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2015年1月の4件の記事

2015.01.25

TANGE BY TANGE 1949-1959

『丹下健三から見た丹下健三』がギャラ間で開催されている。加藤敏子さんが提供した、丹下健三個人蔵の自撮り建築写真であり、それをコンタクトプリントしたものが展示される。

図録は豊川斎赫さんの編集である。アーカイブの物質性がよく伝わってくるだけでなく、テーマごとによく整理され、丹下の刊行論文と適切に配置されている。だから編集者の恣意性がほとんどないようだが、しかし丹下の撮影意図がよどみなく伝わってくる。

すでに公表されたものもごくまれにあるが、ほとんどは初公開である。しかもコンタクトプリント(むかしはベタ焼きといわなかったか?)であり、丹下がなにに注目して写真をとっていたかがよくわかる。

ある意味であたりまえだが、丹下は建築の全体像をシステマティックに撮影していたのではない。テーマを決めたうえでそうしている。たとえば桂離宮では、テクスチュア、開口(とその光)、石、といったぐあい。チャンディガール政治局では、妻側壁をすこしずつ角度を変えながら撮影しているが、そのとき絞りをも調整している。私見では、インドでは光がつよくすべてがハレーションをおこしているように感じることがある。そのハレーションそのものを記録しようとしたのではないかと思える。あるいは都庁舎ではバルコニーがさまざまな角度から撮影されているが、これはフランス語で言えばブリーズ・ソレイユにおける光と影のコントラストを記録しているような気がする。

もちろん桂離宮のファサードでは、屋根を排除して、構成そのものを撮影しているのではあるが。それは通説である。だからモダンである丹下、という岸田日出刀『過去の構成』的な説明である。しかし屋根を排除したことにより、じつは、地面がクローズアップされている。これが空撮で敷地全体をとることと相関しているかどうか、論考してみると面白い。

個人的に興味深いのは図録63頁の写真である。岡田信一郎の明治生命館が近景に、丹下の都庁舎が遠景に撮影されている。これも都庁に近い場所から、しだいに遠ざかり、皇居の緑のなかまでわけいるという30数枚におよぶ連続的な撮影となっている。古典主義とモダンの対比、あるいは内なる古典主義の気づき、あるいは古典とモダンが共同して都市空間を構成することに意識、がうかがえる。そういう意味では、トリミングするなら17-19あたりがベターなのだが。

さて建築家による自撮り建築写真は、なくはない。しかしそれらはプロの写真家への指示のためであったり、たんなる仕事上の記録であったりするのがほとんどである。しかしこの図録で驚くのは、自作への徹底した「視覚的執着」とでもいうべきものである。なぜフィルムの時代に都庁のブリーズソレイユを70枚も撮影しなければならなかったのか。それは丹下のなかに、なにか根源的な建築欲望があったからにほかならない。おなじ対象を角度や絞りをすこしづつ変えて撮影することは、だれでもあるが、そのとき、撮っても撮っても対象を獲得できないという焦燥を、たいがいのひとは経験したことがあるはずだ。それは視覚的な欲望、渇きとでもいえるものである。

さらにいえば、建築家自撮り写真における「視覚的執着」は、一般化すればどういう説明がふさわしいか。それは、自己を撮影する、自己を見る、自己を意識する、自己を志向するという、人間のありかたそのものである。メルロ=ポンティはそれを、人間は(自分の手や下半身を見るとき)視覚の主体であるとどうじにその客体であるというわかりやすい図式をだして、デカルト的な心身二元論を克服しようとした。

丹下の自撮り写真は、おそらくは本人は無自覚のまま、この構図をなぞっている。そしてそれはたんに自己愛などという低俗なものではない。建築自撮りは、そこに鏡像関係が内包されているがゆえに、ある普遍的な課題にわたしたちをいざなう。

じつはこれとふかく関連するテーマで、すでに原稿をしあげ、出版社にわたしてある。運がよければ12カ月以内に出版されるかもしれない。そうなればTANGE BY TANGEはぼくにとって運命の展覧会になるかもしれない。

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2015.01.24

プラトンの洞窟(東京カテドラル試論)

