カテゴリー「ランドスケープ」の12件の記事

2008.03.31

港市のデザイン/ランドスケープデザイン1

設計の実例です。

▼ヘルシンキの聖堂と港。教会の高いドーム。じつはちかくの港にとっては、よりランドマーク。港の景観要素としては、よくある。

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▼アルジェの港。海に面するファサード。パリのリヴォリ通りを模倣したものとされている。

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▼ホンコン(返還前)。高層オフィスと連絡船の、非媒介的接続。

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▼メコン・デルタ(ベトナム)。フランス人が建設した大運河。近代におけるランドスケープデザインとして、これ以上のものがあるだろうか。水上マーケットは庶民の生活。

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▼ブレスト市のパブリックアート。サン=ルイ教会。矩形のホールのような内部空間だが、どちらかというとゴシック的。ハイサイドライト、ステンドグラスがそれ。

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▼カブール Cabourg。ノルマンディ地方にあるリゾート都市。リゾートマンションから砂浜までが間近。

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▼ドヴィル Deauville。やはりノルマンディ地方にあるリゾート都市。ハーフチンバーの様式は、むしろ山地の様式であり、海に特有ではないが。

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▼Cancale;ブルターニュの村。牡蠣市場。

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▼Gruisson。南仏、地中海沿岸のリゾート地。しかし中産階級用?。映画《37.2 Le Matin》(ベティ・ブルース)の舞台にもなった。

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▼ロリアンLorientのノートル・ダム・ド・ヴィクトワール教会。ビザンチン様式を現代化したもの。なぜゴシック様式ではないか、は考察のためのいいテーマ。ポール・ルイ要塞。ここにはフランスの東インド会社の本拠があった。

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▼マルセイユ市。古い港はいまはヨットハーバー。丘の上のNotre=Dame de la Grande教会。丘上の教会と、港が、たがいに景観として見る/見られる関係に。

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▼パリのアンドレ・シトロエン公園。幾何学的なフランス式庭園と、壁で囲まれた中庭にような区画。住宅地との緑の連続性。市/国の行政の垣根を越えることで、公園はそのままセーヌ川まで連続している。

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▼サン=マロ市の港湾と都市。サン=ヴァンサン教会。教会内部の高窓。教会堂と都市空間の媒介性のなさ、直接的な隣接性。軒下を借りたような店舗。

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▼シカゴのダウンタウンと科学博物館。屋上のプール。人工の池に面する古代神殿風ファサードは、まさにクロードが描く、アルカディア的風景。

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▼ソーク・インスティチュート(ルイス・カーン)。中央の水路は、そのまま海にまで連続しているかのようである。

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▼ヴェネツィア、サン・ジョルジョ・マジョーレ教会。水/人間、広場/運河のより直接的な連続性。

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港市のデザイン/ランドスケープデザイン2

ランドスケープデザインの秀作

▼Peter Walker, Toyota Municipal Museum, 1992

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*Peter Walker, 1932-, ランドスケープアーキテクト。ハーバード大学教授。Sasaki HideoとSasaki Walker Associatesを1972年に設立。シンガポール港湾プロジェクト、WTCメモリアルなど。日本でも活躍。丸亀駅前広場、IBM幕張ビル、豊田市美術館、播磨科学公園都市センター、さいたま新都心けやきひろば、など。

▼Robert Smithson, Spiral Jelly, 1970公式WEBサイトサイト

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SPIRAL JETTY

Floating Island to Travel Around Manhattan Island

*Robert Smithson(1938-1973、アメリカ);「ランドアート」「アースワーク」の分野を確立。

Robert Smithson, Frederick Law Olmsted and the Dialectical Landscape, 1973においてオルムステッドのセントラルパーク(NY)は、弁証法、都市との対話を欠いた、古い「ピクチャレスク」であるとして批判。

「サイト・スペシフィック」(場所固有)、人間の介入、デフォルメ。田園、崇高といった18世紀美学に回帰するのではなく、反美学的、反形式主義の流れを確立した。つまり矛盾を隠すのではなく、矛盾を露出させる。

siteとnon-siteの概念。特定の場所を占めるものと、どこでも置けるもの。

▼Walter De Maria, Lightning Field, 1971

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*Walter De Maria, 1935-,アメリカのアーティスト。ミニマル・アート、センセプチュアル・アート、 ランド・アート。大地と宇宙の関係を思索させる《ライティング・フィールド》など。

▼Christo and Jeanne-Claude, Sarrounded Islands, 1980, Wrapped Coast, 1968

公式WEBサイト

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Christo, 1935-, and Jeanne-Claude, 1935-:「梱包」をコンセプトにするアーティスト。

Michael Meizer, 8 of nine Nevada Depressions

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Nancy Holt, Sun Tunnels, 1973

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Ando Tadao, Chirden Museum 1989

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Dani Karavan, Cergy Pontoise、Passage 1990 →公式WEBサイト

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Daniel Buren →WEBサイト

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Emilio Anbasz, Residence au lac

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Ian Hamilton Finlay

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Jefferson Memorial, Washington DC

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Korean War Veterans Memorial

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Maya Linn, Vietnam Veterans Memorial

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2008.03.23

「世界の終り」を生きること

ぼくたちは生き、そして死ぬ。そうだろうか?ひとつの生のなかに、生と死がある。ぼくたちは生(せい)を生(い)き、そして死を生きるのだ。そして逆説的に、死を生きることこそ、本当の生なのだ。

死者たちのため、その子孫として、生きるのではない。死者たちの生を再発見する。そしてそれを生きるのだ。

ウェルギリウス『農耕詩』第2歌では、葡萄とワインの神様バックスへの頌歌であるとともに、葡萄やオリーブの栽培法、塩分を含んでいたり養分の濃いなどさまざまな性質の土地の耕し方、などを書いている。農耕詩の全体が、田園のなかで農業に専念する農民たちが知るべきノウハウを書いた技術書のような体裁でかかれている。しかしもちろんこれは単なるマニュアルではない。

その背後にウェルギリウスの理念がある。それは田園生活の理想化ということなのだが、田園が理想化されるのは、現実の都市生活が矛盾にみちたものと感じられてかただ。しかしこれはよくある都市/田園のシンクロニックな対比ではない。そこには古代ローマが共和制から帝制に移りゆくその時代の変化をあらわしている。だから都市/農村のコントラストは、共和制/帝政でもあり、過去/現在でもある。農地没収という事件がカギだと解説には書いてある。この固有の事件は、しかし普遍的な構図をもたらす。過去の牧歌的な幸福な田園生活はすでに失われた。その通底するトーンがぼくたちを『農耕詩』読解に引き込んでゆく。

しかしこれは農夫たちへの頌歌でもある。「おお、自己のよきものを知るならば、あまりにも幸運な農夫らよ!争いの武器から遠く離れて、彼らのために、最も正しい大地はみずから、地中からたやすく日々の糧を注ぎ与える」(小川正廣訳・第2歌458-460行)。

彼らは争いからは遠い。この争いとは、ローマが遠征し、征服し、属州を増やしていったことであり、政治抗争であり、内乱であり、王国や国家のなかの紛糾であり、すこしでも富める者になろうとする競争であった。しかし農夫たちは、帝国の支配拡大にも、それによる王国の滅亡にも、貧富の格差にも心を動かされない。

「彼はただ、枝になる果実を、田園の土地がみずから進んで快く生みだしてくれる実りを摘み取り、冷酷な法律も、狂騒の中央広場も、国民の公文書館も目にすることはない」(同499-502行)。そしてこのような生活をかつてローマ人は営んでいた。そしてそれが今は失われた。「人はまだ、戦闘喇叭が鳴り響くのも、硬い鉄床の上で、剣が打ち鍛えられる音も聞いたことはなかった」(同539-540行)。戦いの時代はまだであった。

戦いとは他国との戦いであると同時に、空間を征服する戦いであり、フロンティアを消滅させる戦いであった。「しかしわれわれは、広大な平野の走路を走り尽くした。今やもう、汗煙る馬どもの首を馬具から解き放つときだ」(同541-542)。馬と馬具とは、移動の手段であり、ここでは空間の征服を象徴している。現代に置き換えれば、自動車、ジェット飛行機、インターネット、ケータイを意味している。それを置いてみよう、という。不可能だとわかっていても。

