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2015年11月の9件の記事

2015.11.28

『明治神宮以前・以後』の書評

話題の文献である。某学会誌にその書評が掲載されていたので一読してみた。ぼくは厳密には専門外だが、妄想は与えてくれる。

神社建築様式と、社叢、都市計画的位置づけという大きな近代化の文脈では、明治神宮が画期をなすという流れで書かれており、また神宮の内苑・外苑という構成はそもそも宮城のそれに由来するなど、話題となっている外苑プロジェクトにもつながる重要な指摘がなされているそうである。

評者もまた明治神宮にかんする大著を刊行した学者であり、であるので、明治神宮を神社の歴史においてどこまで画期的かどうかについては、慎重な態度を示しているし、慎重であらねばならないという指摘をしている。

おそらく、論文集である本書は、リーダーである研究者がざまざまな研究者に呼びかけてとりまとめたものであるが、明治神宮決定論に同調する執筆者たちと、執筆はするが決定論には積極的に賛同できない執筆者たちの二派にわかれるということであろう。

特段の意見をもたない門外漢としては、そのような視点の多様性という前提で、読み解くことがよさそうである。

ぼくなりの興味を追記すると、日本の宗教政策は、政教分離など西洋からの圧力の結果であると漠然と思われているが、どうもそれは一方方向の過剰適応かもしれなくて、西洋近代こそその内部で、政治と教会、宗教と社会の葛藤があったのだから、真の比較はそのような葛藤と葛藤の比較であって、西洋モデルなどというものは日本的妄想であったと思ったほうがいい。このことは、どの宗派にどの建築様式がいちばんふさわしいということを、誰が、あるいはどの組織が決めるのかというようなことに近代性の足場があり、それがどうもきわめて多様なような気がする。

建築など空間にかんする研究については、本書でしめされたような研究水準、アーカイブ、方法論は、どの国でも適応可能であろうし、この水準で普遍化でき、その先には21世紀における宗教と建築の関係性というような大問題を論じることができるようになるかもしれない。

とはいえとりあえず目を通すべき文献かな?

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2015.11.22

「生活」は2020年を超えるか?

「カルチャー・ヴィジョン・ジャパン」なるものを拝聴した。建築系の講演会とはやや雰囲気が違ったが、社会勉強というものである。この歳になっていうのもなんだが、大人の世界であった。講演では、皇居前広場プロジェクトについて、趣旨説明、建築やアートの提言があった。垂直に点から降臨するモニュメントではなく、粒子化されたものの濃度がテーマになるアートは、ぼくが予想する粒子化、流動化の方向性とはパラレルであろう。まためぐりめぐって地方都市のまちおこしプロジェクトとも本質的に関係が深いであろう。政府もいろいろな方策を考えているそうである。2020年までがチャンスだ、と多くの自治体や地域が考えているからである。

ということで11月は日頃なじみのないものに首をつっこんでみたが、同時代に進行していることたちは、なんらかの関連がある。「生活」ではないか、という仮説のもとに、整理してみる。

11月13日パリのテロは、スポーツ観戦、コンサート、グルメといったものに代表される生活への攻撃であった(1月のテロは市民的公共圏へのそれであった)。ヨーロッパ圏内で生活が成り立たない市民が過激化し、中東を経由して、凶暴化して回帰し、確立された生活を標的にする、非対称な国際関係における非対称な復讐という様相を呈している。

これを俯瞰するに、20世紀が市民的生活を普遍化しようとしたのにたいし、新自由主義経済とグローバル化は、この平等主義を否定したが、ここで周辺化された人びとのなかからそこで確立された「生活」を破壊しようとする者があらわれたのである。

背景はずいぶん違うが、2011年の大地震は、生活そのものを長期に広範囲に破壊したという点で、危機的なのである。

フランスでは、革命いらいの社会構築のプロセスにおいて、新たな公共圏とそこでの市民的生活を創出するのに、長期間を要したが、それが都市文化となって、今日では文化全般の展開やツーリズムの対象にまでなっている。日本では、伝統的な生活の美学があり、なおかつ近代化のプロセスのなかでも、生活を向上させることが、国力状況につながるという総力戦的発想、さらには文明論的に価値あるという発想が生まれ、政策や市民運動にまでなった。

