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2011年10月の5件の記事

2011.10.31

寺松康裕さんの講演会

元新建築編集長である寺松さんを大学にお呼びして、講演会を開催した。

20世紀全般を説明しながら、そのなかでポスト・モダンさらには谷口建築を論じるというおおがかりなもので、編集者にしか知り得ないような逸話もすくなからず紹介していただき、面白かった。

レーモンド、坂倉準三の戦前のプロジェクトは、写真もきれいで、雑誌に掲載されたレゾリューションの悪い写真とはけたちがいに、なまなましい迫力があった。

いろいろ面白かったが、これはここだけの話しかなあ、いろいろなところで話されることかなあ、など判断できないので、すこし控えめに報告するのだが。丹下健三など戦前の建築論は圧倒的にドイツ観念論の影響下にある。などということがあらためて強調される。すると寺松さんやぼくの世代は、どうみたって構造主義を中心とするフランス現代思想のやはり圧倒的な影響下にあったのだな、と。するとそのあいだにマルクス主義があるのだろう。さらにはフランス現代思想のあとは、ニューアカ、カルスタなどがつづくのであろう。ただそのあたりになると思想というしっかりした輪郭はないような気がする。するとドイツ観念論→唯物論→(実存主義?)→フランス現代思想→???という20世紀の流れが、建築界にも影響をあたえていた。課題は、思想界と建築界の相関関係?のようなものであろうか。

フィリップ・ジョンソンの悪魔的なところなど学生たちは知らなかったようで、驚いていたようであった。亀倉雄策による表紙のこと。また谷口親子の創作秘話など、面白かったようである。

夜は大名にある某鮨屋でおもてなし。建築アーカイブ、建築博物館あたりのまじめな話からはじまって、メタボリズム展など、最後はだれがどうした話になる。二次会はバクという70年代ジャズ喫茶風の店でウイスキーを。おおいにもりあがった。

余談。

週末は半日かけて、自宅の書架(棚の総延長10メートル)、台所棚、オーディオ・ラック、ITラックを自作して整備。ちかくの材木屋に裁断図をわたして、納入してもらってから自分で組み立てる。今回はボンドをいっさい使わず、ビスだけで固定する。それができると書籍やCD、DVDの整理整頓。

日曜の夜は情熱大陸(重松象平さん)をみる。彼は優秀な人材なのだが、いかんせん取材側が建築をわかっていなかったので、質問は的外れ、彼の建築観や都市観は伝わってこず、途中でスイッチを切ろうかとなんども思った。

翌日、同僚たちとランチ。情熱大陸のそのことを話したら、情熱があればいいのですよ、とたしなめられた。facebookでもみんな肯定的であった。どうもぼくの反応はよろしくないようであった。西沢さんの新建築巻頭論文が面白かったという話題がきっかけで、サスキア・サッセン、貧困産業、経済のスラム化、シェアハウス、日銀の政策、森本卓郎の200万円論などの関連話題がでてきた。時代はかわった。

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2011.10.25

南明日香『荷風と明治の都市景観』

・・・を送っていただきました。ありがとうございます。

永井荷風は1903年~1907年にアメリカはワシントンDCとニューヨークなどに滞在し、フランスには1907年から1908年までいてリヨンとパリをみたそうである。この書では、当時のアメリカやフランスの諸都市、そして東京の都市的状況や同時代プロジェクトを丹念に掘り起こし、荷風が目撃し批評したものを再現し、荷風とともに1世紀前の近代都市を目撃しようとしている。

著者の南さんは景観緑三法にしばしば言及しているように、景観問題に関心があり、その興味から荷風の著作を一種の景観描写として景観論としてよみとこうとしているのである。

ぼくなりに思い出してみると、100年前はいい時代であった。アメリカは空前の経済成長をとげつつあり、博覧会を開催し、シティビューティフル運動を展開していた。フランスは、オスマンのパリ改造もすでに過去となり、動乱の時期をすぎ、爛熟の時期をむかえた。1902年の法改正で、街路に面した建物は路上への張出しがゆるされたり、ファサードコンペが開催されたりした。美しい都市景観への意識はたかまっていた。日本でも、市区改正事業がなされていて、西洋化と近代化がなされていた。

