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2018.06.03

森美術館「建築の日本展」

日本の伝統建築と近現代150年とを相関させ、代表作100点以上を選んで9つの枠組で分類し、多くの模型を展示した充実した展覧会を、先日みてきた。

まずはざっくりの感想。

展覧会を本気で検討してみようと思えば、NY現代美術館における『近代建築』展(1932)と比較してみるのがベストであろう。さらに前後して出版された『インターナショナル・スタイル』も参考にすべきであろう。

とりあえずふたつの論点がある。

まず普遍性の問題。20世紀をとおしてトレンド・リーダーであったMoMAは、1932年の時点で「アメリカ建築」を問うてもよかったのだが、そうはしなかった。むしろ普遍的「建築」を論じ、かつその指標のいくつかを明確に指摘した。ところがわが国における日本建築への問いは、つねに日本性を問うのであり、建築性を本格的に問うことはしない。そのようなひたすらな問いのなかで、じつに率直に、外部が欠如してゆく。日本は虚構であるということは、大前提なのだが、それは言明されない。したがって国際やグローバルとの関係はみごとに捨象される。この展覧会は、日本近代の大問題をあっけないまでに率直に継承している。

つぎに情報発信の主体について。関係者たちのなかには、主催が公立美術館でもアカデミーでもないことの特殊性をことさら指摘するむきもあるが、そうなのだろうか。それこそ伝統的にはアメリカは私立美術館、ヨーロッパは国公立美術館、日本は折衷であったが、近年は全世界的にエージェント型へと移行しつつある趨勢である。ポンピドゥ・センターは1970年代フランスにおける芸術の大衆化であったということを、高階秀爾から聞いたことがある。だとすればMoMAの近代建築展は、1930年代アメリカにおける建築文化の大衆化であったのだ。民間だ、大衆相手だ、ツーリスト向けだなどという指摘は、いったいいつの時代なのかわからない。普遍的な情報発信をめざすとして、その主体は公、民、私、・・・いずれであるべきか、などについてはべつに決まり事もない。

つまり日本性を問うのはよいのだが、わたしたちはなぜ日本性ばかりを問うのかは、ますますわからなくなり「疑惑はさらに深まった」!いずれもうすこしくわしく論考して発表するかもしれない。

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