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2012年11月の4件の記事

2012.11.28

LSDといっても・・・・

 最近アクセスが少ないなあ、ブログの時代も終わりか、とおもっていたらぼくがほとんど更新していないのであった。2年前とくらべると半分以下の投稿ペースになっている。メンバーシップが固定しているメディアとしてはfacebookがいちばん便利で、あれは研究室掲示板、としてつかってる。あと、研究室OB会としても使っていて、これは本来の使い方といえる。ブログの相対化ということか。あとクラウド。データ保存サービスも便利だという使用者談もあるが、心理的抵抗があって使えるないでいる。

 ところでLSDといっても60年代にはやったあれではない。ロング・スロー・ディスタンスというジョギングの一種で、健康情報後進者であるにしてもWEBで学習した。アマチャアの次元だと、ゆるゆると90分以上走るのだという。で、先日ジョギングのメッカO壕公園でためしてみたが、17キロを2時間で走れた。ぼくの年齢と身体能力からすると慶賀すべきことである。時速8.5キロ。1キロ7分。ペースは遅く走るべきLSDとして合格らしい。

 LSDの効用は血管が鍛えられるということらしい。学生のころ、脈拍数120回/分を越える運動によって心肺機能は向上するということを、教養の授業で教えられた。でもそれは競技のためであって、健康維持は別らしい。心臓は激しく鼓動して血液を全身に送るのだが、血液は主要な太い血管のなかを高速で駆け抜けるだけである。ところが脈拍110以下だと眠っていた多くの血管が目をさまし、身体のすみずみまで血流がよくなるのだという。なるほど。そういえば肌がつやつやしてきたような気がする。ビールもおいしいし。

 そんなことで17世紀フランスのデカルトの時代、「循環」というコンセプトがたいへん重要になったことを思い出した。生物学でも血液の循環をスタディすることがさかんになり、輸血もなんどかこころみられた。ただし血液型が既知であったということを説明する文献はないので、実験台になった動物たちは難儀なことであったのであろう。そういえば、循環するものといえば、血液だけではなく、空気(呼吸)、光(視覚、光学)もそうである。17世紀はいわゆる「光学」の発展期でもあったのだが、宇宙を満たしている光が、眼球を刺激し、それが脳につたわり、意識を構成する。そういった人間/環境を横断する、世界は循環でなりたっているというヴィジョンが示されたのであった。そして循環するものの結節点として人間があるわけで、そもそも人間は孤立できないし、コギトといってもその観点から考えねばならないのであろう。

 さらにブログなどfacebookなどもマクルーハン「メディアがメッセージ」にあるように、循環することに意義があるようなものである。ただこれも、われわれの21世紀よりも、17世紀的ヴィジョンと重ね合わせたほうがしっくりくる。

 というわけでスロージョギングもLSDもほとんど脳内麻薬をもとめての快楽主義なのであるし、走る最初の5分で最初に頭に浮かぶのはかならず今夜のビールのことなのであるが、ジョガーは都市のなかを循環し、空気を環境とやりとりし、血液を媒介として酸素を吸収し、二酸化炭素を排出する。そういう古き良き古典主義時代の発想をこの身体で試してみるのであった。

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KATSUHIRO MIYAMOTO, Libria, 2012

という本(作品集)を宮本佳明さんからいただきました。ありがとうございます。

  もう10年以上前になってしまったが、京都かどこかで開催された建築会議でご一緒したり、(これまたどこかもう忘れてしまったが)合同卒計展で講師としてご一緒したり、はたまた大阪芸術大学の卒計ジュリイにいちど呼んでいただいたり(直接は奥先生からお声をかけていただいた)したが、ここのところしばらくご無沙汰していた。なので本を送っていただいて、ああ忘れられていないことは、いいことだ、と。

 直接話したのは愛田荘のころであり、今は神戸芸工大の花田さんやなんかと、当時話題のプログラム論の話しをしていた記憶がある。とはいってもぼくの専門性としては、お話をうかがうというレベルであったが。

記憶しているのは、宮本さんが登山だかトレッキングだかの愛好家であり、しかも山頂を征服することよりも、遭難したとか怪我をすることにより関心を寄せていたことがたいへん興味深かった。「身体性」、「偶然性」というKWである。また建築理論においても都市のなかの正規化、標準化された建築よりも、定式化されないものに関心を寄せていたことも印象にのこっている。彼はそれを「ノイズ」、「やくもの」などと呼んでいたと記憶している。建築はひとつの普遍的理論では世界の97%は構築できるが、あとの3%は雑音でなければうまくいかないのである。

