カテゴリー「Bordeaux」の11件の記事

2008.05.07

ボルドーにはまったのではありませんが・・・

ボルドーについてWEB調査をしているうちに、いろいろ最近の動向も簡単に知ることができるので、ついつい。で、ちょっとだけ。雑情報のてんこ盛りです。いやまあ、とくにどうってことないけど。でも月イチで定点観測も面白いかも。そのためのブログではなかったんですが。・・・なんか言い訳が多いね。

でもまあ、ボルドーは野心的で活発だ。市長の手腕も大きい。しかし「都市間競争」というヨーロッパの姿がかいま見える。さらには1980年代前半からの地方分権政策の成果があらわれているともいえる。

日本と違うのは、プロジェクト(建築でも都市でも)=文化、であり、それで都市どおしが競争するという構図である。日本でも創造性都市とかなんとかで文化庁が表彰しはじめた(これもヨーロッパの真似)が、ちょっとスケールと気合いが違う。まあそれはいいとして。

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>>>2007/11/30 市長アラン・ジュペとランドスケープ・アーキテクトであるミシェル・コラジュ(Michel Corajoud)とミシェル・デヴィニュ(Michel Desvigne)がシンポジウムで講演。ボルドーのプロジェクトの紹介。伝統的に切り離されていた右岸と左岸をつなぐ。川岸の整備や公園化などによって、ランドスケープの力で。*これはシャイオ宮で開催されたが、ぼくは残念ながら聞けなかった。.

>>>2007/12/21 ジャン・ヌーヴェルが、サン=ジャン駅近くの地区や、そのほかの地区、5カ所ほどで、集合住宅を建設することに。中産階級が対象。HLMとPLI(prêt locatif intermédiaire)の中間の家賃(フランスには家賃格付けがあるが、詳細は割愛)。とくに建築に新機軸はないが「持続可能な発展」のための素材を使っているそうだ。ということは壁面緑化かなにかを意味する。ブランリ岸博物館のように。

>>>2008/02/05 ローン代表議員ドミニク・ペルバンはサルコジ大統領に「将来のメトロポリス」レポートを提出した。パリ、リヨン、パルセイユ、ツールーズ、ボルドー、ナント、ストラスブール、リール、ニースが対象。「エコ街区」制度の設立。「エコ街区」憲章、「持続可能な発展の都市」ラベル、の創設。都市における道路通行税、ミラノがモデル。さまざまな税制改革。国とメトロポリスの関係の調整。50万人以上の都市圏におけるガバナンス向上。・・などなど19項目にわたる提言である。まだ提言にすぎないが。

>>>2008/02/06 ヨナ・フリードマンの講演。ボルドー建築センターであるアル=カン=レーヴにて。また展覧会は6月1日まで開催。60年代を語らせようとするのは、どこもおなじようだ。

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>>>2008/02/13 ツゥール/ボルドー間でTGV(フランスの新幹線)建設の計画。ブイグ、エファージュ、ヴァンシ、のどこが受注するか注目されているらしい。

>>>2008/02/15 ツゥール/ボルドー/ツゥールーズTGV線も建設されるらしい。関連自治体が、融資で合意したらしい。しかしこれら自治体は国に、自治体の出資は38%までにしてくれ、と要求しているらしい。2018年にはボルドー/ツゥールーズが2時間→1時間と短縮される。またパリ/ツゥールーズが5時間→3時間に。便利になるなあ。でもパリからツゥールーズ日帰りとなると、結局パリのひとり勝ちなので、共存のあらたなあり方を模索せねば。

>>>2008/02/21 第9回「ユーロパン・コンクール」。このコンクールは、ヨーロッパ70以上の都市を対象として、建築家・都市計画家が彼らのプロジェクトを競うもの。各都市がそこのいくつかのプロジェクトをポートフォリオにかかえ、競いあう。今回はフランスから12グループが入賞した。サステイナブル指向が顕著。また見捨てられた手つかずの土地の再活用が検討の中心とされる傾向があった、という報告。フランスの入賞は、ボルドー、ル・アーヴル、ミュルーズ、ランス、クレルモン=フェラン、サン=シャモンの12グループ。ボルドーのものは、旧鉄道駅スペースの再活用なので、ラ・バスティードのことか?

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>>>2008/03/18 アラン・ジュペがボルドー市長に再選(4期目)。都市計画について抱負を述べる。3500戸の住宅を供給。サステイナブルな都市にする。スポーツ施設、託児所、など建設。省エネ建築。TGV整備。橋建設。・・・などなど具体的なのが印象的である。そのなかでも2013年の「ヨーロッパ文化首都」に立候補する、というのが、ボルドーにとっての象徴的な試みとなるであろう。過去にはツゥールーズ、リヨンが受賞しているそうだ。

>>>2008/04/14 ボルドー建築ビエンナーレに23500人来る。いろいろ盛りだくさんだが、詳細は割愛。

>>>2008/04/17 モニツゥール・グループが主催する「都市整備杯Trophées de l'aménagement urbain 」なるものがあり、2008年は、人口5万人超クラス(ちなみに1万人以下、1~5万人クラスもある)でボルドーが選出された。右岸整備が対象だそうだ。ぼくがすこし紹介したZACラ・バスティードもそこに組み込まれている。ちなみにこのコンクールはフランス国内のもので、ランドスケープ、道路、アーバン・ファーニチュア、サイン、などを指標にどれだけ住民生活を向上させたかなどで審査するそうである。・・・なんとなく美人コンテストに似てますね。

>>>2008/04/22 ボルドーは2013年の「ヨーロッパ文化首都 Capitale européenne de la culture」を目指している。EUは1985年より毎年1都市を選んで表彰している。フランス勢では2004年のリールが最後に選出。2007年12月にはすでに予選突破している。

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・・・というわけで1時間たちましたので、仕事にいかなければなりません。つづきはいつの日か。

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2008.05.06

ボルドー歴史地区とストラテジー、とくに住宅ストック改善プロジェクト

ボルドー市のサイトからのつづき。

仕組みがよくわかりますが、「混合経済会社」は日本の3セクとは似て非なるものなで、補足します。「混合経済」とはフランス特有の、資本主義と社会主義の混合であり、民間企業と公共セクターがおなじプラットフォームで協同するシステムです。だから国は、産業のある部分を国有化しつつ、ある部分は自由にやらせることができる。あるいは国が、自由競争のなかの企業のひとつのように振る舞うことができる。「混合経済会社」とは株式会社であり、その資本の51~85%が国、地域圏、県、コミューンからによるもの。1980年代の地方分権化からさかんに創設された。パートナーシップという言葉が一般化する以前から、このようにその基盤ができていた。

