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2012年12月の3件の記事

2012.12.28

Alain Badiou, L'aventure de la philosophie française, 2012

『フランス哲学の冒険 1960年代以降』

アラン・バディウ著の文献をラユンヌ書店で見つけたので、買ってすこし読んでみた。バディウはドゥルーズの解説者でもあり、その解釈が日本の専門家によって批判的に受け取られているということあとで知るくらいで、まったく予備知識もなく、それではなぜこのぼくのような素人が買って読むのかということは、まったく意味のない偶然の出会いにすぎない。

序にはけっこう面白いことがかいてある。「現代フランス哲学」は、古代ギリシア哲学、ドイツ観念論哲学に比肩されるべき、まとまりのある多様で豊かなひとつの哲学であって、バディウはこの哲学を洗礼しようというのである。日本では、ドイツは哲学で、フランスは現代思想だというように位置づけているようなのだが、デカルトをどう批判的に継承するか、主体は意義があるのか存在しないのかという論争が軸になっているなど、サルトル、ドゥルーズ、コジーヴ、アルチュセール、リオタール、などを論じ直すバディウは、17世紀の新旧論争におけるシャルル・ペローなのか?

現代フランス哲学なるものの特性を6項目あげ、さらにその哲学の近代化のために、概念と存在を対立したものとするのをやめる、哲学を近代性のなかに位置づける、知識の哲学と行動の手地学の対立をやめる、主体という課題をふたたびとりあげる、文学との関係をあらため哲学の新しい表現方法をつくる、といったプログラムを提唱する。

とくに心理学との関係を改めるのだという。鏡像関係、アンチオイディプス、・・・などフランス哲学は心理学の概念におおくを負いつつ、しかし心理分析をほかのなにかに置き換えようとした。こうした一般的傾向はすでにフランス哲学の全般的な風景と化している、とバディウは指摘している。

それにしても日本の哲学者は、哲学は翻訳ではなく原語で勉強すべきということをよく指摘するが、(建築人として哲学を読むことは、脳のなかのいつもは使っていない部分を使うというエクササイズをする以上の意味はほとんどないのだが)まさにそれは実感できる。ドゥルーズについての解説のなかで、「襞」と「点」の違いは簡潔によく説明されており、それを念頭におくと邦訳『襞』もさらによく理解できるのだが、この場合、どちらのテキストがどちらの解説となっているのだろうか?

この書が素人にもわかりやすいのは、たんなるバランスのよい解説書であるにとどまらず、著者のヴィジョンがはきりしているからであろう。そういう意味で中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』を思い出したりもした。フランス哲学があるとすれば、日本哲学があってもいいのである。

ところで建築はこれらからなにを学ぶべきであろうか。戦前の日本は、おもにドイツ観念論を建築に導入して、それを下敷きにして西洋の近代芸術理論を日本に適用した。戦後はおもにフランス現代思想(現代フランス哲学!)であろうが、21世紀からみると戦前ほどの成果があったとは思えない。とくに伊藤ていじが着目した「間」は、独自の展開をみせ、磯崎新が日本美学として国際的に広めたのであるが、最近の著作では間=プラトンのコーラなどと結論づけられており、ピリオドが打たれた感がする。20世紀において西洋の観念論的圧力によく日本は対抗しえたのであるが、これからはどうなるのだろうか?

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2012.12.26

Ma liberté, c'est la laïcité

 『私の自由、それはライシテ(世俗化)』

ラ・ユンヌ書店にいってみたら、ルイ・ヴィトンのギャラリーになっていた。サン=ジェルマン=デ=プレの書店文化も終わりかと思ったが、すぐ裏に引っ越していた。棚間のスペースも広がり、むしろ快適になっていた。ル・モニツゥール書店オデオン店のように消えてしまったかと思ったが、よかった。
上記文献を見つけたので一読してみた。ライシテといってもなかなかわかりにくい言葉である。基本的にこれは、フランス革命ののちの共和主義という枠組みのなかの宗教概念であり、その文脈をしらないで理論だけで理解しようとしても難しい、というわけでぼくの研究室の学生たちも苦戦していた。それはともかく、ライシテとは原理主義でもなく、宗教弾圧でもなく、政教分離そのものでもなく、まさに共和主義をして共和主義たらしめているような原理である。

