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2017年2月の3件の記事

2017.02.23

岡村健太郎『「三陸津波」と集落再編』

岡村さんより送っていただきました。ありがとうございます。

都市復興をテーマとする研究には越沢明の一連のものがまず思い浮かぶが、本書はこの復興に新たな視座をもたらそうとしている。ひとことでいうと、越沢がどちらかというと大都市中心であったのにたいし、本書はより小スケールの、地域の復興というテーマをかかげている。たしかに、神戸の地震ではひとつの大きな都市に被害が集中したが、東日本大震災では、広域におよぶ、多数の市町村が被災した。そういう意味で、適切な問題設定である。

ぼくが感心したのは全体の構成である。すなわち繰り返される津波の被害にたいし、通時的には地域主体、地方政府主体、中央政府主体というように復興システムは変遷していったことが詳細に素描される。それを著者はさいごに共時的構造に変換し、地域、地方政府、中央政府の3つからなる複合主体の構成のしかたのなかに、これからの検討課題をみようとする。戦略的ニュートラリズムとでもよべそうな分析である。たしかにいついかなる場所でも、3主体がおり、なんらかの役割分担をしているわけで、普遍的構造のなかに個々のケースの特殊性を分析できるのである。情報整理力の高さを感じる。

たほう、宮沢賢治、柳田國男、井上ひさしの、そしてスルニットが提供する、ある種のユートピア論のもたらす可能性についての指摘がある。コメントできる特段の知恵があるわけではないが、それを復興手法としてトリセツ化するものというより、人間の基本的な自律要求のようなものと想像している。著者が指摘するような、国家支配が強い時代においてこそ、この自律的社会構築の願望が強かったのだが、それを相互補完的などとするバランス感覚は陳腐であるにしても。

個人的な興味としては、やはり国家とはなにか、なんであったか、である。もちろん国家主体を一押ししたいわけではない。しかし著者がえがく主要3時代という時代的枠組みは、社会福祉、社会政策、経済政策など、おおくの分野に共通していることはすぐわかる。旧「都市計画法」はただしくは一九一九年であることはご愛敬(240頁)としても、行政サービスの普遍化ということと、経済の不安定化(大恐慌)ということの相克があるのはあきらかであろう。そして自然災害による都市と社会の破壊、そののち発揮される復元力、その力が行使されるメカニズムは、住宅供給、戦争、社会編成(町内会など)などとあきらかに共通の基盤のうえにある。たまたま国家主導であったわけでなく、そもそ国家主導の時代であった、わけである。すなわちある種の脆弱さ、不安定さにたいする対策として、100年ほどまえも、国家は突出したのであろうし、今の時代にあっておなじことを繰り返さないためには、ある程度の意識化は必要であろう。

というわけで個人的興味の延長としては、集落再編のくわしい細部も面白いのだが、ある種の基本構造を方法論として発見した感のある著者が、これからどういう方向に研究を展開するのであろうかということでもある。欧州における地域が欧州>国家>地域圏>都市連合>都市>区などという重層構造をなし、その構造を念頭におかないと研究もプロジェクトもままならないように、すくなくとも三層の重層構造として、日本の都市なり地域なりを分析するのだとしたら、まことにもっともだと思われる。

さらにいえば地域、地方、中央の3層構造は、じつは共時性をさいしょに考えており、しかるのちにそれを歴史のなかに遡及することで、歴史を再構成したなどということであれば、お見事ということになるであろう。

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2017.02.15

ポルトガル建築の20世紀

トストエス先生の講演をきいた。中心と周縁というサブテーマもあったが、ほんとうのところは、建築写真をたくさん拝見したのは、目の快楽であった。やはりプロポーション、スケールの感覚がいい。ラテンだからとするのは簡単だが、そのラテン的特性はどこからくるのか、知りたいところ。

それから周縁性ということでは、フィンランドにおけるアールトなどを思い出す。あるいはスペインではなくカタルニァのガウディなど。
トストエス先生のお題を拝借して、ヨーロッパ/アメリカ、中心/周縁、グローバル/国/地方という階層性、などの分析軸を複数念頭におき、それらのオーバーラップとしてポルトガル建築を分析することも考えた。

ごく少数のスターが地域を代表していることと、建築界のコンパクトさということ。フィンランドなどでは建築界は、ひとつのコミュニティという感じである。たぶんポルトガルもそんな感じなのであろう。そういう意味では、19世紀あたりから考えねばならない。都市化、産業革命ということだけではなく、建築産業、建築教育、建築家組織などが整備されるのが近代だが、あたりまえなので意識されないとがある。建築にかんするもろもろも社会制度を、固有の人々が縦断しているということである。つまり固有の建築関係者のつながり、つまり「建築界」である。それはあるていど分節化されてはいるが、連続的なつながりであり、ときに対立しても基本的には利益を共有している。建築メディアも、こうした「建築界」があってはじめて意味がある。たぶんラテンの世界は、建築界の内部も濃いのであろう。職能団体、アカデミア、運動といった輪郭のはっきりした対象は研究しやすいが、「建築界」は一種のクラウドであり、たしかに存在するが、つかみにくいときもある。

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2017.02.03

『建築史とは何か?』アンドリュー・リーチ著、横手義洋訳

訳者の横手さんからいただきました。ありがとうございます。

原著は2010年刊、ヴェルフリン以降の近代における建築史学のレビューである。著者の歴史観、学史観、そして問題意識ははっきりしている。建築史を批判しつつ、前向きに構想している。読んで損はないであろう。

レビューのレビューになってしまうので、変ではあるが、著者の率直な史観とは、21世紀をも含む。ゼーヴィやタフーリが展開していた、建築史そのものへの問いかけ、とくにタフーリによる批判的歴史、そのひろがりである理論指向の歴史研究。それを継承しつつ、これからを構想している。

著者も訳者も1970年代生まれである。今、いちばん活動的な年代のひとびとである。これからの伸びしろも期待できる、論考である。

だからよいのであるが、老境に近づきつつあるぼくからすると、別の感慨がある。リーチが言及した文献をふまえ、日本建築学会の『建築雑誌』でも建築史そのものを再検討しようとした特集を組んだこともある。メタ批評と称して、建築批評の批評をし、それを『言葉と建築』としてまとめたのは、まさにリーチが批判的歴史とよぶものである。ぼく自身が、位置づけられる客体になったというわけである。

当時(90年代)、すくなくともぼく自身は、世界とシンクロしつつ、論を展開しているという自負はあった。しかし理解もされず、同調もされず、孤独であった。まあそういうものであろう。そうすると本書への反響もだいたい読めてくるが、若い世代に頑張ってもらいたいものである。

日本建築史とは、日本国における建築史なのか、日本建築という文化的カテゴリーの歴史なのか、よくわからないが、このグローバルな時代にあって、あくまで独自路線なのは、それはそれでよいのではないか。文化のグローバル化と、資本のグローバル化を同じように論じることはできない。だから日本は、半鎖国状態で、サロン的な文化圏をもっていてもいいのだし、それを維持していけたら、すばらしい。これからのかたがたが、そういう姿勢を示そうとするのか、それはそれで正念場である。

そして重要なことに、リーチが「建築史とはなにか?」への解答を与えてくれるということではない。著者はそう自問自答し、その歩みが本書となったとみるべきである。だから救いの書ではなく、救いを求める書である。読者は、この著者とともに「建築史とはなにか?」を自問自答するべきであろう。

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