ウェルギリウスは生きようとする。「かつて古のサビニ人」や「レムスとその兄弟」たちや「黄金のサトゥルヌス」のように、田園での牧歌的生活を。しかしそれらはローマの七つの丘が城壁で囲まれたのちとなっては、回復不可能なことなのだ。農民たちは土地を没収されてしまったのだ。

・・・・「世界の終り」とは人類の完全なる滅亡ではない。もし最後のひとりまで死んでしまえば、世界の終わりを書き記す人も、その事実を確認する人もいなくなってしまう。死ぬのはいつも他者である。

村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、またしても息をのむようなパラレルワールドが描かれる。現実の世界に生きている主人公と、その主人公が脳の内部につくりだしたヴァーチャルな世界が、交互に描かれ、物語は展開する。さらに「世界の終り」のなかでは、主人公そのものが、主人公/その影、というかたちで二重化され、対話が始まる。

ひとりの人間を分節化し、構造化するのはある意味で神話の世界である。そう、内面は統一されてなくともいい。現代人がひとつの神話であるように描かれている。しかしそのなかで小説家は、とても率直な独白をそっと挿入する。それはひとりの人間の語りとするととても素朴なのだが、しかしこのフィクション、神話のなかに置くと、大きな意味をもつように感じられる、そんな書き方である。

「私の人生の輝きの九十三パーセントが前半の三十五年間で使い果たされてしまっていたとしても、それでもかまわない。私はその七パーセントを大事に抱えたままこの世界のなりたち方をどこまでも眺めていきたいのだ。(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』文庫版・後半p.331)

「世界の終わり」のなかで、主人公は自分の影とも別れをつげる。影をなくしてしまうとは、じつは自分の本質とも別れを告げることだ。それに別れをつげて彼は「世界の終わり」のなかで生き続けようとする。なぜなら「ここは僕自身の世界なんだ。僕は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」(同p.345)。人はどんなに自分をねじ曲げて生きようとも、そのねじまがりそのものを生きなければ誠実でなくなってしまう。

生(せい)のなかで「世界の終り」がどのように生(い)きられるか。ウェルギリウスが、本来のローマ人からの決別を哀愁を込めて書き綴ったように、村上は本来の自分、本来の生ときっぱりと別れること、そのことが主人公の「公正さ」(同p.334)なのだという。

「世界の終り」とは、見知らぬどこかではない。それは生きなければならない。生きられなければならない。それを生きるということは、どんな事態なのだろう。「僕はテーブルに両肘をつき、手のひらで顔を覆った。・・・・僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった」(村上春樹『国境の南、太陽の西』文庫版(下)p.299)。雨の一粒一粒は無名で、知られることなく、海面を叩き、そして海に溶けてしまう。一滴は、一滴の貢献しかせず、飲み込まれる。しかしそれはウェルギリウス描く農夫が、曲がったスキで大地を耕す、その際限ないような繰り返しではないか。

「世界の終り」とは、べつに空想の物語や、奇想天外なSFや、サブカルでもなく、現実としてぼくたちの目の前にごろんところがっているものだ。もちろんどこでも見えるというものでもないが。たとえば古代、中世、近世といった歴史の各層が残した痕跡が見えるところ。遺跡でなくとも生きられた都市のなかにもそれは目撃できるであろう。

カルタゴの古代遺跡や、クラック・デ・シュバリエの中世十字軍遺跡、いや奈良や京都でもよい。それらを建設した人びと、そこで生きた人びとはもういない。だから現存するとはいえ、遺跡は、消失、不在、空白、喪失などを指し示すために存在している。いや遺跡そのものがそんなことを考えているのではない。ぼくたち観察者がそこに不在というものを感じるのだ。「世界の終わり」とはそういう類の不在の象徴なのだ。

遺跡は目の前にころがっている。だからそれは現在に所属している。しかしそれを過去のものとしてみるにはイマジネーションが必要である。世界はすでに終わっており、その終わりのあとで、自分はここに登場した、というやるせないほどの不在感、欠如感である。

ヴィオレ=ル=デュクという19世紀の古建築修復家の保存手法はしばしば間違っているといって批判されてきた。南仏のカルカソンヌでは、瓦ではなく北ヨーロッパ的なスレートというふさわしからざる材料で修復したことで非難された。

ヴィオレ=ル=デュクはゴシック教会の構造を、ひとつひとつの石材に分解し、それら相互に作用する力の流れを解析し、ひとつの構造体がどのような力学システムからなるかを考察した。リブは支持体であり、皮膜は被支持体である。機能主義的にそう分析した。そしてこれが過度に事実主義的、機能主義的、合理主義的であるとして批判された。

しかしこれは批判者こそが過度に機能主義的であったにすぎない。

いっぽうでヴィオレ=ル=デュクの「様式」概念もまた批判された。ひとつの原理からなるさまざまな要素をむすびつける統一性だ、という理念が批判された。折衷主義者である、と批判された。ふつうは彼はフランス合理主義の伝統を汲む、理性の人と位置づけられていたから、その彼を折衷主義者とよぶのはとても意図した揶揄なのだ。

しかし彼は事実主義者ではなかった。彼は修復は、過去の復元ではなく、理想的様式の完成であった。13世紀の職人や建築家ならこうするであろうとう想像でもあった。しかしそれは中世人たちが未完成のままのこした過去を、完成させようという、死を生きることでもあった。だから後世の改造を改めて当初のオリジナルな姿にもどすことに満足せず、オリジナルそのものが理想の70%だとすると、それを100%にすることが修復と考えた。

村上春樹流に、のこりの7%をだいじに抱えて生きようとした、ともいえるだろうか。

なぜヴィオレ=ル=デュクは「様式」を理想化し、事実とは異なることでもあえてそうしようとしたのか。

それは彼が「建築」を信じていたからである。

子供向けの説明のように書いてみよう。建築の神様がいたんだ。神様は、中世の建築家たちに自分にとっての理想的な館を建設させようとした。ゴシックとは、構造的にうまくできていて、窓も大きく光がたくさんはいって、天井もすごく高くて、地上にいながら天国が想像できるようなものだった。でも神様は、人間たちなんだ、と考えた。人間だから、完全なことをさせてしまってはいけない。だからよくできたゴシック建築だけど、そうだな、93%くらいのできで、いちど終わらせてしまおう。中世の世界は、とりあえずこれで終わりにしてみよう。そう考えたんだ。「世界の終り」さ。

神様は700年してから(神様にとっては一瞬のようなものだが)、残りの7%が残念になった。だって神様の頭のなかには100%ができあがっていたから。だから神様はヴィオレ=ル=デュクを遣わして、ゴシック建築を完全なものにしようとした。この建築家=修復家は残りの7%のことをほぼ理解していた。しかし彼はやはり人間だったので、不完全だった。どこが不完全だったかというと、他の人間たちに分かってもらうすべを知らなかった。だから評価もされたけど、さんざん誤解されたのさ・・・・・

ヴィオレ=ル=デュクは、固有のゴシックということを超えて、建築そのものことを考えていた。それはゴシックの拡大でもあり、建築の再構築でもあった。

だから彼は近代建築運動におおきな影響を与えた。彼が合理主義者であったからではない。建築概念を根本的に考え直したからであった。だからフランスだけでなく、イギリス、ベルギー、アメリカ、ドイツの近代建築運動におおきな影響を与えた。

この事実は日本人にとってとても大切だ。日本人は、伝統と現代とは違う、保存と開発は両立しない、歴史家と現代建築家は対話できない、そんな子供のようなことを考えている。しかしフランスにおける歴史的街区保存を可能ならしめたマルロー法のアンドレ・マルローは、歴史と現代をいかに接続するかということを考えていた。おなじように、ヴィオレ=ル=デュクは、中世ゴシック建築を徹底的に理念化することで、近代建築の礎を築いた。つまりまず19世紀に建築保存があって、そののちに近代建築運動が起こった。そしてまさに保存から生まれた理論が、近代建築の骨格となった。この歴史的ダイナミズムが日本にはまったく伝わってこないのである。そして近代を批判するために保存を考えるという、日本の常識=世界の非常識、が続いている。