 ゼンカイハウスのようなプロジェクトは、保存だとか記憶だとかという大義名分よりも、登山で骨折した自分の脚をいたわりそれに誇りをいだくような、その建築家の独特の指向性あるいは本質が表現されているように思われる。

 作品の写真を拝見しているとレギュラー/イレギュラーの飼い慣らし方がいちだんとさえているように感じられるし、そもそもノイズという概念にしたって、芸風で際立つということではなく、世界の基本的・普遍的なあるひとつの了解なのであるし、ひとつの普遍理論なのである。

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2012.11.11

絆/エスニシティ

 たいへん格式の高い某学会の大会を聴講した。テーマはエスニシティであった。

 多くのことが語られたが、人と人の関係、ということでは絆とエスニシティの問題は交差する。

 エスニシティは1980年代にアメリカでさまざまなエスニック・グループの衝突などが問題になったときに、社会学や人類学の研究対象とされたようである。他民族からなるアメリカ、移民の国であるアメリカでは、モザイク状にさまざまなエスニック・グループからなるのだが、それはヨーロッパの同じ地域の同じ宗教の人びとがグループをなして移民してくることにもよる。こうしたグループの絆は、宗教、言語、文化などである。モザイク国家はアメリカだけでなく、中東の国々、ヨーロッパの国々もそうである。

 いっぽう日本は、単一民族国家というのは虚構であるが、単一民族国家指向というのは一貫しているという専門家の指摘があった。日本では近代においてヨーロッパほどの強引な同化政策はとらなかったが、いっぽうで国籍を日本にして帰化させてしまえばすべて問題は解決したとみなすという国籍至上主義があるという。これと同一視したら専門家は怒るのだろうが、フランス共和制における不可分で一体の共和国という理念と構造的には似ている。つまり国民は均質で分節化されていない。おそらく日本社会の特質は、均質化モチベーションということになる。そして情報化やWEB社会はこの均質化をむしろ加速するのではないだろうか。それが絆のなさとなって帰結する。おそらく大震災や津波によって、絆が損なわれたというより、絆がそもそも不在であったことが顕在化したのではないか。

 絆では宗教がおおきい意味をになっているという指摘も面白かった。レバノンやシリアといった中東の国々で紛争がおこるのは、よく間違って部族間抗争などといわれるが、むしろ宗派ごとに代議員を出すというヨーロッパがこの地域におしつけた方法が、紛争を制度化するような作用を及ぼしたというのである。

 講演をきいていると、現代の世界は移民でなりたっているという視点も必要なように感じられる。ヨーロッパの某地区からアメリカに移民してきた人びとは、そこが戦争になると経済的に支援する、つまり民間ルートなどでアメリカの富を出身国に還元しようとするし、アメリカの政治にはロビイストがいて特定の国に得な政策を誘導しようとするが、まさにこういったことが「絆」なのであろう。ヘテロジーニアスな世界のなかで、同じ宗教・民族などを根拠にするネットワーク、その結合の様相はすなおに「絆」と呼べる。

 しかし日本社会はどうも均質化志向であり、ホモジーニアス化指向である。そこでは絆の構築はますます実体を失ってゆくような気がする。

 アメリカ人が出身国へ送金する現象と、日本社会のギブアンドテイク・メンタリティの問題が唐突に結びつくのだが、思想家たちがいっている「贈与」の概念にもっていくとどうなるか。贈与について考えてみるのも可能性であろう。

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2012.11.09

絆?

 ぼくが勤務する学科が「絆」をテーマとする公開講座を開催するというので、かりだされた。きのう、自分の当番をこなした。

 こういうときは自分のための勉強もすこしはして、前向きにやってみるものである。だからなつかしいアンリ・ルフェーブルや、最近はやりのデヴィッド・ハーヴェイを読み直したり、未読のものをぱらぱらめくってみたりして準備したら、けっこう面白かった。

 とくに数年前に翻訳がでた『パリ---モダニティの首都』も再読したらやはりおもしろかった。それに平行して彼の新自由主義批判の書もいくつか新読・再読してみた。

 けっきょく、こういうことか。ハーヴェイはとくに90年代と00年代の新自由主義を批判している。それは過剰資本・過剰労働力がもたらす不安定さの指摘である。そして『モダニティの首都』では、その不安定さの最初のモデルがフランスの第二帝政時代(19世紀中盤)として紹介されている。後者にかんしては経済・社会・政治・そしてアート・建築分析にまでおよび多面的包括的に論じていて、領域横断的ですごい力量である。