荷風は日本人として、作家として、20世紀初頭の近代都市の変革を目撃し、意図してそれを文章として記録した。

荷風はどんな視点から、近代都市を観察していたのか。ワシントンDCの議事堂、丸の内のオフィス、帝国劇場などだったらしいから、ようするに最新プロジェクトを追っかけてもいた。もちろん江戸的な景観や、スラムにも関心があった。しかし「一国首都として」というように、彼はストレートにモダンであり、単純な欧化主義ではないにしても、日本の西洋風建築にはいたって不満なように、もっとオーソドックスなモダンを望んだようだ。

でも荷風は、自分が目撃した都市には、もっと別の読みとりかたがあることには気がつかなかったようだし、激動の20世紀初頭にあって10年後20年後には自分が目撃した都市がまったくあたらしフェーズに突入したことにも、注意を払っていないようにおもえる。

たとえばワシントンDCの中枢部分の新古典主義化は、一国の首都というより、あらたに形成されつつあったスーパーパワー・アメリカの帝国的中心であった。1920年代の狂乱の時代には、アメリカはまったく別の都市像を提供する。ヨーロッパの都市のなかで近代建築運動が始まるのは1910年代であるし、第一次世界大戦と世界恐慌はまったくヨーロッパ都市を変えてしまう。

荷風がもし違う時期に西洋の都市を見ていたら、どう記述したのであろうか。興味はつきない。

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2011.10.20

International Conference on Green Urbanism 2011

(English version below)

という国際シンポジウムのためにマニラにいる。

シュテフェン・レーマン教授という「グリーン・アーバニズム」の提唱者をキーパーソン・キー講演者にすえて、都市や建築やインフラを多角的に論じるものである。日本とフィリピンの研究者たちのほか、多国籍パネラーたちによるテンポのいい語りが印象的であった。聴衆にも大学教員や研究者や行政の人たちなど専門家が多く、質疑応答も活発であった。

レーマン教授は20年ほどまえにしばらく磯崎事務所で働いていたそうで、知日派・親日派であるようだ。お声をかけていただいたが、磯崎さんの話題でもりあがった。

どのシンポジウムもそうなのであろうが、質疑応答というものは、予想と実際がずいぶん異なる。質問をする専門家たちは、なによりも現状への不満、政治家への不信、状況の困難さを訴える。シンポジウムはガス抜きとして機能する。ただマニラでは、それらも明るくカラッとしていて、なにか祝祭的である。、

ぼくは立場でやってきたにすぎなかった。なにしろ1カ月前に出張がきまったが、どういう会議でどういう内容か、知らなかった。しかしシンポジウム開催者である2大学の一方の代表ということで、研究発表はしなかったが、講演者全員に記念と感謝の楯を手渡すという儀式を午前のセッションと午後のセッション、2回おこなうこととなった。これも会議が始まってから知らされたことではあった。しかし国際親善をし、自分の大学を宣伝するという効果は大きかったと思われる。

フィリピンは初めてであったので、会議をぬけだして1時間、2時間のエクスカージョンをする。フィリピン大学の先生に車と運転手を提供していただいた。あちこちいったといいたいが、なにしろ交通渋滞がひどく、ゆく範囲は限られていた。ただそのこと自体がここの都市の課題であって、なにからなにまで勉強になる。

都市のカオティックな様相などにいまさら驚く歳ではないが、マニラという都市は、スペイン支配時代の旧市街地はすこしばかり歴史性を感じるが、そのほかは歴史性は希薄である。近代都市というくくりもないではないが、19世紀が決定的に乏しい。インドなどでは植民地支配は19世紀からあって、そのため19世紀の折衷主義の建築としてかなり立派なものがずらっとならんでいたりする。そういうところでは植民都市もそれなりに威厳と深みがある。マニラにはどうもそれに相当するものがない。

グリーン・アーバニズムであるが、「都市計画のコンセプト」という括りでみると、面白いかもしれない。1世紀前には田園都市という概念があったわけだが、これは19世紀都市の諸問題という時代性をよくとらえていて、汎用性のあるモデルを提案していた。コンパクトシティ、ニューアーバニズム、エコタウン、クリエイティヴシティ、ナレッジリージョンズなどなどの概念も、それまでのモデルを批評し、代替案を出すというきまった手法がみられる。またこれらには共通する部分もかなりある。そうしたなかで「グリーン・アーバニズム」が存在感を出すには、なにか戦略が必要かもしれない。フィジカルな完成型をあえて出していないところは、より汎用性があるかもしれない。