ヴィオレ=ル=デュクが「建築の神様」からのご神託を聞いたかもしれない。ぼくなりに言い換えれば、彼は死んでしまった中世人の残りの生を、可能性としての生を生きようとしたのだ。だからそれは死を生きようとしたことでもある。それは死者のデスマスクを忠実に再現することではない。死を生きるとは、ある意味ではとても創造的なことなのだ。

それはここの個別の建築を超えた上位概念としての「建築」があるということを、信じようとすることだ。

ヴィオレ=ル=デュク自身の言葉を借りるとすれば、それは「様式」であり「統一体」である。ゴシックは、フライング・バットレス、リブ・ヴォールト、尖頭アーチの三点セットというのではない。それらが有機的に一体となった統一体なのだ。

この統一性の概念は、彼のようにたくさんの教会堂建築をサーベイしないとわからない、特権的な視点にようにも思える。だからここで喩え話をしよう。ひとりの人間を描くときに、○○国人で、××語を話し、宗教は△△で、性別、身長、体重はこれこれで、性格、嗜好、職業は・・・といくら属性を列挙してもその人間の本質には到達できない。それはひとつの人格として、統一体として、面前で見なければわからない。建築もまた、指標や属性の羅列では、つまりデータベースからただちに再構築できるものではない。それは統一体なのだ。

その「統一」は機械論的に判断できるものではない。いくつかの指標を満足すればOKというものではない。すべての統一体は、有機物的であり、生まれ、死んでゆく。

ヴィクトール・ユゴーは「あれがこれを殺す」といった。パリのノートルダム大聖堂を指し示しながら。しかし殺した、死んでしまった、では終わらない。ましてや文献が石に書かれた言葉を殺した、などという半端なものではない。古代ローマにおける農地没収のように、教会堂はカトリック教会組織から没収された。そこで世界はいちど終わっているのだ。文明は「世界の終り」を生きる。死を生きるのだから。

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2008.03.21

ウェルギリウス『牧歌』について

ウェルギリウス(Publius Vergilius Maro, B.C.70-B.C.19)はローマの詩人で、『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』を書いて牧歌文学の原型となった。ランドスケープ史や庭園史のなかではかならず言及される作家である。

その邦訳が2004年に京大学術出版会の西洋古典叢書として出ていたことを知ったので、通販でとりよせて読んでみた。以前他の邦訳に目をとおしたことはあったが、途中で飽きてしまった。

今回あらためて気がついたのは、『牧歌』は十歌構成であるということだ。ちなみにウィトルウィウスの『建築書』も十書構成である。ふたつの古典にはなにか共通点があるのではないか、と気がついてがぜん興味がわいてきた。ようするに建築にからめないとはじまらない習性は直らないのである。懺悔。

まず、ウェルギリウスの『牧歌』は十歌が円環構造をなしている。第一歌の冒頭で、ウェルギリウスのことであるティテュルスが、森のなかの木陰で葦笛により森の歌を奏でるところから始まる。そして第十歌は、やはり森が舞台である。森のなかで愛する女性への思いを歌にして奏でるのであった。しかし森の木陰にいつづけることを体によくないと、家に戻ろうとするところで、終わる。その間さまざまな逸話が展開されるが、それらは森のなかで繰り広げられる豊かな回想と空想であるように思われる。

つぎに、ある危機意識が『牧歌』の根底にはある。京大出版会版の解説にあるように、帝制ローマの政策によって、ウェルギリウスはマントヴァ近郊の農地を没収されたことを背景として、「私たちは祖国を逃げ出すのだ」・・・という衝撃的な一句からはじまり、不敬な軍人すなわちアントニウスとオクタウィアヌスが戦勝の褒美として退役軍人に没収した農地を与えたことを暗に揶揄するように、不幸な市民について触れる。

『牧歌』のおおきな部分を占めているのが、ふたりの登場人物による歌や音楽の競い合いである。つまり田園は音楽と結びついている。田園は、大きな楽器でもある。

第四歌は特殊であり、クマエの予言どおり新しい時代、アポロの時代が始まることが語られている。この第四歌は、悲惨な現状を乗り越えるための勇気を与えるためにあるように感じられる。この新しい時代には、商品交換はなくなり、すべての大地からあらゆる物が生み出される。つまり都会の商品経済に従属しない、田園の自給自足の生活が示唆されている。

『牧歌』における歌や音楽の競い合いということに戻る。それはダプニスへの頌歌でもある。ヘルメスとニンフの息子で、牧人の理想とされる美男子であり、歌と音楽とにひときわすぐれていた。だからこの『牧歌』そのものがダプニス頌といえるのだが。

しかしこのダプニスは非業な若死にをした。彼についての歌は、挽歌でもあり、過去に想いをはせる歌でもある。つまり第四歌だけが未来を歌い、そのこととの対比において、挽歌が詠われるのである。

第八歌はクライマックスである。ダモンが歌う。牧神パーンの故郷アルカディアにある山脈であるマエナスルでは、松と牧人とパーンがいつも音楽を奏でていることを歌う。「始めよ、わが笛よ、私と一緒にマエナスルの歌を」。アルペシボエウスは死んだダプニスを蘇生させるためのまじないの歌を繰り返す。「町から家へと連れもどせ、私のまじないよ。ダプニスを連れもどせ」。田園のなかに歌と音楽をもたらしていた彼を回復せよというのである。それは田園そのものの回復を叫んでいる。

ダプニスを連れもどせ。

『牧歌』はある意味で喪失の歌であり、つよい批評精神にもとづいている。

同様なのがウィトルウィウス(Marcus Vitruvius Pollio, B.C.80/70-B.C.25)の『建築書』である(それを『建築十書』と呼ぶのは、古典を翻訳したフランスやイギリスの事情であった)。生没年からわかるようにウェルギリウスとウィトルウィウスはほぼ同時代人である。彼らが古典となった経緯も似ているのではないか。

『建築書』も円環構造をなしている。第一書では建築家が備えるべき資質が列挙された後、まず都市の城壁について触れられる。第二書では都市計画のような話題となり、以降、神殿と建築オーダー、バシリカなどの公共建築、建材・石材、日時計、揚水機、建設機械と展開し、最後は敵の攻撃から市壁とそれによる防御を巧妙にしくんだ建築家が賞賛される。彼は市民の自由を守ったことが、手短に言及される。つまり建築家たるものの解説を除けば、これは市壁にはじまり市壁におわる物語りであり、その中間にあるものは都市、建築、機械という段階をおった、その内部の叙述である。これは建築というディシプリンを機械的に分類したものではない。建築家が生身でかかわる緒断面のいきいきとした、まさに物語りなのである。そして彼が守るのは都市の市民の自由なのである。

音楽の重要性もやはり強調されている。劇場の音響効果のみならず、都市という小宇宙は天空の音楽に応答している。ルネサンスの新プラトン主義で復活したテーマである。

危機意識も同様である。オナイアンズやリクワートは、アウグストゥスがレンガのローマを大理石のローマに変えたあいだに、建築は奢侈に流れ、そののモラルは低下したが、その危機的状況のなかでモラルを強調したのが、ウィトルウィウスであるというように位置づけている。ウィトルウィウスの書はひからびた建築技術の百科全書的体系化ではなく、まさに現実が体系を失い、崩れ、流動化しているからこそ、それに歯止めをかけようとしたのであった。危機意識のもとづく体系化なのであった。

このように比較するとウェルギリウスとウィトルウィウスは、同時代人であるのみならず、その価値観や叙述の仕方においてよく似ているといえる。前者は田園を描き、後者は都市を描いた。そういう対比はあるが、似た精神をもっていたのではないか。それはローマが共和制から帝政に移行する時代のきしみであったといえよう。

21世紀初頭、そんなきしみはないのであろうか。

ダプニスを連れもどせ。

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2008.03.17

建築家シンケルと景観

シンケル(Karl Friedrich Schinkel, 1781-1841)はプロイセンの建築家で、ドイツ建築史のなかの最大の巨星といっていいでしょう。ロマン主義の流れのなかで、古典主義を継承しながらも、ゴシック建築を再評価し、さらにランドスケープのなかで建築を群としてとらえ設計するという新しい展開に成功した建築家でした。

