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2011.10.09

磯崎新+浅田彰『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』

鹿島出版会からいただいた。ありがとうございます。

有名なany会議の記録の一部であり、既刊の『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』と『建築と哲学をめぐるセッション』をひとつの箱に収めたものである。Ten years after Anyという英語の副題もあり、位置づけも明快である。限定版らしく、いただけたのは名誉なことである。

内容については本ブログでもすでにふれたのでサマリーのようなことは書かない。しかし本書をどのように読めばいいかについて、アイディアを述べておくのもよいかもしれない。

かつて読んだことを思い出し、ぱらぱらと拾い読みしながら感じたのは、いろいろな意味で、20世紀の本だなあという、きわめて当たり前のことであった。

20世紀をしめくくる時期にany会議は開催された。この知の饗宴はありとあらゆる建築知を対象としているとはいえ、やはり20世紀の作品や理論がおもな対象である。さらにany会議はすぐれて批評・批判の営みとして展開されたが、それは19世紀的近代にたいする20世紀の批判的スタンスというおおきな構図をきわめてオーソドックスに継承している、そういう意味でも20世紀的なことであった。

そしてそうした20世紀的スタンスがもはや有効でないことを確認している点でも、20世紀的である。つまり、もはやだれも理論を構築しようとしないし、思想をマニフェストしようとしないし、世界を再構築しようとする普遍的プロジェクトを作成しようとしない。20世紀的な展望がもはや描けない傾向を指摘しておわるこの書は、そういう意味でも、20世紀を締めくくろうとした、積極的な意味でも20世紀的な書であるという強い印象を与える。

ではどう読めばいいか?一連のany会議では、直接話題にならなくとも、やはり、20年代アヴァンギャルドの建築、30年代の公共的政策の建築、40年代の総動員体制の建築、60年代のラディカルの建築、70年代のコンサーバティヴの建築を論じ、それらを批判的に対象化する。しかしそれぞれの年代の議論もまた、それ以前の建築を批判的に対象化してきた。ということはany会議は、あらたな読者にとっては、もはや一方的に批評・批判する特権的な視座ではなく、それらと一体として論じられるべき対象となった、ということである。Ten years after Anyという副題はそれを意味している。あとに続く読者たちは、そのように読めばよい。そこに20世紀末の知の饗宴とともに、1世紀にわたる豊穣な言語空間を堪能することができるであろう。

とはいえany会議が20世紀的なものに完全に埋没するのでもない。その終わりを自覚的に宣言しているからである。

では、20世紀的パラダイムが有効性をうしなおうとしているとしたら、どのようにすればいいか。どう行動すればいいかはぼくにはわからないが、どういう認識の枠組みをもてばいいかは、ぼくなりにわかるような気がする。

20世紀はそれまでの伝統や過去から意図的にみずからを分離しようとしたのであったが、もし20世紀的なももの終焉をいうなら、なおさら20世紀の仮想敵が浮上する。それは19世紀である。19世紀もすでに近代であった。テクノロジーも、理論も、新しい社会像も、そこに源泉がある。20世紀は19世紀におおくを負いながら、前世紀をしっかり認識しつつ意識のなかでは無視して展開してきた。その20世紀的なものが有効でなくなったとき、19世紀に回帰するのではなく、19世紀→20世紀→21世紀とつながる展開を構想するというようなことであろう。

ともあれany会議がかりに生産的だったとして、ぼくたちがその成果にいろいろ負っているとして、その恩恵を活かす道は、この会議の枠組みや支配している領域の、その外に出てみる、というようなことであろう。

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