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2013年9月の4件の記事

2013.09.27

アングレームのポール・アバディ

ポール・アバディというとパリのサクレ=クール教会堂の建築家として有名である。ついでに修復建築家としても活躍しており、ペリグーのサン=フロン教会やアングレームのサン=ピエール・カテドラルといったドーム式教会をふくむ多くの中世教会を修復したことも知られている。

ところがウィキペディアではフランス語のサイトしかなく、国際的にはほとんど関心がよせられていないし、ボルドーやアングレームの現地を訪ねると、まだまだ知られていないいろいろな側面があることもわかった。

まあそんなことをいうぼくも現地にきてはじめて興味が再起動するというていたらくなのだが、ボルドーでもカテドラルやサン=ミシェルといったゴシックの主要な教会堂は彼により修復されているし、ペリゴールやシャラントといった県をふくめ、フランス南西部は彼のテリトリーであった。パリ生まれの彼がはじめからビザンチン様式を好んだのではなく、やはり当地で実例と格闘しているうちに自分のものとしたということである。

アングレームを通りすがりにのぞいたのだが、初期ゴシック様式で建設したサン=マルシアル教会や、中世の城郭の塔をインテグレートして建設したやはりゴシック様式の市庁舎など、大聖堂の修復もさることながら、新築物件の多さに驚かされる。

Img_1841_2                                          (サン=マルシアル教会)

Img_1880_2                   (サン=ピエール・カテドラル)

アングレーム市内を一周するとただちにわかるのだが、19世紀後半と20世紀初頭は建設ラッシュであって、裁判所、前述の市庁舎、フランス銀行支店をふくむ各種銀行・金融機関、教会堂(19世紀にあって教会堂とは政府・自治体が建設する公共サービス建築)、教育機関など、おおむね折衷主義様式で建設されている。すなわち19世紀後半はこの地域が経済的に飛躍をとげた重要な時期であり、これら公共建築はそのための施設でありかつそうした大発展の象徴である。

そのなかでアバディが市庁舎や教会堂を建設しているということは、彼は社会と経済の上昇気流にのっていたということである。

だからアングレームのサン=ピエール大聖堂の修復をまだにこの時期に担当したということを、たんに保存史の文脈のみならず、都市経営の歴史のなかに位置づけるということもするべきであろう。都市大発展の時期に、大聖堂を修復するということの、文化的・シンボル的な意味合いというものもあったはずである。国家の歴史的建造物委員会が展開しようとした文化財行政の文脈のほかに、それとオーバーラップして、である。

とはいえ彼によるよくできた新築教会堂と前後してみると、彼は本質的には、修復家というより建築家であった。中世建築の史実よりも、自分の理想に忠実に、復元しようとしたが、それは新たな創造ともいえるようなものであった。同時代からすでにいろいろ批判があったらしい。

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2013.09.24

ペリグーのサン=フロン教会

ボルドーはジロンド県、ペリグーはそのとなりのドルドーニュ県、ともにアキテーヌ地域圏(県と国の中間の自治体で、日本の道・州にあたる)、18世紀までならともにギエンヌ管区に属していた。鉄道でボルドーからペリグーに日帰りし、ひさしぶりでサン=フロン教会を見学した。

1世紀の初代司教である聖フロントにちなんだこの教会堂については、学生時代に見学し、教職についてからは非常勤・常勤時代をあわせてなんと30年近く(!)授業で教えてきた。なにしろ中世建築のなかで、ドーム式教会堂が、コンスタンティノープル→(エフェソス)→ヴェネツィア→ペリグーに伝わったというのは定番であり不可欠なので、とくに中世が専門でなくともかならず言及するのである。とはいえ中世が専門というのではないので教科書追随的に語るのだが。というか非常勤時代に実感もなく語ったことの苦痛から、留学時代に見に行ったのであった。

学生に教えておいて、こちらの理解がさほど深まっていないのは恥じ入るばかりであるにしても、1840年に歴史的記念碑に指定され、1998年にユネスコ世界遺産となったこの教会、として建築家ポール・アバディが1852年から1895年まで43年にわたって修復にとりくんだこの教会は、中世のみならず19世紀の近代という時代を重く背負ってる。
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ドーム式教会であり、いまではそのドームのスカイラインが美しいこの教会堂は、アバディが取り組むまでは、ドームそのものが構造的に劣化して危険な状態となり、ドームをさらに覆う木造屋根がかけられていた。5つのドームのうち、北ドームは1850年代末にいちど取り壊され(一つが取り壊されれば応力の平衡が壊れるのであたりまえと思えるのだが)、南ドーム、東ドームも1860年代に取り壊された。そののちのアバディの修復(再建?)は、かならずしも過去に忠実なものではなく、それまではそれぞれ違う直径であった5ドームを、完全に同じサイズにし、それらが正確な十字平面をなすようにした。すなわち過去のある時期に復元するのではなく、過去にもなかった理想状態を実現するというものであって、今日では批判の対象となっているやりかたなのだが、そこにある「建築の理想的な姿」というのは、過去のある時期に属するのか、今に属するのか、未来に属するのか、それらを超越する永遠なのか、その永遠とは永遠の今なのか、・・・といった議論があるとすればそれは保存だの遺産だのといった制度をはるかに越えるものなのであるが。

