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2016年11月の3件の記事

2016.11.28

Katsuhiro MIYAMOTO & Associates

宮本佳明さんからおくっていただきました。ありがとうございます。

全編英語なので、邦題はよくわからないが、90年代から現在までをふくんでいる。最初期の愛田荘、阪神大震災関連のプロジェクト、全壊ハウスなどからはじまり、個人住宅、お寺、商業建築などをへて、最近のホール建築まで幅は広く、多様である。包括的な作品集である。

気がつくのは、敷地などが好条件ではないものが多いことである。住宅地の不整形な敷地、しかも神戸、宝塚などの土地柄を反映して、傾斜地が多い。これは建築家というより施主がもたらすものであるから、とくに宮本さんの建築の本質とはいえない。しかしこのように蓄積すると、本質的なものに転化しそうである。そういえば愛田荘も、平地にわざわざスロープをもたらしていた。Grappa, Clover House(2006)なども、かつての都市住宅派的なものの成熟といえようか、敷地との葛藤のはてに、3枚の支持壁、カーブする壁体などと独特のコンセプトがもたらされている。

そのなかでもChusjin寺など、RC大屋根シリーズがはじまり、はじめは瓦の屋根となじむものであったが、ほかの作品では、複合的、総合的なものへと発展している。

あらゆる建築は、個別なものと普遍的なものの葛藤から生まれると思われる。とくに宮本さんの場合は、建築計画の研究室のご出身でありながら、普遍的なものからではなく、個別のものから出発するタイプの建築家であると思う。しかしすべて個別というのではなく、個々の条件のなかから、普遍的なものが探究されている。作品集として件数が多くなってはじめて、それらが見えてくるような気がする。

最近はお目にかかっていないが、昔は会う機会があった。ぼくは大学に奉職したばかりであり、それまで経験のなかった、設計演習の指導もはじめた。そのとき、非常勤の先生の教えぶりなどを必死で学んだものである。坂茂にインタビューする別件仕事もあったので、その機会に、クーパーユニオンの教育法を教えてもらった。宮本さんの話も、そういう必要性もあって、けっこう真面目にきいていたものである。登山と、骨折の話とか、都市はほとんどは規則的なものの集積だが、その普遍性、規則性が成立するためには、かならずあそび、約物、特殊解的なものが必要だ、そういう意味でのノイズがいる、などといった発想である。自分自身の作品は、ひとつ約物である。しかしそれが全体を規則正しくする。不規則性が規則性を保証するという、ひとつの世界観である。そういう発想をキャリアのはじめから方法論化されていたわけである。

個別なもののなかに、概念をみつけ、それを普遍化してゆく。普遍的な方法論であり、じつは建築史もそういうものだ、ともいえる。

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2016.11.06

百枝優《あぐりの丘高原ホテル・チャペル》

学生をつれての1泊2日、設計演習ツアーは長崎市であった。宿舎は、新装オープンした標記ホテル。その目玉、チャペルを設計したのは百枝優であった。日程はかなりまえから既決であり、直前では操作できなかったが、彼が設計者として竣工式をするのと、非常勤講師として学生たちに教えるのがほぼ間隔なく前後したのは、奇遇というものであろう。

朝、関係者以外ではおそらくはじめて、見学を許された学生たちが、高揚している。教師冥利である。

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木造軸組で、幹/枝の樹形立体トラスというかマッシュルームというか、類例はなんどか見たが、論理がすみずみまでゆきわたっているという点では、これは秀逸であろう。幹/枝の基本形がまず第1層に並べられるが、その基本形をルート2分の1に縮小し45度回転したものが第2層をなし、さらにルート2分の1に縮小し45度回転したものが第3層をなすが、そういうことでいちばん下といちばん上は、寸法はちょうど半分となり、合計90度回転なのでx軸y軸はふたたび一致する。ポエティックにいうと、無理数と無理数をかけて有理数にもどる。ここまでくると観念論であるが、実体はそれをなぞっている。観念の図式をそのまま美しく再現したのであるが、それをここまでふっきれてやってしまうと、すがすがしい。