ということでWEBによれば。

この歴史地区は、ボルドーにとっても、大都市圏にとっても重要。その文化的、商業的、余暇的価値を高めることは都市圏全体に貢献する。

第三次産業を優遇する。ボルドー全体の12%にあたる3000人の雇用がここ。この数年でサント=カテリーヌ通り整備(FNAC, GO SPORT, Sephoraなど入居)、サン=クリストリ・センター再整備(Monoprix)、ボナック街区からメリアデクまでの商業圏の拡大など、商業空間が整備された。

文化政策。いろいろな祝祭(novart-bordeaux, ワイン祭り、川祭り)、文化・大学機能、国立演劇センターの支所、ボルドー国立音楽院の改築、美術学校の分校など。

建築・都市遺産のためのさまざまな措置。(1)ファサード洗浄運動。1977/2000は川岸のファサード。2001/2005はトゥルニ広場からはじまりいくつかの重要拠点で展開。(2)ライト計画。いわゆる「ライトアップ」だけではないが。モニュメントはライトアップ。歴史地区では統一的に銅ランタンをつるしたりしている。(3)都市美装。看板、広告の整理。室外機を隠すなど。(これはどこでもある取り組み)

近隣サービス施設。日常生活を向上させるため、市は近隣サービス、近隣商業機能を発展させることに取り組む。地域諸団体、NPOなどを市が援助。ボルドー商業工業会議所と市がおこなった2004年の調査。それによってストラテジー、行動プラン、が練られた。投資、活性化プログラム、配達条件などについて。またInCitéは2010年までに商業・手工業空間として5000㎡を整備する。家族生活。市は、学校の改装、活動センター設置を終え、子供戦略(La Petite Enfance)に力を注ぐ。4カ所に保育園(2001~)など。

環境と都市の管理(歴史地区では、清掃と騒音対策が、とても大切)。ゴミの分別(tri)と清掃。地下分別ゴミ捨て箇所を増やす。またトラム沿線では、各戸でのゴミ収集をすることで、ゴミ箱が路上に姿を表すことを阻止する。また張り紙除去などにも力を入れる。さらに、(1)すべての建設許可は、建物内にゴミ箱置き場の設置を前提とする。(2)商業施設、レストランでもゴミ箱置き場の設置が要求される。産業・商業廃棄物処理の契約を済ませていることが求められる。(3)夜間の騒音防止、安全にもさまざまな措置が。

近隣都市空間の整備。川岸空間、トラムにちかい広場、さまざなまな主要広場、の整備、など。

住居と遺産は、パートナーシップにより維持・発展されている。

歴史地区内では住宅ストックの改善がなされている。その目的は、(1)今快適である住居を維持して、社会的多様性を守ってゆく、(2)不動産商品を多様化し、不動産購入を促進しつつも、自由家賃・中間家賃・社会的家賃(つまり安く設定された)の賃貸住宅をつくり、(3)家族、若いカップル、・・などに新しい住居を提案する。

InCitéは建築遺産を活用し、ニーズに応えられる住居を整備する。(1)不動産購入のプログラム、自由家賃・中間家賃・社会的家賃(つまり安く設定された)の賃貸住宅のプログラムを、きめこまかく多様化させる。(2)大・中規模の住居を優遇し、小規模住居は一定数保つ。

低品質住居を改善する戦い。これは現状において劣悪であるのみならず、そうなる可能性のある住居にたいする対策。

人口をこの歴史地区にひきとどめておくために・・・。InCitéによる再入居調査。さらに各種パートナーで構成された委員会がある(Centre Communal d’Action Sociale, Direction Départementale des Affaires Sanitaires et Sociales, Direction Départementale de l’Équipement, Caisse d’Allocations Familiales, travailleurs sociaux…)

InCitéがここの唯一の整備機構である。このInCitéは、2002年に市がサインした公共整備協定の枠組み内で設置された混合経済会社である。計画の推進者。不動産所有者、借家人、住宅業者・専門家などの仲介者。都市・建築遺産の視点から、施工される住宅改修工事などを監視する。不動産プログラムの多様性を確保する。こうして全体計画の一貫性を確保する。・・・このInCitéの介入方法は、(1)不動産所有者への勧誘、助言、資金援助、仮再入居、最終再入居。(2)公益事業。不動産所有者をこの公益という枠組みに従わせる。(3)密度の高すぎる建物・ブロックの再構造化。

OPAH(Opération Programmée d’Amélioration de l’Habitat et de Renouvellement Urbain 住宅改善・都市刷新のためのキャンペーン) が不動産所有者にリフォーム融資などをする。このOPAHは、2003年に市がサインした協定によりできたもの。1300万ユーロが、リフォーム融資、住宅関連施設(ゴミ箱置き場、自転車置き場、駐車場など)整備などにあてられる。 2008年までに760戸の改修。うち自由家賃485戸。中間家賃65戸。協定家賃145戸。社会政策的家賃(PST家賃)65戸。

歴史地区の整備はパートナーシップでなされている。パートナーとは具体的には。(1)国。ANAH(国立住宅改善協会)。ボルドー都市共同体。供託金庫。これらはプロジェクトを共有し、財政出動をする。(2)ジロンド県議会。アキテーヌ地域圏議会。これらは上記を補完する。(3)ボルドー市、InCitéの直近には。住宅専門家。公証人。地理学者。建築家。不動産経営者。財産管理者。不動産経営者。など。彼らはこの計画を指示し、2003年2月、住宅パートナーシップ憲章にサインした。

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2008.05.05

ボルドー歴史地区のストラテジーだが、今日的というよりまさに歴史的につみあげてきた制度や仕組みがみてとれる

またもやボルドー市公式サイトからのだらだら書き写し。こんどは歴史的中心地区について。

結論先取り。

ボルドーでも都市の空洞化の危機に瀕していることは、日本の地方都市と同じである。都心の住居はほとんど賃貸であり、それだけ「公共財」としてとらえやすい状況だとも、逆に言える。家主と自治体は協同して維持につとめる。