教会内部をみてわかるのは、修復された教会とはいえ、19世紀の建設技術(だから目地はじつに機械的に繰り返されている)だし、ステンドグラスも19世紀である。だからぼくは、中世教会の輪郭のなかに建設された19世紀の近代建築としてみると、いろいろなディテールがじつに納得できる。だからそれらが、日本の城郭建築の戦後復元の虚構性にたいして、教科書的な好例をなすなどともとても考えられない。
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つまり19世紀における中世解釈、ひいては建築解釈というフィルターなりようをみることそのものが、見学の意義なのである。それでは中世そのものはどこにあるのだろう?

それにしてもアバディは、43年間の修復活動をしていたのである。そしてその途中でパリのサクレ=クール教会堂のコンペに応募し、採用され、建設したのであった。サクレ=クールはやはりドーム式であるが、敷地が狭かったので平面はまったく違う。ただロケーションはにているなと現地で再発見した。パリの教会は、モンマルトルの丘の頂上にある。ペリグーも、都市そのものが丘の上にあるので、サン=フロン教会もまた、とくに川から見れば、丘の頂上にある。シルエットとして、景観として、それをドームで飾ろうとするのは自然である。

ところでぼくが留学したころ、映画評論でも有名なH氏は、アバディはじつはフリーメイソンで、だから教会を南からアプローチするようにしたと指摘していて、なぜか印象に残っている。しかしパリについては地形から選択肢はないように思える。さらにペリグーの教会も、今は都市側からすなわち西側からだが、かつては東西が逆で、つまり入口/内陣が逆転していたということも専門家は指摘している。アバディがその歴史的経緯を知っていれば、アプローチについては柔軟であってもおかしくない。

とはいえ5ドーム形式がビザンチンから伝わってきた(エンタシス東進説とのパラレル!)、だからグローバル、「東方の優位」などといった西洋建築史の定説は、アバディの修復活動と平衡して構築されたらしい。彼の活動を歴史的に再検討するならば、歴史、保存、モダニズム、近代、理論、建築史学なとといった相互にからみあった全体が批判的に再検討されるであろうし、若い研究者にとってはいいテーマだと思うのだが、いかがだろうか。ペリグーにいってはじめて気がついたことに、じつに30年ぶりということ、この教会についてすでに25回以上授業で解説していること(そろそろ打ち止め)、自分の進歩のあまりに緩慢なことに驚愕するのであるが、おそらく大学の授業でこうしたことを話す機会はないであろうから、わざわざブログに書いたのである。

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2013.09.21

教皇フランシスコの新方針?

教皇がイエズス会系の雑誌インタビューに答えたことが波紋を投げかけている。

同性婚、避妊、中絶などについてこれまでほど厳格でなくともいいのではないか、という趣旨である。一般メディアもこれをくわしく報じている。

一般紙の代表格であるフィガロなどによれば、教皇は右派ではなく、教皇権に否定的であり聖堂参事会や司教区はもっと自律的であるべきと考え(つまり教皇の中央集権ではなく)、かならずしも伝統にこだわらずに新しい社会状況をとりいれるべきで、つまりバチカン2により忠実であろうとしている、というような位置づけである。

とりわけヨハネ=パウロ2世とベネディクト16世の時代はあまりに集権的であったということを、現教皇は批判しているのだという。

日本メディアは、モラルにたいする態度に注目はしても、そもそもバチカンの体制はどうかというような視点からは見ない。しかしヨーロッパはもちろんそうではない。

2008年にフランス・カトリック・アカデミーという団体が設立され、定期的にシンポジウムが開催されている。その最新の論文集が今年発行されたが、カトリック当事者たちの今現在の意識ということで興味深かった。

それによると「ヨーロッパ」という、永遠の理想でもあり現在確立された枠組みのなかで、キリスト教をどう(再)位置づけるかということに議論が集中している。日本からみると、西洋は、古典古代とキリスト教と近代科学でできていることは自明のことであって、キリスト教がそのアイデンティティのコアであることは疑っていない。しかしヨーロッパ人にとっては、近代化がそもそも宗教を社会から遠ざけたこともあって、この宗教がやはりヨーロッパアイデンティティの核心のひとつであることは再強調しなければならない事態である。そこでかならずしも信者減少のカトリックが社会を支配しているという意味ではなく、この宗教がなしてきたことがヨーロッパの正統な「遺産」であって、それを墨守するのではなくそれを基盤にしていろいろなことを受け入れてゆく、それがカトリック=ヨーロッパの意味であるという再確認である。

