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2011.12.17

ハードな現実とソフトな建築、あるいは宗教なき宗教性

今日は急用のためオーギュスタン・ベルク先生の講演にいけなかった。とても残念な一日であった。

夕方JA no.84をぱらぱらめくる。2011年はなにであったか。そこでまず「重い現実と軽い建築」という言葉が脳裏に浮かんできた。軽い、は軽やかのほうがいいかもしれないが。あるいは「ハードな現実とソフトな建築」のほうがいいかな。ライトな建築というと安っぽいみたいだし。

2011年は20年後、どのようにとらえられるのであろうか。大震災等のみならずユーロ危機、グローバル化の試練など、危機が重なった。それへの反省は、世界観そのもの、制度そのもの、これまでの価値観や習慣そのものへの反省をともなっているだけに、より根底的なものだけに、ものやことよりも、しくみそのものの再構築を指向する。だから造形としてはモニュメンタルで力強いものではなかく、むしろ新しいCPUの新しい回路を考案するような、あるいは新しいOSを設計するような、根底的だけど、ソフトウエア的レベルという意味でソフトな、そして外観的にもソフトな、そういう建築が必然的に登場するのであろう。

そこですこし逆説的かもしれないが西沢立衛の《豊島美術館》。今年いちばんの注目作品のひとつである。光と影のグラデーションをテーマとするこの建築はここでソフトな建築とよぶものを象徴的に体現しているかのようである。

そこでは、じつは構造的にはさまざまな工夫がなされているであろうこの建築そのものは、見えはするが、背景として姿を消そうとしている。たとえていえば電車の心地よい騒音は、読書に没頭する乗客の耳には聞こえていないかのように。しかしふと我にかえるように、ふと図と地が逆転するように、この建築は再登場する。

《豊島美術館》がもたらすのは、ひとつの宗教空間であり廃墟である。たとえば寺、教会、モスク・・・がとうとう人がいなくなり廃墟になったとしよう。誰もいなく儀式もなされなくなったら宗教施設としての機能ははたせない。しかし、だからこそ、より純粋により崇高に宗教的になってしまうような例はしばしば報告されている。

宗教性なき宗教建築。霊性なき霊性。

ある音楽家は、かすかな震え、たとえば風が枝や張られた弦をうごかすかすかな音が、人間を異界にいざなうという。

現代の日本建築のひとつの傾向。建築がもたらすさまざまな現象に、とことんセンシティブになってみる。そのとき人間精神の根底に隠されていた、違う世界への扉が開くのであろう。

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