それとは次元が違うのだが、成都近郊の戦争博物館の館長が、日本兵の手記、日記、手紙などを収集し、そこに記述された、市民的な生活への復帰の願望に感心するとか、アメリカ人の日本文学研究者が、やはり日本兵の日記に感銘したり、谷崎潤一郎が戦争中に書いた『細雪』『疎開日記』のなかに日本の美しい伝統的生活様式が執拗に描かれていることなどは、困難な状況のなかで破壊されてゆく「生活」の懸命の理想化なのであろう。「生活」とは、現実的で些細なことのようでいて、じつは形而上学的ですらあり、大きな理念を表しており、ときにはメタフォリカルでさえある、とも考えられる。とくに日本は、それこそ古代文学から「日記」が重要な位置を占めており、たんに即物的な衣食住に還元されえない、それら以上のものでもある、人間存在のあらわれの形式としての「生活」というものを前提にすえると、ばらばらにみえたものが、まとまってゆくようでもある。

成長の限界、やがては人類人口の減少ということが予想されている21世紀の地球は、コンパクト化することで調和がとれるなどと楽観視はできないわけで、成長により生活が安定するという処方箋にはもう頼れないという、きわめて困難な状況をもたらす、ということが論理的にいえる。

そういうことを考えれば話題になっている皇居前広場プロジェクトにも方向性が与えられるかもしれない。つまり関東大震災のあと多くの人々が避難してきたとき、そこは生活再建の出発点となっていたわけだ。するとこんどは2020年、地球規模の困難のなかで、新しい社会、新しい生活のなにがしかを、示す、一方向ではなく、多方向、相互方向的に示す、などが考えられる。そういう意味では、群魚、群鳥のアート化なども、あらたに再構築されるべき社会とそこでの人間の生活のメタファーとなるであろうし、強いモニュメントを置くのではなく、少しずつ性格の異なる領域に分節化するという建築家案も、可能性に富んだものになるであろう。それはひとつの社会モデルのメタファーになりうる。

いずれにせよ、高齢化、人口動態、雇用、総生産などというのは指標たちであり、指標のひとつひとつに対応することは、切実だが、全体的な展望は生み出さない。そうした指標群によって浮かび上がってくるのはじつは「生活」であって、このしみったれた印象をあたえる言葉もまた、21世紀に再生させなければならないかもしれない。

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2015.11.19

「生活」思想

某学会では「生活」概念が、政策や文化運動のコアとなって、戦前戦後を一貫していたということが論じられていた。

建築にとっては生活改善同盟によりイス式生活や家族生活中心主義がもたらされ、近代住宅が形成される一助となったことが、教科書的知識として知られている。しかし建築が知っているのは近代におけるその「生活」パラダイムの一部であって、もっと広がりがあったようである。

まずアジア各国との比較がなされた。中国では蒋介石が、日本留学時代に近代的に規律正しい軍隊生活の体験から、日本に対抗する意味でも、国策としての新生活運動を展開したが、ほとんど成果はなかったこと、が紹介された。朝鮮半島あるいは韓国では、日本の政策をある面では継承した生活運動がなされたが、上からの改革ではあったが、貢献した点がなかったわけではないことが、報告された。

日本的文脈で興味深いのは、建築系が重要視する生活改善運動は文部省系の運動であったが、それとは別に、内務省系の地方改善運動、民力滋養運動、国民更生運動などがあったこと、などが重要ポイントである。政府系の運動は、やはり総力戦体制論に近くて、国力の根源を国民の生活にもとめるという発想であるようだ。しかし民間の生活運動では、さらに先が読まれていて、敗戦であろうと生活を軸にして国民の人間力を向上させるという発想が、「貫戦史的に」あったようで、戦前戦後の連続という発想をさらに乗り越えようとしている。

建築学においては「生活と空間の一致」などということがパラダイムになるし、重要な概念なのではあるが、しかし「生活」概念の考古学、その批判的な歴史的解釈はなされなかったという点で、建築系も自問自答してもいいかもしれない。たとえば;

・西洋史でならたとえば「文明史」的な観点であろう。たとえば住宅をとおして、近代的生活と価値観を教えるというようなことが住宅史ではあったが、それは生活=生活様式=文明、という発想があるからである。

・日本の生活改善運動は、西洋化と同義であると考えられがちだが、そうではなく、むしろ日本の固有性を確立しようという方向性であった。ただ、民族運動というより、国民運動であったといえるであろう。たとえば日本が個人主義、個の確立という点でコンプレクスを表明したことがあるが、しかし、生活という点で、自律的な価値観を確立しようとしたと考えられる。

