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2014年7月の2件の記事

2014.07.22

古谷誠章『建築家っておもしろい』

古谷さんから贈っていただきました。ありがとうございます。作品集もいただきましたが、感想文はまた後日。

建築家の半生記とプロジェクト顛末記をミックスしたような、読みやすい本である。学生との対話でおわっているので、表題どおり、学生にとって建築家=夢というイメージを与えるための読み物である。

このような趣旨の本で、300ページちかくある。ぼくが忙しい大建築家なら、直接ワープロでは書かずにだれかに口述筆記してもらって、あとから手を加えるような書き方をするであろう。というのは、彼はなかなかの語り部だからである。その語りのリズムや色がよく反映された読み物だと思う。

古谷さんとぼくはほぼ同期である。近年はほとんどお目にかかっていないが、何度かお目にかかったことはある。ある年「たまたま」アンパンマンムージアムの前を通りかかったら(ほんとうに「たまたま」だった)、別棟を建設していたのでなんだろうとのぞいてみたら、ヘルメットをかぶった古谷さんがいたので、こんにちわと挨拶した。忙しかったであろうに、ひととおり建物を説明してくれた。あとは講演会、シンポジウムかその類、その二次会などである。

建築史家として建築家と接しているときの興味は、この人はどんな類型になるとという点である。古谷さんはひところ複雑系やフラクタルについて語っていたが、すくなくとも本書ではふれていないし、作品集でも深くは言及してそうにない。理論の実現として建築を構想する、古典的な建築家とは違うようである。

そんなことを考えながら目をとおしていると、目の前の文章のリーディングと平行して、それとつかず離れず、もうひとつの妄想がぼくの頭のなかに生まれる(たびたびそういうことはある)。壁とタマゴ、ではなくて、大地とトラクター(クワでもいいのだが)。神的存在である建築家が建築をつくるということは、なにかトラクターで土地を耕す感じである。ほら、土地の可能性とか、いう人が18世紀にはいた。またぼくも建築とは、普遍的着地であるというメタファーを語ったことがあった。つまりアイディア、理論、形、建材、資金はどれも市場や、流通や、ネットワークのなかに流動している。それを編集し、固定するのが建築。なのだけれどこの着地理論はその後が描けない。すると「後」を生むためには、成長する植物のようなものに喩える。種蒔く人、耕す人は、建築家なのであろうか。

古谷さんの場合、大地=建築家なのであろう。建築家はいろいろなことを学び、体験し、鍛え、目撃することで栄養をたくわえた肥沃な大地となる。この大地は「方法論」を提供するのではなく(そういうこともするが)「可能性」をたくわえる。このときトラクターは、機械という本質からいって、まさに「メカニズム」「方法論」「思想」「技術」などである。近代の建築家たち性能のいいトラクターになろうとした。しかし機械は、生命をうんだり、成長させることはできない。しかし種子に生命のエネルギーを与えるのは大地である。

さらにえば大地=建築家、トラクター=個々のプロジェクト、と位置づけを逆転させてみても、建築世界は描けることがわかる。プロジェクトは栄養をたくわえた建築家を開花させる、あるいは建築家から開花させる、きっかけであり、手続きであろう。教授=建築家から優秀な次世代建築家がそだつのも、この図式で説明できる。

読者に妄想をいだかせるのはよい本だということである。

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2014.07.06

山本理顕『標準化=官僚制的管理空間』(個人と国家の<間>を設計せよ 第四章)

山本さんより『思想』7月号の記事が送られてきた。ありがとうございます。

2011年の都営住宅設計料ダンピング問題に端を発した、住宅供給における官僚機構の問題が批判されている。

今回はフーコー、アーレント、ベンヤミンらの理論を準拠として、近代住宅についての理解が、批判的に再構築されようとしている。それはこの主題に関する専門家による解説というレベルをこえて、建築家山本理顕の思想そのものの構築に向かっているかのようである。

