« 2016年7月 | トップページ | 2016年9月 »

2016年8月の3件の記事

2016.08.31

『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義』

六耀社からご恵贈いただいた。ありがとうございます。

ふたりがレーモンドと吉村、前川と坂倉、白井と山口、大江と吉坂を論じるという、けっこう大作である。磯崎さんは、あいかわらず俯瞰的、理路整然、博識であるし、藤森さんはあいかわらずなんとか派弁証法なる芸風が豪華で、逸話は豊かで、今回は西洋アヴァンギャルドの理解も披露している。読み物として飽きさせない。

とくに主題は戦争をいかにモダニズムがきりぬけてきたかということで、裏歴史的な、暴露的な面白さもあるし、20世紀をどうとらえるかという論考につながってゆくのであろう。

とりあえず読者としてあるいは聴衆として的に、拍手でもすべきなのは、むしろ坂倉が西洋建築家に影響を与えたとか、日本の建築界は実質的に「近代の超克」をなしとげていた、というようなある種の自負のようなものであろう。それが構法、ディテール、理論、思想を素材として語られる。

そこで賛同でもないが批判でもないことを若干、思いつく。

まず20世紀の100年間、日本はほぼ西洋とシンクロしていた、先進/後進ではなく、同時代を生きていたという主張である。これは日本における都市計画法の成立が1919年であり、いわゆる先進国に遅れること若干にすぎず、本ブログでも、明治維新よりも19世紀と20世紀の切れ目を、日本と西洋がシンクロする閾として考えるべきではないかと主張したことがある。

つぎにモダン運動と国家の関係とか、世界大戦はどうしても大事件であるので、戦前戦後の連続/不連続がしばしばいわれるのであるが、そもそも国家そのものがモダンなのではないか。つまり宗教国家でも王国でもない国家は、モダンなのではないか。しかも資本主義をエンジンとする近代国家は、モダンそのものなのではないか。そしてそうした国家間の戦争、世界大戦もまた、モダンそのものではないか。などということを連想する。

であるなら、戦前前後の連続だの不連続だのはどうも問題のたてかたそのものが不十分なのである。

そのとき国家は実体というよりひとつの機構である。なぜなら、たとえば20世紀初頭では、ボトムアップ的な社会運動であったものが、国家負担となる。たとえば19世紀までは完全に民業であった住宅産業を、20世紀は国家が肩代わりするようになり、それを社会住宅や公共住宅などと呼ぶようになる。そのように考えると、国家はたしかに強力な実体のように存在するのであるが、しかしむしろ、ひとつの機構、機械なのかもしれない。だからそこに、モダン運動としての近代建築も、ときには容易に編入されうる。

そう考えれば、国家も戦争も、モダンの揺籃のようなものである。建築はこうした機械との接続を苦悩したのであるが、さいわいにも、日本の場合は比較的自由であり、生産的であった、ということについて、磯崎さんも藤森さんもおおむね合意のようである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.08.27

建築デザイン発表会

建築学会大会の企画で、招待講評者にしていただいた。20前後の作品にコメントし、優秀賞を選んだ。

テーマとして20世紀初頭のKWであった「生活」概念を批判的に浮上させるようなプロジェクトを求めたのであった。春先の準備会合では、このテーマでは論文コンクールのほうがよかったかなと思ったものであった。それでもひとつひとつのプロジェクトの内容もそうだが、連続してプレゼしたもらいことで、浮かびあがることもあり、総体として21世紀の(批判的?)生活概念もみえてくるような気もした。

最近、歴史学の学会でも生活改善運動などをテーマとするシンポジウムもなされている。思想系でかつてのフーコーの生権力概念がレビューされており、それに呼応する建築論もある。また生命科学などでも生命概念が更新されつつあるようである。そういうことで生、生命、生活などの連動性を見たいとおもった。