都市計画の人びとは「保全」などといっている。しかし歴史的街区の「保全」だろうが、保存だろうが、その組織や方式をよくよくみてゆくと、19世紀や20世紀初頭の制度がまだまだ生きていることがわかる。パートナーシップなどと呼ばれるものも、都市整備の長い歴史をみないとよくわからない。都市には歴史があるが、政策・制度そのものの歴史性についての理解が必要であろう。

官民協同体制は、今日パートナーシップなどといわれるはるか以前から仕組みがある。それはそもそも都市とはなにか?なんであったか?という歴史と認識の日仏相違までさかのぼるであろう。

さてWEBから。

ボルドー市の歴史的中心地区は203ヘクタール。活力、共生、居住を目的に、まず地区構造化(トラム、広場再整備、環状道路、河岸整備)、歴史的都市と現代的生活様式の両立、をまざす。さらにアキテーヌ地域圏の首都としての機能、居住の快適性、日常生活の質、街区ごとのアイデンティティを確立する。

市とパートナーは、その歴史的中心地区のための目標を定めた。
(1)生活の質と都市の快適さを優遇する。
(2)経済的、文化的にしっかり輝くようにする。
(3)遺産地区のなかに現代住居を提供する。

歴史地区の現状:

環状道路とガロンヌ川の区域。203ヘクタール。市行政域の4.1%。強いカードも弱いカードもある。
・雇用30000人(うち市は2000人)をもつ経済
・都市域人口の70%は月に一度はここにくる。
・ボルドー市人口13%にあたる2万7700人の人口。多くの学生。40年間、減少傾向。
・2万3500戸の住居。住居市場は不均衡。85%は賃貸。65%は狭小。12%は質的に良好ではない。20%は空き室。

市はこうした与件に対し、2002~2010の8年にわたる計画を実施中である。それは住宅ストックそのものの刷新と充実。
・2000戸を改修。
・建物地上階の、住居以外の機能をみたす部分を、再整備。5000㎡を予定。
・パーキングの設置・改修。330台分。
・近隣施設の設置・改修。
・公共空間や生活道路の改修。

財源:ボルドー市、ボルドー都市共同体、ANAH, CDC, 県議会、ヨーロッパ、民間。

開発主体:ボルドー市、InCité、ボルドー都市共同体。

もっとも反対も根強い。家賃を上昇させ、経済的弱者を追い出すからである。800人の署名を集めた地主・間借人の団体が、精力的に反対活動をつづけている。

記事だけではわかりにくいので、注釈。こちらのほうが本質を語っているかも。

*ANAH:「住居改善国立協会」。リフォームの財政支援などをおこなう。

*CDC(Caisse des dépôts et consignations):「供託金庫」。1816年に設立。国会の直下に置かれている。国家予算とは独立した資金を、国家が管理するというユニークな金庫。しかしフランスの社会的ハウジングは、この金庫から融資された資金で、地方自治体(おもに県)が建設したという、歴史的事実を忘れてはならない。

*InCité Bordeaux:混合経済会社。主要株主はボルドー市、ボルドー都市共同体、供託金庫、ボルドー商工業会議所。そのミッションは歴史的都心部における住宅整備と都市更新。整備計画についての契約は2002年にサインされた。2010年までに、3万平米を買い取り、630戸を提供する。老朽化した住居の目録をつくり、買い取り、改修し、開発業者に転売する。また老朽化した住居を改修したい不動産所有者に財政支援もする。このように合計930戸が改修されるであろう。すなわち、これは反開発的・保全的な政策ではない。そうではなく、市場原理、民間との共生、を守りながら、積極的に、買収、改修、転売することで、利益を上げつつ地区を改善してゆく。つまり地区の歴史性や環境や空間のいわゆる「保全」にとどまらず、経済原理をまもり、むしろ積極的に、住宅マーケット・ストックそのものの維持と活性化を、なしとげるものである。これは大きな政府によるばらまきではなく、いかにもフランス的な、実績のある、官民協力のやりかたを踏襲するものである。日本だと民業圧迫なんてことになりかねない。

(つづく)

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2008.05.04

ボルドーの都市整備プロジェクトについてだらだら書く

うう。苦しい。17世紀のフランス語。

文法は現代と同じなのに、文体が。そもそも1センテンスが20数行にわたり、関係詞、接続詞でつなぎ、さらにはセミコロンはカンマなのかピリオドなのか、曖昧で、フランス語として読めば簡単明瞭なのに、いざ翻訳すると、一行もすすまない。構文がグチャグチャ、に見える。拷問です。

思うのだけれど、文学理論や文学史のことなどさっぱりわかっていないが、結構、言文一致というか、話し言葉をそのまま文章にしたような感じ。17世紀ならもっと推敲してたんじゃあないの。とグチもいいたくなる。

そこで現代文を読もう。ボルドー市のサイトに紹介された、都市計画とプロジェクトなんかに目をとおす。ぼくは勤勉でブログを書いているのではありません。ほとんど本職からの逃避です。しかしロングテール理論によってちりも積もれば・・・なのであろうと思います。

ボルドー市では、協議整備区域(ZAC、Zone d'Aménagement Concerté)が図のように定められている。ボルドーの顔はこれで変化する。都市を大規模に刷新し、都心部に人口を呼び集める。これらプロジェクトを牽引するのはCUB。これは「ボルドー都市共同体」のこと。ボルドーとその周辺市町村の自治体連合であり、都市整備など政策を共有して広域都市計画を実施する。これらZACは公共団体が行うが、民間資本の導入される。企業も参画する。フランスではずっと以前から官民協同体制が整っている。

新しい街区の整備が目的である。道路、住居、公共空間、近隣施設、店舗、オフィスなどが整備される。

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とても全部のプロジェクトを紹介してられない。最近滞在して泊まったホテルの近くだけ除いてみよう。「ZACボナック街区」プロジェクトである(上右の航空写真)。まずかなりリッチなマンションが多数建設される。それから商業施設をつくる。「メリアデク」ショッピングセンターと、歴史的市街地を結ぶ。地所はUnibailグループの所有、開発はEspace Expansion、後者はメリアデク・ショッピングセンターの管理者でもある。大規模店舗の勝利か?パリのプランタンのような老舗デパートはここでは影が薄い。

