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2012年10月の4件の記事

2012.10.28

庄司紗矢香のコンサート

黒崎までいってきた。ヤナーチェク、ベートーベン、ドビュッシー、シューベルトであった。

音楽は素人なので120%印象評だが、機械にように正確で、音色はあくまでりりしく美しく、しっかり音楽の精霊が天よりおりてきていた。2年前のツアーではほとんどベートーベンであったらしいが、今回は違う素材をすべて庄司紗矢香の音楽にしていた感がある。いままでテレビ録画でなんどか聴いたことがあるが、生で最初から最後まできくということはたいへんいいことである。アンコールも2曲披露してくれたし。

ホールがある黒崎はJR駅前のシャッター商店街があることで有名である。人工地盤の駅前広場もあるそこそこの地方中堅都市なのだが、ずっとまえから斜陽化が顕著である。学生たちも、10年以上前から卒計などでこのんでサイトとしてえらんでいた。ひとつのスジにとどまらず、あるエリア全体がごっそり空洞化している。だから気になってもいたので、わざわざそこをとおってホールに向かったのであるが、経済の地盤沈下、商構造の根本的変化に敗北していった地域の、戦後の焼け跡ののようなものである。それがなんのてらいもなく、あっけらかんと露出している、といった風情であった。

爛熟した都市の音楽ホールできくのもいいかもしれない。パリのシャンゼリゼホールで聴くマリア・ピレスや内田光子もいいであろう。しかしほとんど廃墟と化した商店街のすぐとなりの、建築家物件ではないがそこそここじゃれた音楽ホールで、しかし800人の聴衆はほとんど老人といった状況で聴く庄司紗矢香は、未来かあるいは天からの贈り物のようなものである。誇張でなく。

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2012.10.21

研究室20周年記念パーティ

・・・を開催していただきました。ありがとうございました。

 1992年に赴任してきてまる20年たった。正確には21周年という計算なのだが、まる20年経過したということでの記念パーティである。昨日は福岡でやった。11月は東京で開催します。
 地方の国立大学という恵まれた環境であり、卒論生の1研究室数人と定員がきまっているので、交換留学生いれても、OB+現役学生数はおそらく120名ほどであろう。名簿作成、お願いします。ぼくも調べてみます。名誉研究室メンバーとして、飲み会のみにきていた学生(OB)、ゼミの聴講学生もうけいれているのは当研究室の伝統である。
 ひさしぶりに会ったOBたちも立派になり要職にもつき、たいへん頼もしかった。公務員、自営建築家、デベロッパー、設計デザイン事務所勤務、メディア関係など、違う方向で仕事をしている違う学年のOBたちが、おなじプロジェクトでコラボしていて、同じ研究室であったと事後的に気がつくなどということで、しっかり社会をドライブしているではないかなどということが、たいへん立派なことだと思えた。
 OBたちは中年にさしかかっても学生時代の面影は消えないもので、すぐわかった。ただひとりだけ、ジョギング効果で体型が良くなり、あごが細くなった人は、わからなかった。これはいいことである。
 4次会までやっていただいた。すごいカラオケ・パフォーマンスのママのいるバー、しゃれた仮装バー、など社会見学もできた。(もと)学生に連れてってもらって、逆転状況をたのしめるのも歳をとった役得であろうか。
 OB会はバーチャル研究室として展開しようというようなことになった。facebook研究室はいま70人ほど登録で、100超えをめざす。O壕公園でのOBジョギング会を開催する(現役学生もOKです)。現役学生ゼミあとの映画鑑賞会を開催する、などである。飲み会も適宜やる。
3回スピーチしたので、自分の教育者歴を回顧・反省する機会でもあった。
 自分が学生だったころ、極端な個人主義の研究室にいた。修士2年間で、ゼミ1回、教員室での指導1回、修論発表会1回の計3回しか指導してもらえなかったのだが、大人扱いしてくれたということでもある。自分が研究室をもっても、ゼミこそは定期的にやるのだが、自由主義路線しかしらないし、教えてもらったことを伝えるしかない。教育者としての訓練はうけていなくて、自分勝手な確信のみにもとづいてやってきたので、本質論的には教師としての成績はBかCかもしれないが、OBがみんな立派になっているので、学生のおかげで結果論的にA評価なんだと思っている。
 それから学科の特性もあって、自分のクローンを養成するところではない。教員(建築史)と学生(設計)は分野が違うということがベースである。だから自分を基準としない。しかし自分の目のまえにいる学生の、可能性、特性、強みを必死でわかろうとすること、それが教師の仕事とおもってきた。この点は揺らがない。これは建築批評においてこの建物はなにが可能性か、と分析することとすこし似ている。
 20年はいろいろ意味があって、式年遷宮、歴史60年/40年周期説などが20年がベースになっている?、経済循環20年説、産業盛衰20年周期説、学問パラダイム20年周期せつ、いろいろである。
 たまたまだが赴任した1992年は、グローバル化元年、新宗教事件・震災・WINDOWS95の3年前、といった時期である。なにしろ1992年ころは原稿をフロッピーにして東京に郵送していたので、いまからすると旧石器時代であった。そろそろ大きな変化がくるであろう。20年周期の節目がくる、それを危機感・緊張感もすこしはもって待っているような気持ちもある。
 個人的な20周年の意味はなにか?大学在職はあと数年そこそこだが(第4コーナーをまわったよ、とみんなには話したのであったが)、定年退職にたいした意味はない。自分のやりたい研究を考えたら、もう20年はかかる。すると今は、マラソンの折り返し点ということでいいのかなと。となりに東京マラソン抽選にうかったというOBがいたので、そんなこともみんなに言ってみた。

