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2011.08.20

白井晟一の建築は母性原理かどうか

MAT Fukuokaという建築見学ツアーで、講演をした。

代表作、年表をパワポで説明したあと、これまで白井晟一はどのように語られてきたかの、やや独断的なレヴューをする。

磯崎新の『凍結した・・・・《晟一好み》の成立と現代建築のなかでのマニエリスム的発想の意味』(1968)はマニエリスム論の、磯崎新『破砕した断片をつなぐ眼』(1978)はバロック論の展開である。同『フラッシュバックする白井晟一』(2010)は「書」をとおしての分析であるし、非近代的アナクロニズムとしての建築家を描いている。

白井昱磨『「原爆堂」を読む』(2010)はこのモニュメントの神聖さの由来の解釈である。松隈洋『白井晟一の見つめていたもの』(2010)は、アナクロニックな白井晟一とモダンな前川国男のパラレルストーリーである。布野修司『虚白庵の暗闇』(2010)は、日本近代を相対化するための梃子として白井晟一を位置づけようとする。

本質的なおもしろさと自分にとってのおもしろさはかならずしも同じではない。今回は長谷川堯『呼びたてる〈父〉の城砦』(1972)が興味深かった。長谷川は、白井の建築のなかに父性をみようとするからであった。「建築が成立してはじめて人間が存在した」という。建築とその空間は、人を人たらしめ、父を父たらしめ、王を王たらしめる。自邸《虚白庵》はそのような建築であり、そこにあって白井は、その父の「子」なのであった。そして原爆堂もそのような父の建築なのであった。原爆堂は高熱によって蒸発してしまった犠牲者たちを呼びたてているのであった。

1970年代の建築批評にあって、雄的/雌的、明治的/大正的といった二元論を構築した長谷川堯の批評はたいへん刺激的であった。この「父」論もその熱気が感じられた。

ぼくはぎゃくに「母性原理」が説明できるのではないか、と思ったからであった。

白井晟一は1928年から1933年までヨーロッパに滞在し、ゴシックの大聖堂をときどきはみていた。

その10年まえ、バタイユは『大聖堂La Cathédrale(1918)を書いている。第一次世界大戦に出征したフランス人兵士を見送り、敵によって殺された同国人たちを見守り、そして自身もまた放火され破壊された、聖母に捧げられたランス大聖堂。「たとえ廃墟になっても大聖堂は我々のなかで、死にゆく者のための母親として在り続けるだろう」。母なる大聖堂の光のなかで人びとは埋葬されている、と書く。

さらにその20年前、ユイスマンスは『大伽藍 La Cathédrale(1898)を書いている。シャルトル大聖堂ほど「聖母がかくもまでも深く礼を尽くされ、かくまでも溺愛され、かくまでも完全に一領土の支配者として公認されている場所があろうか。」「この大聖堂は聖母の寝所たる特権を有する。」

ユイスマンスはまた、ゴシック=森のアナロジーにふれ、ドルイドやゴート族に遡及できることを示唆し、聖堂=船のメタフォアにも言及し、無原罪のマリアをも強調する。つまり聖なる意識の中身において、現代人はそこからそれほど遠ざかっていない。

メンタリティの歴史を解明するのは容易なことではないし、聖母崇拝もまたどこまで普遍的なのか近代的なものであるのか、自明ではない。しかし、聖母崇拝はいろいろな時代と地域にみられるといっても、大聖堂を母性原理でよみとくこのような心性は、ロマン主義の時代にも類例はほとんどないのであって、すくなくともユイスマンスやバタイユが、大聖堂に母性原理を見いだしたことは、たんなる紋切り型でもないであろう。

白井晟一がヨーロッパのゴシック大聖堂を見たのはユイスマンスやバタイユと地続きの時代なのであって、彼がユイスマンスやバタイユの著作を読んだ可能性はほとんどないしにても、大聖堂のなかに母性を感じ取っていたとしたら、それはまさに同時代的感性においてであったのではないか。

そして原爆堂、親和銀行コンピュータ棟などは母性原理でできた建築だと解釈することはそれほど唐突なこととはおもわれない。

それにしても川添登はいつ新建築社をやめたかなどに詳しい学生もいた。オーディエンスを甘めに想定していたことは反省点。

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