いちおうボルドーでは大規模店舗と小規模のそれはうまく共存しているようである。ちかくはシネコンもあって、いちおう都心から環状道路まで賑わいを連続させられるであろうことは、よく理解できる。

それから右岸はプロジェクトがすくなく、「ZACラ・バスティード」のみ。ここは造船工場などの産業地区であって、住民も労働者が多かった。産業移転により、ここを多機能な街として、あらたな拠点とすることがなされている。シネコンがほぼできあがり、さらに計画されているものとしては、住宅はもちろん、大学、国立アキテーヌ州センター、多機能地域センター、植物園とその温室、商業施設、Sud-Ouestなる地域では著名な新聞社の本社、などが建設される。都市計画のチーフのひとりがドミニク・ペローであることも忘れてはならない。

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上の写真は昨年のもの。左は既存建物にあわせてデザインされた銀行。右建物の地上会アーケードのレベルが、左の建物の、歩道に面した石壁となって連続しているでしょ?それから2階3階も。まあこんなデザインは序の口です。しかし対岸から眺めたときは効果的でしょうね。

中の写真はカンチレバーで川に張り出したレストランと対岸の旧王像広場、右はトラム。まだまだ殺風景でしたが、今ではもっとよくなっているでしょうね。実情はよく知りませんが、雇用の問題もうまくいっているのでしょうね。ここにいた労働者たちを、都市整備で吸収し、都市が整備されたのちはなんらかの職につけてあげられるような。

ちなみにこの地区を望む丘の上にジャン・ヌーヴェルが建てたサン・ジャム・ホテルがある。評判はいいので期待したら、がっかりでした。つまり現代建築的センスはなくとも、フランスの地方には、ほんとうに気持ちのいい、人を幸せにする、外の世界を忘れさせるようなちいさなホテル、レストラン、がいっぱいある。それに比べればここはちょっと都会的センスをもちこんだだけである。これを誉めるひとは、フランスのほんとうの奥深さを知りませんな。ちなみにオーナーが何度も代わって経営は難しいらしい。あたりまえ。車をすこしころがせば、いいところはゴロゴロしている。

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行ってわかったが、近くには教会堂を中心とする小集落もある。ゴミゴミしたボルドー市内よりも、ここに戸建でも建てたほうがよっぽど快適だ。天国といってもいいでしょうね。だからコールハースの「ボルドーの住宅」も、そういう意味で納得がいく。ペリユルバニザシオンである。もともと丘の上はお金持ち、下はそこそこ、といった棲み分けははっきいりしている。地区都市計画では、そのことを配慮した立案がなされている。

ともあれそういたかたちで人口流出しないように、歴史的街区、中心地区の整備をがんばらねばなりません。

というわけで、つかの間の逃避はここまでか。う~ん。また翻訳にもどらねば。いやだよう。でも仕事さ。

http://www.bordeaux.fr/ebx/portals/ebx.portal?_nfpb=true&_pageLabel=pgSomRub11&classofcontent=sommaire&id=3570

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2008.04.25

ボルドーへの道

ボルドーへいきたいなあ。ワインがおいしいし、観光名所だし、スペインも近いからビルバオのグッゲンハイムも見られるし。運河づたいにクルージングして地中海にそのまま出られるし。この運河巡りをしたひとはいませんか?アメリカのお金持ちはよくやっていると聞きますが。

ぼくはヨットを調達できるほどのお金持ちではない。しかしレンタカーで漫然と南仏を旅行したとき、運河ぞいをねらって走ったことがあった。標高が異なるところはフランス語でエクルーズとよばれる水門=水位調節装置で、舟はずんずん内陸に高地にわけいる。この水門たるや、女の人ひとりで簡単に開け閉めできるのだな。これは見物です。

下のものを連続写真的に見てください。要クリック。

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ぼくはお母さんが開け閉めしているのをずって見ていた。ぼくがほほえむと、彼女はどう?って顔をした。

それはともかく、交換留学である。詳しい内部事情は漏洩できないが、大学というのはややこしいところで、当事者どうしがOKでも、たんに物見遊山な短期留学で許されるはずなのに、担当がどうの、規定がどうので、うまくいかないことがある。

国際交流などもっと気軽に考えよう。ヨーロッパでは車を数時間運転して、隣の国にいってどうのこうのやっている。教員ではなく学生が。ウィーンの学生が、パリで卒論を書けるくらい、カリキュラムの相互互換性が進んでいる。日本は地理的に不利だから、だからこそ、いろいろ工夫して、無意味な障壁をなくしていかなければならない。

それからアーキテクト系の学生にとってはドローイングや模型そのものがことばなのである。だから英語やフランス語などのいわゆる外国語は文系学生からするとかなり劣っている。それは学習にかけている時間が桁違いなので、しかたないのである。

なんとかしてほしい。

ボルドーはユネスコ世界文化遺産に登録されていることはすでに報告した。有能な市長アラン・ジュペが頑張って、プロジェクトを打ち立てて有能な建築家を呼んだり、トラムを導入して、しかも中心部の外ではパンタグラフ付き、内部はなし、など工夫している、建築文化センターもあって企業から資金をうまくもらっている、など、地方のコンパクトな都市であってもここまで文化育成できるのだという見本である。

そこでの建築教育。日本では、現代建築系と、歴史・伝統・遺産系はほとんど対話が成り立たないほど分かれているという、ちょっと情けない状況もときどきある。しかしボルドー建築大学を訪問して、授業風景などを見せてもらって、感心したことがある。それはフランス全体でそうであろうが、よくもわるくも、教育メソッドがきちんとしているということだ。悪くすると保守的に流れやすいが、ともかくもちゃんとしている。

ボルドーの先生は、まず正方形の空間(ぼくが教えているキューブ教育に似ている)を与え、外に面しているのは1辺、2辺、3辺、4辺と段階をおって、内部の分割、外部との関係づけ、などを教える。スケールは1辺が数~10メートルくらいだったと記憶している。

抽象的に思える。しかし具体的でもある。なぜなら1辺、2辺がオープンというのは、伝統的な都市建築の状況だし、4辺オープンは戸建て住宅のスケールである。というように伝統的な、ということは日常的に関われる空間の特性というものがはっきりとあり、それを抽象化してモデル化して演習課題としている。