プロジェクトのなかで参考になったものとしては、3類型にわけられる。医療・介護などもまた生活プロセスのひとつとして積極的に設計しようというもの。生活は衣食住というリアルなものだけでなく、自然、宗教、スポーツ(祝祭性)などともかかわっているという視点。20世紀の諸政策にもかかわらず、社会は不均質で諸問題をそのまま残したままつづいているのだが、そのなかでの生活というもの。最後のカテゴリーは「わけあり地域の再生」というわれながらの?キャッチコピーをつくったものであった。差別や、反社会的などというものを内包する生活もなくなりはしない、という視点である。

したがって作品の完成度ではなく、問題提起性を重視して優秀作を選んだ。応募された学会員のみなさんのなかには納得いかない方々も少なくないとは思うのだが、ぼくとしては充実した経験となった。

メディカルタウンの構想で、医療システムのみならず、空間や景観などを重視して設計したものは注目できた(ただ想像の範囲内なので・・)。地方の小都市で、総合病院を郊外に建設するのではなかく、中心部において町と病院を混在、融合させ、それが患者と地域住民の交流になっていくという、病院というより、都市のありかたを再考させるものは、はっきり問題提起型である。建築というより地域システム設計であるが、ある水系をひとまとまりに考え、自治体をこえるエコシステムの自然インフラを整備し、そのうえで居住、観光、産業プロジェクトを提案するもの。これは、ちょうどITでプラットフォームをつくり、そのうえでさまざまな商品、プログラム・・・を考案可能にするシステム一式のようなものである。日本のインフラが更新の時期にきていることもあって、いまどき普通のようだが、重要な視点だとおもった。それから大学と住宅街の混在、住宅街のなかに被差別民と学生の混在というように、ソーシャルミックスのプロジェクトは、用途の混在をめざす21世紀的な都市計画でもあり、こうした点をもっと自覚的にアピールしてもいいだろう、と思った。

そのほか、宗教団体が整備する施設が、地域施設にもなっている例もあり、かなり興味をひかれたが、その宗教団体の方針そのものが紹介する意義のあるものであろうが、たほうで、建築家による説明はやはり専門技術者によるもので、背景まで遡及することについては控えめであったという印象である。

懇親会で挨拶をもとめられたので、いま大学等でときどき話題になる、設計作品で博士学位をとる制度整備についてふれた。知る限りでは、すでに一部の大学でそのための制度設計をしているが、全国の多くの大学で個別に対応するのは全体としてエネルギーの無駄であり、スタッフ数の少ない大学ではそもそも対応できない。それは学会のほうで、作品プラス学術解説のようなスタイルで、研究論文とみなして、業績をカウントする制度を整備するのがよいのではないか。

成熟した建築家ほど、闘争性を隠した、大人の説明をするのはあたりまえなのだが、すると背景、構造、思想性といったものがうわべは弱々しい説明になる。今回のような発表会でぼくのような講評者ということになると、不利になるのである。

ところが自作をもって論を構築する、という方式が、学位取得の方法論になるというような制度整備があれば、こんどは論が作品にも反映されて、建築界はますます発展すると思うのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.08.13

朝から暑い

今日も36°だそうである。にもかかわらず、うちにいるときはエアコンをつけず、扇風機+ミネラルウォーターですごす。休日などは、5リットルくらい飲むかな。

若いころ、ルクソールあたりにいくために、タクシーをチャーターした。車にエアコンはないにもかかわらず、外気は灼熱地獄なので、窓を閉め切っている。タクシーから半径100メートルのそとは蜃気楼という神秘のなかをひたはしる。幻想的な光景であった。

アジャンタでは、水筒の水がお湯になってしまっていて、とほほであった。

4月のカルカッタでは、朝7時見学スタートなのに、10時頃には暑くて暑くてへろへろになり、ほうほうのていで宿にもどる。門番とは「暑いね」「ああ」と最上級のなげやりである。お湯のような水シャワーをあび、ベッドのうえで放心する。天井ファンからの暴風のような風が気持ちよかった。

録画していたル・コルビュジエのカバノンも、こういうときにみれば、雰囲気がでる。地中海沿岸の避暑地も、庶民的なところもあって、なかなかよかったことを思い出す。もういちどドライブすることなどあるのだろうか。

もっと暑くなったらエアコンつけよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年7月 | トップページ | 2016年9月 »