1月23日は出張にかこつけていろいろ観光した。

まず近現代建築資料館であるが、地下鉄からおりて湯島天満宮をながめながらアプローチするのが妙である。いわずもがな菊竹清訓展であるが、トレぺ図面、模型、スケッチ、動画など充実しており、これなら世界中どこに出しても恥ずかしくない。展示ホールそのものも広く立派である。それにしても菊竹の構想力の大きさである。福岡県久留米市の大地主の息子であった彼は、なんども洪水で住人宅が流されたつらい経験があって、それがピロティ形式へとつながっていったという。であれば海上都市もその延長であろう。そういえば大高正人も戦後農地改革で土地を接収された没落地主の子息であったということで、坂出人工土地はそのトラウマからきていることも、最近明らかになっている。すると日本の近代建築において、主役はやはり名士層なのであって、大衆やら庶民はやはりあくまで客体であって主体ではなかったという、あたりまえというか、当然予想されることが前提となる。ただそれにしてもほとんど妄想に近いような社会構築イメージの源泉は、もっと深そうである。

ぼくにとってはちょっとした建築センチメンタル・ジャーニーとなった。

それから東京カテドラルである。これも護国寺の近くにあり、お寺と教会、ちょうど聖橋の両端には仏教とロシア正教であるような、東京ならでは?の聖地のありようではある。この丹下健三の傑作のひとつは、学生時代いらいだから、なんと三〇数年ぶりということになる。しかし印象はいまでも鮮烈で、古さもまったく感じられないものである。日本近代における宗教建築という文脈にとうぜんのるのであるが、ケルン司教区の財政援助によるものであり、かつほぼ建設と同時代の、第二バチカン公会議におけるカトリックの新しい布教戦略を反映している。ステンドグラスはまったく抽象的であり、具象性はまったくない。十字架にはキリストの身体はあらわされていない。空間にヒエラルキーはなく全体は一体となっている。ゆいいつ、祭壇というか内陣?は、会衆席からはステップ数段ぶん、床が持ち上げられている。着座するとちょうど目線の高さが床レベルとなっている。そのくらいは意図して決めたのであろう。

結果的にそうなっただけなのだが、丹下健三は、ぼくにとっては建築をはじめる入口であった。最初に読んだ文献が彼のものであった。時代的にはコアシステムなどがまだ学生プロジェクトの模倣の対象でありえた最後の時期であった。やがて時代は、偉大なる丹下を仮想敵としてたてて、それを克服しようとする流れとなる。それはなかば明言されない、暗黙の構図であった。彼が亡くなり、そして一〇年がたつあいだに、多くの弟子たちが物語を再開してゆく。しかしそれでもなにか霞がかかったような光景に感じられるのは、彼があまりに偉大なので、評価軸とすべき近代なるもの、二〇世紀そのもの、も描けない。だから反映的に、丹下そのものも見えているのに、これだけデータがあるのに、描けないでいる。それはとてももどかしい。

予約した飛行機の時間がなければいつまでいたかわからない。それでも短い時間のなかで、ぼくは丹下と対話せしめられたようである。教会空間は、トップライトが十字型だというくらいで、とくに宗派の図像や形態には支配されていない、抽象的で普遍的なものである。構造専門家も考えた、力学的な合理性も支配的である。そういうなかではコンクリートの型枠の痕跡くらいが、建設のかけがいのない一回性を感じさせる。それは建築家の身体性のようなものまで妄想させる。ただここでは、そうではなく、丹下は、さまざまな課題を翻訳してゆくにとどまらず、いろいろなものを超越してゆく、その超越のありように本質があるとすれば、ぼくたちが見ることができる写真や、図面や、建築や、文章はすべて丹下の影なのだ。するとプラトンによる洞窟の比喩という構図のなかにぼくはいることになる。東京カテドラル、この天空からの光が降りてくるこの崇高な空間は、その光によって、むしろ丹下の影のなかにぼくを置いてしまうのであり、この教会の内部空間はイデアの影が投影される洞窟として作用しはじめる。あたかも罠にはまったことに気がついたように、洞窟に身をおいてしまった者に、次のミッションがかせられる。答えねばならない。丹下とはだれであったか?彼の建築はなんであったか?という問いに。

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2015.01.14

宗教的転回?