それからスケール。抽象課題のスケールだが、このスケールそのものはボルドーなど伝統的都市空間を構成している代表的なスケールなのだ。ここに演習から具体的都市へと展開してゆけるカギがあるように思える。

これは古典主義時代の芸術教育において、デッサン教育を中心にすえ、まず手のデッサン、肩のデッサン、頭部のデッサン、それらを組み合わせて人体全体のデッサンというやりかたをしていた。ボルドーで見たものは、それを思い出させる。

日本の建築教育は、目下需要であるテーマ、プロジェクト(コンバージョンであれ遺産であれ都心回帰であれ)を中心に据えることがおおい。しかしボルドーでは、アーキテクトの基本能力はなにか、それを養成するにはどんなトレーニングがいいか、はっきり見極めているように感じられる。

日本のように教育者=研究者=建築家が、自分が目下とりくんでいるプロジェクトや課題を読み砕いて学生に与えるのも、もちろんよい。切実さが違ってくる。しかし学生の能力のなにを鍛えるか、という視点がないとうまくいかないだろう。

ボルドーの学生は、まずオルレアンなどの現代日本建築展をみて、雑誌もみて、日本のアーキテクトの優秀さをもちろんしっており、それから日本は伝統と現代のどちらも見所ある国と認識している。彼らは、しっかりと設計する。基礎ができている、といった感じの設計である。学生だからもちろん知恵はそこそこである。しかし学生だから未熟も夢想もあるけれど「基礎がしっかりしている」感はなかなか得難いものがある。

日本の地方大学的には、近隣国との交流を展開するのはこれから期待できる可能性であろう。

・・・以上15分の愚痴でした。今日は東京から非常勤の先生をよんでの、集中設計演習である。がんばります。ということでいってきます。

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2008.04.13

世界遺産都市ボルドー(つづき)

ベルリンの次はボルドーです。

手持ちぶたさなので、ボルドー市のサイトから世界遺産関係のページを抄訳してみます。

まず2007年6月28日に、とくに素晴らしい都市全体として世界遺産に登録されたということは、ブログで報告しました。その区域は1810ヘクタールにも及んでいます。ユネスコ世界遺産委員会がこのようなことを認めたのは初めてのことです。「顕著な普遍的な価値」(仏語からの直訳なので、日本語の行政用語とは違います)が認められた背景には、2003年いらい、市が地元パートナー、国、内外の諸機関と協同して努力を重ねてきたたまものです。

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世界遺産に申請するために、地元パートナー、国、学者、歴史家、建築家、都市計画家の尽力がありました。

2003年より、市は専任の代議士をたてて検討に着手しました。すぐ明らかなことは、歴史、建築、都市計画の事実からしてボルドーは「顕著な普遍的な価値」として申請できるということです。ガロンヌ川から環状大通りまでの区域を申請すべきということもすぐ判明しました。

専門委員会(複数)はまず書類を作成し、2005年に文化省に提出しました。文化大臣はほかの申請書類も検討したのち、書類をパリの世界遺産センターに送りました、2006年1月のことです。

こうして審理がはじまった。世界遺産センターはこの書類に欠落がないことを確認し、2006年3月、イコモス事務局にゆだねる。イコモスが評価するために、それぞれの分野で傑出した建築家、都市計画家、歴史家の鑑定人からなる2つのグループを招集した。第一グループは、「顕著な普遍的な価値」について疑問を呈し、第二のグループは、この区域の管理と保存を市がどのような手段で施行してゆくかをスタディした。

2006年12月、イコモスから派遣された鑑定家は、ボルドーを訪れ実地で検証し評価し、書類をその場所で検討した。いわゆるバッファゾーン(フランス語では「ゾーン・タンポン」)についてもコメントがあった。市はただちに修正をし、それはPLU(地区都市計画)に反映された。

審理がここまでくると、市の役目はもうない。鑑定家のレポートと国が準備した提案書類はイコモスに提出され、フランス世界遺産委員会の何回かの会合でもまれる。2007年初等である。この委員会は26名からなる。世界のあらゆる地域を代表している。専門性もきわめて広い。最終的に委員会は評価書類をまとめる。これが、世界遺産委員会の年集会で検討の対象となる。

最終段階というのが、ボルドーの申請を、フランスが、世界遺産委員会にプレゼするというかたちである。その総会は毎年6月に、違う場所で、開催される。ボルドーが認定されたのはニュージーランドのキリストチャーチにおいてであった。

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1810ヘクタールもの広さの区域が認められたのは、1976年いらい最初である。ボルドー行政域は4455ヘクタールだから、その広さがわかるであろう。その周囲のバッファゾーンは3725ヘクタール。これらふたつの区域は「地域都市計画PLU」のなかにしっかり位置づけられている。

ユネスコ世界遺産に登録されても、都市計画法規で科せられた以外の義務は負わないし、関連する財産の保存や価値付けへの財政出動はまったく期待されない。しかしボルドーはボルドーのアイデンティティを構成するすべての要素を、保護し、次の世代に受け継いでゆくためのユネスコの要請に応えねばならない。

登録された区域は・・・・・(しかじか)・・・・・であるが、これは固有のアイデンティティをもつ異なる街区からなるモザイクであり、都市の都市的連続性を保証している。

それをとりまくゾーン・タンポン(バッファゾーン)は、左岸は旧環状鉄道の線におおむね沿っている。右岸にも及んでいる。いわゆるバスティード地区を含む。(訳注:バスティード地区は、もともと造船を中心とする産業地区であり、労働者も多く、したがって産業転換、環境改善が望まれる地区であったが、近年、都市計画により駅舎は改装され、複合文化施設、金融機関、公園施設が整備され、住宅も建設された。なによりトラムによって古くからブルジョワが住む左岸と結ばれた。ヨーロッパの都市には珍しく、両岸の一体性がまったくなかったのだ。1990年代、ボフィールが呼ばれて彼独特のばかばかしい新古典主義が提案されたが、もちろん実現しなかった。)