宗教の観点からヨーロッパ/国民国家の関係も議論されている。ヨーロッパレベルでは宗教は規定されていない。国家レベルでそれは規定されてりうのであって、国家宗教、政教分離、ライシテ(フランス独特の宗教/社会関係の規定)、コンコルダ(ナポレオン体制の遺物)などさまざまである。宗教が諸国家を横断しているなどといういう楽観もない。

ところでカトリック当事者たちの意識として彼らの言葉を読むことは勉強になった。つまりヨーロッパ=カトリックは自明ではなかったのである。とくに20世紀後半からイタリア人ではない教皇が連続して選ばれたことは、彼らにとってのグローバル化である。その結果。カトリックは「南」(南北問題での南)に向かうのか、脱ヨーロッパ化するのか、という不安を自問したのちに、やはりカトリックの中心はヨーロッパなのだということが再確認されている。

そうしたことが、近代化を意識したバチカン公会議であったように、アングロサクソン的な新自由主義経済のグローバル化を批判しつつ、カトリックが別のかたちのグローバル化によって対抗しようとしていることがはっきり示されている。

おりしもある経済評論家は、これからは南米が世界の工場となるであろう、オリンピックはその布石である、と指摘した。そのようなことは、バチカンはとっくに意識しているかのように思える。

印象的であったのは「マイノリティ」という自己規定であった。「カトリックはヨーロッパ社会のマイノリティなのだ、しかしこの創造的なマイノリティがヨーロッパをリードしてゆくのだ」ということがくりかえし強調されていた。そしていまこそ「伝道」の時代なのだ、というようなことも。

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2013.09.17

ガロンヌの畔にて

ひさしぶりにボルドーに滞在している。

成田/パリはA380であった。どんな乗り心地かと期待したが、滑走は短く、軽やかに離陸し、とてもスムーズであった。室内はとても静かで、ストレスレスである。ジェット機の金属音は遠い昔となった。

ガロンヌ川は水深もあり川幅も広いので、外洋船も航行でき、ボルドーは昔から海外貿易港であった。イングランド領の時代から海外にワインを輸出したし、18世紀は奴隷貿易で栄えた(市民はそこが今でもトラウマである、19世紀と20世紀は造船など産業で栄え、21世紀は観光・文化都市である。このようにボルドーはガロンヌ川の賜である。川は、いまや観光、商業、緑地、の軸である。

ヨーロッパの都市は川の両側に成長することが多い。しかしガロンヌはあまりに川幅があって、西側は都市が栄え、東側は未開発であった。産業化時代に倉庫、工場などが建ち、労働者は住み着いたが、これはまだまだ都市とはいえないしろものであった。デルマス市長のころから都市化がはかられ、現在の都市計画でも新しいプロジェクトの敷地を供給する場所となっている。しかし両岸の非対称は、むしろボルドーの個性とまでいえる。ローマ時代から都市があった西岸からみると、東岸は護岸工事もされない野性の風景であり、そこに工場と倉庫がみえる。反対から見ると、西岸は古典主義の建築が並ぶ、典型的なヨーロッパ都市にみえる。

その西岸は、18世紀に刷新された古典主義ファサードは、景観のために保存されている。それらを覆い隠していた港湾施設は撤去され、公園となっている。もっと下流は、古いファサードは続くのだが、川にもっと近い敷地に商業施設が建設され、川沿いのそぞろ歩きの延長に、ブランド商品を並べるようなかっこうになっている。

日曜日はガロンヌ川沿いをジョギングした。往復50分。大型豪華客船が停泊していた。あたりまえだが、水上の集合住宅である。ル・コルビュジエがそれをモデルにユニテを建設したというが、あまりにベタである。

それにしてもバカンス客、憩いの市民で川岸はいっぱいである。そのなかを多くのジョガーが軽やかによけながら走る。ヨーロッパは金融危機というが、都市はしたたかに繁栄しているという感じである。

月曜日は、ふたつの橋と、両岸によって約6キロメートルの周回コースをつくって、45分かけてだらだら走る。川はゆっくりとカーブし(かつて三日月と呼ばれていた)、川幅があるので、一望感があり、スケール感は大きい。東岸の、かつて造船工場と運輸用鉄道駅のあった場所は、公園、小オフィス街などに変容しつつある。われながらの勘だが、このコースにジョガーが多いのには驚いた。

したたかな都市経営。ワイン貿易、奴隷貿易、工業、観光・文化、知識産業とどんどん転換してゆく。オスマンがパリに転勤するまえの前任地はボルドーであった、というと、こういうことの重要さがわかろうというものである。フランス特有の制度で、現在の市長アラン・ジュペは国政でも重要な立場である。

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