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2016年2月の3件の記事

2016.02.29

國學院大學たまプラーザキャンパスにて

『明治神宮以前・以後』書評をテーマとする研究会があった。ぼくはゲストコメンテーターのような立場で、招待していただいた。専門家だけの集まりだと煮つまってしまうので、ぼくのような門外漢は必要であったらしい。

アウェイというか他流試合というか、おたがいにリテラシーがわからない。そこでぼくとしては西洋建築史の立場から、もっぱら比較文化論としてのみ語るが、非礼にならない範囲で率直にものもうす、いいかえると読書しながらわきおこる妄想をそのまま書き連ねてゆくこととした。その書評に対し、10人以上いらっしゃる執筆者の方々から応答があった。

神道学研究者にたいしては、19世紀フランスの宗教的状況を漠然と申し上げた。国家神道批判への再批判はたしかに一理はあると思いつつも、こちらには総論を述べる力はなく、地域祭など地域コミュニティの核としての宗教というとらえかたをすると、東西比較はもっとやりやすいと述べたが、それへの反応は明確ではなかったが否定的でもなかった。

造園学専門家の方々へは、日本の造園学が分野的な自己アピールとしての、たとえば日本近代造園史みたいなものを書かないので、素人は学習できなくて困ると申し上げると、それはそのとおりというご反応であった。さらに上田篤の鎮守の森論などは、近代的観念構築ではないか、初期造園学者たちはドイツ林学を経由してドイツロマン派思想を受け継いでいたなどの憶測については、間違いではないというご反応。

などなどであるが、建築を代表する立場の青井さんと話し合っては、明治神宮は基本的には財界・実業界のプロジェクトである、神社建築のテクノクラート化、標準化については、いわば神社建築を科学化することでその他もろもろのビルディングタイプと同列のものにしてしまうことで、大量生産に応えた。しかしそれゆえに「神聖さ」を放棄してしまった。ということでほぼ合意。

結局、明治神宮は、建築はその「神聖さ」を放棄して、新たな担い手である鎮守の森にまったくゆだねてしまう、その神聖さの委譲のプロセスであったという、これもまさにぼくの妄想の極み。その延長線上に、神社を常設建築から、仮設、自然そのもの、へと還元してゆくこれまた近代に構築された建築起源論的思考、さらには鎮守の森こそが神聖さを担保するというこれまた近代特有の観念構築である、などと妄想全開すれば、ほぼ構図はできあがったというべきである。

すると丹下健三の伊勢モデルとは、ふたたび神聖さを建築に取り戻そうとする反動であった、などということになる。なんとも因果な日本近代である。

ただ明治神宮的なものが、日本の現代建築の遺伝子となって、敗者、負ける、非大陸的、非構築的、などといった枕詞になってあらわれてきた、などということもできる。などと反省すると、太田博太郎がなぜかこうした近代建築的な美学にもとづいて、日本建築の通史を語ろうとした、その構図を崩せるのかもしれない。それこそ通奏低音のようにつづく日本(建築)思想というものであろう。

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2016.02.21

石山寺多宝塔

恒例の関西古建築見学授業、今年は大報恩寺、北野天満宮、石山寺などであった。個人的な趣味としては、建築はすでに古代において完成していたとするので、いかに中世もゴシックがあったではないか、東大寺南大門はすごいのではないか、といわれても、この偏見はゆらがない。ただすこしは丸くなったのか、中世は作り手の指向性がすこしずつうかがえるので、それを察知するのは楽しい。

石山寺多宝塔は、先学たちがかならず言及するので、一度は見ておかねばと思いつつ見なかったものなので、よかった。円と正方形を組み合わせるのは幾何学的にも困難課題なのだが、ここではみごとに解かれている。さらに、大地に堆積しようとするもっこりしたストゥーパ状ボリュームと、飛翔せんとする鳥の羽のように反りかえる2層目の軒先の対比はみごとである。美意識によりみちびかれた造形である。それは生命感、肉感、躍動というより、観念、知的高み、瞑想を示している。