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2012.10.15

ラブルースト展

今年度のシャイヨ宮の目玉はアンリ・ラブルースト(1801-1875)の展覧会のようで、10月11日にすでに開幕したが1月7日まで開催されるらしい。WEB版ル・モニトゥール誌にそのように紹介されていた。

古代建築を至上とするアカデミーで教育をうけ、23歳でローマ大賞を獲得したラブルーストは、造形的には古典主義の言語を忘れることはなかったが、「ロマン主義建築家のリーダー」らしく個人の創造性を信じるとともに、新しい建材、建築設備(暖房、照明)などに強い関心をしめしつつ、合理性、機能性をも追求した。サント=ジュヌヴィエーブ図書館、旧国立図書館には、構造の形式と、空間の形式が一致しており、その構文のなかに新素材としての鉄、新技術としての手元ランプなどが適切に位置づけられている。
展覧会ではフランス合理主義の原理を確立し、用途、文脈、構造を指標として建築を構築した建築家だと位置づけ、その影響下に、ジュリアン・ガデ、ギーディオン、ドミニク・ペローらを位置づけている。
こういう建築家を評価し歴史的に位置づけるにあたって、50年後に展開された近代建築運動の枠組みを遡及して(つまりモダニズムと称される基準をもって)判断することはできないであろう。むしろ空間のスケールなどは古代ローマ建築であり、それはボザールの背骨ともいえるもので、そのコアをラブルーストも継承している。しかし古代ローマ人こそ合理的であり、実用を考え、新しい技術をどん欲に取り入れたのであるから、19世紀中盤のフランス人建築家がそのようにすることに不思議はない。などと考えると、現代人と古典古代の関係のありようという視点から再考しても、多様な解釈があり得るのであって、それを唯一無二なる永遠の古典主義などとアプリオリに考える根拠もない。そのようなフレキシブルな目でラブルーストを再発見すればいいのではないか。

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2012.10.04

槇文彦『漂うモダニズム』

山寺の和尚的な生活をおくっているぼくにさえも経済や外交の危機的状況は伝わってくるのであり、ベルリンの壁崩壊から20年とすこしたって、これから1~2年は転換期になるであろうと予測するのだが、前線にいる人びとにとってはもっと切実なことであろう。19世紀からこのかた世界的秩序は20年が賞味期限なのであって、グローバルな新自由主義の20年がそろそろ終わろうとしているかのようである。そうしたら次の20年はどんな時代であろうか?