1794年にベルリンにうつり、そこで1798年に建築家ジリーとの運命的な出会いがあり、その弟子となった。下図はGilly, 《フレデリク大王のための記念碑》、ベルリン、1797。これは建築プロジェクト図ですが、雲の描き方などは風景画のつよい支配下にあることがわかります。新古典主義は、ときにはロマン主義的古典主義といわれるゆえんですが、つまり建築家はその内面、自分が訴えようとする偉容、偉大さ、超越性を、景観に託して表現しようとしているのです。

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1803年にイタリア旅行に出発する。とくにミラノ大聖堂が気に入った。シチリアには1803-04年に滞在した。

とはいえ古代建築はすでに学習済みのものであって師ジリーにも、古代建築はすでに知っているので、古代建築を見学してもたいした効果はないと書いている。しかし、建築が自然のセッティングのなかで、ピクチャレスクな群としての造形を展開している様は驚きであった、と書いている。下左は古代ギリシアの景観を、下右は古代都市を描いたもの、下右は宿からローマ市、とくにサン・ピエトロ聖堂を描いたもの。

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さらに「ゴシック建築は、スタイルは別物としても、ギリシア建築とは共通点だらけである」とも書いている。つまりランドスケープにしかるべき場所を占める建築、中世のゴシック建築、という彼の生涯を決定づける指向がすでにはっきりと意識されている。

1806年から舞台デザインの活動をはじめる。当時はディオラマ、パノラマと呼ばれていたものであった。とくに1815年にはモーツァルトの《魔笛》のためのデザインをしたのは有名。(下左は夜の女王の場面。下右はランス大聖堂の眺め。)

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シンケルは当初からプロイセン王室の御用達建築家であった。国民にも人気のあったルイーゼ王妃(1776-1810)は、彼に宮殿のインテリアを依頼したばかりか、公共事業局の局長に指名した。

王妃は不幸にも1810年に若くして亡くなる。その霊廟のためのデザインも、彼は提案した。彼がゲンツとともに設計した厳格なドリス式神殿にものはシャルロッテンホフに建設された。さらにゴシック様式の幻想的なものも設計した(下図)。同1810年、ベルリン・アカデミーの展覧会で展示された。

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ところで前稿との関連で興味深いのは、この展覧会にはC.D.フリードリヒも絵画2葉を展示していたことである(cf. Watkin, 1987, p.87)。フリードリヒもシンケルもロマン主義運動のおおきなうねりのなかにあった。とはいえシンケルは巨匠画家の真似をしていたのではなかった。画家はゴシック建築の廃墟を描くことをこのんだが、建築家はそうではなかった。

下の4葉は左からそれぞれ芸術家の妻、木々に隠れたゴシック教会堂、 川辺の城、朝、を描いたものです。対象の正確な描写というより、観察者の内面を投影したその画風は、フリードリヒと同様、あきらかにロマン派のものです。しかしフリードリヒと若干異なるのは、肖像はこちらを向き(背中を向けられては肖像画にならないのですが)、木々はやさしい。しかし川辺の城では、光源が木の幹で隠されており、神=超越の存在がそれだけ強調されています。また最後の《朝》でも同様に光は扱われています。超越ゆえにそれに到達できない。しかしその超越と一対一のはっきりした関係が保たれている。

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シンケルはゴシックリバイバルの建築家であった。さらにそれはナショナリズム的な理念にもとづく復興であった。なぜならゴシックは「国民精神の発露」であり「人間を神や超越的な世界に結びつけていた顕著で目に見える記号」であった。そしてゴシックは「古代よりも優れた原理を備えている」のであった(cf. Watkin, 1987, p.90)。

シンケルの大聖堂は、都市生活の頂点であって、高台の上にそびえていなければならなかった。ゴシックは高邁な理念の表現であり、とくにプロイセンの文化的・政治的な立場の表明であった。

下左は、現実には市中にあるミラノ大聖堂を、海のみえる丘の上に置いた、舞台装置。様式はゴシックだが、ランドスケープとの関係は古代的といえます。下中は大聖堂の風景を描いたもの。いわゆる逆光で、隠れた光源から光はむこうから(つまり超越から)やってきます。塔は透かし彫りのように、半透明です。古典主義建築は、光を反射し、はっきりした輪郭を示します。しかし中世建築は、光を吸収し、光と一体化します。あたかも人間が神の教えと一体化するように。下右では、川辺の中世都市が描かれている。兵士たちが、大聖堂を目指している。その大聖堂は塔が一基未完成であり、旗がはためいている。これはプロシア、ドイツが近代国家としてこれから建設する途中にあり(フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ!』)、その完成のための国民的な情熱を注がねばならないことが主張されている。虹は、完成への希望の表現です。

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1815年からベルリンの都市計画の担当者となる。新衛兵所、劇場、古代博物館などを建設した。ここでは古典主義を展開した。このプロシアの首都は、その厳格で清廉な性格を表さねばならなかった。下3葉はアルテス・ミュゼウム(古代博物館)です。景観との関連で、ギリシアのストア建築を再現したものが、描かれています。とくに下右は、列柱廊の階段から、都市景観を眺めたものです。19世紀のベルリンは、古代ギリシア都市の景観をまとうように設計されたのです。

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1820年から王室の依頼により、ポツダム郊外のシャルロッテンホフ宮殿の整備を進める。ここで彼は、ロマン主義的なゴシックでもなく、国家的偉容を体現すべきベルリンの厳格な古典主義でもなく、若い頃にイタリア旅行で驚嘆をもって眺めた、自然のなかで群としての建築がのびやかに展開してゆく様を、再現したのであった。

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さらに晩年のプロジェクトでは、ランドスケープの意識がさらに強くなっています。下左図はオリアンダ城計画です。これはギリシア風です。下右は、ライン川沿いにある城の景観で、これはドイツ風というか中世風。しかしどちらも、ランドスケープのなかに展開してゆく建築が強調されています。

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シンケルが亡くなったときプロイセン国王はその葬儀を国葬扱いにし、毎年シンケル祭を開催しようとしたそうです。ベルリン中心部の公共建築を建設し、王宮を整備した彼は、まさに国家的建築家であった。しかし業績ゆえではなく、彼がドイツ的建築の心情そのものを形成したからであろうと思われます。

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2008.03.16

風景画家フリードリヒについて

ドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich, 1774-1840)についてです。この稿も平戸プロジェクトの一環でして、ランドスケープ解釈の一助とするためです。絵画史を専門とするものではありません。

ロマン主義の風景画家である。略歴。13歳のとき、自分を助けようとした弟が溺死してしまう。これが一生のトラウマとなった。コペンハーゲン美術アカデミーに入学するが、ドレスデンに引っ越す。ベルリンの美術アカデミー、ドレスデンの美術アカデミーの会員であった。

クロード、プッサンらが理想的風景画を描いた古典主義画家であったとしたら、フリードリヒはロマン主義という範疇にはいります。

古典派は、ウェルギリウスなどの古代文学から題材を得て、風景を描きます。そこには人間の運命、悲しみ、偉大さ、徳、死、などが描かれますが、いちどテキストに描写されたものを絵画としております。ゆえに型にはまった感じがするし、既存のテキストにそって人物の立ち振る舞いが決められるという点では、演劇的にもなります。プッサンの絵もときには舞台の書き割り的に見えます。

いいかえるとあらかじめ立派なテキストがあって、個々の人間はそれをなぞるだけなので、どうも人間には自我や内面が薄いような気がします。もちろん人間だから心はあるのですが、芸術の創造にとってとくにそれらは必要とされないのです。

ロマン派は近代人の心性を反映しています。

ここで「近代」とは今から200年ほどまえに幕あけた新しい時代をさします。啓蒙主義、科学の発展、フランス革命などの大きな変化によって、王権やキリスト教社会は瓦解し、それに連動した伝統的諸価値は崩壊します。

ロマン派とは、この変化を「新しいものを獲得した」と考えるのではなく、ぎゃくに「なにかを(古き良きものを)喪失した」とする考え方、感じ方をさします。

近代人は矛盾しています。いっぽうで進歩や発展をあくまで追求しながら、他方では本来の自分は、心は、失われただの傷ついたなどと考え、喪失感にさいなまれ、そして失ったものを回復しようとします。

歴史的建造物の保存、今日の用語でいえば文化遺産の概念は、200年ほど前に、このロマン派的心性とともに誕生しました。「歴史的建造物」「遺産」そのものの歴史があるのですが、これらは政策、制度として自動的に動くようになっています。ですのでその文化的、哲学的なからくりは忘れられているといえます。