夜はフィリピン大学の先生たちと夕食をご一緒して、これから共同でいろいろやっていく約束をした。実質2日間のステイであったが、とても実り多かった。

 In this International Conference on Green Urbanism 2011 held in Manila, having Professor Steffen Lehmann, an advocate of green urbanism, as a key lecturer, we discussed city planning, architecture and infrastructure issues from different points of view. Besides the Japanese and Philippino researchers, the multi-national panelists gave well-articulated presentations. There were many experts including university teachers, researchers, and administrative people in audience, who raised many noteworthy questions that warmed up the discussion.

 For having worked for Arata Isozaki in Tokyo about 20 years ago, Professor Lehmann seemed to be pro-Japan, who kindly asked me to join conversation with him, and we shared many topics around Mr. Isozaki.

 

As it is the case with many symposia, the session called question-and-answer turned out to be very different from one's expectation. The experts asking questions to the panelists complained their dissatisfaction to the present conditions, their distrust of politicians, and difficulty of the situations above all. The symposium seemed to function as to give vent to one's grievance. Even so, when it comes to Manila, these grievances are never gloomy, instead, I found a good-humored, almost celebrational atmosphere there.

 

I was there in Manila as the vice-dean and the trip was planned only a month ago, and I was not even informed of the themes and contents of the meeting then. However, as a representative of one of the two universities hosting the symposium, for each session in the morning and in the afternoon, I performed a ceremony to hand all the lecturers the shield of memory and thanks. It was a sort of promoting international amity, and may have some effect to promote my university as well.

 

For it was my very first visit to The Philippines, I sought to make some short excursions to downtown during the meeting.

 

The local professors kindly offered us a car and a chauffer. To my disappointment, the traffic jam was so heavy that our excursion was limited to a very small area. But this traffic jam itself is one of the problems of the city, and it gave me a good study.

 

I am not so young to be surprised at in the chaotic aspects of the city now, but I found the city of Manila as a whole, besides the former city area under the Spanish regime, scarcely embraces a sense of history. There may be some characteristics of modern city, but the 19th century left few traces. As in Philippine, there was the colonial rule in India from the 19th century, but the difference is that there we find considerable amount of buildings today bearing eclectic architectural legacy of the 19th century. In such colonial city still remain a kind of dignity and richness, but for some reasons, in Manila the situation seems to be different.

 

Green urbanism may be interesting issue as this notion may be seen in scope of "concepts of city plannings". There was a concept called the garden city a century ago that captured the contemporary nature of the problems of the city in the 19th century and suggested a universal model for the coming era. The concepts such as compact city, new urbanism, eco-town, creative city, knowledge regions always serve to deny former models, and they all seek to explore alternative plan. Moreover, they overlap each other. Thus, the green urbanismh may need a certain strategy in order to become an effective model. However, for not having completed form, it may have more versatility than other models.

 

At the end of the trip, I joined the dinner table with the faculty members of the Philippine University, where we reached an agreement on our academic collaboration. Although it was just a 2-day stay, we both had a fruitful result.

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2011.10.16

シンポジウム『パリという首都風景の誕生』

仏会館のコンフェランスにパネラー招待されたので、土曜日は恵比寿までいってきた。

 美学、美術、文学、経済、建築(ぼく)などの多様な専門家たちが19世紀首都パリの景観を論じるというもので、面白かった。初対面の先生がたばかりであったが、さすがパリ、いきなりでもかみ合うものであった。

 19世紀の公園整備、ペール・ラシェーズ墓地の詳細な埋葬文化、日本人文学者がこの墓地にどのような観念をいだいたか、労働者住宅の経済学的な意味など、けっこうな話を聞けた。労働者住宅を経済学の観点から分析されたものは、近代住宅史をライフワークとしてものしたいという野望をいまだに捨てられないぼくにとってはとても参考になった。美学や文学で19世紀をやっている先生方は、アーティストや文豪についてもみならず、専門性に配慮してそれほど語らないが、建築家についてもしっかりチェックしている、ということもよくわかった。