学生のひとりがニコンDfをもっていたので感激する。ニコンF2を愛用していた学生時代の自分にダブらせたからである。

建築は、理詰めで解明するのであろうか、感情で受け止めるのであろうか。などと思案しつつ、移動のバスのなかで、京都とはまったく異なる『暁の寺』の同じ頁を繰り返す。

「塔の重層感、重複感は息苦しいほどであった。・・・・一層一層が幾重の夢、幾重の期待、幾重の祈りで押し潰されながら、なお累積し累積して、空へ向って躙り寄って成した極彩色の塔。・・・・・・
  この塔は永きに亘って、色彩を以ってする暁鐘の役割を果たして来たのだった。鳴りひびいて暁に応える色彩。それは暁と同等の力、同等の重み、同等の破裂感を持つように造られたのだった。」(三島由紀夫『暁の寺』新潮文庫、p.19)

このわざとらしいあつくるしさを自虐的に浴びながら、むしろ木々のなかに潜もうとする現前の古寺を拝見するのである。

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2016.02.13

卒業設計ジュリイ

季節である。

去年から海外の大学教員を招待するようになった。去年は台湾の先生方がいらっしゃった。今年は、台湾、バングラデシュ、フランスの先生方、総勢7名ほどいらっしゃって、コメントや講評もしていただき、おおいに盛り上がった。

ぼくはたまたま学科長をおおせつかっているので、講評者としてのみならず、ホストとしての強い自覚ももたねばとおもい、がんばってつとめたものである。

それにしても。

わが学科は、建築新人戦で、いちどに最優秀賞、優秀賞2点の計3点も入選したり、卒計日本一で日本一も日本二も獲得したことがあり、卒計ではそこそこ活躍している。でも、過去も今年も、ジュリイでの質疑応答はまったくなっていない。出発点はどれも面白いのだが、広げてもいないし、深めてもいない。一発芸的には魅せるものもあり、こういうものは、講評者が思い入れでみるので、高い評価が与えられる。しかし減点法で採点すると、ほとんどは落第である。それでも全国大会で頑張れるのは、講評のフィードバックなのか、卒計後のがんばりなのか、よくわからないが、そうであれば、このジュリイではもっときびしく指導するのが、学生本人のためというものであろう。

発表会後の懇親会で学科OBに話しかけられる。この学科のOBはだれも母校愛が強い。強すぎるというべきであろう。しかし20数年前に着任したときから気づいていたことだが、この学科の、自己認識、自己評価、自己認定にはかなりかたよりがあり、それがあるので21世紀の世界において学科はどのような立ち振る舞いをすべきか、正しい判断がなされているとはとても思えない。大学が最先端なのか、社会がそうなのか、じつは判断はむつかしい。社会のひとびとが、今の大学が遅れているというのは、じつは自身の数十年前の体験によって判断していることがおおい。こちらからみると、社会は、大学認識という点でじつに遅れている。今の学生たちの、資質、メンタリティ、指向などはまったく認識していないし、ましてや教員自身のこれからの可能性もまったく知らない。そのような相互不認識のなかで大学改革などの対話が進められても、ぼくにとっては徒労である。

戦前、大学の建築学科など、東京と関西くらいにしかなかった。戦後、新制大学になってから、地方大学にも建築学科はできた。その新制建築学科のカリキュラムは、戦前にすでに確立されていた、高専など中等教育のための標準カリキュラムであった。いまの日本の建築教育体制は半世紀をちょっと過ぎたにすぎないが、カリキュラムそのものは1世紀である。これがただちに悪いこととはいえないが、今の建築学科のありようを判断するときのある基準にはなるのであろう。

もうひとつは、大学改革はいいとしても、すくなくとも建築系は、これから構築すべき未来や世界についてのあるていどのイメージをもち、それを目指すような姿勢が必要である。かつて日本の津々浦々?に建築学科ができた50年ほどまえには、いまからすれば反省すべき点は多いとはいえ、日本全土がバランスよく近代化されるであろう、というビジョンがあったのである。しかし代替ビジョンはどうもない。経済や環境についての危機意識からも再考すべきとはいえ、具体的な人があらわれそのように再考するとき、結局、自身の過去の成功体験しかあてにしていないようである。成功体験はよい。しかしそれは過去なのである。未来はどこにあるのであろうか。人間は、40歳もすぎれば、自分の成功体験など若い人にはなんの意味もないということに気づくべきである。ましてや教育者なら。

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