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それはともかく、アイネム『風景画家フリードリヒ』(高科書店、1991)を要約しつつ、ぼくなりにコメントさせていただきます。上左は《雪の中の巨人塚(ドルメン)》、上右は《リーゼンゲビルゲ山の朝》、山頂に十字架が見えます。荒涼たる自然です。古代的な親和的なランドスケープとはまったく違います。

ロマン主義ということですが、アイネムは、18世紀の啓蒙主義、文化の世俗化という危機を乗り越えて、ドイツ人は「自我」を「創造的な性の統一体として発見」したのであった、と指摘している。フリードリヒの風景画は、まさに彼の内面をそのまま描写しているのであり、風景はたんなる料理の素材にすぎないような感じがします。

主観性。風景はもはや客観的に与えられた単なる物質的なものではなく、主観的な体験の神秘的な反映となります。風景はたんなる観察の対象ではなく、感情の対象です。自然は、神が意味をあたえたり、それ自体に象徴的な意味をもつのみならず、人間の感情がそこに描かれたもの、になってきます。風景は、こうしてあらたに「人物芸術の代わりに宗教的表現の担い手」になります。フリードリヒは「芸術のたた一つの真実の源泉はわれわれの心である」(p.46)と主張します。

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上左の《山上の十字架 テッチェン祭壇画》ですが、ここにはキリストの苦痛は描かれていなく、観察者の心情を投影することが求められています。上右《森の中の猟兵》も、奥にひそむ不安を想像せよといわんばかりです。

宗教性。フリードリヒの風景画はすべて宗教画といえる。しかし伝統的な意味での宗教画ではない。伝統的な信仰は、共同体的であり、宗教画のアレゴリーや書き方は決まりがあった。しかし彼の信仰は、孤独なものであった。その絵画は、自然との孤独な対話(p.133)いがいのなにものでもなかった。トラウマ故に人間嫌いとなったが、反面、自然との親密な交流がなされた。

廃墟。教会の廃墟が描かれる。彼の描く廃墟は「無常」ではなく「明確な過去の象徴」である。つまり古い信仰をそのまま再確立しようというのではなかった。現存するゴシック聖堂が廃墟に変形して描かれた。

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ランドスケープの普遍性。特定のランドスケープを忠実に再現しようとはしなかった(p.123)。たとえばエルデナ修道院、近くにあったが、山の世界のなかに移している。上は左から《エルデナの廃墟》《雪の中の修道院の墓地》 《樫の森の修道院》です。同じ廃墟モチーフをいろんな風景のなかに描いています。風景は、目の前に展開する固有の具体的なものではなく、あらかじめ心のなかに描かれた、超越的、先験的、観念的、一般的なものなのです

人物は風景の「点景」ではなく「意味の担い手」である(p.97)。彼が描く人間は、特性をもった個々の人間ではなく、一般に人間的なものの代表であり、さらには被造物一般の代表である。ということは人間はかんぜんに自然の一部であり、その特別な立場を失っているのであり、木、岩、道具がその代理であってもよい。これはまさに「自我の中に世界への鍵を見出すというロマン派一般の謎」(p.100)なのである。シェリングの「世界霊魂」というものに近いという。

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上の左右は《海の月の出》《人生の諸段階》。これらでは人物も舟も、風景のなかでは等価であるような印象さえ受けます。

アイネムによれば、フリードリヒの絵画は彼のキリスト教的経験に根ざしている。被造物どうしの親密性、孤独であることの苦悩、おなじ内面を有しているという期待、自然との一体性、望郷の念、など。

垂直性。垂直的エレメントが支配的である。水平的エレメントは従属的。これなどは北欧/南欧、ゲルマン/ラテンという典型的な対比となっています。

エレメントの孤独。個々のものを独立させる。個々のものは独立的であり、画面全体の構築性とはつねに対立関係にあった。このエレメントはときには木であり、人間であり、岩であったりする。

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上はそれぞれ《日の出に立つ女性》《霧の海を眺めるさすらい人》《窓辺の婦人》です。これらからわかるように、まず遠近法が否定されています。それまでの風景画では遠景、中景、近景というレイヤーを考え、さらにはそれらが連続的につながるように、プッサンなら蛇行する小道を描いた。しかしフリードリヒは「非常な近さ」と「遙かな遠さ」という対比を描いた。これはルネサンス以来の遠近法を否定するものであった

さらに人物はつねに後ろ向きで描かれている。この人物は、無限や超越にむかってあこがれながら、しかし自分の肉体という有限性に囚われている

「理想の風景」の稿で、風景画とはようするに奥行き、距離、を描くことではないか、と書きました。古典主義的な芸術のなかでは、距離としっても、船出するアエネイス、アテネから墓地に運ばれる有徳のフォキオン、といったように、いくら遠くても到達できる距離であったのです。しかしロマン主義の描く距離とは、超越的なものです。つまり絶対的に到達できない類のものです。しかし近代人にとって、距離とは、絶対に到達できないからこそ意味をもつようです。無限を発見した18世紀啓蒙主義の帰結でしょうか。しかしよく考えてみれば、超越的な、絶対に到達不可能な距離、というのは現代人がイマジネーションをいだけないものとなっているようです。

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2008.03.15

「理想の風景」について

ケネス・クラーク『風景画論』読書レジメのつづきである。建築設計演習のための素人のノートなので、絵画のプロはパスしてください。

クラークは本書3章で「幻想の風景」について述べている。舞台は16世紀、宗教改革などで価値観が揺らいだ時代である。のちの表現主義につながる北方的な感性がうまれ、火、火災、などが好んで描かれたこと。マニエリスムが誕生し、人体がデフォルメされて描かれ、ビザンチン風の奇石などが描かれた。・・・ことなどが書かれている。これはのちに触れることにします。「平戸プロジェクト」には直接関係しないからです。

 第4章が「理想の風景」である。もともと風景は、英雄や神話の背景であり脇役にすぎなかった。しかしそれがひとつの理想とされることで、主役となった。

 これは常識的なことだが、そこでは古代文学が風景画家のインスピレーション源とされた。

オウィディウス『変身譚』。ギリシアやローマの神話において人物が植物、動物、鉱物などに変身してゆく物語。ナルキッソスが自己愛によってスイセンになる。ナルキッソスを愛するエコーは木霊になる。イカロスは蝋の翼で空をとぶが墜落する。ダプネーは、アポロンに追いかけられて、木に変身する。など。(下はプッサンの《エコーとナルシス》)

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ウェルギリウス『アエネイス』。アエネアスはトロイア滅亡ののち、カルタゴ女王との悲恋があったが、イタリアに到着し、ローマ建国の礎となる。その流転におけるさまざまな景観(下はクロード《デロス島のアイネイアスのいる風景》)。『牧歌』は田園を賞賛する「アルカディア」概念をもたらして、ヨーロッパにおける理想的田園概念の出発点となった。『農耕歌』には農民の生活、農作法、牧畜や養蜂やブドウ栽培の仕方などが書かれている。

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とうぜんのことながら、これら古代文学はたびたび読み返されることで、風景画のみならず、文学(ダンテ『神曲』など)、パラディオのヴィラ建設、イギリス貴族のカントリー・ライフ、造園運動、ピクチャレスク美学の成立、をもたらしたのであった。

はからずもクロード描くカルタゴは「港市」ですので、平戸プロジェクトの参考になるかもしれません。

こうした古代的インスピレーションを復活させたのがジョルジョーネとティツィアーノの《田園の合奏》や、ベリーニの《寓意》、ジョルジョーネの《テンペスタ》、ティツィアーノの《聖愛と俗愛》などだが、これら前書きはそれだけで独立させて論じるべき対象でもあり、ここでは割愛します。

クラークの本題はもちろんクロードとプッサンである。

クロード・ロランはフランスのロレーヌ地方出身なので「ロラン」と呼ばれるのだが、その生涯のほとんどをローマで画家として過ごした。

彼はローマにおいて野外での写生を行い、それをアトリエにもちかえり、ひとつのタブローとして再構成した。つまり細部は忠実な描写でありながら、全体は構想されたランドスケープなのであった。