 ぼくは「首都空間の聖性」というお題で、19世紀の霊廟や教会について話した。まず19世紀以降は、革命でキリスト教の教団組織がいちど解体されたあとの、世俗性社会のなかでの宗教建築というところに、再考すべき大枠があるのではないか、ということも枠組みとして大切だということも強調した。行政が教会建築を指導するということが、宗教団体に篤いというより、宗教への介入である。もちろんこのような大問題は、30分そこそこで論じ尽くされるものではないが。

 具体的にはパンテオンや、ペール=ラシェズ墓地や、サクレ=クールといった超メジャー物件。それからサントーギュスタン教会、ラ・トリニテ教会、サント=クロチルド教会といったすこししぶい物件。オーソドックスな物件ばかりであるが、最新研究を反映させたつもりである。これを機会に研究史的なまとめもした。それからパンテオンが19世紀の政権交代とパラレルに、霊廟になったり教会堂になったり、揺れ動いたという話し。またサクレ=クールにおけるビザンチン様式の文化的・政治的背景がじつは(故意に?)はっきりしない、というような話など。

 パンテオンにつての浩瀚なモノグラフを読んでいると、とあるパッセージに遭遇した。こんなことがかいてあった。ペール=ラシェーズ墓地には1830年の七月革命で犠牲になった自由派の人びとが埋葬されている。だから自由派の人びとが政治集会などをする場合は、まずペール=ラシェーズ墓地で集会する。しかし19世紀のある時期に、パンテオンが自由派埋葬的な役割をにないはじめると、自由派はまずパンテオンで集会をもつようになる、云々。といったことがわずか数行でふれられてるが、そこはとても興味深い。パリのなかで、教会や霊廟や墓地などがネットワークをなし、そのなかで神様や偉人や聖人などの配置が、政治的状況などを反映してたえず再編集されてゆく。そういう変転する構図があるのではないか、というのを結論とさせていただいた。

 ところで、他の先生のお話もちゃんと拝聴していたのだが、ぼくの脳のなかで「建築史学のメタ学問的構図」のようなことが、むくむくと登場してきてしまった。どうもぼくの脳は、目前の対象にぴったりピントをあわせるということが長続きせず、横滑りして、メタ的なことを考えてしまうようである。ほっておくと白昼夢の世界にいるのと同じようになって危険なのであるが、今となっては性癖でもあり芸風でもあるという、困った状況である。

 メタ学問の構図?それは宗教建築の宗教性というのはどういうことか、という根本的なことである。いいかえれば教会建築の「宗教性」と「建築性」というまったく異次元のこと2面があって、その二元論そのものがぼくたちの建築史学のパラダイムであり、モダニティであるというようなことである。

 通常の西洋建築史では、空間性が軸にされる。ロマネスクは空間モデュールの並置、ゴシックは上方、奥への空間の運動、ビザンチン建築は空間の流動・・・というように。これは20世紀の空間志向の建築史という一般的な枠組みのなかで、ペブスナーが諸研究をとりまとめたものである。つまり宗教建築の宗教性をつとめて脱色して、純粋建築言語にまで高めたものである。それから19世紀のイギリスで、ゴシックを初期、盛期、後期にわける時代区分が発展したが、これはほとんど標本学のようなものであった。ここでも宗教的ではなく世俗的である。それから教会堂設計の流れを、古典、ゴシック、ロマネスク、ビザンチンというような様式運動の歴史として描くオーソドックスな史観であるが、様式の戦いということを媒介として、政治や宗教と関係はなくはないとしても、やはり様式分類学という自律したニュートラルなものに転化してしまう。そしてそれは宗教的ではなくきわめて世俗的である。

 もっとも日本建築史では、おなじ二元論とはいっても、もうすこし距離は近いような印象であるが、ハイスパートの専門家の先生におまかせしたいところである。

 ここでふたたびハタと気づいたのであったが、まさにこれは宗教建築を世俗的な枠組みで読替をするものである。だから大きくは、(近代に構築された)建築史は、19世紀の世俗主義を反映している、あるいはすくなくとも、パラレルである、というようなことだ。

