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2013.09.24

ペリグーのサン=フロン教会

ボルドーはジロンド県、ペリグーはそのとなりのドルドーニュ県、ともにアキテーヌ地域圏(県と国の中間の自治体で、日本の道・州にあたる)、18世紀までならともにギエンヌ管区に属していた。鉄道でボルドーからペリグーに日帰りし、ひさしぶりでサン=フロン教会を見学した。

1世紀の初代司教である聖フロントにちなんだこの教会堂については、学生時代に見学し、教職についてからは非常勤・常勤時代をあわせてなんと30年近く(!)授業で教えてきた。なにしろ中世建築のなかで、ドーム式教会堂が、コンスタンティノープル→(エフェソス)→ヴェネツィア→ペリグーに伝わったというのは定番であり不可欠なので、とくに中世が専門でなくともかならず言及するのである。とはいえ中世が専門というのではないので教科書追随的に語るのだが。というか非常勤時代に実感もなく語ったことの苦痛から、留学時代に見に行ったのであった。

学生に教えておいて、こちらの理解がさほど深まっていないのは恥じ入るばかりであるにしても、1840年に歴史的記念碑に指定され、1998年にユネスコ世界遺産となったこの教会、として建築家ポール・アバディが1852年から1895年まで43年にわたって修復にとりくんだこの教会は、中世のみならず19世紀の近代という時代を重く背負ってる。
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ドーム式教会であり、いまではそのドームのスカイラインが美しいこの教会堂は、アバディが取り組むまでは、ドームそのものが構造的に劣化して危険な状態となり、ドームをさらに覆う木造屋根がかけられていた。5つのドームのうち、北ドームは1850年代末にいちど取り壊され(一つが取り壊されれば応力の平衡が壊れるのであたりまえと思えるのだが)、南ドーム、東ドームも1860年代に取り壊された。そののちのアバディの修復(再建?)は、かならずしも過去に忠実なものではなく、それまではそれぞれ違う直径であった5ドームを、完全に同じサイズにし、それらが正確な十字平面をなすようにした。すなわち過去のある時期に復元するのではなく、過去にもなかった理想状態を実現するというものであって、今日では批判の対象となっているやりかたなのだが、そこにある「建築の理想的な姿」というのは、過去のある時期に属するのか、今に属するのか、未来に属するのか、それらを超越する永遠なのか、その永遠とは永遠の今なのか、・・・といった議論があるとすればそれは保存だの遺産だのといった制度をはるかに越えるものなのであるが。

教会内部をみてわかるのは、修復された教会とはいえ、19世紀の建設技術(だから目地はじつに機械的に繰り返されている)だし、ステンドグラスも19世紀である。だからぼくは、中世教会の輪郭のなかに建設された19世紀の近代建築としてみると、いろいろなディテールがじつに納得できる。だからそれらが、日本の城郭建築の戦後復元の虚構性にたいして、教科書的な好例をなすなどともとても考えられない。
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つまり19世紀における中世解釈、ひいては建築解釈というフィルターなりようをみることそのものが、見学の意義なのである。それでは中世そのものはどこにあるのだろう?

それにしてもアバディは、43年間の修復活動をしていたのである。そしてその途中でパリのサクレ=クール教会堂のコンペに応募し、採用され、建設したのであった。サクレ=クールはやはりドーム式であるが、敷地が狭かったので平面はまったく違う。ただロケーションはにているなと現地で再発見した。パリの教会は、モンマルトルの丘の頂上にある。ペリグーも、都市そのものが丘の上にあるので、サン=フロン教会もまた、とくに川から見れば、丘の頂上にある。シルエットとして、景観として、それをドームで飾ろうとするのは自然である。

ところでぼくが留学したころ、映画評論でも有名なH氏は、アバディはじつはフリーメイソンで、だから教会を南からアプローチするようにしたと指摘していて、なぜか印象に残っている。しかしパリについては地形から選択肢はないように思える。さらにペリグーの教会も、今は都市側からすなわち西側からだが、かつては東西が逆で、つまり入口/内陣が逆転していたということも専門家は指摘している。アバディがその歴史的経緯を知っていれば、アプローチについては柔軟であってもおかしくない。

とはいえ5ドーム形式がビザンチンから伝わってきた(エンタシス東進説とのパラレル!)、だからグローバル、「東方の優位」などといった西洋建築史の定説は、アバディの修復活動と平衡して構築されたらしい。彼の活動を歴史的に再検討するならば、歴史、保存、モダニズム、近代、理論、建築史学なとといった相互にからみあった全体が批判的に再検討されるであろうし、若い研究者にとってはいいテーマだと思うのだが、いかがだろうか。ペリグーにいってはじめて気がついたことに、じつに30年ぶりということ、この教会についてすでに25回以上授業で解説していること(そろそろ打ち止め)、自分の進歩のあまりに緩慢なことに驚愕するのであるが、おそらく大学の授業でこうしたことを話す機会はないであろうから、わざわざブログに書いたのである。

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コメント

《ペリグー、サン・フロン》で検索してたどり着きました。私も昔この教会を見に行ったので懐かしいです。詳しい情報を有り難うございます。
ドーム形式がサン・マルコ経由で伝わったというのは定説なんでしょうか? 私はまったくの素人なんですが、ヴェニス近辺には他に同様の作例は皆無なんじゃないかと思います。それに対してペリゴールではごく一般的ですよね。だもんで、私はサン・マルコはビザンチンから呼ばれた職人や技術者が造ったもので、だからああした伝統が根付かなかったのかと思ってまして、だとしますと、こことサン・マルコとは繋がってないんじゃないのかなという気もするんですが。

投稿: giovanni_xxiv | 2014.06.15 21:12

このドーム形式西進説は、19世紀後期の建築史の碩学オーギュスト・ショワジイが述べたことなので、説そのものが(正しかろうが間違っていようが)歴史的事実です。つまりヴィオレ=ル=デュクの修復は、今日的には問題だが、その問題性そのものが19世紀であり、歴史的遺産なのだ、という今日の論理です。

投稿: | 2014.06.15 21:54

早速にご返事いただきまして恐縮です。どうも有り難うございます。

投稿: giovanni_xxiv | 2014.06.15 22:08

土居様ご無沙汰しております。
ドーム西進説興味あります。
19世紀末のショワジイの説だったのですか。もう100年以上も前の説なのですね。
現在では、ヴェネチィア経由ではなく、726年の聖像破壊運動を機に西に逃れてきたビザンティンの人たち、南フランスに住み着いたカタリ派の人達をはじめとする職人達によって造られたと考えることもできるのではないかと思います。そうするとエフィソスのサン・ジョアン教会からの直接影響によって造られたと考えることも可能なのでしょうか。あくまでも私の推論の域ですが。

投稿: ユーイチ | 2014.07.21 17:52

ドーム西進説は、ショワジィは認定し文献にとりあげただけで、発想した人はすこし前の世代の建築家です。しかしその説そのものは、そういう発想をうながした、近代という時代を背負っています。おそらく19世紀の建築家、建築史家たちもそうしたキリスト教の歴史は見据えていたと思います。ご指摘ありがとうございます。

投稿: | 2014.07.21 20:36

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