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2016年6月の2件の記事

2016.06.25

『クリマデザイン』

これも同僚の先生からいただいた。ありがとうございます。

気候のデザイン、環境文化という観点から、環境を指標とした建築設計についての紹介であり、おもしろい。学会では環境工学分野が、温熱環境などを指標とした建築設計にとりくんでおり成果を上げていることを横目ぐらいでは見ていたので、興味をもって読んだ。

ぼくはもちろん素人なのであるが、建築史研究の一環として、近代住宅の成立などを勉強してすぐわかることだが、近代初頭では「快適 comfort」という一言で、建築環境全般、建築設備全般、すなわち給排水、温水供給、採光、通風などもろもろ一式を意味するようになっていた。この状況から、紆余曲折をへて現代にいたっているわけで、その途中にレイナー・バンハムのオフィス空間を念頭においた人工環境論、70年代のエコロジー論、省エネルギー論、・・・などはやがて歴史的に整理すべきことなのであろう。もちろん100年前は、科学的にはプリミティブであり、コレラ、結核という目前の危機に対応していたが、今は地球環境全般なのであって・・・という状況の変化も大きい。

そういう意識で散漫にみていると、これだから素人はと怒られそうだが、つい見入ってしまうのが、世界気象区分、「世界各都市の気候図」、「日本各都市の気候図」、「快適チャート」、などである。つまり人間は(自分は)いかなる世界のどこに、どのように位置づけられているのだろうか、という意識にあるていど答えているからである。3類型しかない風土論の短絡性ではなく、環境文化の枠組みというのが、「世界のなかの自分の位置づけ」などというけっこう哲学的で本質的なものとかかわっているのだなあ、ということに気づく。このような意識をベースにして、設計教育もなされるべきであろう。

だから建築レベルのディテールのはなしとなると、教えてもらっているようなことでも予想できそうなもので、とくに驚くというものはすくない。とはいえ留学時代、どうってことのない建物でも、ラジエーターはしゃれていて、なぜしゃれていたかというと、建築にすんなり収まっている感じがするからである。設計にとっては「機械設備のインテリア化」という永遠の課題である。

あとはディートリヒの《バウビオロギーの基本概念》の中心に描かれているのが、ダヴィンチ描くウィトルウィウス的身体なのは、古典と近代科学技術を架橋するうまい絵というべきか。快適、環境調整装置としての建築。それは用、強、美のトライアングルのどこに位置づけられるか、それは第四項目ではなく、3点により決められた平面上の、別の場所に設定できそうだ・・・などと愚考はつづく。

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「デザインが世界を変える、世界がデザインを変える」

同僚の先生からいただいた『地域開発』(vol.613, 2016-04)の特集である。いわゆるデザイン学(「デザイン村」といういいかたがあって、そうだそうだとおおいに納得した)分野ではすこしまえから広まっていた概念ではあるが、アメリカ発BOP的なパラダイムを、建築的視線から再編集したような内容である。

日本の建築界が発展させようとする国際化・グローバル化が、もはや単純な近代化路線ではないなかで、対象国や対象地域のなかのポテンシャルを活用する方向性が示されているようである。病気の喩えでいえば、外科手術や化学的合成による薬物の投与ではなく、その人の本来もっている自然治癒力を、発見し、自覚させ、強化していこうとする方向性である。

わが学科?が模範とすべき内容であり、おおいに参考とできそうである。

たほうで基礎概念に注目することでも、いろいろと再考可能なことがらもある。

ひとつは「社会」という概念である。つまり国でもない、個人でもない、その中間レベルのこの曖昧模糊とした領域は、すでに形ができあがっている場合もあるが、それでも操作可能でありいろいろな方向に変容することもできる。またあまり形をなしていないこともあるが、その場合は、社会構築ということが伸びしろにもなる。そしてそもそも「社会」概念そのものが近代の産物であるという点も重要である。つまりその意味で「社会」とは古典的にして未解決の課題である、ということである。20世紀からの根本課題といえる。

最後の論文は総論的な位置づけあり興味をもって読んだ。市場主義、グローバル、社会などといっても、根本的には「生きる」とはなにかを反省しないといけないではないか、という主張である。そのとおりである。しかしその点はおおいに保留もしなければならない。なぜならば「社会」と同様に、この「生きること」の再定義がなされたのがやはり近代の初頭なのであり、それは宙づりになった設問として、ときどき忘れ去られながらも、継続している。だからあらためて問うことには意義がある。しかし日本の生活改善運動などをひとつのあらわれとして、生活概念の誕生とひろがり、その背景としての生の哲学、生権力、生政治、生命思想などは、近代の建築や都市計画の思想のなかにも現れている。「生きる」概念の再検討は、すべてをひっくりかえして再考するくらいのスケールのものであろう。

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