その構成法は、同時代の劇作家ラシーヌの「三一致の法則」に匹敵するという。つまり時の単一、場の単一、筋の単一であり、1日のうちにひとつの場所で、ひとつの行為だけが完結するべきである。これがフランス古典演劇での重要な規則となった。ラシーヌの手法として「アレクサンドラン誌行」も言及されている。

クロードは近景、中景、遠景を描き分ける。近景は、画面の一方の書割と、それがもたらす暗い影である。中景は、いくつかの樹木であることが多い。遠景は、古代風の建築であり、光に満ちあふれる。(下左《アポロン神殿》、下右《アイネイアスの出発のあるカルタゴの眺め》

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ところで風景画とは距離を描く絵画であると思う。ジャンルでいえば、静物画や人物画には距離はほとんどない。もちろん絵として描く、あるいはそもそも対象として見るためには、あるていどの距離は不可欠である。しかしその距離は描くべき目的ではない。しかし風景画においては、アレゴリーの組み合わせであることは静物画と同じであるが、距離をどう描くかが課題となる。遠近法はそのための技術だが、必要条件でしかないと思われる。つまり距離を客観的にではなく、主観的に描かねばならない。つまり距離感なのである。

理想的風景の絵画では、距離感がみごとに描かれている。この距離は、自分がかつていた遠方でもあり、これから到達できる彼方でもあり、到達できなくとも心情的に親和的でありうる遠方である。これにたいしロマン派絵画は、まさに到達できない彼岸が、まさにその不可能性がテーマであるがごとく、描かれる。

クリードにおいて古代風の建物が描かれるのは、これが古代であるか、その遺跡が残っているかという、古代のサインである。しかし建物が不可欠なのではない。「クロードにおいてもっともウェルギリウス的なものはといえば、光にみちた静謐な空のもと、やさしく小川が流れ、羊の群れが草を食む、あの黄金時代的感覚」なのだと指摘されている。

*注:個人的には、風景画と舞台デザインとの関連はないのであろうか、と考えている。16世紀の建築家セルリオは劇の種類にあわせて背景を決めた。悲劇=古典主義、喜劇=中世、風刺劇=田園、である。スタイルの合致である。

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ニコラ・プッサンもまた17世紀のフランス人画家であり、生涯の大部分をローマで過ごした。

クラークによれば、プッサンは印象派の先駆者でもあるが、その絵画構成はきわめて幾何学的である。水平線と垂直線を、ときには黄金分割にしたがって、配置する。古代建築は、古代であることを示すとともに、自然のなかには少ない垂直要素を付加するために有効であった。ゆえに直線、正面性が強くなる。それを中和するかのように、補助として、斜行する小道を対角線要素としてつかっている。

ぼくの観察では、プッサンの絵は舞台装置的である。近景の両側には、暗い樹木が描かれている。近景に人物が配置され、主題となるストーリーが展開される。中継は、小道、川、湖などであり、近景と遠景をつないでいる。遠景は、登場人物以上にじつは主役かもしれない。そこには古代建築、神殿、などが描かれる。建物でない場合は、神域のような山が描かれることが多い。

《ヘビのいる風景》(下)は、オウィディウス『変身譚』第3巻を描いたものとされている。フェニキアの王子カドモスはポイオーティアに到着し、従者をマールス泉に水を汲みになったが、マールスの竜が従者を絞め殺してしまった。プッサンはこの竜をヘビに書き換えたのであった。この絵では、ヘビと絞め殺された男が横たわっており、それを目撃した男が驚愕し、さらにそれを見た画面中央の女がおののくという、恐怖の連鎖が描かれている。それは連鎖であるがゆえに、ある時間の幅があり、恐怖が画面手前から奥にむかって展開している途中が描かれている。もちろん遠景までは恐怖は到達していない。

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この絵についてはルイ・マランが『崇高なるプッサン』のなかで多層的な解釈を示しているが、それに触れるのは次の機会といたしましょう」。

《フォキオンの葬送》(下左)はプルタルコスの『フォキオン伝』による。アテネの有徳の政治家フォキオンが誤った民衆の裁判により、ちょうどソクラテスのように、死罪となった。市内での埋葬を禁じられた遺体は、アテネから郊外に運ばれる。その光景を描いたものである。プッサン自身もストア派哲学に傾倒し、徳性を強調する絵画を描こうとしたのであった。絵としては、遠景はその遺骸が出発した場所であって、たんなる背景ではない。

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《フォキオンの遺骨を拾う》(上右)はその続きと見ることができます。近景中央ではフォキオンの士の遺骨が拾われている。遠景中央は、厳格なたたずまいをみせる神殿です。両者を、湾曲する小道がつないでいる。しかし画面全体に緊張感と厳格さをもたらしているのが、中央の神殿であり、それを中心とする強い正面性です。さらにいえばこの神殿は、非業の死をとげた有徳の士の擬人化であろうとさえ考えることができます。

そのほか私見によれば、プッサンの絵画では近景における人物と、遠景における建物が、なんらかの性格上の意味上の対応関係を持っていると推察される。しかし確信をもって主張できるものはないので、やめておきます。

理想的風景=古代の風景、であるのですが、古代の風景といってもタイムマシンで遡ったりギリシアやローマで彷彿するものではなく、古代の神話、英雄、建築、生活(=田園的生活そのもの)をふたたび蘇らせようとするものであった。神話や物語の背景として、風景が描かれる場合でも、背景の風景や建物は、人物のなんらかの特性を反映したものであった。そういう意味ではセルリオが舞台デザインを悲劇=古代都市、喜劇=中世ゴシック都市、風刺劇=田園風景と使い分けたことを思い出させます。

さらには現代の景観思想も、基本的には理想的風景の一派にすぎないようにも思われます。

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2008.03.10

「事実の風景」について

ひきつづきケネス・クラーク『風景画論』の読書ノートです。今回は第二章「事実の風景」について。

キーワードは「光」「雲」「空間」である。しかし「空間」は透視図法との関連も示唆されながら、近景/遠景といったもののことにすぎないように思える。オランダ絵画の話しのなかでわかるように、クラークは「光」(と「影」)によって演出される「空」「雲」について語りたいのである。19世紀イギリスへの序曲とするためである。

だとすると「事実」は、空と雲について述べたかったクラークが、自然主義と事実主義という迂回をしたということだったのではないかと思いたくもなります。しかし「事実」とはなにか、はそれなりにいい設問です。クラークの論を紹介しつつ、ぼくなりに再解釈してまとめてみよう。

(1)小画面/大画面(p.55):目の前に広がる風景を描く風景画は小画面である。構成を工夫しさまざまなものを書き込んだ大画面の風景画は、たいがいアトリエで制作されたものである。ゆえにそれは現地/アトリエの対比である。現地では事実がそのまま見える。しかしアトリエでは、事実は再構成されるか、ねつ造される。

(2)理想/事実:歴史画も宗教画も、面前でおこったことの忠実な記録ではない。聖母マリアの慈愛あるれる表情を描いても、それは事実ではなく理想を描いているのである。それは事実でないからこそ重要視される。いっぽう事実そのものを描くのは、下等なこととされる。ゆえに風景画は蔑視されることもあった。これはイタリア・ルネサンス/北方ルネサンスの対比でもある

(3)理想主義/自然主義:前項の言い換えかもしれないが、クラークは自然主義にたびたび言及している。

(4)風景とはそもそも「事実」なのか?とぼくなりにかんがえると、歴史的には明らかで、風景とはまず目の前にはない、理想化された、空想されたものであった。だから風景=非現実、が歴史的出発点であった。近代になって人間は自然を征服してしまったところで、風景は現実のものとなった。のではないか?自然は芸術を模倣する、といわれるゆえんである。

(5)背景としての風景/単独としての風景:クラークは区別していないが、宗教画などの背景として描かれる風景と、まさに主人公として描かれる風景とは異なると思われる。私見では、風景とは遠景でしか描きようがない。では風景としての風景画は、近景がない、あるいは工夫して近景が空白、不在、虚無として描かれることになる。ぼくはそう考えるのが好きなのである。

ということでクラークは「事実の風景画」=「17世紀オランダ風景画」をこの章で説明しようとしている。そこにいたる前書きは30ページにもわたる。ペヴスナーもそうであるが、イギリス風の語りは個人的には嫌いである。語りに完全に身を委ねるとそれなりに心地よいが、批判的な距離を保とうとするととたんにイライラする。

