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2011.12.30

国家へ?

年末ということで研究室OBたちとワインをいただいた。みんな仕事をもち充実した生活をおくっているようであった。国難なので個人的なことをどうこういっていけないが、今年はいろいろ大変であった。来年はいい年にしたいなあ。というわけで愚痴と説教しかないよと前もってことわったらそのとおりになったなあ。ごめんね。でも繁華街のレストランだが、狭小住宅的な隠れ家的なお店で、よかったなあ。

という(どういう?)わけでぐちぐちいいながら、一年を懐古していたが、結局、年末に読んだ数冊を思い出していた。

まず隈研吾『新・ムラ論TOKYO』(集英社2011)。東京のムラはいいけれど、日本中の限界集落はどうするのであろうかと思いつつ、業界話も速射砲のようにとびだすテンポのよさに一気に読了。東京の都市空間の空虚さという一節が印象にのこった。東京については、前項でいったように、武家屋敷的マチョイズムがずっとのこっていることが、成熟や発酵をさまたげているのは明らかなように思える。たんなる横町なのに国家の影が消えていないのである。

西岡秀三『低酸素社会のデザイン』(岩波新書2011)は研究所、大学、シンクタンクが調査したかなりしっかりした本。エネルギーやCO2を指標にして、産業構造がかわる、あるいは産業革命そのもののリセットというコンセプトは魅力的であった。ただそれが知識産業という結論ならもうすこし深めてほしかったなあ。でも参考になりました。

田澤耕『ガウディ伝』(中公新書2011)はとてもよく書けていた。建築畑の人間が建築家伝記をかくとあまり面白くないが、それはメタ建築概念を設定するからである。だから建築畑でない研究者の書くもののほうがよいことが多い。ぼくがバルセロナで注目するのが、1868年に建築大学が設立されて、そこで育った建築家たちがちゃんと地域を背負っていること。これは100年ずらすと戦後日本の新設大学における建築学科の構図となる。なにが違うかというと、いかに高度経済成長期であったとはいえ、やはり日本では技術偏重であったのではないか、ということ。

岩井克人『もう一度、「貨幣」と「資本主義」を語る』(「現代思想」2011年3月号)。グローバル化のなかで国家の役割(機能)が再認識された、という指摘。市場原理至上主義の風潮のなかで、何人かの経済専門家はそれに対抗しうるものとして国家の存在をあげていて、それがぼくのような人間の耳にまで届いてしまうのだから、これはけっこう大きな声なのではないかと想像する。大震災の経験で、共同体の重要性を再認識しつつ、しかし国家のそれをも再認識させられたのではないか。

村上隆『チャリティーオークション「New Day」』(「美術手帖」2012年1月号)もまた、アーティストが国家をどう背負うかが明快にアピールされている例だとうけとめられる。

おなじ号の平田晃久『メタボリズムの発酵』(「美術手帖」2012年1月号)は、メタボリズムという有機体モデルを、共時的なある形態のモデルではなく、経時的なプロセスのモデルとしてきわめて正統的にとらえ直している。そしてタブラ・ラサからの出発としてのみ構想された過去を批判しつつも、本来は、既存コンテクストや自然環境から出発することこそ可能性の核心であることを(これまた正統的に)指摘している。ただこれはメタボリストたちのというより、平田さん自身の可能性なのであろう。そのように解釈したうえで期待をしたいと思う。

さらにいえばメタボリズムはたんに理論的モデルであったのか、あるいは背後に国家像があったのではないか、というのが重要なポイントであろう。

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