別の形容をするなら、立体幾何学図式によりキュービックな空洞を充満させているといえる。

いま別件の原稿を平行して書いているのだが、ちょっと披露すると、人間はさまざまな図法により対象物を描くのだが、地図、天体図、などはその典型例であり、外的な世界を描くのである。ところがその手段であった幾何学が、現実の土地や天体から分離しても考察できる対象になると、こんどは幾何学図形が、現実には存在しない、精神のなかだけに存在するものとなる。そのとき、人間が透視図法やアクソノメトリで描くのは、精神の内部ということになる。図法は、外界も描くが、内的世界も描く。これが三角形のイデアはどこにあるか?といった哲学問答にもなる。それはぼくには難しすぎる。建築家の精神のなかで、いくつかの幾何学的ダイヤモンドが、すきまなく、密実にある空洞を満たしている。その図にもとづいてこの《チャペル》は構築されている、と思えばよいのである。

そういう意味で実験的なのだが、実験的な実作をつくるチャンスに恵まれた建築家は幸いである。

なお彷彿されるのは、17世紀のデカルト宇宙理論(現在なら天文学)においても、宇宙は、均質な真空空間ではなく、さまざまな渦巻きが密実にならんだものなのであったということである。

ところでぼくは、前夜、ひそかに見せてもらった。ところが風呂からあがると、コーヒー飲み過ぎの自律神経失調という恒例のものを発症して、翌朝まで寝込んでいた。百枝優は、傑作を見たせいですよ、という。事実ではないが、まあそういうことにしてやろう。

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2016.11.03

佐々木翔《あたご保育園》

佐々木翔はごく短期間、ぼくの研究室にいたので、あれこれいうと結局は親馬鹿的になるかもしれないが、《あたご保育園》はなかなかよかった。

SDレビュー賞も受賞して、おかげでわが研究室OBで同賞受賞は、4回にして3人という好成績であり、これは大学の建築系研究室としてはかなり平均以上であるし、やはり優れた建築家が出て結果的にあの研究室はよかったのではないかということになる。ありがたいことである。

今年はその佐々木翔を非常勤講師として招聘して、学生を指導してもらうのだが、若い伸び盛りの人材に、実作見学、エスキス、講演+スライドショーなど一式やってもらう。学生には現在進行形感がたいせつなのである。

成果をあげている若い建築家たちを学生時代からみていると、やはり彼らは、自分のモチーフや方法論や形式などといえるだろうが、コアになる部分をもっていて、それを授業、コンペ、実作のなかで鍛え続けているということは共通している。ひょっとして融通がきかないのかもしれないが、ひとつの軸、ひとつのフィルターをとおしてさまざまな課題をこなしてゆくことも、なるほどいいアプローチと思える。

彼のアプローチは、すこしおおげさだが、ドゥルーズ『差異と反復』のようなものといえる。もちろん建築家が、構造、力、フラクタル、リゾームなどそもそも哲学では比喩としてつかっていたものを、そのまま直訳してしまうことはしばしばあるが、しかしそれはそれで、解釈である。

たとえばグリッド平面、アーチ構造を単純にならべる(建築はそんなものである)。それを20世紀的な機械的反復とすると、冷たい合理主義になるが、均質部分+αで、αにバリエーションをもたせれば、その直訳的な差異と反復は、建築的レベルにおいて、さまざまな印象、使い方、結果的構成をうみだしてゆく。佐々木翔はそのことに自覚的で、学生時代から、さまざまなバリエーションを生み出し、その形式性をとおして、さまざまな意味を発生させる、派生させる、浮上させる・・・ことを試みてきた。またそういう姿勢を、まだ2年生の学生のまえで、立派に示してくれた。教育効果も絶大である。

《あたご保育園》は長崎らしい、山の中腹の、斜面にたつ。吹き抜けギャラリーは、けもの道をなぞり、アーチは等高線かひな壇にそのまま沿いつつ並び、アーチごしに違うカーブのアーチを眺めるという、室内化したランドスケープを演出する。図式的にはシンプルなのだが、そこにバリエーションが浸透している。郊外型大型店舗、ファミレス、建て売り住宅が混在するなかで、この建物だけは、意図的な方法論のゆえに、かえって自然と地形を表現し、長崎が坂の都市であることを実感として再認識させる。中央ギャラリーを上れば、背後の竹やぶの青が鮮烈である。世界のなかに別の世界、というか、世界のなかに、引きこもるのではなく、その世界そのものをさらに純化した、そういう意味での別の世界をつくる、そういう建築のレベルに到達している。

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