・「哲学」や「建築」が西洋概念を、日本人が、漢語に翻訳したものであった。しかし「生活」は、事情が違うのではないか。たとえば20世紀初頭に近代都市計画学が誕生したとき、たとえばドイツではLeben(生=生命=生活)という大きく多義的な概念がKWとなった。しかし日本語の「生活」は、もちろんLifeの訳語ではあるが、しかしそこまでの広さはない。だからなにか西洋概念の直訳ではなく、日本特有の文脈がありそうである。それがなにか、が重要であろう。

・生活運動は一種の社会運動でもあったので、政策ということで、国家や政府とも連動している。もちろん市民運動としても成り立っていた。そこで日本で生活運動が成立していたのは、国家と社会がほどよい距離にある、すなわち国家は政策として生活に介入しうる、また社会も自律的に生活様式を展開できるという、バランスのよい状況にあったからであろう。中国では、蒋介石の生活運動は、国民からまったく無視されたのは、結局、国家と社会がかなり乖離しているからである。

以上から、21世紀の「生活」とはなにか、資本主義社会のなかで「消費」概念が支配的になる時代に「生活」概念はまだ有効なのか、建築系としてそこをまだまだ重視するかどうか、するとしたらどういう生活像をもつべきか、などが問われてもよいであろう。

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2015.11.18

歴史空間学

先週、某学会で歴史空間学なるものをすえたシンポジウムを拝聴してきた。

概念そのものが特別新しいわけではない。歴史は時間軸であり、たとえば地理学は空間軸であるが、それらの相関、たとえば歴史地図のようなものはみればわくわくするし、地政学などというものも政治が展開する時空を想定しており、そこでは時間軸と空間軸は相関している。

それもあるが、今日、歴史空間が注目されるのは、航空考古学や宇宙考古学など高度なIT技術を活用した新しい認識がもたらされ、それが一種の文理融合的であるとともに、ビッグデータが空間にプロットされたデータスケープが、時間軸にそってどう展開するかが可視化され、そこに新しい問題の発見がありうるからである。

もともと文献・史料が中心であった歴史学がそのような空間の発見をしつつある、すくなくとも西洋では格段に展開しており、日本としても遅れをとってはならじ、というようなことらしい。

建築学や都市学にとってはむしろデータスケープ的な発想はすでにあるし、なじみやすい方法論である。ぼくたちの建築や都市の論考が、そのような高度な次元で、自然科学や人文諸科学と出会うべきなのであろう。これはぼくよいうより、もっと若い世代の研究者たちの課題であるにはしても。

そしてその「空間」というのが、ひとつの層ではなく、おおくのレイヤーが積層するデータ空間であり、その4次元空間(空間的3次元と時間的1次元)のなかで、どの層とどの層がつよく相関しているか、という思考図式が根底的なものとなって、それがさまざまな学問分野のこれまでのパラダイムとも関連して、意味をもち、新しい課題設定をもたらすであろう。かつて都市地理学はそのようなことをプリミティブな次元でやっていたが、今ではそこで積層されるレイヤーが、きわめて多様で創造的なものになっているし、ますますそうなるであろう、という印象である。そういうものの延長に、都市学、アーバンスタディが構想されるであろう。しかもそれぞれの都市が、自分自身についてのアーバンスタディをもち、その枠組みのなかで建築や文化遺産などが検討されるということになろう。

そこで課題となるのが、情報が生まれる、情報を生み出すための「指標」の設定というようなことであろう。ある指標を設定すれば、10年ほどの情報収集で、有益な結果はもたらされうる。さらに「指標」を創出するにはなが必要か、などと考えれば、それは根本的な建築論であり都市論であり、・・・と還元的に考えてゆけば、情報処理と本質論とは矛盾することなく相互依存的なのではあろう。

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2015.11.13

帝国の建築(中国ツアーの余談)

これまで中国には縁がなかったし、まさかこういうかたちで見学することは、しかし勉強になった。

中国側代表者たちとのディプロマティックな場での発言は、なかなか結論まで到達しないものではあるが、専門家たちのご意見も興味深かった。社会学の先生は、中国にはそもそも社会学者が対象化するような意味での「社会」はあるのか、というようなことを、オブラートに包んで質問していた。「単位」なるものは聞いてはいたし、日本的な意味でのコミュニティ運動、まちづくりも、北京あたりでようやくはじまった、などということは都市計画の専門家が指摘していたことは知っている。それにしても社会そのものは課題である。

