイパーしてゆく壇状の様式はシリア式。

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  ぼくが感動するのは柱頭である。イスラム建築は、初期において、古代建築やビザンチン建築の転用材をそのまま使っていた。このモスクの柱頭もひとつひとつすべて違う。670年に建設された都市だから、この地に古代建築があったのではなかった。しかし周辺のどこかから運んできたのであろう。様式的には、ローマ、ビザンチン建築の転用というのが通説だが、ビザンチンではなくやはり古代ローマの建築から転用したもののように思える。抽象的な理念やデザインの図式ではなく、この柱頭というなまなましいものを媒介として古代と中世はつながっている。それを「過渡期」とよぶ。しかしこの過渡期的建築こそ、むしろ感銘を与えてくれる。様式として完成されたものは、じつはそれほどでもない。過渡期にはまだ定まっていない、しかし理念として存在していたある理想にむかっての希求が感じられる。それはやはり事後的に感じるものにすぎないとはいえ。

 カイルーワン小史。670年にアラブ人将軍Uqba ibn Nafiが創設。したがってギリシア、ローマなどの前史はもたない。ここはかつては林のなかで、軍事的な要所であったそうである。800-909、アグラブ朝。カイルーアンの最盛期。909年、首都の地位を失う。そののちエジプト、オスマントルコの侵入をうける。1057年、Hilaliensに都市は破壊される。1702年、Hussein Ben Aliは城壁を再建。1881年にフランスが占領。1988年、メディナがユネスコ世界文化遺産に登録。

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2007.09.18

東方旅行(027)1987年12月26日(土)カルタゴの古代遺跡/古代にふれたということだけが教訓であってはいけないのだが・・・

東方旅行(027)1987年12月26日(土)チュニス滞在、カルタゴ見学【両替】チュニジア銀行で80$=62.160DA、しかしチャージが1.200とられるので、60.962DAとなる。【航空券】チュニスからカイロまでの航空券。ティニス航空で月曜11h45発107TUD、エジプト航空で火曜・木曜発で228.500TUD(約4万円)。月曜、火曜は満席とのこと。【書店】ミシガン大学が出版した『カルタゴ発掘1976』があった。

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(左)アントニウス浴場。海に面して美しい。ここは採石場として活用され、チュニス市内、そして北地中海の都市たとえばピサ、に建材を補給する拠点となった。今は白い円柱が一本、復元され立てられている。(中)劇場。おもしろさなし。(右)ローマ人のウィラ。ペリスタイルが復元されている。

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 【カルタゴ博物館】ローマ人はカルタゴの丘のうえに広大なプラットホームを建設して平地のようにしてしまった。そこをフォーラムとした。いわゆる「アフリカ積み」の壁面が印象的である。

  ただここの遺跡は建築史にはあまり登場してこない。傑作が少ないからである。なぜカルタゴか。それは世界史的に重要だからである。

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   カルタゴの古代ローマ遺跡は海に面している。水平線は見えない。空と海がたまたま同じ色をしていたからだ。崩れたアーチのなかに船は浮かぶ。 

  プチ歴史。カルタゴは紀元前814年にフェニキア人が建設した。フェニキア人は地中海を支配したが、その覇権をめぐってシチリア戦争、ポエニ戦争がおき、結局前146年にローマにより滅ぼされた。ローマによる植民はまず紀元前122年にガイウス・センプロニウス・グラックスによって、さらにカエサルとアウグストゥスによりなされた。現在の遺構はほとんどローマ時代のものである。ちなみにアウグスティヌスはティムガドの出身であり、カルタゴで弁論術を学んだ。

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  5世紀、ヴァンダル属の支配。6世紀、ユスティニアヌスはヴァンダル王国を征伐し、ローマ領とした。カルタゴとラヴェンナには総督府が設置された。647年以降、アラブ人たちが侵攻し、698年よりイスラム教徒が支配した。

 ところで日本人による興味はここで終わる。つまり文献やWEBのなかの記載は、古代とイスラム化した時代についてのみで、ヨーロッパ諸国との関係や、フランス占領下のことはほとんど触れない。十字軍を引き連れカルタゴで亡くなった聖王ルイを記念するサン=ルイ大聖堂が、19世紀、建設された。1979年、ユネスコ世界文化遺産となった。しかしこのことはカルタゴの地中海性をものがたっており、ヨーロッパとくにフランスとの関係の深さを物語っている。日本人はべつに西洋人の視点や興味をもたなくともいいのだが、しかしそれでも、古代ローマ文明の継承性、とくにキリスト教時代があったことなどが、植民地支配の正当性の根拠となっているという構図を見なければならない。

 現在の遺構は、建築の偉大さを表現するようなものは残っていない。思い出すのは1980年代、日本がアメリカと貿易摩擦をおこしていたころ、日本はフェニキア人でアメリカはローマ人だと比喩されていたことである。日本は貿易国家として繁栄していたが、繁栄も度が過ぎると、ローマ帝国=アメリカが征伐しにやってくるということである。