 そこでもうひとつ、鈍感なぼくはやっと気がついたのだが、なぜ第二帝政か。それはハーヴェイが教祖とするマルクスは、まさにこの第二帝政、つまりまず二月革命があり、ナポレオン3世が金融資本と結託して資本主義を発展させオスマンに命じてパリの都市プロジェクトを展開し、都市を流動的資本の投下先とし、その結果、内戦の大災禍をまねいたその一部始終をロンドンから注視していて、それへの批判、危機意識から『資本論』を書いたのであった。つまらないはなしだが、マルクスはナポレオン3世より10歳ほどわかく、この年齢差は、若い批評家が権力者を批判するのにもっとも血が騒ぐ状況なのはよくわかる。

 だからハーヴェイが新自由主義批判をする状況は、マルクスが理論体系を構築していた状況と、ほとんど相似なのだねえ、といった話である。

 ところで「絆」?

 いろいろ話したいことがあったが、持ち時間の20分の倍も話したので切り上げてしまったのだが、近代産業社会を構想したサン=シモン主義の思想のなかに「資本のアソシエーション」という概念があったらしい。これは資本の絆?のようなものではないか。

 グローバル化、EU統合の時代に、サン=シモン主義は再評価されているらしい。原語で専門外領域の文献を何冊も読みこなす余裕はまったくないのだが、部分的にかじったことによると、サン=シモン主義はネットワーク、循環、流動といった根本原理から地球を再編成するというおおきな構想をもっていて、だからこの基本構造に関連するのが、鉄道、通信、運河などであり、そこで流通するのが金、人、情報などである・・・・というように書くと、それは常識だね、ということになるが、でもツーリズム、金融、通信などの今ではありふれたものの背景にある根本原理って、やはり哲学的なものなのであろう。だからサン=シモン主義はフランスのテクノクラートの理論的支柱になったりしたのかもしれない。

 これはいろいろなアプリを考案するときに、OSに遡及して構想するといったようなことだろう。

 講演のあとで同僚の先生たちと雑談したが、人と人の絆は、神を媒介するといった構図を念頭におかなければなりたたない、という理解でいる人は多いようであった。ただ神はいいのだけれど、それはどんな神か。特定宗教の神か。そうではないのではなか。では神の代理か。神という比喩で表象される超越的なものか。・・・などと考えると、資本というのは一種の神ではないか?などということにしたって成り立ってしまう。個々人の財布のなかにあるお金を、銀行に預けると、相互に見知らぬ人びとのお金が「絆」によって結合され一種の「アソシエーション」を形成して巨大化し、都市プロジェクトに投資されるという平板な構図のなかに神的次元がすでに含まれているのではないか。資本が極度に流動化すると、それは地球上の水のようなもので、「水」はひとつしかなく、自分が手にするコップの水はその全体の一部なのであって、だから西洋の言語では部分冠詞をつかったり・・・・。はたまたデカルトやホッブスが、近代的個人、近代的社会を構想したときに、「光」という普遍的なものを媒介にして、宇宙から人間の精神までを一気に説明しようとするその理屈っぽい議論にもなにか似ている。

 もうひとつは他のパネラーが指摘していた、ネット社会におけるコミュニケーション依存症。これはギブアンドテイクにおける他者依存症、いつも他者に認めてもらわないと自分が崩壊してしまう現代の病である。これも帰りの電車のなかで考えたが、その時のコミュニケーションというのは同時代の・同期の、つまり時間を共有する他者とのコミュニケーションであるのは明らかである。それでよくよく考えたら、ハーヴェイがやっているのはマルクスへの通信なのではないか?マルクスとのコミュニケーションなのではないか。そこで教訓。コミュニケーションは「同期的」・「双方向的」がいいとは限らない。そこには異期的(こんな言い方があるのかな?)・「片方向的」が含まれるべきである。神の存在はその次元にたちあらわれるであろう。

 こういう難問を考えるのはぼくの専門(能力?)ではないので次の機会まで放置しておくのだが、オーディエンス発言や打ち上げ飲み会の議論などというものになってしまうと、日本人同士で話し合ういわゆるムラ的議論になってしまうのであって、これまでもしばしば指摘されたように、超越的議論にはなかなかならないようである。しばらく観念論的遊戯としてだらだらやっていくのも面白いだろうが、でもそうすると公開講座として社会的責務?はすこししか果たせないだろな・・・・などとゆるゆると愚考はつづくのであった。

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