« A book review on Rem Koolhaas' Project Japan | トップページ | 会議>展覧会>学会>展覧会>学会・・・・ »

2011.11.04

福田晴虔『ブルネッレスキ』中央公論美術出版2011

長崎は今日も雨だった。のではなく、晴れていた。そんな長崎に日帰り出張し、車中で福田先生の近著を読みあげ、長崎につくころにはトランス状態になっていた。

ブルネッレスキの代表作を網羅し、アトリビュートもあやしいものもとりあげ、多くの先行研究に言及している。いつもながら文章もこなれていて読みやすい。建築を論じて格調高いという、近年では希な書き手となられてしまった。

内容解説をここでするわけにはいかないが、印象にのこったことを二三書く。というか一点に絞られるかもしれない。つまり先行研究にたいする批判的スタンスである。

ブルネッレスキは、前ルネサンスであった、古典主義といいっても厳密にはそうでない、という20世紀の代表的な通説にたいする批判。欧米の学者が、透視画法の重要性を過大評価することにもとても批判的である。

ネオプラトニズムの視点からブルネッレスキを分析しようとする視点にたいする批判。やや唐突に表明される。しかしパノフスキ-、ウイットカウアや、それに影響をうけたコーリン・ロアらの近代建築=ネオプラトニズムという視点が20世紀を支配したのにたいし、それを批判しようとしているのは、明らかだ。おもうにネオプラトニズムは古代アレクサンドリアに集結し、都市の崩壊とととも散逸したが、ワールブルク学派によって20世紀ふたたび統一的な像を結ぶようになる。建築史の研究において、ルネサンス建築の背景としてネオプラトニズムが注目されたなどという逸話的なものではなく、一種の「知の構図」であった。日本人研究者による成果は相対的に少ないが、それでも70年代はネオプラトニズムの一種のブームであったこと、たとえば三宅理一『エピキュリアンの首都』は神秘主義思想に注目することによって、その時代的刻印なのであった。そういう20世紀的パラダイムにたいして批判的なスタンスをとる。

さらにはルネサンスの建築家たちが「デコルム」という(社会的体面を建築表現において重視すること)理論を重要視したという歴史観にたいし、ブルネッレスキはそうではなかったと指摘する。これはジョン・オナイアンズ『意味を担うもの』への批判であろう。

このように20世紀における支配的であった理論をことごとく批判している。学者の辛気くさい実証主義ではなく、血の気の多い論が躍動しているのである。そういう意味でも、建築史の文献としては、ひさしぶりに挑戦のスタンスをはっきりさせたものといえるし、福田先生らしいともいえる。そしてこの視点は、ブルネッレスキ解釈のために見いだされたというより、福田先生自身の建築観をなす一部なのではないか。

建築史家はじぶんの建築観を過去の建築や建築家に投影する。だから建築史はたんなる過去の真実の発見であるにとどまらない。演出かもしれない。しかしそれでよい。ヴィオレ=ル=デュクがなしたのはそういうことであり、中世観としては問題があっても、未来を準備できたのであった。

磯崎新はブルネッレスキをテクノニヒリズムであるとする。福田先生は、ブルネッレスキは建築をある種の純粋な初期状態に還元し、建築そのものにアプローチした、というような説明をされる。序文ではじぶんは形而上学的な建築論はしないといいながら、でも、本書を貫いているのは、ぼくなりにいうと建築の純粋状態、すなわち形而上学的にまでなった形而下の建築、といいようなことであろうか。ほどほどにするために予防線をはるなどなさらずに、核心的な論考を続けられたいものである。

|

« A book review on Rem Koolhaas' Project Japan | トップページ | 会議>展覧会>学会>展覧会>学会・・・・ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 福田晴虔『ブルネッレスキ』中央公論美術出版2011:

« A book review on Rem Koolhaas' Project Japan | トップページ | 会議>展覧会>学会>展覧会>学会・・・・ »