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2013.03.27

槇文彦『漂うモダニズム』左右社

左右社さまよりいただきました。ありがとうございます。

360ページもあるエッセイ集であり、最近「新建築」誌で発表された「漂うモダニズム」など多数の論考が納められている。

彼が教授であったころ、ぼくはすでに研究室に配属されていたので、自分の恩師という実感はない。むしろ恩師以上のスーパー先学という感じである。つまり建築に進んだときのの最初の演習が「代官山ヒルサイドテラス」の図面コピーやらパース作成であったりしたので、この偉大な建築家は、教科書であり、神様であり、雲上人であり、ついでにいえばその最初の課題もたいしたできではなかったので、できの悪い学生がいだく劣等感のトラウマの根源のようなものであった。こういうリスペクトの仕方はもちろんよろしくないし、現代建築批評を書かせていただいたころにおいても、槇文彦について書くということは想像を超えていた。そういうことはぼくの発想のなかにはなかった。

個別なことで興味をひいたのは、谷口吉生への共感、そしてたびたびでてくる原風景という言葉であった。あるいはピーター・ウォーカーの言葉を引用して「静けさ」を建築の至高の価値とするといったくだりである。

槇は、やはりモダンを生きた建築家であり、モダンとそれへの批判の両方を、しっかりと誠実に天秤にかけられるそういう世代に属している。その他の世代はどちらかに肩入れしているのではないか、というような意味で。まず市民として近世や明治からの都市を体験として知っている。そして1950年代にアメリカに留学することでモダン本流の建築教育を受けることができた。だから1960年代のラディカル、70年代の伝統回帰、80年代のバブル、90年代のグローバル化といった20世紀後半のおおきな変動にたいして客観的な距離をとりつつ的確に判断してゆく。そして現在は「大海原」である。

産業は20年ごとに浮沈する。文化や社会はもっとはやく変化し、10年すれば状況はかわる。そのなかで揺らがない視点をもちつづけたということである。

そういう論考は、エッセイ「漂うモダニズム」のなかでおおきな枠組みとして描かれなおされている。「個別/普遍」という構図である。地球上の各地域にあったそれぞれ固有の建築は、近代という時代になって、共通の基盤をもつようになり、普遍的なものがオーバーラップしてゆく。そうした文明を生きているという自覚である。

とはいえ槇は、様式建築/インターナショナルスタイルといったすこし時代遅れの陳腐なことをいっているのではない。「様式」もまた普遍をめざすものだからである。

以上のような槇の論考をぼくなりに受け取ると、「個別/普遍」は、概念においてはたがいに排他的であるが、現実においては対立しているのではなくレイヤー的にオーバーラップしているということである。昨年話題になった橋爪大三郎『ふしぎなキリスト教』においても、多神教から一神教への移行は、ある意味で必然的な段階的プロセスとして説明されている。そして地球上のかなりの地域では、多神教世界が根底にありながら、その上位に一神教がなりたっている。この構図はヨーロッパでもそうだし、ぎゃくにイスラムではどうかと思う。そしてその構図は、21世紀における世界の動因のなかで宗派がきわめて重要なものとなっている状況のなかで、まずます鮮明になってきているように思える。グローバル化のただなかにおいてまさに宗派間の争いは最も激化しているのである。

そう考えると、反近代を叫んだもっとあとの世代よりも、個別/普遍のレイヤー構造を理論としても体験としても知っている槇文彦のほうが、グローバル化の21世紀初頭においてもまた別の有効な広い視野を提供しつづけているのも、これまた理論的に納得できる。

個人的な史観としては、近代はいつはじまったかという議論があるが、都市計画法の成立をもってひとつの画期(始まりではない)とすると、よく整理できると思っている。そういう意味では1928年生まれの槇はまさにモダンである。その言葉の最良の意味で。

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