おおきく簡略化していうと、労働/仕事、社会/世界という対立軸であり、山本さんは二元論のいずれにおいても後者を理想化すべしという主張をくりかえしている。

ぼくは近代の住宅とくに公的住宅(それに追随する商業化された住宅も)において、官僚機構における極端な普遍主義や標準化主義が、一時期は良い面もあったが、社会の実態が変化し、その当の官僚機構そのものも変化したにもかかわらず、いまだに残存していることは問題である、という主張にはほとんど異論はない。

ただ若干の概念規定にかんして、ぼくと違っている点を述べる。

まず「世界」概念はどうか。アーレントの「ポリス」概念そのものを批判するつもりはない。しかし近代ヨーロッパにおいて、アーレントのような高邁な思想家だけでなく、ごく平均的な市民レベルにおいても古代ギリシアの文化や社会のありようを理想化する傾向は19世紀初頭からあったのだが、彼らにとっても「ポリス」とはまさに「ユートピア」であり、つまり非=場所であり、no-whereであり、そんな場所などありえないことが、逆に批判的意味の源泉になっていたのではなかったか。そして社会/世界という構図のなかで、前者は現実、後者は「本来性」という含意があるのは明らかであると思われるが、もし「本来性」が語られずに意図されているとしたら、非場所が本来性の担保になりうるのだろうか、という素朴な疑問である。

それから「社会」の概念。もちろん公共サービスや、それをなりたたせている官僚機構などがこの「社会」なるものを成立させているという事実をもってすれば、社会をそのように批判的に位置付けることはできる。

しかしほぼ100年前、「社会」概念は、18世紀以前的な階級社会や、19世紀的な自由放任主義を克服する概念として期待されていたのではなかったか。日本の大正期において「文化」が期待概念であったと同じように、「社会」はまったく新しい切り口であったし、そこでは「市民」概念も19世紀ブルジョワ社会を超えたものとして更新されたと思う。そう一方的に批判されるべき対象として切り捨ててよいのだろうか。

話は飛躍するかもしれないが、田邊元の「種の論理」は、個と類、すなわち山本さんの論理によれば「個人と国家」に相当するものの中間に「種」を設定するものであったが、それは個人主義と全体主義の矛盾を克服するものとして「種」レベルを設定した。この「種」は、ある意味で、同時代に課題とされた「社会」に対応するものであったと同時に、今山本さんが設計しようとする「<間>」に相当するものである。ここではただちにそれらが「同じ」とはいわない。それぞれの論理が構造的に類似しているという関係にあるとき、「社会」「種」「間」は同じ位置を占めているということをいいたいのである。

そうでなければ、山本さんが批判する近代建築家は普遍的住宅を構想することで官僚主義に加担したとしても、彼らのなかの少なからずはいわゆる地方自治体の建築家であって、その立場で市などの社会構築に貢献していたという事実はどう評価していいかわからなくなってしまう。

じつはこれは通史に書かれているにもかかわらず読者は通り過ぎてしまう点なのだ。20世紀初頭の「社会」概念はそれなりにしっかりした実体であった。それは近代建築運動に関係のある建築家たちは「市の建築家」として、都市全般の整備、そして山本さんが批判している公共住宅の建設に貢献した。これは今のヨーロッパ都市を構成している、不可欠のパーツである。じつは「市の建築家」なる役職は、19世紀からの伝統であるのだが、それにしても建築家と社会の関わり(の深さ)が日本とヨーロッパでは違っていたのである。

こうした構図のなかで、ヨーロッパではもちろん山本さんが批判する悪しき官僚主義も発生したのであろうが、しかし、現象は多様であり、すくなくとも玉石混淆であったであろう。だから一円入札は批判されるべきであるとしても、近代住宅全体を巻き添えにするのは同意できない。山本さんの援軍は、その批判されるべきと思われた近代住宅そのもののなかにもまだまだ見つかると思う。

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