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2015.04.03

『危機に際しての都市の衰退と再生に関する国際比較』

日本建築学会の特別研究委員会から標記報告書を送っていただきました。ありがとうございます。建築史が専門の、40歳以下の先生方の、協同研究の成果でもある。

311が自然災害であるにとどまらず、戦後のエネルギー政策やら覇権国家依存体質などレジームの危機でもあり、近代文明観の問題である。さらには地球がグローバル化するどころか多極化してゆくような先の読めない情勢のなかで、(これからの持ち時間が長い)若い方々が危機感をもつのは至極当然であり、率直に共感する。

とはいえ個々の人間(研究者)は、現在だけでなく、過去も未来も内包しつつ生きているのだから、抱え込んでいる時代性は世代により異なるので、年寄りが個人的な感想を述べるのも慎まなければならないが、その危機とやらを共有する不運もなくはないだろうから、以下は読者としての妄想である。

報告書は、それぞれの専門分野ですでに第一人者的な研究者たちが書いているので、クオリティはもちろん高く、また隅々まで目をとおす余裕もない。ただ全体の組み立てかたとして、それぞれのフィールドで担当者がそれぞれの危機を抽出し、それらを総括して総論としている、という方法論は、読者としてあまり楽しめなかった。仮説としてのメタストーリーが弱いという印象である。たんなる比較論ではなく、都市危機とななにかを考え、そして再帰的に、危機を内包した都市論というものを構築すべきであろう。

なぜなら都市はきわめて人工的な構築物であるので、あるいは人工的であるほど、発展するほど、錯乱要因にたいして脆弱である。そして「危機」のあらわれかたは、自然的(災害)、ヒューマンエゴ(戦争)、ヒューマンエラー(火災)などもろもろが、都市にいかにインパクトを与えるかということなのだが、その効果あるいは影響は、錯乱要因いじょうにむしろ都市のあり方による。つまり「危機」をシステマティクに生産している構造というものがあり、それは都市の内在的な構造である。錯乱因子はそれをあらわにし、曝くものである。しかしより本質的なものは、曝かれるものの側にあり、それは「都市」そのものであろう。こう定式化される。そうするとまさに危機論は都市論のなかに内包される。

あくまでたとえばだが、ロンドン大火は17世紀後半だが、前後して、ヨーロッパのいくつかの中規模以上都市では市街地の半分以上を焼き尽くす大火があり、復興計画が策定されている。そこに構造的な関連はあるかないか。日本の明治維新、アメリカの南北戦争、フランスのパリ=コミューンは国家統合途中の内戦であったという点で共通しているが、都市論には反映されないかどうか。直近ではシャルリ=エブド事件は、文明の衝突(大)、公共圏への攻撃(中)、表現の自由(小)という危機の三層構造だと思うが、とくに中レベルではまさに都市の危機ではないか。地球レジームが、グローバル化、ブロック化などといったプロセスを繰り返し、それが都市に反映されることで、具体的な騒動が生産されるのではないか。などなど。

さらにいうと歴史上つねに人びとには「危機意識」があり、それが都市の建設や整備に反映されてきたのではないかという側面はもっと注目されていい。西洋だと黙示録イメージであり、強迫観念のようにつきまとっている(それを末法思想にまで展開しなくてもよいとは思うが)。ぼくの世代までは日本でも(フランスやロシアにような)革命が起こりうると実感していたような印象をもっているが、若手研究者によるこの報告書は、まさにそういう危機意識への回帰なのではないかという象徴的な意味があろう。そもそも近代都市計画のなかにも、戦争やら疫病やらへの対応は内包されており、人類はそれほど楽観的に生きてきたわけでもないという点を、再確認するのが昨今の状況というものであろう。

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