市は、世界遺産に対応するための特製の制度的枠組みを立ち上げた。

2007年、市議会は「世界遺産委員会」を設立することを採決した。この委員会は「世界遺産管理プラン」を策定し、実施する。委員会もメンバーは市長助役、文化省の代表者、ボルドー都市共同体の代表者、歴史家建築家など専門家、商業会議所などの代表者、などである。またユネスコの絶えざるチェックに対応する。

・・・がんばってください。

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2008.02.18

フランスの裁判所(3)エクサン=プロヴァンス/上座裁判所ほか

 1999-2000年に短期フランス滞在をしました。すでにご紹介したナント、ヴァンス、そしてここエクサン=プロヴァンスで裁判所が新築されていたことが印象的であった。のちに知ったが、ボルドーでもロジャースのものが建設されていた。司法制度の全般的改革の結果であることは想像はつくが、くわしいことを調べようと思っているうちに雑用に追い回される境遇となった。

 このエクサン=プロヴァンス裁判所がある場所は、もともとプロヴァンスの総監邸、高等法院などの建物があった。これらは18世紀末に取り壊された。

 ルドゥが新しい建築を設計し、基礎まで建設されたが、革命によって頓挫した。このプロジェクトは彼の『建築』に収録されている。ふたつの正方形をずらして組み合わせ、都市的な文脈にあわせたもの。裁判所は巨大なポーティコからなる。監獄は、鈍重なトスカナ式オーダーのポーティコ、開口の少ない壁面、からなる。投獄される罪人が脱出の可能性のなさに落胆する、建物の機能をはっきり表明した「語る建築」の例とされている。この裁判所/監獄の組み合わせは珍しくなく、レンヌでもそうであった。

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 建築家パンショPenchaudは、1825年から1832年、ルドゥのプランに従って建設された基礎のうえに、法廷と監獄を建設した。光が降り注ぐ中央ホールが印象的であったという。裁判所のほうは、ルドゥの新古典主義からはほど遠く、平板な古代ローマ様式かあるいはルネサンス様式であろうか。強引なこじつけをすると、南フランスは成文法地帯ということになっており、土地柄もありローマ法の伝統が強い。だから建築もまたローマ風にしなければならない道理はありませんが。監獄はイタリアのパラッツォ建築のプロポーションを変化させたもののように見える。

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 監獄はやがて1998年に改築され、破棄院(Palais Monclarと名づけられた)となった。もともと監獄であったので、外部にたいしては閉鎖的であった。したがって採光は中庭からであり、中庭に面するルーバーが印象的である。これなどは今風にいえば建築遺産の再利用などということになるかもしれませんが、そうではありません。中世以来ずっと司法関係の施設であることを考えると、これは文化財でも遺産でもなんでもなく、裁判所が姿形を変化させながら、ちからづよく生き続けているのである。

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 ところで話題かわって上座裁判所(Présidial)について説明してみよう。フランス版ウィキペディアによれば・・・。

 まず1551年、アンリ2世が王令により上座裁判所(Présidial、プレジディアル)を設立した。フランスの三審制がここに始まったといえるのではないか。下級審としてバイイヤージュ、セネショセがあり、控訴審としてこの上座裁判所が、さらに最上位に高等法院(パルルマン)がある。

 1551年の王令により、60の上座裁判所が設立されたが、そのうちの32はパリ高等法院から分かれたものであった。ルイ14世時代に国王側からの改革としてこの上座裁判所制度を廃止しようという動きがあったことがわかっている。1764年には全国に100の上座裁判所があった。民事、刑事どとらも扱った。

 1790年、旧制度のひとつであったので、廃止された。

 ・・・というわけでほとんどわからない。どんな社会階層の利害を代表していたかもわからない。滝沢正先生のご著書にもまったく解説なし。中規模問題をあつかう高等法院というようなものなのであろうか。もちろん王権と戦う主体などではなっかたのであろう。

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2008.02.17

フランスの裁判所(2)

 なぜ裁判所か?自分たちの法で、自分たちを裁くというのが地域の権利であり、自律性である。これは地方分権の基盤である。それが歴史的な底流をなしているのがヨーロッパであり、都市や建築を考えるための不可欠の背景である。

 つまり市庁舎、市長公邸、地方議会なども大切だが、司法機関というのも地域が自律していることの象徴にもなりえる。だから重要な建物として注目されるのである。

 15世紀から18世紀までのフランスの裁判所施設に関心をもっていたのだが、遅まきながら滝沢正『フランス法』(三省堂、1997)で体系的に勉強してみる。著者は法学の専門家である。

 素人にとって困るのは、西洋史学者と法学者とでは書き方が違うということであろう。そもそも用語(訳語)が違う。たとえばふつうは高等法院(Parlement)とするのだが、この法学者は「最高法院」と訳す。上訴は不可能、つまりその上位にはもはや上級裁判所はない、のだから。同様に西洋史では「三部会」とするものを、法学ではあえて「全国身分会議」とする。またあたりまえの話し、法学者にとって裁判所は主役であり、歴史学者にとっては登場人物のひとつにすぎない。しかし概念の正確な定義を与えてくれるのはやはり法学者であり、あたりまえのこと、素人にとっては心強い。

 西洋史が強調せず、法学が重要視するのは「法源」という概念である。古代末にはローマ法とゲルマン法の二元論であった。これは属人主義である。しかしこの二元論はやがて克服されて、属地主義にもとづく慣習法のいう方式で統一された。しかし慣習法は地方ごとにことなっており、きわめて多様であった。多様な慣習法は北フランスと南フランスでおおきくふたつのグループにわけられる。北はまさに「慣習法地方」と呼ばれ、南は「成文法地方」である。一般的に北はゲルマン法がよく保存され、南はローマ法に支配されている割合が大きい。しかしいずれにせよ慣習法が地方ごとにまったくことなる状況であった。

 17世紀と18世紀のいわゆる「絶対主義」時代にあっても法源は慣習法であった。この多様な慣習法を統一する動きがこの時期には顕著であった。それ以外に制定法、判例法があった。

 中世の領主裁判権、教会裁判権はもはやなく国王裁判権にほぼ統一されていた。ただ国王がみずからその司法権を行使するのではなく、機関が行っていた。これを委任裁判(justice déléguée)制度というのだそうだ。