いちおう読書レジメ風にだらだらと書いてみよう。

フーベルト・ファン・エイク《トリノ時祈書》(p.55)はきわめて小型の風景画であって、最初の近代風景画と呼べる。彼は「事物をみたす光の感覚を色彩でもっていかに見事に描出したか」を示す例であった。

ヤン・ファン・エイク《宰相ニコラ・ロランの聖母子》(下左)(p.60)には「前景から後景へと滑るように進んでいける感覚」が見られる。風景画とは「遠景」の発明であった。さらに《聖女バルバラ》(下中)には、異なる建物の習作が、組み合わされている。これは現実の風景を伝えようとする「地誌学的」なものではない。《ゲントの祭壇画》も(下右)。

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上左の《聖母子》であるが、近景は聖母子などテーマが描かれている。3連アーチ窓が、近景と遠景をしきるスクリーン。遠景はそれ単独で存在しうる風景画となっている。橋の欄干に向かって、こちらには背中を向けて、川か遠くかを眺める人物は、まったくの日常と解釈させていただきたいものだ。聖と世俗=日常がレイヤーをなして共存していると解釈したいのである。

「事実の風景画」が成り立つための条件 として「新しい空間感覚」が必要とされる。この感覚は、ヤン・ファン・エイクなどフランドル絵画にとってはあくまで経験的、まさに感覚的であった。これを科学的に理論化したのがフィレンツェの芸術家たちである。クラークは、ルカ・パチョーリ、アルベルティ(カメラ・オブスクラ)、ブルネレスキ(教会堂をつかった実験)らに言及しているがここでは割愛する。彼が強調するのは、ブルネレスキの方法論では「空」が描ききれなかったように、フィレンツェ的な「明確に科学的な透視図法は、自然主義的芸術のための基盤とはならない」ということである。

だからファン・エイクの「事実の風景」をさらに発展させたのは、フィレンツェではなく、ヴェネツィアであり、とりわけジョヴァンニ・ベリーニにおいてである。《聖フランチェスコ》(下左)ではその「遍満たる光」のもと、膨大な自然物が描写されながら、細部描写は統一的である。天からふりそそぐ陽光は、地上のすべてにあふれるのであり、「神はすべてのものに住み、すべては神のうちに在る」のである。さらに《牧場の聖母》(下右)では、肌寒い日のつかのまの微光が描かれている。

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しかしベリーニの風景画は発展しなかった。ローマのルネサンスでは、あくまで人間中心主義的な芸術観が支配的であって、風景はテーマとされなかった。ミケランジェロにとっては、フランドル人が発明した風景画は、芸術の名に値しない些末事であるばかりか、シンメトリーや比例を満たさない、有害なものでさえあった。

そうした偏見のなかでも傑出した画家として、クラークは、ヒエロニムス・ボス《マギの礼拝》(下左)、ヨアヒム・パティニール《ステュクス川を渡るカロン》(下中)、ブリューゲル《イカロスの墜落のある風景》(下右)らを挙げている。彼らはローマ的な理想主義とはまったくことなる自然主義的な画家たちである。とはいえ面前のランドスケープの写真的描写ということではない。さまざまな営みを展開する人間たちを、その無数の細部を、きわめて綿密に描ききる彼らは、17世紀オランダ風景画の前史なのであった。

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上の3葉は、左から右にいくほど、画題となったテーマの扱いがしだいに軽くなってゆく。

カロンはギリシア神話の登場得人物であり、死者の魂を冥府に運ぶのであるが、この絵ではそれは口実にすぎない。画家はむしろ空想的な風景を描きたいのである。

イカロス墜落の光景など、画中のだれも注目していない。付随的テーマが本来のテーマを凌駕してゆく一例だが、ぼくはこういうのもけっこう好きである。

クラークはやっと本題の「17世紀オランダ風景画」に言及する。その背景として3点。(1)社会学的には、ブルジョワ芸術、市民階級的芸術であって、彼らは理想主義的というより現実主義的であった。(2)自由な科学的精神がオランダでは残っていた。曰く「自然観察の時代」「レンズの時代」。(3)芸術がいわば通俗芸術化していた。

しかしクラークは「目に見えるままを表現することを好むネーデルラント人の古来からの性癖」(p.91)とあるように、民族的性格という視点はぬぐいがたくあったようだ。だから彼は、時間軸に沿って、ひとつの絵画形式がすこしずつ発展しているように記述しながら、根底では、オランダらしさのことを考えているのである。

オランダ風景画の例としては、レンブラント《風車》、ライスダール《アルンヘム近くの渡し舟》1561、フェルメール《デルフト遠望》1660-1661、らが挙げられている。クラークの関心の対象は、ブルネレスキが失敗した「空」であり、その空につねに微妙な表現をあたえつづける「光」であった。ここでコンスタブルの「光と影は決して静止せぬものと心得よ」が引用されている。オランダ風景画の核心であるとともに、クラークにとってオランダ絵画とイギリス風景画をつなぐ絆であった。フェルメールの《デルフト風景》では、空と雲を描こうとしたのにたいし、地上の建物たちは、それぞれ違う姿をもちながら、等価なものとして扱われている。光、影、空などが目的であって、地上のものは絵を描くための口実のようなものとなっている。

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18世紀は風景画にとっていい時期ではなかった。絵画は科学ではなくトリックになり、カナレットなど例外のほかは、自然主義的絵画はきわめて困難となった。しかしながら、英国のロイヤル・アカデミーにおいて絵画教授フューリスが風景画の劣等性を述べているとき、コンスタブルはアカデミーの生徒であった、などとクラークは物語を演出するのであった。

以上です。

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2008.03.09

「象徴としての風景」について

 これはケネス・クラーク『風景画論』の第一章のレジメのようなものである。建築設計演習のための副読本、という位置づけだから、物足りなさそうと思われる人はパスしてください。だいぶ前の岩崎美術出版のものとちくま学芸文庫のものがある。どとらも目を通しましたが、今回は後者を参考にしての要旨です。

 まず古代ギリシアでは、芸術家の関心はもっぱら人間にあったので、風景は対象とされなかった。ヘレニズム時代も、風景はたんに装飾として描かれるだけであった。

 このように古代芸術では風景への関心はあまりなかった。しかし風景を描くその手法、とくにビザンチンの手法、光や空間を描く方法、は影響を与えた。

 中世人は自然を象徴のシステムとして読んでいた、というのがこの章の要旨である。

(1)象徴/感覚 

 中世において特徴的なこと。「象徴」が「感覚」よりも圧倒的に重要であった。

 中世絵画は「象徴」的なものである。万物のかたちをシンボルとしてとらえ、あらゆるものはキリスト教の教えのなにがしかを反映していた。シンボルは、その自然物のありのままの姿とはまったく無関係であった。記号学におけるシニフィアンとシニフィエのようなものである。観念こそ神にふさわしいものであった。

Photo 《カンタベリー詩編挿絵》

 中世人は世界を象徴化して理解していた。花、木、は美しいのみならず、神がなんらかの意志を表明しているものであった。

 それに比較して「感覚」は卑しいものであった。人間の感覚を喜ばせるようなものは、それだけで罪深いものであった。庭園には薔薇の花が視覚や嗅覚に快楽をあたえ、歌や物語が聴覚を満足させる。

 一般的に、農夫や漁民にとって自然は観賞の対象ではなく、生活の糧、生命の危険、などより直截な利害にかかわっていた。

(2)庭園/荒野

 12世紀になって「庭園」が「再発見」された。もちろん聖書にも庭園は描かれているからヨーロッパ人が知らなかったのではない。しかし東方文化に触れることで、ふたたびそれを意識することとなった。

 まず「パラダイス」はペルシャ語に由来する。「壁で閉ざされた囲い」を意味する。十字軍活動によりイスラム文化圏の文化が移入されたのであった。

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(左:ケルン派《パラダイスの庭》、右:《一角獣と貴婦人》)

 『薔薇物語』やダンテ『神曲』やスペンサーの『神仙女王』などの中世文学はそれを反映している。あるいはパリのクリュニー博物館所蔵の《貴婦人と一角獣》。これらは〈閉ざされし庭(ホルトゥス・コンクルスス)〉として描かれるのであった。