著者の説明によれば、宗教的原理主義、グローバル経済化などで他者への不寛容が支配的になり、宗教そのものがセクト化しつつあるこの現代において、ライシテの危機が叫ばれているが、それはライシテの基本精神がまだまだ理解されていないからであり、いまこそライシテを正しく認識して広めようという主旨の文献である。
内容はよく整理されており、ナポレオンと教皇のあいだの政教条約は言及されていないのは不思議だが、人権宣言、共和国憲法での規定、1905年の政教分離法、ヨーロッパでの規定などをふまえ、その条文をきちんと解説しつつ、ライシテは信仰の自由を認め、宗教を認めつつ、個人の精神の自由を認めようとするものだという基本的なことをくりかえし主張している。

この内容はいたって基本的であり、翻訳や日本人研究者が報告していることをおおきく越えるものではないが、しかしこの2012年末の時点で、共和国の基本理念に立ち戻ろう!ということが叫ばれなければならない状況である、ということである。
3年ほどまえにイスラム教徒のスカーフ問題を契機としてフランスのナショナル・アイデンティティを議論しようと提案した閣僚がいたりするいっぽうで、ヨーロッパ内ではスエーデンやノルウェーのように最近、国教制度を廃止したような例もある。またフランスでは政教分離法が公布された1905年12月9日にちなんで、この日を「ライシテの日」にしようという運動もあるらしい。

問題の核心はこうではないかと思っている。つまり、

宗教=個人の内面=私生活という私的空間
ライシテ=個人と個人の間=公共圏・公共空間

という領域区分をすることが基本になっている。こう区分することで、他者の内面を尊重することが、他者の宗教すなわち信仰の自由を守ることが保証され、宗教的無関心すら許容され、文化的多様性がまもられる。そして著者たちが理想とするライシテ=「多様性のなかで共に生きてゆくこと」が保証される。などということに単純化してゆくと、ハバーマスのいう「公共圏」に近づいてゆくのであるが、彼のいう公共圏は、専門家の指摘によれば、たいへん特権的なものであったのらしいのだが。
ところで読んでいていまひとつわからないのは、あるいは筆者たちの論理構築でひとつ欠けているのは「共に生きる vivre ensemble」の「共に ensemble」はわかったようで、じつはよく定義されていないのではないだろうか、ということである。つまりライシテが成立している社会はおそらく共に良く生きられているのであろうが、どう共に生きればライックな社会になるかということがよくわからない。つまり理想にいたるための道筋が、この外国人(ぼく)にはよく見えない、ということである。これは絆というKWで自分たちの社会のあり方を構想するとき、じつはその理想型が描けていないということと似ている。「友愛」の国であるはずのこの国のひとびとは、描けているのだろうか?

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2012.12.02

モニトゥール書店オデオン店が閉店らしい

日本でいえば南洋堂にあたる・・・・といえば建築の人はわかろうというもの。パリの建築書店といえばオデオン座となりにあるモニトゥール書店である。それが閉店となるらしい。

 といってもモニトゥールは建築専門書店として、施工、構造、法規などいわゆる専門書を出版するいぽうで、建築作品集、建築論、建築史、など文化にも力をいれてきたというバランスである。前者の販売に関してはユゼス店がひきつづき担う。後者についてはシャイオ宮の建築博物館に数年前に開店した書店が担う。想い出のつまったオデオン店であるが・・・確実に来客と売り上げは落ちており、閉店というわけである。

 WEB販売、電子出版においてフランス、ましてや建築業界は遅れていた。モニトゥールのカタログWEB化、WEB販売化もたいへん遅れていて、数年いらいらしたし、最近やっと世界水準に達したばかりであった。やれやれとおもっていると、この閉店である。

 この店舗はぼくの心のなかの聖地であって、海外出張するととくに目当ての書籍がなくとも、かならず一度は立ち寄り、そしてかならずなにかは発見がある。サン=ジェルマン=デ=プレにあるラ=ユンヌ書店のような存在であった。だから電子書籍の時代になっても生き残ってほしかったのであるが。センチメンタルな聖地などというものは、経済原理、採算性の原理には勝てなかったのであった。

 シャイヨ宮にいけばいいので実用的には困らないのであるが。

 

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