政治学の先生は、歴史を認識しなければならないが、正しく認識しなければならないと指摘していたが、中国側もその点は合意であった。

磯崎さんは、中国とどう対峙してきたかが、すこし垣間見えたのも、ぼくにとっての今回の成果であろうか。彼の交流はそうとう早くからあった。彼は、それと並行して、新古典主義、革命建築、あるいはファシズム建築や、ロシアアバンギャルド建築などを論考してきた。しかし、接続しようとおもえば一緒にできたことをたくさんかかえながら、性急にはひとまとめにはしなかったようである。いま取り組んでいる祝祭都市論などともテーマは関連しているが、関連はありそうで、中国はまた別のようでもある。中国を念頭において新古典主義的なものをやるのでもなく、新古典主義的なものを念頭において中国をやるのでもない。そういうのも彼らしい距離のとり方というものであろうと推測するのである。

ぼくが中国側にいったのは、20世紀初頭、日本人と中国人が、特有のナショナルな建築ではなく、普遍的な建築を研究したということ、それから、そののちそれぞれの国のナショナルな建築を目指したことの歴史的経緯ということ、であった。ただ「中国的なものはなにか」を問いたかったのだが、それは壮大なストーリーとなってしまうので、結論まで到達できなかった。結論としては、中国は中国的なものを探求して、グローバル化などもっと反省すべきなのだ、ということにしようと思った。

ただそこで考えると、日本が「日本的なもの」をそこそこ構築し得たのにたいし、中国は民族問題などもあって「中国的なもの」の論考は途中で頓挫したという印象である。

伊東忠太の建築進化論は、世界建築の構図としてはとくに間違ったことは書いていない。しかし支配/非支配の構図は単純化しすぎている。支配/非支配はもっと逆説的なものだ。古代ローマ帝国とギリシア建築の関係を思い出せばよいであろう。あるいはキリスト教とローマ帝国。サファヴィー朝。オスマン・トルコ。ムガール朝。そして清朝・・・云々。清朝はそれまでのものをより合理化し、大量生産向けにしたものだ。すると中華民国、中華人民共和国において中国的なものを確立する場合の、コアはじつはなかったのかもしれない。もちろん中国人研究者が指摘するように、多民族の民族性、社会主義、スターリン主義などを考慮しなければならないなかで、イデオロギー的コアを設置するのは困難であった。すると内発的な「中国的なもの」を探求するよりも、むしろ、普遍的な、それこそ新自由主義的なシステムに身をゆだねることこそ、大陸にふさわしいというようなことになってしまわないか?

古代ローマは、ギリシアを支配しつつ、建築などにおいてはむしろギリシア的なものを応用したにすぎなかった。ギリシア=芸術を、実用的に普遍化し、方法論化したのである。建築においてはむしろギリシアがローマを支配した。それが帝国の帝国たるゆえんであろう。だから国民国家がそれ自身の建築性をもち、アイデンティティの一助とするようなことは、帝国では成り立ち得ないのであろう。日本的想像力では大陸はわからない。たんにディテールの類似性をたよりにひとつの系譜を島から大陸へとたどるようなアプローチでは、まったく不十分なのであろう。

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2015.11.12

上海にて(11月7日~8日)

7日。朝の便で成都から上海へ。市内は霧でかすんでいるが、13年前もこんなふうであったことを思い出す。

昼食。上海の友好協会の人と挨拶。生まれも育ちも上海で、磯崎さんの上海パートナーである胡さん登場。今日一日案内していただくことになる。

里弄。復興路に胡さんの友人が住んでいたので、そのつてで、室内まで見ることができた。しっかりリノベして快適そう。ここの里弄は1920年前後の建設。近代住宅の歩みとして、ヨーロッパあたりの集合住宅と遜色ないどころか、同時代の日本が郊外戸建て住宅をめざしていた同時期に、ここでは都市型連続住宅にとりくんでいたわけである。当時としては、どこが最先端かわからないほど、実験のるつぼなのであったし、このまま続いていたらおそらく中国型の20世紀都市を構築していたであろう。しかし戦争と、中華人民共和国の成立。戸建ての屋敷にも、多くの人間を収容させた。それらはかえって住環境を悪化させたようである。それを思うと、西洋では諸実験のなかから、衛生設備の充実、核家族化、個人生活化という強い方向性にすすんだ。もし上海が、大都市的枠組みでそのまま進めばそうなっていたであろう。しかし政策的にしかたなかったであろうとはいえ、過密化したことが、建築遺産の継承を難しくさせてしまったようである。

