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2012年1月の4件の記事

2012.01.23

菊竹清訓追悼記事

地元紙から依頼されたので書いたものを再録します。20日掲載であった。

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菊竹清訓
二〇世紀建築のヴィジョン
現代建築の神話性

建築家菊竹清訓氏が昨年の一二月に亡くなった。二〇世紀の日本を代表する建築家のひとりであり、国際的著名度も高い。私見によれば、内部に矛盾を抱えた建築家でもあったが、むしろそのことによって前世紀を代表していたようにも思える。
 一九二八年生まれの氏は、戦争直後の混乱のなかで早稲田大学で建築を学び、竹中工務店などで短期間勤務したのち、一九五三年には菊竹清訓建築設計事務所を開設し、独立している。戦後復興のなかで建築家が求められたのであろうが、順調な船出であったと思われる。
 一九六〇年東京で開催された世界デザイン会議に参加したときは三二歳という若さであった。この会議にあわせて川添登が準備した「メタボリズム」という概念、つまり建築や都市も生命体のように新陳代謝を繰り返し、けっして静的な状態には留まらないというヴィジョン、を彼もまた自分の思想として展開した。
 その代表的な傑作としてスカイハウス(一九五八)と出雲の庁の舎(一九六三)をあげることに異論はないであろう。前者は正方形平面の一室住居を、背の高い四本の壁柱が空中高くもちあげる。後者はスパン数十メートルのプレストレス梁が印象的である。いずれも建築の可能性の中心は技術であった。
 しかし出雲のインスピレーション源が、建築史家福山敏男が復元する高さ一六丈の雄渾なる出雲大社であったように、菊竹のいう技術は現代的だとはかぎらず、ときに古代的であり、神話的でさえあった。それは古代的な巨大さの表現なのであった。そして技術にかぎらず、社会、文明を論じることで彼は都市と建築を構想するのであるが、本来的などの学派からも自由にそうしたのであるから、建築家独自の思索としかいいようのないものであった。彼の建築が同時に神殿のような、社寺のような、ある種の宗教的アウラをも放出しているのはそうした事情があるからでもあった。
 そうしたなかで、弟子の伊東豊雄が「狂気」と形容した創作がつづく。都城市民会館(一九六六)は甲殻類のような異様さ、徳雲寺納骨堂(一九六五)はむしろ静謐な瞑想空間であり、ホテル東光園(一九六四)や京都国際会議場案(一九六五)は東大寺南大門のような架構の迫力を伝えている。
 いっぽうでアクアポリス(一九七五)や海上リニア都市(一九九四)はいささか紋切り型の未来派的であり、江戸東京博物館(一九九三)や九州国立博物館(二〇〇五)は賛否両論がある。
 結局のところ彼はいかなるヴィジョンを見ていたか、ということであろう。建築家が構想する建築は、かならずしも経済や社会や施主などといったなにかのそのままの理論的な帰結ではない。それは見てしまう、見えてしまう類のものである。菊竹清訓の場合はそのアフォリズムをとおしてあるていど想像できる。「空間は機能を捨てる」という、近代の機能主義を全否定したもの。機能を捨てるからこそ、あらたに機能を発見できるのであった。「柱は空間に力を与え、床は空間を規定する」というほとんど禅問答のようなもの。柱にアニミズム的な意味がこめられているのであった。
 二〇世紀初頭のアヴァンギャルドたちは建築をいわゆる様式から解放し、技術と純粋幾何学に還元した。一九六〇年代のラディカルたちは、それを経済や都市のダイナミズムと連動させることを考えた。彼はそれらの正統な嫡子でありながら、異なる側面をも見せる。その設計プロセス三段階論「か・かた・かたち」は、エルンスト・カッシーラーのシンボル理論や、武谷三男の『弁証法の諸問題』を参照しながらも、日本固有の言霊思想を導入しており、呪術的ですらある。近代の合理的思考の裏に、古代的なもの、神話的なもの、呪術的なものへの指向、が隠されていた。菊竹清訓のヴィジョンはその意味では典型的に二〇世紀的なのだが、それにしても彼が見ていたものを再現するためには、私たちにもイマジネーションが必要である。

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2012.01.21

5年ぶりの丹下健三論など

先日、横山俊祐がぼくの大学に教えにきてくれたので、数十年ぶりに一緒にお酒を飲んだ。

呼び捨てにするのは同級生だからである。

大学の同級生というのは不思議な存在で、学生のころはライバル意識などなかったのにやけにおたがいに厳しかったり喧嘩したりするが、社会を経験しているうちに、ああ彼ほど立派な人間はいなかったと、レトロスペクティブに気がつくのである。

そこではじめて彼のHPを見たりすると、ぼくの3倍ほどのスタッフ+学生数の大研究室の先生になっていたので、すごいなあと思ったりしている。大阪はやはり建築学科も多く、交流も盛んなようで、すごい活発である。

ワインをのみながら、4人で3本あけて、そのうちのひとりはとんど飲んでいないから、ひとり一本、でもつぶれることもなく、昔から今の話までひととおり済ませた。ぼくが過呼吸症候群になったときも彼が救急車を呼んでくれたのだ。命の恩人である。あのときはどうもありがとうございました。あのとき、お礼をいったのかどうか記憶にはございませんことを深くお詫びもうしあげます。

