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2016年9月の2件の記事

2016.09.16

Taku Sakaushi, Architecture as Frame and Reframe

坂牛さんから送っていただきました。ありがとうございます。

彼とは学会の委員会でごいっしょしたていどのコンタクトであるにもかかわらず、PORTFOLIO 1989 2016なる直裁で飾り気のない副題の作品集をおくっていただき、教授会のさなか見いいっていたものであったが、禁欲的な引き算的、ミニマリズム的設計ではなく、あらゆることに設計をおよぼしてゆく博愛主義者なのであろう。

学派のスタンプをおすのは好きではないが、デイヴィド・シュチュアートもそうしているからいいと思うが、東工大的なものを継承しているという点で、正統派である。

つまりふたつの空間(図式)、あるいはふたつのボリューム(システム)の、交差、重複、ずれ、などとして全体を構想するやりかたである。

篠原一男は全体をひとつの簡素なボリュームとするが、そのなかに独特のボリュームを構成し、残余の空間にも積極的な意味を与えるのだが、この図と地の関係は、みつめるうちに逆転することで、ふたつのボリュームの関係となってゆく。百年記念館は、立体相互貫入というより、内部に潜んでいたボリュームが、外のおおきなボリュームを突出してゆく、その関係の変化というように感じられる。

坂本一成もまた家型の素朴な外観と、内部の空間連鎖図式との独特の相互関係があった。機能どうこうというより、そのゲシュタルトを知的に読み取るという快楽が、読者には与えられるのである。

坂牛の場合は、2系列はより等価に近いが、それらはより自由に、よりのびのびと自己主張しながら、両者のあいだの間隙、相乗効果、重なり、ずれなどにより豊かな効果をうんでゆく。こうした方法論は、ボリュームを言語とするとはいえ、19世紀的な意味でのスタイル、すなわち歴史的様式の引用という意味のそれではなく、多様でひとつひとつはまったく違っていながら、全体の統一性、理屈以上に感覚や印象のレベルで感じられる首尾一貫性という意味で、ひとつのスタイルに昇華されているといえるであろう。

というように考えると、表紙が緑文字の"PORTFOLIO"と黒文字の"Architecture as..."とが二層レーヤーでオーバーラップしているのも、さもありなんと、納得してしまうのである

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2016.09.05

大野秀敏『Fibercity 縮小の時代の都市像』

大野先生より送っていただきました。ありがとうございます。

10年以上にわたり探求してきたテーマの集大成的なものであり、理論的整理とともに、各種テーマごとのプロジェクト展開がしめされている。

人口減少社会にあって、縮小図式のうえでの都市計画が提案されているのだが、いままでの近代都市が全否定されて違うもので代用するということではなさそうである。つまり批判しつつ接続している。ル・コルビュジエも、ケヴィン・リンチも、伊藤ていじら『日本の都市空間』も、モンドリアンも、槇文彦も批判されつつ継承されており、20世紀を内包する21世紀の方法論が築かれている。

都市計画史の観点からすると、19世紀まではいかに都市の成長を抑制するかということが、考えられてきた。20世紀は都市の成長に方向づけをすることで、動的でありながら平衡を保とうとすることが求められた。21世紀は、力づくの抑制でもない、野放図な発展でもない、第三の道が求められているのであろう。

そういうところから妄想すると、「ファイバー」という形象のモデル化を、読者としてどうとらえるかということになる。

すなわち都市形態は、歴史的には、中心と周縁のゾーニングであり、構造としては同心円+放射状である。20世紀はそれにたいし、とくに中葉、リニアな都市構造のさまざまなバリエーションが提案された。ル・コルビュジエの都市計画も、丹下健三の東京計画も、基本的には脊椎動物をモデルとする、リニア図式である。面白いのは中心の存在は、リニア図式で否定されたのではなく、それなりに再定義づけされている。「ファイバー」という、都市を布、織物にたとえるやりかたも、また、同心円構造やリニア構造を否定するのではなく、それを含みつつ読みかえてゆく、つくりかえてゆく、方法論であるのは明らかだ。

都市を織物にたとえることじたいは新しくないし、むしろスタティックである。「ファイバー」はむしろダイナミックであり、ぼくには、構造的には、脳が多数のシナプスからなり、それらシナプスの接続のありようが、思考や記憶というものである、という図式になると思う。つまり人間は、目で三角形をみて、これは三角形だと判断するが、脳細胞が三角形に再組織化されるのではない。三角形は、脳細胞間のやりとりとして存在するわけである。本書において「移動」「流れ」「交換」が強調されるのは、そういうメタファーなのであろう。

本書に対応する思想はドゥルーズ『襞』のようなものであろう。「ファイバー」は大都市からすれば局所的なある秩序づけであり、つぎつぎと追記されてゆくことで、豊かになる。当初は均質であった都市が、織られ、折られ、襞をつけられ、錯綜した布地化するような光景が想定できる。

都市計画アイディアとしては、前述のように同心円、リニアが代表的だが、これまでの反省としては、それらがゾーニングやインフラの具体的な形象であるとするのはいいとしても、社会や人間的諸活動といった、むしろ形のない融通無碍なものまでこの空間図式に従うと考えてしまったことであろう。

とすると「ファイバー」は、線分、有限な長さの繊維、襞などと形象化されつつも、むしろフィジカルな枠組みをとおして、それを超越する、流動するなにかをも含まねばならない。

だからこういうことであろう。古代であれ、中世であれ、近世・近代であれ、都市はまず均質なものとして建設される。しかしそれは終わりではなく、始まりである。人間がすみつき、その枠組みのなかで内部の建設をするようになると、さまざまな思惑からカスタマイズし、錯綜した空間編成を導入する。その累積が、襞、織物、繊維、ファイバーなのであろう。こういういみでファイバー・シティは近代都市を批判的に継承しうる、思考様式なのかもしれない。

さいごに成長概念であるが、「成長の限界」とは地球という外的制約を前提としていたが、今は人類全体で生活水準が向上し、識字率のほぼ100%化、などが達成されると、人類全体が少子化すると、これはいわば内なる原理により、人類人口の増加(成長)はとまるという予測もある。すなわち成長はそれ自身のなかに反成長を内包しているとしたら、それが21世紀後半の人類だという説をきいたことがある。そうすると縮小の時代はほんとうとしても、みずから縮小することがいいことなのかどうか、ぼくには判断がつかないのではあるが。

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