団地。70年代のもの。これは日本にあるものの延長で想像できるたぐいのもの。ただしエレベーターなしは、日本では5階までだが、ここは6階まで。しかし敷地内に、小売り店舗や、生鮮食料品のマーケットがあり、活気がある。日本の団地は、居住以外の機能と組み合わせることに失敗したことは明らか、という感想をいだく。

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上海オーケストラ・コンサートホール。磯崎さんが得意満面であったのが印象的。かなり完成度は高いと思われる建築である。ぼく自身は手をうってみて「いい残響だ」などといえるほどの目利き(耳利き?)ではないのだが、音響、スケールの分節、素材、機材の隠蔽、などが円熟、洗練・・・などと連想させる。観客、聴衆にとってだけではなく、演奏者たちにたいへんよく配慮されている。プランはリニア軸の左右に機能を配置するやりかたで、前身の大分県立図書館を彷彿させる。

夕食。中国日本友好協会の副秘書長の程さんは語る。北京市の中央官庁移転プロジェクト、梁思成への共感、ワシントンDCのマヤ・リンなど。そういえば車中で梁思成が話題になったとき、梁とマヤ・リンは親戚であった。ワシントンDCのベトナム戦争メモリアルなどについて、程さんとぼくと意見が一致した。程さんはいいひとである。

8日、朝。1時間だけ町歩きする。里弄はけっこう残っている。それは20世紀初頭の連続住宅と、あたらしい商業ビルはけっこううまく共生している。

上海から東京までの空路はあっという間。羽田空港でほかの団員の先生方とお別れの挨拶をする。国内線にのりつぎ、帰宅したころには、夜も更けていた。濃い体験をさせていただき、感謝。

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2015.11.11

成都にて(11月5日~6日)

5日。5時起きはちとつらいなあと思いつつ、飛行機のなかで睡眠とれるから、まあだいじょうぶ。

成都では、国際交流部の伊さんが出迎え。四川省旅行社通訳の練さん、日本語上手すぎ。北京からそうなのだが、マイクロバスをチャーターし、案内していただけるので、楽である。ただそのぶん、効率的で密度は濃い。

「劉氏荘園博物館」では、遠目には教会にように見える駅舎が面白い。鉄道まで施設する。大土地所有者の地域振興=地域支配の構想力のようなものがうかがわれる。劉一族がいかに農民を苦しめたかの展示がすごい。「収租院」という税務署のようなものがあり、その担当者たちが農民をしぼれるだけしぼったのであるが、それをリアルな彫刻で、物語化したもの。1960年代に地元美大の先生と学生が制作。ヴェネツィア・ビエンナーレかなにかで国際的に評価されたらしい。60年代はラディカリズムの時代であり、制作年代は文革の直前なのだから、こういう抑圧と反抗というストレートな物語性をもった彫刻群となったのであろう。それにしても芸術に昇華するというより、直訳的である。

「建川博物館集落」とは、地元不動産会社パトロンの富豪が整備した、博物館パーク。テーマの違う博物館が数十あり、だから「集落」。日本流にいうと博物館「団地」であろう。そこの「中国壮士彫刻群」と、「日軍侵華罪行館」を見学した。後者はいわゆる戦争ミュージアムであり、日本軍の罪行が展示されている。兵士の遺品や手記や手紙などを丹念に収集したもので、個々の事実指摘には誤りもあるが、全体としては趣旨どおりか。入口出口は最終的に逆転したようだ。入口の中庭というか前庭には、日本人兵士の鉄兜が規則正しくずらりと並べられているのが圧巻。この場合、鉄兜は、かつて存在した兵士たちの、痕跡、輪郭、ぬけ殻、云々なのであり、その不在のありかたが過去へのイマジネーションをいざなう。ある種の不気味さを感じさせながら、重厚でもある。具体的素材を使いながら、観念的、象徴的である。出口では、帰国する日軍兵士たちと中国人たちが、それぞれの場所にもどる光景が、彫刻群として描かれる。物語的である。館長が、日本兵士の日記や手紙を収集しているお話をうかがう。

