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2014年2月の2件の記事

2014.02.08

山本理顕『個人と国家の<間>を設計せよ』第二章 労働者住宅

大学に、岩波書店『思想』2月号のコピーが届いていた。

1月号につづいてである。山本理顕さんからじきじきにとなると、背筋は伸びる。時期も時期、レポート試験を課されたような気分にもなる。いや、まさにそう思ってみるべきなのであろう。

この月刊誌の連載となると、山本さんのライフワークであろう。読めば気合いの入り方はすぐわかる。ただ連載なのだからあくまで途中であって、結論を与えてもらっているわけではない。だから、断片的ではあるが、小テーマのいくつかの輪郭をはっきりさせるていどに止めるというハンディはいただきたいものである。

19世紀の労働者住宅を扱ったこの章では、アーレント『人間の条件』を典拠にし、「私的(プライベート)」と「奪われた」は同じ語源を共有するということで、親密なものを囲い込むという意味での私的生活は、公共性という本質的なものが「奪われ」ているとする。山本さんは、奪われているのは閾である、労働者住宅とは労働者という規定そのものにかんする「知」と「物化」の一体化したものである、と結論づける。労働者住宅においては「間」が奪われている。それを取り戻すのが山本さんの狙いである。30頁の論考を乱暴にまとめるとそうなる。

数年まえ、山本さんに招待されて横浜クリエイティヴシティにかんするシンポジウムで講演させていただいた。そのときのテーマは、じつは、マルクスによって空想的社会主義と批判された19世紀のユートピアの再評価であった。20世紀という大きい政府の時代が終わり、21世紀はある側面では19世紀的でもある。だから空想的社会主義もいい部分があったとできるかもしれない。そういうことで民間主体のまちづくりや、アンドレ・ゴダンの労働者住宅を披露したのであった。山本さんもギーズのゴダン労働者住宅を見学されたようである。

まずアーレントの「プライベート=奪われた」理論であるが、同じことをアンリ・ルフェーブルが日常性批判のなかでいっている。もちろん後者は、20世紀のおもに都市空間、消費社会などを念頭においている。共通しているのは「私的空間」が、近代社会のなかで生産された、かつての表現を使えば「疎外された」空間である、ということである。本質から、公共性から、社会から、疎外されているのである。

つぎに概念である。「労働者」。山本さんの論理は、全体としてはぼくなりにわかるのだが、きちんと定義して構築しているという印象は薄い。労働者なるものの存在は自明のものとしてほとんど言及されず、住宅を論じるなかでそのイメージが間接的に浮かび上がってくる感じを、読者としていだく。「社会」や「社会主義」という概念もそうである。

宿題レポートを課された学生として、あくまでぼくなりに、整理してみたい。つまり産業革命と近代資本制により、生産様式と労働形態がまったく改められ、そのことによって「労働者」が生産された。これも物化である。この物化された労働者は、アーレントによれば、均質な労働者たちである。昨日まで農民たちであった人びとを、再物化し、均質な労働者にしたててゆく。さらにそうしてあらたに制作された人びとをふくむ社会もまた、生産される対象であった。そして社会はいかにあり、いかにあるべきかを検討した社会学というものがうまれた。それが19世紀であった。社会そのものが制作されるべき、物化すべき対象であったということは、社会なるものを自明視して前提とすることはできない、ということである。

山本さんが最後に指摘した「知」と「物化」の一体性は、かつて空間帝国主義と批判されたものをふたたび理論化したものである。法制度のテキストが意味をなすのは、空間の言葉を伴っているからで、だから言葉と空間は一体である。かつての批判者たちは、その理論を述べる山本さんが帝国主義的であると勘違いしていた。そうではなく、空間そのものが帝国主義的であると、山本さんがただしく指摘していたのであった。

さまざまな労働者住宅を紹介し分析しながら、それらが「奪われた」住宅であることを、山本さんは批判している。その問題意識から諸例をみることは、そのとおりだと思う。しかし19世紀の諸プロジェクトを立案した人びとも、まさに山本さんと同じように、社会と労働者、知と物化を一体のものとして構想したのではなかっただろうか。だからまさにその点においてマルクスは空想的だと批判したのではなかっただろうか。そして、山本さんに招待されたぼくは、まさにその観点から、空想者たちを擁護できる視点を探した。そして、くどいけれど、だからこそこの山本さんの視点から19世紀の労働者住宅は批判されるべきなのである。

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2014.02.07

鈴木博之先生

去ってしまった彼について考える。

彼が教授に昇任したとき、助手であったぼくはまったく純朴に「おめでとうございます」と申し上げた。彼は黙って笑っていた。

彼はコミットメントする建築史家であった。それが本質であった。それ以外にはない。

建築史は、建築の現在と現実を含んでいながら、よりおおきな枠組みによって、それらを相対化することである。そうして現在と現実を相対化し、それを超越することである。しかし超えるといってもデタッチメントではない。よりよいコミットメントのためである。

建築史家としてのコミットメントは、いろいろな形態があろう。保存というバイパス。ヴィオレ=ル=デュクがそうであった。コンペの審査員という手段もある。伊東忠太がそうであった。国や自治体の委員という手段もある。批評ということも有効だ。

しかし個別研究に没頭することがコミットメントでないとは思わない。歴史ビジョンにより、建築に関わる人びとに理念をつたえ、それをとおして現実をかえていくのは、間接的だとしても、立派なコミットメントである。建築史に埋没しながらも、現実にコミットメントできるはずである。だからそのほかの建築史家は彼のようなコミットメントはしないであろう。

しかし、彼はある意味で建築史学を超えようとした。コミットメントのために。より直接、建築にコミットメントするために。そのためにあえて人脈を構築した。あえて権力を求めた。おそらく建築史以外の人びとは、それがゆえに、賞賛するであろう。しかし建築史の人びとは、賞賛するにしても無条件ではないであろう。

彼はコミットメントするために、あえて建築史から距離をとったと、ぼくの目には映る。「あえて」そうしたのであった。そしてそのことを背負ったのであった。

この「あえて」が彼の本質であった。だれもができることではない。ただそのことによって彼は苦悩していた。その苦悩は、建築史の人間にとっても、建築家たちにとっても、どうすることもできない、いや、気づくことさえできないようなものであった。

彼は絶望していた。ふかくふかく絶望していた。日本ロマン派を自称する彼は、自覚して自暴自棄にふるまった。だから権力志向であった。ときに偽悪的にみえた。たんにそうであったにとどまらない。日本の歴史の古層にある通奏低音のような精神が、彼のなかに生きていたのだ。

しかし、あえてそうしたということ、絶望していたということ、によって彼は支えられていた。絶望こそが彼のエネルギーであった。絶望ゆえにコミットメントしたのだ。それは逆説的でもあり、悲劇的でもあった。それは希有なことであろう。不純、偽悪、矛盾、力まかせ、などを含みつつ、それが聖なるものに昇華してゆくさまが、ぼくには見える。

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