シャルリ・エブドへのテロ事件をみていると留学時代のことを思い出す。イラン=イラク戦争のさなかであり、フランス国内にまで革命派と旧体制派がいるという背景のなかで、親イラン派のテロリストがゴミ捨に、車中からなにくわぬ顔で爆弾をしかけ、たまたまそこにいた数人の市民が犠牲になった。それからいつどこで爆弾が破裂するかわからないという、緊迫した数週間であった。

ただ過去のテロは深刻とはいえ、今回ほどではなかった。すなわちいままでのパリ市内テロは、おもに国際問題がこの国際都市に投影されたのであり、遠因はイスラム革命かもしれないとはいえ、あくまで政治的なものであった。

今回の事件は、しかし、それとは比較にならないほど深刻なレベルに達している。それは政治や外交をとおりこして、社会のなりたちそのもの、国是の核心的な部分への攻撃であった。

もちろんフランス政府じしんも、これは宗教的問題ではなく、テロはテロという受け止め方である。だからこれを社会と宗教の対立としてうけとめると、それこそテロリストの術中にはまるし、フランス社会も分裂し不安定化するであろう。

そのことはじゅうぶん理解しながらも、表現の自由は問題のあらわれかたであり、問題の本質ではないと考えざるをえない。問題の本質は、まさに社会と宗教の関係、世俗と聖の関係なのであり、フランス社会のいちばんナイーブなところへのテロ行為であったと思わざるをえない。

フランスでのいわゆる「ライシテ」はそこ独自のもので、政教分離のようなものだが、すこししことなる。とはいえ、たとえばアメリカの信教の自由とは政治に拘束されずに自由に宗派を選べることであるのにたいし、フランスのそれは、政治がそして世俗社会が、宗教ではなくカトリック教会から自由であることを知っているわが同胞はいがいと少ないということである。そもそも政教分離とは、政治と宗教ではなく、政治と(カトリック)教会であったというフランスという国家と社会の成り立ちを知れば、今回の事件の深刻さも理解されようというものである。

すなわちフランス革命以降の動乱のなかで、国王と教会を排除して、いわゆる共和国を建設した。そのプロセスにおいて殺害されたパリ大司教はひとりではないのである。さらに国民教育から宗教を完全に排除したのが第三共和政であり、これも彼らの社会の宗教にたいする勝利であった。政教分離はそんな生やさしいものではなかった(日本は欧米をみならって政教分離としたので、内部混乱は小さくてすんだ)。

そういう背景があるので、個人的には支持しないが、かの新聞社が風刺的マンガをもって宗教的権威を攻撃するのは、おふざけでもなんでもなく、世俗が宗教を監視するのだという断固たる意思にもとづいている。血であがなって建設したこの世俗社会があるからだという意識がとうぜんあるであろう。

だからこれは表現の自由へのではなく、共和国への(内部からの?)テロなのである。

これは政治のことのようだが、建築のことでもある。つまり世俗社会とはなにかというと、「公共空間」のことでもあるからだ。フランスでは個人空間においてはどの宗派も選べるので、公共空間では自分の宗教はださないというのが国是である。日本もふくめ他の国はもちろん違うのだが、フランスはこのように公共性、公共空間のひとつの極として、公共的なものの普遍的理念を支えているように思われる。べつの言葉でいえばそれは「共和国」そのものといえる。公共空間とは、共和国理念の空間的表象であった、といえるかもしれない。脱君主的、脱宗教的で、民主的な社会という「共和国」が、まさにその「共和国」の理念のひとつである多宗教的、多民族的な融和という理想によって裏切られ、内部から攻撃されている(文明のうちなる衝突)。

しかし最近の宗教学が示すように、あるいは西洋の他の国々からするとフランスはすこし極端であるように、ハーバーマスが「ポスト世俗化」を指摘しやんわりとフランスを「政教分離主義者」と揶揄しているように、じつはフランスの「ライシテ」理念そのものも、潜在的な危機にひんしているともいえる。

そういう文脈でいえば、象徴的に腑分けすると、911は「覇権」と「経済」のなりたちへの攻撃、シャルリ・エブドは「社会」のなりたちへの攻撃であって、第三国の国民であるわたしたちをも震撼させる。短期的な衝撃はおさまっても、中長期的にはおおきな影響を与えるであろう。

建築や都市のことばでいえば、公共的なもの、公共空間なる理念は、今後も可能なのであろうかという不安である。21世紀、全体として、世俗的理念は退潮するのかもしれず、宗教的転回などがあっても不思議ではないが、よき未来といえるかどうか?

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2015.01.01

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