21時に錦江賓館にチェックイン。

6日。昼も夜も中華料理で飽食するので、このあたりから、朝は部屋に準備されているお茶とスナックで済ますようになる。

まず「都江堰」へ。ここには紀元前3世紀の治水事業を見学する。これは水流豊かな川に、支流を建設し、肥沃だが水資源のすくない広大な土地に水を導くことで、広大な地域の農地を整備しようというもの。季節により本流の水量は増減するが、それにあわせて、建設した支流の水量も調整できるようになっている。また土砂の堆積量もなるだけ軽減するような工夫、それでも浚渫する場合の手段など、重機のない時代のほうが、合理的にできている。この人工的に構築された水系にしたがって行政区域が定められたのであろうと推測する。

観光でもうけている小規模な都市というイメージであり、さすがに成都のような超高層はないものの、そこそこ大規模なビルはたっている。そうしたビルの、木製窓格子などには、おそらくここで伝統的な木造建築のディテールが継承されているような印象であり、建物のたたずまいはなかなかよろしい。

マイクロバスで「三星堆」へ。ここでは、20年ほどまえに発見された、5000年前の謎の文明にかんする博物館パークを見学した。ここは青銅による、さまざまなサイズのマスクが有名である。あるものは目が突出し、耳がやけに大きい。よく見える、よく聞こえる、ということは王であり神官であるような支配者のエンブレムなのであろうか。人がかぶるには大きすぎ、重すぎるので、木の円柱の上部飾りではないか、などと憶測が憶測をよぶ。個人的には、円柱型に大胆にとびだした目のある彫刻は、たいへん興味があり、これは人間の視覚のありかたそのものを意味しているのではないかと考えている。かつてメディア論やカメラオブスクラ、はたまたアナモルフォーシスが流行っていたころの問題群と連動しているのは明らかなようにも思えた。いつか話す機会があるかなあ。

ところでレリーフ状の地域模型を帰りしなに再確認する。すると川と、まっすぐな線分的に延びている土塁あるいは旧城壁(確認したが、現存するそうである)にかこまれた四角いエリアがはっきり読み取れる。こんなの航空考古学などと大騒ぎしなくとも、シンプルな地図を描いてみるだけで、そこが遺跡であったことなど、もっと単純にわかりそうなものじゃないか。およそ遺跡のあるいは歴史上の「発見」などというものは、すべて疑ってかかるべきで、じつは専門家たちはずっとまえから気がついていたんじゃないか、などと、ぼくは爆発寸前になる。まわりは偉い学者たちがいたので、すこしほのめかすていどに、とどめてやった。これもそれも、中国は奥が深いということなのであろう。

夜は四川名物の川劇を鑑賞する。これはマスクを瞬時に交換する、それも次々と交換し、みている者にはそのタネもまったくわからない、国家機密的な芸能である。音楽がなんどもやってくるクライマックスを盛り上げ、役者たちは見得を切る。すごい。「三星堆」でみた青銅マスクをも思い出しながら、マスクの意味を考察しつつも、まとまらず。またいつか考えてみよう。

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2015.11.10

北京にて(11月3日~4日)

北京で建築見学した。

ホテルは天安門広場や王府井のすぐ近くであった。

紫禁城はツーリストでいっぱいであった。とくにいうことはないが、いちどは見るべきということで。建築史の教科書では、清代には建築技術がより発展し、合理化され、大量生産が可能になったということが説明されている。つまり創造の緊張感なくどんどん建設できるようになったということ。こういう説明を読み取るときにはリテラシーがいるということである。

だから清代建築を西洋と比較すると、ビザンチン建築に相当するということも仮説としていえる。つまりギリシア、ローマ建築における、架構技術の発展、そこから様式の確立という、段階があった。様式がそこで完成された。それからさきはいわゆるデカダンスである。様式の起源である、架構、構築の記憶はなくなり、たんなるパターンとなり、グラフィックで表層的なものになってゆく。構築の表装化とでもいえようか。清代はそれである。(とはいえユスティニアヌス帝の時代はペンデンティブ・ドームという新機軸もあったのだが、それは古代ローマから引き継いだ様式とはうまく融合しなかったのではないか)。

夜は王府井の書店にゆく。建築コーナーは結構充実している。海外建築写真集、作家の作品集はかなり充実、さらに資格試験むけの各専門書も充実。ただその中間の、建築文化的なものは手薄な印象である。梁思成関係の文献も、あるにはあったが、ややさみしいかな。