 では宗教建築の宗教性を強調するような研究はありうるだろうか。

 それは難しいか、つまらないかのどちらかであろう。なぜなら宗教儀式が空間構成にどう反映されているかというような研究は、基礎的研究としては重要であるが、なにか建築平面学の応用のようなものになるであろう。ゴシック建築がスコラ哲学を反映しているというのも、パノフスキーがやると格調高いが、これもたんなる反映論であるような気がする。宗教建築の宗教性を問うような研究は意外と難しいのではないか。それは、それほどまでに建築史という学問そのものが世俗性原理に起源をもつからなのである。

 では建築史学の世俗性原理そのものを改めるか?といわれれば。そこまではしないであろう、とは思うのであるが。

・・・というようなことを飛行機のなかでワープロし、自宅でブログにアップした(のがこれである)。明日は同僚のT先生につれられてフィリピンである。

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2011.10.09

磯崎新+浅田彰『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』

鹿島出版会からいただいた。ありがとうございます。

有名なany会議の記録の一部であり、既刊の『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』と『建築と哲学をめぐるセッション』をひとつの箱に収めたものである。Ten years after Anyという英語の副題もあり、位置づけも明快である。限定版らしく、いただけたのは名誉なことである。

内容については本ブログでもすでにふれたのでサマリーのようなことは書かない。しかし本書をどのように読めばいいかについて、アイディアを述べておくのもよいかもしれない。

かつて読んだことを思い出し、ぱらぱらと拾い読みしながら感じたのは、いろいろな意味で、20世紀の本だなあという、きわめて当たり前のことであった。

20世紀をしめくくる時期にany会議は開催された。この知の饗宴はありとあらゆる建築知を対象としているとはいえ、やはり20世紀の作品や理論がおもな対象である。さらにany会議はすぐれて批評・批判の営みとして展開されたが、それは19世紀的近代にたいする20世紀の批判的スタンスというおおきな構図をきわめてオーソドックスに継承している、そういう意味でも20世紀的なことであった。

そしてそうした20世紀的スタンスがもはや有効でないことを確認している点でも、20世紀的である。つまり、もはやだれも理論を構築しようとしないし、思想をマニフェストしようとしないし、世界を再構築しようとする普遍的プロジェクトを作成しようとしない。20世紀的な展望がもはや描けない傾向を指摘しておわるこの書は、そういう意味でも、20世紀を締めくくろうとした、積極的な意味でも20世紀的な書であるという強い印象を与える。

ではどう読めばいいか?一連のany会議では、直接話題にならなくとも、やはり、20年代アヴァンギャルドの建築、30年代の公共的政策の建築、40年代の総動員体制の建築、60年代のラディカルの建築、70年代のコンサーバティヴの建築を論じ、それらを批判的に対象化する。しかしそれぞれの年代の議論もまた、それ以前の建築を批判的に対象化してきた。ということはany会議は、あらたな読者にとっては、もはや一方的に批評・批判する特権的な視座ではなく、それらと一体として論じられるべき対象となった、ということである。Ten years after Anyという副題はそれを意味している。あとに続く読者たちは、そのように読めばよい。そこに20世紀末の知の饗宴とともに、1世紀にわたる豊穣な言語空間を堪能することができるであろう。

とはいえany会議が20世紀的なものに完全に埋没するのでもない。その終わりを自覚的に宣言しているからである。

では、20世紀的パラダイムが有効性をうしなおうとしているとしたら、どのようにすればいいか。どう行動すればいいかはぼくにはわからないが、どういう認識の枠組みをもてばいいかは、ぼくなりにわかるような気がする。

20世紀はそれまでの伝統や過去から意図的にみずからを分離しようとしたのであったが、もし20世紀的なももの終焉をいうなら、なおさら20世紀の仮想敵が浮上する。それは19世紀である。19世紀もすでに近代であった。テクノロジーも、理論も、新しい社会像も、そこに源泉がある。20世紀は19世紀におおくを負いながら、前世紀をしっかり認識しつつ意識のなかでは無視して展開してきた。その20世紀的なものが有効でなくなったとき、19世紀に回帰するのではなく、19世紀→20世紀→21世紀とつながる展開を構想するというようなことであろう。

ともあれany会議がかりに生産的だったとして、ぼくたちがその成果にいろいろ負っているとして、その恩恵を活かす道は、この会議の枠組みや支配している領域の、その外に出てみる、というようなことであろう。

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