フランチェスコ・ダル・コーが『カサベラ』誌最新号で「3%から0.3%へ」という記事のなかで、グローバル化や経済危機のために建築家のパイはどんどん小さくなっているという深刻な現状報告とともに、「数年のうち」に「新しい競争的モデル」がやってくるこという予言的なことを書いていた。別の記事によると、スペインでは建築事務所の数が半減したという。・・・日本人建築家は海外で活躍していたが、その活躍の場がきわめて限られてくるのであろう。

「新建築」誌9月号の槇文彦『漂うモダニズム』にはそこまで切実なことは書かれていなかったが、黙示録的なトーンはしっかり共有されているように感じられる。この記事には、普遍と土着という二元論、ギーディオン以来彼自身が生きたモダン、「漂う」としかいいようのない現状が、えがかれている。それらは報告であり、否定のしようのないものである。

しかしそれとは別に彼が「社会(化)」と「ヒューマニズム」すなわち人間(主義)を論じているくだりは、個人的には興味をひく。「人間」と「社会」。このふたつのKWは、建築という領域、近代という時代をこえて、ひろい射程をもっている。ながいキャリアにおいてこれらの2つの価値に基づいてきたという自負であり良心の告白であると同時に、困難な時代においてもそれらを道しるべにするしかないという建築家の内面であるように思える。

個人的な昔話で恐縮だが、大学の教養課程で日本史の先生が、親鸞について1学期間えんえんと語り続けたことを最近よく思い出す。わずかに記憶しているのが、彼の歴史的枠組みであり、ヨーロッパにはプロテスタンティズムがあって、これは個人の内面において信仰するという教えであり、日本における浄土真宗はまさにそれに相当する。そして日本がすばやく近代化できたのは、このタイプの倫理観に立脚した勤労意識があったからだ、云々。このパラレルが正しいかどうかは別として、それらはまさに人間と社会を論じ、そのことによって日本が近代資本主義に容易に移行できたことを証明しようとしていたのであった。

宗教史の文献でしらべると、浄土真宗=プロテスタント的というテーゼは、やはり日本社会における諸宗教のありかたを論じる近代宗教学のなかで論じられたらしい。それは禅が日本的美学として国際的認知を受け、神道の(非)宗教的性格が政教分離という近代的・西洋的枠組みのなかで再考されるという、まさに近代のプログラムのなかの1構成要素なのであった。

ここで論理飛躍するかもしれないが、現代建築家がこのような文脈で「社会」や「人間」を論じるとき、それは反射的に、論じる当人の「内面」を語っているのではないかと、ぼくには思える。それは柄谷行人が近代文学を論じ、そのなかで近代日本人の「内面」の誕生を論じたような、そういう重要な問題設定である。おそらくこのようにいえるのではないか。日本の近代建築学は、西洋をモデルにして高度職業人としての建築家を教育するシステムを構築したが、当初の制度設計者の意図かどうかにはかかわらず、文化としての建築、建築を個々人の内面において支えようとするメカニズムを生んだのではないか?そのありようのなかにこの国の個性があるのではないか?

もちろんほかの地域には内面がないだの、近代以前にはなかっただの、そういうことではない。いわば集団的思考様式としての、しかし現実には内面といういじょう個々人の内部にある、精神のありようである(プロテスタントに内面があり、カトリックにはない、とかの社会学者がいっているわけではないように)。

ぼくはこれまで個人的には「モダニズム建築」概念について批判的なことをいってきたわけだが、しかしこの場合、「モダニズム」という虚のシニフィアンが措定されるのはこの「内面」という座標軸においてであろう、と仮定できる。おそらくさまざまな時代と場所において実践された諸運動、表明された諸理念を総括して「モダニズム」というレッテルを貼るのはまったく乱暴な話なのであるが、問題はそうすることの是非ではなく、「モダニズム建築」というアプローチが成立するのはいかなる場なのかということであり、それは論じられる対象ではなく、むしろ認識する主体の側にあるのであって、それはおそらくある特殊なありかたの「内面」においてなのであろう。

さてぼくはかならずしも突飛なことをいっているのではない。稲垣榮三が『日本の近代建築』において分離派をもって自意識なり近代的自我の成立としたようなことではないか?最近までずっとこの近代的自我とやらはレトリックであり、建築運動というものをよりよく理解させるための比喩のようなものだと思っていた。最近、認識がかわりつつある。文字どおり、そうであったのではないか?そして稲垣の歴史解釈を学んでしまったぼくたちは、その予言を実現させようという無意識の力に動かされているのではないか?そのようにすら思えてしまう。そういう歴史と現代の共犯関係が成り立っているのではないか。日本近代建築に固有の内面のありかたも、そういう文脈で考察できるのではないか。

ともあれ槇文彦のエッセイは、20年周期説が正しければもしかして訪れるかもしれない大破局のさらにそのむこうを指し示してるのであろう。

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