ということでここで一泊。

翌朝、まず中央美術学院の美術館を参観した。地元産のスレート、鉄分がもたらす味のあるシミが印象的な、自由な曲面でゆるやかに覆われた空間であり、磯崎さんとしては北九州の図書館や奈良のコンサートホールの系統である。中央のスロープが全体をざっくり二分しており、いっぽうは吹き抜けの入口ホール、たほうは展示室である。磯崎さんの一面、西洋的なヒューマニズム、がよくでている。それから優秀な新しいキュレーターががんばっているということで、展示もよかった。文革賞賛の絵画は、そのサブカル的なタッチが、重いテーマをよみがえらせるための手法でもあるようである。

同学院の建築学科も拝見してきた。吹き抜けの製図室がよかった。

798美術街を参観。古い工場を改修したアート街で、中国的なまったり感と、アーティストの創造的熱気が不思議な融合をみせている。時間がないので、大展示ホールに古民家の構造だけを移築したものを、紹介されて見学。「貫」が特徴的。背の高い貫なのだが、上下に材を重ねた複合材である。上下に重ねただけでは強度不足なので、それらもまた垂直の貫で結合されている。つまり貫の貫という二重構造なのが面白い。中国建築はたいへんプラグマティックである。日本建築もそうではあるが、その実用性の現れ方はちがっていて、面白い。

中国国家博物館。旧博物館を増築したもので、その増築諸案の展示もあったが、選ばれたのはシュペアの息子であったという解説を、磯崎さんからうかがうのは面白い。長さ300メートルの入口ギャラリーは、なるほどブレのメトロポリス案にみられるような無限の彼方に展開する奥行きをあらわしている。乾隆帝南巡の展示を、オリジナル巻物とそれをCG復元したものと並行してやっていたのだが、さすがに壮大で圧倒的であった。帝国、新古典主義、無限性などというKWは、磯崎さんを刺激しつづけたものであるが、彼の建築ヒューマニズム的側面と同居しているという点が重要なのであろう。

そのあと天安門広場。ほかの団員は別の展示をみたりして、グループはばらけてきたのだが、磯崎さんと沈さんとぼくは、天安門広場へ向かう。広いので英雄記念塔の毛沢東がかいた碑文あたりを眺めるのであるが、磯崎さんからの解説は、天安門広場そのものの理解と、この建築家の理解、という二重の解読をしなければならないので、受け止めるのに時間がかかる。彼は、毛沢東の顔、碑文、遺体が一直線にならぶときの正面性の問題を論じた。ぼくとしては、さきほどの国博もそうなのだが、権力の表象としてある意味で抑圧的にして超越的な空間を望んだものであったが、現地に立って、やや拍子抜けである。人民大会堂はやけに優しい建築で、清代の建築が合理化の果てに建築としての根源的なパワーを失ってしまったことをそのまま引き継いでいるようにしか見えない。記念塔は広場の広大さにくらべて小さく、毛沢東の書を見るためには近寄らねばならないのだから、広さには対応していないようである。帰りしな、人々があつまっていたので、あれはなにかと沈さんにきくと、ポールに掲揚した国旗を下げる儀式がはじまるのだそうである。旅行ガイドに書いてあったなと思い出した。磯崎さんも見入っていたので、なにかアイディアを思いつかれたようである。そのほか、人民大会堂の建築家は早稲田大学に留学していたこととか、英雄塔は梁思成の一味がやったとか、過去にあったマスタープランのこととか、話題になる。

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2015.11.09

羽田空港にて

旅行はリアルタイムで報告してゆくと、日記にもなってよいのであろう。でも今回は毎日じっくり書く時間もなかったので、回顧録的に書いてみる。

国際線があさいち出発ということで、羽田空港で前泊であった。なるほどこういう状況では、空港と市内の往復などは意味がないし、ホテルをでればすぐチェックインというのは楽である。ホテルのチェックアウトから、飛行機のチェックインまで10分!はなかなか効率的でよろしい。睡眠時間もとれるし。

空港もひとつの都市のようなものだ。

しかし空港内ホテル前泊の体験のなかで、いちばん歩いたのが、エレベーターから部屋までである。おそらく200メートルはあったか?(気分ではこの距離、実際は100メートルもない?)。ひとつの都市と思えば、まあいいか。

同行者たちと話していて、もっと極端な逸話をおききすることになる。たとえば廊下の長さ500メートルとか。フライトそのものがキャンセルになりホテルのない空港内で一夜を明かしたとか。

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