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2007.09.17

東方旅行(026)1987年12月25日(金)長い移動のはてにチュニスに到着

東方旅行(026)1987年12月25日(金)Tunis。天気?。

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チュニスの航空写真。絵はがきから。

 【移動】前日ティムガド→バトナ→コンスタンティンと移動。Constantineでは9時間じっと待たねばならなかった。ここで日がかわり、3時前に出発。onstantine2h50→Annaba6h00、Annaba9h30→Tunis17h30。この長い時間、ほとんど記録も記憶もなし。ご苦労様でございます。

 【宿】Hotel Metropole, 3 rue de Grece、1泊6.5DA。シャワーなし。シャワーは0.7DA払って使う。ずっと車中であったので両替ができず、チュニスについても銀行が開いている時間ではなかった。宿のおやじは夕食のために5DA貸してくれた。ありがとうございます。ご恩は一生忘れません。

 【チュニジアの夜】しかしハード・バップ期の頂点にたつ不朽の名作《チュニジアの夜》、しかもそれがアフロ・アメリカン表象の頂点であったというような通説をいだいて臨むと、都市・建築見学は勘違いをするのである。つまりアフリカよりも地中海という文脈が支配しているのだ。

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2007.09.16

東方旅行(025)1987年12月24日(木)ティムガドの古代ローマ遺跡

東方旅行(025)1987年12月24日(木)Timgad、曇り。

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【移動】バスAlger22h00→Batna4h30(67DA)、バスBatna7h00→Timgad7h40(4DA)

【今日も元気で】車中泊と車中泊のあいだの一日を使っての見学である。曇りであったのは幸いであった。こういうときは急いではいけない。ハイペースになると一挙に消耗する。80%のペースで、淡々と、着実に見てゆく。ゴールを考えてはいけない。着実に進んでいけばやがては達成する。そうすれば何十時間でももつものである。

【遺跡】グリッドプランの典型的な古代ローマ都市計画。カルド・マキシムス、デクマヌス・マキシムスは、列柱街路となっており、中央が車道で、列柱により隔てられて左右が歩道となっている。この狭/広/狭のリズムがそのまま凱旋門=都市門のそれとなっている。劇場の背景は、都市の街路と一体となっているかのようだ。ここでは劇場がヴァーチャルな空間を構成しているというより、都市そのものが仮想現実であって劇場はその特性がもっともはっきりした場所であるにすぎないようにも思える。街路の下は下水渠のように思える。

【移動】バス代調査。Timgad→Batna(4DA)、Batna→Constantine(28DA)、Constantine→Tunis(117DA)

 ウィキペディア仏語版によれば、トラヤヌス帝が紀元100年に建設した植民都市であり、ラテン名はThamugadiである。現在はアルジェリアのオレス州にある。当初は12Haであったが50Haまで拡大した。典型的なローマ都市として1982年にユネスコ世界文化遺産に指定された。

 100年、トラヤヌスは第三軍団アウグストと属州知事ルキウス・ムナティウス・ガルスに都市建設をさせた。したがってティムガド住民はすべてローマ市民権をもっており、パピリウス(ローマの氏族)の一員となった。この植民都市はマルキアナ・トライアナ・タムガディと呼ばれた。マルキアナはトライアヌスの妹の間であり、タムガディはラテン語的な格変化がないので原住民が呼んでいた名前であるらしい。前身都市があったかどうかは不明であるが、いずれにせよローマ人たちは処女地におけるがごとく、グリッドプランを展開した。とはいえローマ都市ならかならずグリッドであるというわけでもない。だからティムガドは都市となるまえは軍の野営地であって、都市はこの野営地の平面計画のうえに建設されたと推定される。このこともまた証明はできていない。しかしローマ軍の動きを考えると、野営地起源であるという仮説は説得力があるらしい。ティムガドはアフリカ軍にとって戦略的には最良の場所であったということである。

 とはいえ軍事都市としての機能は副次的なもので、退役軍人の町であった。ただ志願兵を徴収したり、食物を補給する拠点ではあったので、間接的な軍事都市という位置づけであった。オレス山脈にはローマ軍は侵攻できず、その地帯は謀反の温床となっていたので、それににらみをきかす意味があったという誤説があった。1960年代に航空写真などの分析から、ピエール・モリゾはこの地域がそれほど危険な場所ではなかく、そののち容易にローマ化しキリスト教化されたことを証明した。したがってティムガドの建設は、かならずしも軍事目的ではなく、属州の開拓であったようだ。