 国王裁判権はいわゆる三審制でなされる。まず至高法院(cour souveraine)がいちばん上である。これらはふつう高等法院(parlement)と呼ばれる。しかし滝沢先生はあえて「最高法院」と呼ぶのである。しかしぼくとしては高等法院でいこうかな。さらに中間にあるのが上座裁判所(présidial)。さらにその下級には代官裁判所(baillage, sénéchaussée)がある。後者は西洋史ではそれぞれバイヤージュ、セネショセなどとする。国王の代官だから、国王代官裁判所とする訳もある。ただ西洋史学者がカタカナでそのまま標記するのは、どうもたんにカッコにくくっただけのようにも思える。

 西洋史ではこの高等法院がよく出てくる。ここでは滝沢先生のご説明をまとめてみよう。

 まず高等法院は、地方ごとにある。パリ高等法院のみであった時代は短い。それ以上、上訴できない最終院が、パリだけではくギエンヌ、ブルターニュなどにあるということは、地域の最終裁で決まったことが、他の裁判所で破棄されたり覆ることはないということ。これが自律の意味である。

 貴族階級がその政治的な主張し、国王の権力に対抗するための温床が、この高等法院であった。売官制であり、国王も罷免できなかった。いわゆる法服貴族(noblesse d'épée)が力をもったのはここであった。貴族階級=高等法院は、ルイ15世時代から顕著に王権に対抗した。ルイ16世時代にさらに顕著になった。チュルゴー、ネッケル、カロンヌらの財政改革はその反対のために頓挫した。

 それでは高等法院はいかなる権力をもって、国王にたてついたのか。

(1)法規的判決(arrêt de règlement)の権限。すなわちある事件に関する事柄について立法する権限。

(2)法令登録(enreigistrement)権。王令は、高等法院の登録簿に記載されてはじめてその高等法院の管轄区域内で効力をもつ。つまり高等法院は消極的ながら、王令への拒否権をもつ。

(3)諫言(remontrance)権。国王の立法や行政について注文をつける権利。これを「建言」と訳す向きもあり、素人は混乱しますね。

 では国王はいかなる手段をもって高等法院を支配しようとしたか。

(1)親臨法廷(lit de justice)。

(2)国王顧問会議(Conseil du roi):ここに訴訟関係顧問会議なるものがあって、王令に違反した判決の破毀事件などをとりあつかう。こうして国王の管轄権を回復する。

(3)地方長官(intendant)。各地方総監区に派遣する。これは後の、内務省が派遣する知事のようなものか?

 このように国王と高等法院は競い合っていた。当時の都市プロジェクト、建築プロジェクトの背後にもこうした力関係はつねに反映されている。

 さて裁判所が裁判所であるための根拠、法源は、慣習法であることはすでに述べた。ヴォルテールは「宿場ごとに馬を換えるように慣習法が変わる」と皮肉ったそうである。煩雑であっただろうが地域の独自性の反映でもあった。16世紀にはフランス内のほとんどすべての慣習法の編纂が終わっていたようである。その体系は階層構造をなしている。局地慣習法(coutume locale)、普通慣習法(coutume générale)、大慣習法(grande coutume)。大慣習法のなかでパリのものは1510年と1580年、ブルターニュのものは1539年と1580年に編纂されている。

 ブルターニュ公国は845年に成立し1532年にフランス王国に併合されたが、1980年代にふたたびひとつの地域圏として政治的まとまりをもった。しかしフランス王国の一部であった時代も、独自の慣習法と高等法院をもって自律しようとしていた(ただし王権に反抗してお仕置きをくらったこともあったが)。

 

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2008.02.16

フランスの裁判所

 たぶん2000年であったと思うがナントの裁判所を見学した。ジャン・ヌーヴェルの作としては、それほど評価されていないようだが、なかなかのものであった。まだ開館しておらず、また開館していても観光客など入れないのだが、そういうわけで外だけみた。もともと製鉄関係の施設があったという場所らしく、スチールをふんだんに使った、黒ずくめの、新古典主義である。しかし正面の庇は、柱も細く軽やかで、広々といている。これは見るための建築ではなく、つまりルドゥ的な「語る建築」ではなく、そこから都市を見るためのフレームとして機能する枠組みとなっている。

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 さて以下はフランスにおける裁判所の歴史である。建築の背景にすぎないので、ご興味なければ無視してください。

 高等法院(Parlement)とは、旧制度時代は最高裁判所である。政治的・行政的役割をはたしていた。最高裁判所として、前判決を不服とする控訴を受けいれる控訴院であり、最高裁判所として前判決を破棄する破棄院であった。それらは第三身分の民事と刑事にかかわるものであった。そのほかに貴族同士の起訴を調停する役割もあった。

 そもそも中世初期、王はクリア・レギス(Curia Regis)を主宰し、王国のあらゆることを取り扱った。王権の展開とともに3機能に分割され、コンセイユ・デュ・ロワ(Conseil du Roi:政治)と、会計院(Chambre des comptes:経済)と、高等法院(Parlement、パルルマン:司法)となった。13世紀に発足したパリ高等法院は、15世紀まで王国の全領土に権威を及ぼした。

 1250年頃。パリ高等法院成立。

 1319年、聖職者は高等法院のメンバーにはなれないこととなった。

 1345年、オルドナンス(王令)によって組織形態が最終的に決められた。

 1422年より地方にも設立、18世紀までに13の高等法院が各地域に設立された。1462年、ボルドー高等法院。1477年、ディジョン高等法院。1553年、ブルターニュ高等法院(レンヌ、ナント)。これらの設立にはそれぞれ経緯があって、地域の事情を反映している。各論にはおってふれる。

 教会との関係。前述のように1319年法は聖職者を追い出した。こうして高等法院は、王国がフランス教会を教皇から守るための機関となった。宗教改革と反宗教改革のあいだ、高等法院はトリエント公会議の教義がフランスにもたらされることに抵抗した。

 王との関係。高等法院は王命を登録し、あるいはそれにたいして建言する権限があった。ゆえに高等法院は、君主制をコントロールできる権利をもつようになる。フロンドの乱はその象徴的な事件であった。パリ高等法院は王国における財政管理権を要求する。世襲制であったので、また英国議会を模範として、2院制とし、ひとつは選挙制にすることを要求した。