それでも昔話がはずむのは、未熟だったにせよ、それが自分の原点であり、原点なしには今の自分は計れないのである。

翌日は1年生210人を相手にして「丹下健三論」を5年ぶりに話す。5年ぶりというのはたんにローテーションだからにすぎない。それに導入科目だからそんなに深くもできない。ただ演出してこれからの若者たちに断片的でも刻印し、印象づけたいという思いはある。

丹下健三の紹介として、卒業設計からはじまって、戦前の大東亜関連のプロジェクト、広島のピースセンター・広島再建計画などを話す。戦前のものは東京と大陸を結ぼうとするいわゆる弾丸列車計画と関連があったこと、この弾丸列車計画は戦後の新幹線計画を準備したこと、九州新幹線はじつは大陸に向かうはずであった路線を鹿児島にむけて実現したと解釈できるかもしれない、などと解説。東京計画1960は、このままでは実現されていないが、東京湾横断道路しては実現されているなどと説明。また代々木オリンピックプールは明治神宮と軸線を故意にあわせており、明治/昭和を貫通する国家軸にして国家の象徴なのである、などと説明。

いずれにせよ丹下は、建築を構想するとき、文明だの国家だのより上位のもののビジョンを、見てしまう、見えてしまう、そういう類の建築家であったということを言いたかった。「ビジョン」とはそういうものである。

まだ成人式を迎えていないほとんどの学生たちがどう受け取ったかどうか、ぼくは知らない。10年後、彼らのほとんどがこの話を忘れているだろう。しかし20年後は何人かはぼくの話を思い出し、そのとき、理解したと思うのだろう。偉そうだが、教育とはそんなものであろうと思う。ぼくは目の前の若者たちにむかって話しているのではない。20年後30年後の、それぞれの分野の指導的人材となった未来の立派な彼らにむかって話したのである。

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2012.01.12

ブルーノ・タウト『都市の冠』

翻訳者である杉本俊多先生から賜った。ありがとうございます。

杉本さんは大学研究室の大先輩であり、建築史学における先輩でもある。ながながとODをすごす古き良き?伝統のおかげで、研究室での在籍もぼくとほんのすこし重なっていたので、今がチャンスといろいろ質問攻めにして教えていただいたことがぼくのキャリアの出発点にもなっている。数年前は非常勤講師としても広島に呼んでいただいた。三条の日本酒をごちそうになったり、すごい蔵書を見せてもらったり、ひさしぶりに学界なるものに立ち戻った気がしたものであった。

本書は、タウトが第一次世界大戦で崩壊してゆくヨーロッパのなかで、死と再生のようなものを感知しながら構想した都市ヴィジョンであり、つぎのさらに幻想的な、ほとんど彼岸的な『アルプス建築』への序章ともいえる文献である。その内容はある程度周知のことなのかもしれないが、今回、ドイツ建築史の権威によるきわめて深くかつ平明な日本語になっている。

原イメージはゴシック大聖堂をまさに冠としていただく中世都市である。

そこから出発して、それを同時代に回復するとしたら、どのようなものとなるか、というような思索にも思える。

とうぜん「宗教性」が鍵となる。タウトは意図してそれにふれている。しかし特定の宗派では代表されない宗教性である。これもまたヨーロッパ近代におけるカトリックとの対決のなかで生まれた新しい考え方である。フランスでは新キリスト教などという考え方である。近代の、自由な市民社会のなかで、しかもテクノロジーや新しい社会制度に包囲されて、そのなかで現代の大聖堂がその都市の冠なのである。

去年、必要にせまられバタイユの『ランスの大聖堂』を読んだ。若書きの、当初は発表されなかった小論であるが、やはり第一次世界大戦での戦災、都市は破壊され人びとは逃げ惑い大聖堂さえ被災した、しかしそのなかで大聖堂は救済のシンボルであった、そういうことが書かれている。そうは言わなかったにしても戦線の向こう側においても大聖堂は冠であった。

「ヨーロッパは絵画をするヨーロッパなのである」というべーネの言葉において、絵画は、さらには芸術の統合である建築は、いわば、宗教なき宗教であり、宗教なき宗教性であり、そのうえにヨーロッパの救済はあるのである。

中世のカトリック都市には大聖堂が冠としてあった。近代社会になって宗教と都市の関係がかわったとき、空位となった宗教にかわってなにかが据えられなければならない。そのなにかが、宗教性、芸術、芸術としての建築、そしてバウ(建設)そのものというものなのかもしれない。そして21世紀としては、情報ネットワークなどが代理宗教になるのかどうか、あるは私たちはそんなことを欲しているのか、といったことが課題なのであろう。

昨日、留学を希望する学生に、こんなことを話した。第一次世界大戦は国と国の闘いだった。それからほぼ100年たった今、ヨーロッパは金融危機・経済危機であるが、これは市場と国家の闘いだ。いずれにせよ歴史の転換点であるだろうし、それを現地で目撃するのは貴重な体験だろう、と。

ぼくの乏しい情報収集能力では悲観的な観測しかきこえてこないのだが、21世紀のタウトがいるとしたら、いまどんな希望を構築しているのだろうか?

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2012.01.01

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