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 都市は、周辺の一体の土地を支配している。ポール=アルベール・フェヴィエによれば1500平方キロの土地を支配していたようである。これらの土地はすべて民間人の所有であったわけではなく、かなりの面積が皇帝が直接所有していた。こうした皇帝の土地は、プロクラトル(皇帝の代官)が管理し運営していた。ティムガドの住人たちはすくなくとも大地主ではなかったようである。

 キリスト教は4世紀にはいってきたが、この地はローマ・カソリックから分離して独立教会組織をもとうとする勢力が強く、抗争はながくつづいた。ドナトゥス主義といって4世紀にドナトゥスがおこした分離主義である。そののちヴァンダル人の浸入、ビザンチンの支配、そしてイスラム教徒の支配。イスラム化したときの状況はわかっていないらしく、おそらくこの時期に廃墟化したのであろう。そして人が住まなくなった都市は、風で運ばれてきた土砂にすこしずつ埋ってゆくのであった・・・・

 カピトリウム地区があった。2世紀の建設で、4世紀に再建された。これはローマのカピトリウム丘にちなんだもので、都市の起源を象徴する神殿などがおかれていた。ユピテル、ユーノー、ミネルヴァの神殿があったらしい。しかしフォーラムからは遠く、丘の上があてがわれてもいなかった。これは途中で都市計画の方針がかわって、都市が当初よりも大規模となったので、フォーラムに隣接した場所から移動されたと考古学者は分析している。4世紀に再建されたときはすでにキリスト教が広まっていたので、これもまた複数宗教性の反映であるとされている。

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 フォーラムと劇場。フォーラムにはクリアと市民バシリカが面していた。バシリカは小規模で、勝利の女神に捧げられていた。基壇にのった4柱式のポーティコをもつ。クリアも小規模なもので、バシリカに対峙していた。フォーラムには30基以上の彫刻が飾られていた。広場に面して碑文があって「狩りをし、浴場にいき、遊び、笑うこと、これぞ生きること」とあった。

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 凱旋門。狭/広/狭のリズムと寸法はそのまま車道と歩道の区別に対応している。列柱街路でもあった。轍のあとが印象的であり、交通量の多さを物語っている。なお轍は古代建築史家の研究テーマのひとつであり、今日ではハイテクを使って目には見えない轍まで観測できるという。

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 街路はもちろんペイヴされている。丸い石はマンホールであろうか。斜めに石を敷いているのは車への衝撃軽減であろうか。

 公衆浴場はいわずとしれた市民の憩いの場であり、ローマ都市には不可欠のものであった。しかし2世紀以降は私邸に浴室がひろまったらしい。社会の階級化、それにともなう社交の差別化が進行していたのだ。

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 住居。ペリスタイル。中庭式。壁はいわゆる「アフリカ積み」。

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 公衆トイレ。手すりはイルカの彫刻。

 キリスト教建築。都市の周辺か外側。墓地の近く。都心部のものとしては、ルキウス・ユリウス・ジャヌアリウス邸の住居のアトリウムに整備されたらしい。西のバシリカ。教会建築にもドナトゥス派のものとカトリックのものがあって、共存あるいは対立していた。洗礼堂があり、これは司教がいたことを物語っている。

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 ローマ都市の常として、墓地は都市の外側にあった。とくに街道沿いにあった。博物館には子供の墓碑がたくさん飾ってあった(たんに置いてあった?)。

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【発掘】1765年、イギリス人旅行者ジェームズ・ブルースが古代都市の存在を発見した。トラヤヌス凱旋門、カピトリウム、劇場を発見したが、彼の絵はやっと1877年から刊行された。1851年、ルイ・ルニエが探索、碑文を多数発見し、フォーラムを発掘し、また現地民族にたいしてティムガドが軍事的な役割をもっていたと推定した。それいらいティムガドはおもにフランス政府が発掘していった。

 本格的な発掘は1880年より、フランス政府の命で開始された。財宝、記念碑を探すのが主目的となり、当時の文明の状況、その日常生活の解明は二の次であったと今日では批判されている。1884年、フォーラムが完全にその姿を現した。1894年、バシリカが完全に発掘され、コンスタンティンの司教がそこでミサをおこなった。マグレブ地方がかつてローマ領でありキリスト教圏であったことを再確認するもので、すなわちフランスの植民地化計画を正当化するものでもあった。1897年、バリュが発掘の成果を文献にして刊行した。ルネ・カニャも参画した報告書が1903年と1911年に刊行された。

 1932年、都市のグリッドプランのほぼ全容が発掘された。さらにゴデが都市周辺部の発掘をつづけた。キリスト教、ビザンチンを対象とする発掘であって、1939年にアルジェで開催予定されたビザンチン研究会議に報告するためであった。ゴデの息子が発掘をつづけたが独立戦争のころにヘリコプター事故で死亡している。1982年にユネスコ世界文化遺産に指定されたが、今日では発掘はなされていない。気候条件、人的条件のせいで保存状況は悪化している。

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