 1673年、ルイ14世は王令が登録される前に高等法院がそれにコメントすることを禁じた。高等法院は抑圧化にあった。1715年に王が没すると、高等法院は摂政フィリップ・ドルレアンと交渉した。建言をする権利をふたたび持つため、ルイ14世の遺言を破棄することを要求した。

1750年より高等法院は、課税のまえの平等といった、王権による改革を阻止する。ルイ15世は高等法院の数を減した。1771年、高等法院は政治的機能を取り上げられた。しかし1774年、ルイ16世は高等法院を招集してしまったので、その高等法院の反対にであうようになった。1780年代の高等法院の活動は革命への序曲となった。しかし革命のよってその活動は停止した。1790年より国選の裁判官制度となる。

 

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2007.10.08

アルカンレーヴという建築センター/ボルドーより

 ル・モンドWEB版の10月6日に、ボルドーの建築文化センター「アルカンレーヴ Arc-en-Reve」に、新しい所長が選出されたことが記事になっていた。このポエティックな名前は「アルカンシエール Arc-en-ciel=虹」を意識したものであり、夢の架け橋といったところだろうか。

【抄訳】

 「創設して25年、お金に苦しみつつも、新しい所長である。このアルカンレーヴはフランスでもすこぶる活動的な建築センターであり、地元に根ざしつつ、国際的にも存在感がある。25周年を祝うかのように、フランス文化界において存在感のあるフランソワ・バレをそのヘッドに選んだ・・・

 バレのキャリアはボルドーで始まり、文化省における初代の建築・遺産局長となっt。そしてメディアではそれほど知られていなかったセルジュ・ゴルドベールの後任となった。バレの人脈と社交能力は、この建築センターがふたたび活性化されることに貢献するであろう。

 このセンターを創設し指揮しているフランシーヌ・フォールは『彼が私たちの計画を実現してくれることでしょう』と期待している。アルカンレーヴは現代建築の展覧会や討論会の場であったが、いつも、地方ということで不利であったり、資金も不足がちであった。『いつまでも続くと保証されているわけではありません。展覧会を開くことも急ぎの課題です。3年の準備のための資金も必要です』とフォール夫人。

 10月3日のプレス会見で、バレ氏はもっと国や自治体を『理事会にはいってもらって』巻き込むつもりであると語った。それだけでなく財政的にも、である。アルカンレーヴの予算計画によれば、予算は年150万ユーロ。うちボルドー市が63万、国が16万、都市共同体(*ボルドー市とその周囲の自治体がメンバーとなっている広域都市計画のための組織)が10万ユーロを出資する。メセナ、協賛団体などがさらに援助する。『自分で予算の40%は見つけなければなりません』とフォール夫人は指摘する。

 新しい所長は、県、地域県に請願し、国と市にさらに出資を働きかける。国を代表して、建築・遺産局長のミシェル・クレマンは『予算の余裕は豊かではない』と強調する。市長アラン・ジュペはアルカンレーヴを支持すると再確認するが、『ほかの市町村がどうするかも見たい』ともいっている。

 中身にかんしてはバレ=フォールの二人組は、『専門家だけでなく大衆に向けた教育的内容について尽力する』意志をはっきりさせた。建築展にとってはいつもそれが暗礁となるものだ。ボルドーだけではない。」

【解説】

 ・・・というようにルモンド紙だから厳しいことが書いてある。フランス経済の調子はよくないから、文化も情報発信も苦難の道であろう。しかし、である。日本に置きかえるととんでもないことである。なにしろボルドー市の人口30万人ていど、都市域全体でも70万人というコンパクトな地域の建築文化センターで、年間予算2.6億円。市から1億円。国から3000万円、など。どれも「!」をつけたくなる。

 フォール夫人がいうように自助努力が40%ということは60万ユーロ(=1億円弱)である。これを企業協賛などで埋めている。ということは、1企業1000万円のオーダーだろうか。お金の話は下世話なものだが、しかし関連団体の関与の仕方というものを比較するにはいい物差しである。

 日本との違い。日本の建築文化事業は、1企業1文化事業である。これは昔のプロ野球とおなじ構図である。大企業が集中する、東京のみに文化も集中する。しかし地域密着型で複数スポンサー制にすればJリーグ的になれる。企業ごとの、宣伝費、広報費、社史編纂費などをひとつに集約すれば、地域の文化という太い流れをつくることができるだろう。しかし日本は文化もお家(企業、団体・・)ごとのお国柄だから、とうぶんは無理だろう。

 去年ボルドーに滞在していたころ、フランス最古にして地方最大の書店モラで、このセンターが刊行した書籍の充実ぶりに、地方でこんなことまでできるのだと感心したものだ。中世においてはイギリス領であり、黄金の18世紀もすぎ、ヨーロッパのなかでは比較的停滞している地方にあって、ボルドーの人びとはプライドが高く、文化にも力をいれている。日本の地方がいまや文化遺産頼りになってしまって、新しい建築文化をおこそういう社会的文化的インフラがほとんど欠如しているのとは対照的である。

 協賛団体には有名なブイグ社もあるように、やはり不動産会社、ゼネコン、金融(供託金庫)など建築・建設関係が多い。

 アルカンレーヴのHPである。 http://www.arcenreve.com/

 活動内容は、建築センターとして特段に特殊なものはない。展覧会としては今、妹島和世+西沢立衛展をやっているようだ。講演会にはドミニク・ペローが秋にくるそうである。出版も建築家のモノグラフが中心だが、ボルドーの都市計画をとりあげたり、情報発信をしている。ヨーロッパ都市では普通であるが、固有の情報発信として、そこの都市計画そのものが最良のコンテンツである。すなわち都市圏全体の計画がどうであるか、さらにそのフレームのなかに、具体的などんなプロジェクトがあって、それぞれどんな目的、予算、担当建築家、社会的・文化的位置づけがあるか、といったことが紹介されている。都市がどのように、どんな意図でこれからできてゆくか、市民的興味でアクセスできる。地方のこの種のセンターはそうした役割をしっかりはたしている。

 やはり短期滞在中にテレビで、ボルドー美術館に就任した新しい館長のインタビューを見たが、最大の話題は財政であった。つまり(アメリカの大学におけるディーンのような)、人脈、金脈、集金能力がこうした所長には求められる。たとえば国とのパイプの太さ。フランス社会における近年の大変化のひとつであろうし、グローバル化の帰結であろう。

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