 庭園と対概念となるのが荒野であり岩山である。庭園は愛らしく、安全である。しかしそこから出れば、自然は、錯乱し、広大で、危険で、畏怖すべきものである。

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(左:《荒野に赴く聖ヨハネ》、右:フィレンツェ派派《隠修士の生活》)

 かくしてゴシック絵画では、荒涼たる奇妙なかっこうをした岩山が、人間に敵対的な自然として描かれる。フィレンツェ派による《隠修士の生活》やジョヴァンニ・ディ・パオロの《荒野に赴く聖ヨハネ》などが典型例である。人間にやさしい庭園とは対極的に、荒野や岩山は人間に敵対的で試練を与えるのである。

 クラークはチェンイーノ・チェンニーニを引用している。孫引きしてみよう。「山を描くためによい方便を得ようと願い、これを自然のものの如くに見せかけようと願うならば、ごつごつした、磨きのかからぬ大きな石をいくつか用意せよ。そそて理性が汝に好しと許す通りに明暗を用いつつ、ありのままにこれを描写せよ」。これはプッサン、ゲインズバラ、ドガらの方法の先取りでもあるそうだ。

 つまり自然の描写とはいいながら、観念的なのである。実際の自然を観察するまえに、あらかじめ定型=自然もどき、を制作しておくのである。

 ゴシック絵画に描かれた山岳がこのように想像上のものであるのは、当時はまだ登山の習慣がなかったからである。生業との関係は注意しなければならない。狩猟は貴族のスポーツであり、登山は近代人の娯楽であり、彼らがそれを楽しんだから絵画として描かれる。農民は海や畑や田園の風景には関心をもたない。それらは美しいと鑑賞するにはあまりに生活に密着している。田園はそれ単独で再発見されたのではない。農民と田園は1セットとなって、領主や、近代人=都会人によって、「再発見」されたのである。これはヨーロッパでも日本でも同じである。

(3)中世的な風景概念からの離脱

 典型例がランブール兄弟による《ベリー公のための豪華時祈書》(15世紀初頭)である。中世的な象徴的伝統が影をひそめ、ネーデルラントに特徴的な、事物をありのままに見ようとする姿勢があらわれている、という。

Photo_6 (ランブール兄弟《時祈書》

 さらにクラークは1420年ころに、人間精神は変化し、「光」と「空間」についての初期科学的なとらえ方がはじまったとして、後段における説話展開を示唆している。

(4)まとめ

 現在では建物と景観が「なじむ」ことのみ評価されている。しかしもともと自然は人間と敵対的であった。荒野と岩山はまた、神のシンボルによって満たされていない、その意味で反宗教的、反人間的な空間であった。

 現在の景観思想、風景思想を生み出した根源にあるのが、人間が自然を支配したという歴史的事実である。風景観はその支配が進展するプロセスのなかで変化してゆく。

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2007.11.08

【書評】J.-P.コフ+A.バラトン『ヴェルサイユ庭園の本当の歴史』PLON, 2007

Jean-Pierre Coffe, Alain Baraton, La veritable histoire des jardins de Versailles, Plon, 2007がふと目にとまったので、購入してぱらぱらめくってきる。バラトンはベルサイユ造園家であり、コフは庭園愛好家である。

 なぜ目にとまったかというと、1999年12月26日の嵐のことを書いているからである。早朝フランスを襲った嵐は猛威をふるった。たまたま在研でパリ在住であったのでよく覚えている。20世紀初頭の建物にいて、風で建物が揺れた。小一時間もすると静かになったので外に出ると、木造の小屋組(RCでなければ石造の壁に木造の小屋組である)が、風に飛ばされそのまま平行移動して、道路の上にいくつか転がっている。とても非現実的な光景であった。

 庭園も被害は甚大であった。地盤がそれほどよくなく、根がしっかりと大地をとらえていなかったので、まさに根こそぎになった。数はよく覚えていないが、数十万本のスケールであったのではないか。

 この1999年の嵐でヴェルサイユの庭園では4万本が犠牲となった。バラトンは、苗床で育っている樹木にも税金がかかるのが、こうした災害のあとで公園を修復することにブレーキをかけていると批判し、ドイツではそうではないと別の例を示しつつ、共和国は緑に興味がないのだという。

 ルイ13世時代の狩猟屋敷、フーケの庭園と彼の逮捕、ルイ14世による大発展、革命、19世紀、そして現在までと、創設から現在までがひとつのパースペクティブのなかで語られる。そのなかで苗床、家禽場、庭園、造園家の系譜、オレンジ栽培場、水利と噴水、情感、大小トリアノン、氷室、マリ=アントワネット・・・が語られる。

 しかし災害の歴史についての章が最後を飾っている。1697年7月7日の嵐でも、樹木は根こそぎにされた。1701年2月2日にも嵐が被害をもたらした。1709年1月と2月の大寒波は、マイナス20~25°Cにもなり、セーヌ川は氷結し、パリだけでも24000人の犠牲者をだした。1730-31年の寒波により、植えられたばかりの植物はすべて無駄になり、木々の枝は氷の重さで折れた。同年の夏は乾燥で、大量のまぐさを馬のために地方からヴェルサイユへ運送しなければならなかった。1740年1月5日も大寒波。1754年、1760年の寒波でも多数の樹木が死んだ。1776年の嵐で多くの純木が被害をうめた様は、ユベール・ロベールが絵画《1774-1775年の冬》として記録を残している。1871年の嵐でも樹木はなぎ倒されたが、コミューンは、それらが貧しい人びとの暖房用の薪になることを許容した。その後も厳しい気候条件はあったが、最近では1985年の寒波。そして1990年の嵐では、1800本が倒れた。

 そして1999年のそれでは1万8000本が倒れた。修復のため、木立を並べるなどの必要から、4万本が植えられた。被害調査から、樹木は孤立していたほうが風には強いこと、いわゆる植樹されたものより自然に成長したもののほうが強いことなどが判明したが、木々が植わっている条件はさまざまであり、一般法則は見つけられないようである。

 フランス式庭園は樹木を一直線に植えるのであるが、いまではレーザー光線を使って線をそろえるのだそうな。枝振りもこれでそろえるという。

 造園家は、いわゆるエコロジストとは視線が違うようだ。熱波で2万人が死ぬことも、200年前に寒波で同じほどの数の犠牲者が出ることと、さほど違わないようだ。

 おそらく筆者がいちばん思い入れがあるのが「ヴェルサイユの造園家たち」と題された章である。いちいち個人名は書かないが:

・造園家といってもきわめて細かく専門分化していた。野菜栽培、実をなす樹木を刈ること、苗床、装飾(植え込み、道・・・)、花壇、など。反対に、造園一般をスーパーバイスする今日の造園家はいなかった。

・これら造園家は、事実上の世襲制であり、いくつかの家が縁組みで結びついていた。

・アンドレ・ル・ノートルは特別で、「王室庭園の設計家」という意味の正式の役職を得ていた。つまり造園事業の監理をする。また彼は、建築と数学の言葉で庭をデザインするということで知られていた。建築家とのコネクションもあった。また蔵書は少なかったが、ほとんどが建築書であったという。だからバラトンは「ル・ノートルは造園家か?」と自問している。

・18世紀後半ジラルダンは、建築の原理により庭園を設計しているとしてル・ノートルを批判する。ジラルダンは絵として庭園をつくるべしという持論であった。これは庭園の悲劇というべきだろうか。建築として、絵として、詩として設計されるのが庭園である。庭園としての庭園の例は、あるのだろうか。基本的に、庭園は別のなにかの写しであり、ミクロコスモスである。庭園は自律しないのか?

 造園家列伝はひそやかにほかの章で継続されている。トリアノンの章でもそうだ。1858年、造園家ジャック・ビノはマロニエを植える。1875年、シャルパンティエはすべての樹木にラベルを貼る。フランスでは初めての試みであり、今日、世界中で一般化している。

 バラロンはそうした系譜の最後に自分を位置づけているのは当然だが、あえてそれに言及はしていない。

 フランスでのランドスケープ教育の中心はヴェルサイユ・ランドスケープ大学にあり、日本人学生はここに留学する。この大学の前身は、王宮の造園室でありヴェルサイユの造園家たちであったととらえることができる。

 造園家の系譜は家系でもあり、なかなか濃いのである。

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