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2018.05.16

青木淳『フラジャイル・コンセプト』

青木さんからいただきました。ありがとうございます。

ぼくは、自分についてあまり自慢できるところはないのだけれど、青木さんと同年生まれであることはちょっとしたことである。ちなみに妹島和世とも同い年である。いつも青木論に余念がない花田佳明ともごく近い。

学生のころ、まだ邦訳のなかったデュランの建築書を借りるため、たしか江古田にあった青木さんの下宿までおしかけた。こころよく貸してくれた。だからM論が書けた。

若い頃、ぼくをふくめ周囲の人間は、青木さんの設計能力とともに、その理論構築能力をも認めていた。しかし、どこかに書いているかどうか知らないが、理論構築などという作為的なことは、やめはしないが、おおぎょうにアピールすることもないだろうと、ばかばかしく思えてしまったのであろう。そんなのは若いころの一時期だけやるものだ、といわんばかりに。こうして(?)文才溢れる成熟した建築家ができた(などと妄想する)。

ぼくが感心するのは、彼がときどき使う素敵な比喩である。ふつう理系分野である建築では、対象を正確に記述するために、喩えは使わないものだ。だから建築系のうまい書き手であっても、やはり文系の書き手にはとうていかなわない(たとえばぼく)。しかし青木さんの「いつやって来るか知れぬ火災をじっと待ち続けているスプリンクラー」(p.120)、「世界の一部を、まるで掌にそっと、捕獲したような」写真、複製は「現実の似姿であることを超えて、それ自体で独立した、厚みのない現実」(p.139)・・・などというくだりは、ひょっとしたらなにかからの借用であったとしても、なかなか気が利いている。

比喩とはなにか。それは、脳のなかに蓄積された膨大なアーカイブのなかから、はじめは無関係であったはずの2つの要素を、なんらかの意味をこめて、関係づけることである。だから比喩とは、人間として根源的で、創造的な能力なのである。この比喩力を、建築論のなかで展開させているのが青木さんである。

凡庸な人間(たとえば大学教授)は、カテゴリーに仕分けることが客観的で科学的だと思うにとどまっている。しかしカテゴリーの壁は、想像、体験などにおいて超えられるべきものだ。比喩はそういう超越力である。

彼による動線体、原っぱ、などのいろんな面白い概念や発想は、この「無関係と思われたもののあいだに、新たな関係をつくってみせる」能力にほかならない。

それはぼくを妄想にかりたてる。ぼくは編集者である。そして青木さんに依頼する。

「青木さんは建築家だから、やはり建築家として書きますよね。この本を通読して感じます。すごくよく書けています。でもぼくには、なにかがひっかかる。それは、ご自身も気にしてらっしゃるけれど、自分=設計者が絶対的存在となっているという点です。建築家目線が消えない。それはあたりまえのようで、あたりまえでない。小説でも、一人称で書くか、三人称で書くか、作家の決断しどころですよね。青木さんほどの観察力、連想力があれば、西洋の建築書とはまたちがった、三人称の建築論がかけそうです。そのとき、建築家が建築を語ることそのものを包含しながらも、建築がみずからを語るような文学ができるかもしれません。しなやかで、フレキシブルで、人やものが、概念に縛られるのではなく、あくまで自由である。そんな建築論です。作家はそれに近いことをしたかもしれないが、建築家はまだです。それができるのは青木さんくらいです。たぶん。」

いかがでしょうか、青木さん。

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