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2016.04.08

磯崎新『偶有性操縦法』青土社2016

磯崎先生より賜りました。御礼申し上げます。

しばらく大学を留守にしていたので、一週間ちかく遅れて手にした。

ザハ・ハディド追悼文も事前にメールでいただいた。勉強させていただいたが、あまり即座に反応するのもためらわれた。ただ、オリンピック誘致のためにおおいに活用したが、環境問題・建設費問題のためにリジェクトし、ということは手続き的にはどうかしらないが、その後の配慮がなさすぎるようである。国家として個人の名誉というものに無配慮だし、こういう国だから建築や建築家の価値も認識されないのだという永遠の嘆きとなってしまう。ザハ建築がとくに好みではないぼくですら、そう感じる。

いくつかの経路が交差しつつ展開する、そのような語りの文献である。

ひとつは丹下健三と梁思成とのパラレル。日本的と中国的が同時代に探求されたという説明。ただし日本はネーション=ステーツのふりをしていられるが、中国は帝国的であらざるをえないので、中国的という問いには、日本的文脈にはない困難が伴うと考えられる。

廃墟論のながれで、瓜生島、ヒロシマ、フクシマが語られる。これは最後の空地論までの伏線になっている。

さらに岡本太郎という軸線であり、バタイユ、ドニ・オリエの系譜の前衛思想である。これは「反建築」という批評軸となって貫通している。

主題は偶有性や冗長性などであり、談合システムと外圧の葛藤として日本という悪い場所が語られるのだが、近代職能問題をベタに論じる場でもないようである。ただ、職能や社会機構についての懸案もあるが、ル・コルビュジエとボザールの葛藤のようなことも遠い背景にはあるのであろうが、個人的には、同職組合的ないわゆる建築界としての一体性を実態ベースで検討したいとも考える(が大問題でもある)。

終章の『「空地」が生まれた』はやや唐突な幕引きではあるが、さまざまなことが合流し、そこからいくつかの方向へ流出する概念であろう。間(ま)や、空白としての広場(つくばセンタービル)、コーン(チームディズニービル)なのであろう。手前味噌だが、ぼくがatプラス25に書いた「聖なる空虚」論(いってみれば「磯崎先生に提出した宿題レポート」のようなものだが)の立場からすれば、たいへんごもっともだというべきであろう。

PP.210-211の見開きに、皇居前広場と神宮外苑の「空地」を結ぶ経路が描かれている。聖なる空虚と、御嶽に見立てた空地が、結ばれる。東京都心の緑地ネットワークを前景化したプロジェクトそのものはよくある。しかしこの空地ネットワークはまた別のものを考えさせる。皇居前広場は、国民がその身体をかけて社会構築を問うてきた歴史的空間であったとしたら、神宮外苑は伝統的にスポーツ施設がおおく建設された、身体性の都市空間であったといえる。祝祭、デモ、云々が都市空間から排斥されたのが70年代以降であったとすれば、このサーキットは、都市空間における国民の身体性を回復させるものかもしれない。

ただ時世との関連でいえば「空地」と「マイナス金利」は、素朴表象的にも、つよく関連しているという直感をいだく。素人がいうことでもないかもしれないが、利子のもつ神学的意味、資本制誕生との関連は、専門家たちが繰り返し指摘しているし、マイナス金利の経済論的、神学的な意味はこれから彼らが説明してくれるであろうから、注目すべきである。それはプロジェクトの意味を再考させるであろう。投資がかならずしも未来を築くわけではないという構図はすでに描かれてはいるようであり、それが再確認されるかもしれない。

内苑/外苑の諸研究からわかるように、国民からの寄付でなりたっていた場所である。そこにさらに国民の税金を投入することが予定されている。消費税問題はまだ決着しない。そのなかで日銀主導の別のかたちの税金と呼ばれているマイナス金利が導入される。「オモテナシ」は対外的アピールであったとともに、重層的課税についての国民懐柔であったことがわかる。そういう文脈で、投資効果は疑問視され、維持費不安もあれば、ここがしだいに歓迎される場所ではなくなっていきそうで、いやな予感ばかりが増幅される。

先日、初詣の専門家から、初詣の近代性と国民統合的意義について教えてもらったばかりである。神宮内苑/外苑においてケチをつけると、この国民統合にまでカゲを落としかねない。利子神学論の骨子は、時間はもともと神のもの、という考え方らしい。だから磯崎さんの空地論は、いちど神に戻す、という発想に還元されるのであろう。さなざまな祝祭の形態については、ぼくは無知であり、おまかせするしかない。しかし反建築による建築がなりたつとすれば、神にもどす、近代性の外に立ちうるという妄想、しかない。しかもこの発想は、いくどか繰り返されたもので、取扱注意である。

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