東方旅行(050)1988年1月18日(月)ペトラ
ペトラ。ここには都市の本質が隠されず露出されている。遊牧民が通商活動のために定住するためにできた都市だ。通商とは、広大な東西貿易システムの不可欠の一部である。つまり流動的、ネットワーク的なものの一時の固定としての、その1結節点としての、都市。
しかし流動/固定の相克とは、遊牧民的・ノマド的な古層/新しいローマ的な都市文明のそれでもある。そこに文明の積層と、そのなかでの民族、都市のアイデンティティの所在というものの問題を感じざるをえない。
商業は、貨幣は、共同体内ではなく間共同体に成立する。それをなぞるように都市ができる。都市は共同体ではなく、間共同体的なネットワークのなかにできた。それは無縁の論理がうみだす非場所=ユートピアであり、それが場所として固定されるという、スリリングな経緯がある。
この経緯はユニバーサルなものだ。網野善彦の視点を発展させてできた「港市」概念。磯崎新の「海市」。そしてぼくが学生たちととりくもうとしている「平戸プロジェクト」。
ペトラはそうした間共同体的な遊牧民に出自をもつという、流動と固定の弁証法をへて生まれ、そして死んだのだ。ヴェネツィアのように衰退を堪え忍び、遺産によって延命してさらに発展している例もある。しかしその頂点でフリーズしたものは、異なる鮮烈な印象をぼくたちに与える。
石を積み上げて構築されたのではなく、岸壁をレリーフのように彫ってできた古代遺跡。保存状態はきわめて良好なのだが、建築の壊れ方、廃墟も面白い。それはピースとなってばらばらになるのではない。腐敗してゆくように、溶けてゆくのである。ながいながい時間をかけて。生肉のような腐敗。
かつての都市の実在、繁栄、過去がこのように腐敗をとおして、その都市の身体性そのものとして現前する。岩にも年輪はある。それは堆積プロセスの記憶である。だから石もまた有機体だ。それがゆっくりゆっくりと溶解してゆく。気の遠くなるような時間をかけて。ヴェネツィアの石とは対比的な、ペトラの石。
ペトラはアンマンの南に位置する。旧石器時代と新石器時代(紀元前1万年から6000年)の遺跡がペトラ北のベイダBeidhaと南のサブラSabraで発見されている。
エドム王朝。鉄器時代(紀元前800年から600年)にはウム・エル=ビヤラUm el-Biyarahが、ペトラにおけるエドム王朝の定住地となった。
ナバテア人(Nabateans)。もともと遊牧民であった彼らは、紀元前6世紀ごろ、アラビア半島からペトラに移動してきた。彼らはウム・エル=ビヤラの岩山を占拠した。紀元前312年、ギリシアの将軍アンチゴヌスの攻撃にも耐えた。ヘレニズム期、ローマ期に、ナバテア王朝はペトラを首都とした。人口増加により、遊牧民は定住民族化した、というのが定説である。
地理的条件。岩礁地帯であった。水が確保された。だからキャラバンサライとしてはうってつけであった。しかし時に鉄砲水となって災害をもたらすことと表裏一体であった。ダムなどを建設して治水をおこなうとともに、水道設備をつくって給水システムを整えた。まさに都市基盤設備が充実していた。
首都としての繁栄。ペトラは、紀元前4世紀から後106年まで、首都であった。そして大キャラバンセンターとして東西貿易の重要な中継基地であった。アラビアの香辛料、中国のシルク、インドのスパイスなど、貴重な物品をガザやアレクサンドリアに運んだ。ナバテアの王アレタス3世Aretas IIIは、ダマスカスをも支配した。さらにアレタス4世の時代には南アラビアや地中海まで隊商システムを支配した。
ローマの野心。しかしローマ帝国は黙っていない。紀元前64-63、ポンペイウスはペトラを支配した。課税はしたが、自治は認めるという支配であった。ローマ建築の建設が始まった。
さらに重大なこと。紀元前25年、アウグストゥスはスパイス貿易を支配するために南アラビアに遠征。これは失敗。しかしアウグストゥスは海のネットワークを構築した。紅海とナイル川を経由してアラビアとアレクサンドリアを結ぶのであった。しかしそれはペトラが構築していた通商システムに打撃をあたえるものであった。日本のサイトでは、ローマによる軍事的攻撃しか書いていないが、それよりも通商システムそのものが打撃をうけたのであった。
106年、トラヤヌス帝はペトラを併合する。皇帝は同時に、アラビア属州の首都をシリアのボルサ(Borsa)にする。旧首都はいまやアラビア属州の一都市にすぎない。しかしパックス・ロマーナのもとで、旧遊牧民たちは、ノマド的性格を失い、都市の定住民となって、商業活動にいそしんだ。その繁栄は、やはりローマ的繁栄であった。
363年、大地震で被害。通商都市としての機能はしだいに失われ、やがてその地位をパルミラに譲る。
4世紀にキリスト教改宗。ビザンチン時代、パレスチナ地区tertialにおける司教座が置かれる。
しかしつぎにはアラブ人たちがやってくる。安定はつづかない。
十字軍時代になると重要性をすこし回復し、城砦が建設されたりした。マムルーク朝のスルタンであったバイバルス(Baybars)は、1276年、カラクKarak訪問の途中にペトラを訪問した。それ以降は史実は不明のようで、18世紀末まで、世界から、歴史から、失われてしまう。
1812年、スイス人旅行家ヨハン・ブルクハルトが再発見する。しかし1958年からやっと、イギリスとアメリカの合同調査隊が本格的な調査をはじめた。しかし遺跡の大部分はまだ解明を待っている状態であるという。
1988年1月18日。ぼくはJett Busのバスにのった。アンマンを6時30分発、ペトラには11時着。宿はAlanbat Hotel Restaurant & Student House。素泊まり2JD、2食がついて3.5JDである。アメリカ人のマーチン君とお友達になり、住所の交換など。でも雪が降っていた。とても寒い。
ぼくは細い谷間をとおって遺跡をめざす。脇には水路が彫ってある。犬が吠えているようだ。野犬だと怖いなと思った。でもそうではなく、地元の人びとが石を片づけていた。投げられた石が、地上の石とぶつかり、その音が谷間に反響していた。残響時間の長い、不思議な音だった。
広い場所にでる。沙漠を旅した商隊は、ここで文明にたどりつき、安堵したことであろう。そこに宝物殿の正面が見える。演出。ペディメントが上下二層に積層された全体であるが、上部中央はそのだけ取り出すと円形神殿風である。ペトラ独自のスタイル。
遺構は数多い。続く。
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