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2011.07.09

7月7日

 出張のあいま、いろいろのぞいてきた。展覧会のはしごもできて、首都圏は便利である。

 竹橋では「パウル・クレー展」。人が多くておどろいた。ポンピドゥーセンターでル・コルビュジエ展をやったって、これほど集まらないであろう。すべての芸術は実験であるといえるが、クレーはとくにそうであろう。絵画をテーマとする絵画。色とはなにか、線とはなにか、を探求する。それは十七世紀の素描か色彩かの論争の構図をも回想させる。しかしそれだけでは人気はでない。その秘密をあれこれ想像した。ぼくなりの推測は、クレーの作品はとにかくかわいい。

 ギャラ間では「五十嵐淳 現象の構築」。これもやはり実験なんであろう。空間の輪郭とはなにか、あるいは空間と空間の関係はなにか、を実験している。しかしそれをいくつかのカテゴリーに分類したことで実験完了とするのでもなく、うまいキーワードで締めくくるのではなく、さまざまなスタディをしてゆく。そういう意味ではこれも建築をテーマとする建築、なのであろう。なにをやりたいかははっきりしていたし、年寄りからすると、プロデュースしてみたい建築家なのであろう。

 乃木坂つながりで21-21 Design Sight「倉俣史郎とエットレ・ソットサス」。ソットサスの初期のスタディをみれたのは面白かった。八十年代の反モダン。展覧会というのは作品やパネルによって、単品ではできない、広がりと空間を与えることに尽きるとおもう。そういう意味ではよくできた展示だとおもう。でも2011年という視座とはマッチしなかったような印象である。ぼくのテンションはあがらなかった。

 GA Gallery、INTERNATIONAL 2011展。ひとつひとつのプロジェクトは強烈である。しかし全体として均質感が支配していた。プレゼは同じソフトで制作されているように見えるし。均質化へむかうのはこの展覧会のせいではなく、グローバル建築そのものがそうなのであろう。ここでもテンションはあがらなかった。

 移動の途中、東京オペラシティをのぞいた(初見であって、そんなものである)。アートギャラリーでは「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」 が終わっていて、sanaa展の準備をしていた。ずっとまえに指摘されたことだがエンクロージャ型の都市空間。都市のアイランド、島宇宙である。ある都市計画家が日本にはいわゆる都市型建築が不在なのであって・・・ということを指摘していたが、その認識の遅れと当事者意識のなさに唖然としたことがあった。都市型建築のない日本の都市では、このような幕の内弁当的な島宇宙ができる。20世紀末から21世紀初頭への傾向として、ヒルズ、ミッドタウンなどが一括してやがて歴史的対象となるであろう。「幕の内弁当型」都市プロジェクトとして。弁当は日本の十八番である。

 恵比寿の都写美では「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」。必見だとおもう。 侵略者たちよりも、なによりチェコスロバキアの人々の表情がよくとらえられている。それは彼らの尊厳、抵抗の意思を写している。なによりこの「意思」を記録することが写真家の目的であった。ところでそれ以降(それ以前から?)、西側のひとびとの恐怖はロシアのタンクがやってくることであった。おもうにタンクによる蹂躙は、まさに大陸的かつ20世紀的であった。

 建築史研究者の集まりもあった。渡辺真弓さんが建築史学会賞を受賞したそのお祝いパーティである。大学院進学したばかりのころ、彼女に研究室ではじめておめにかかった。美しく聡明な先輩がいるんだと思ってショッキングであった。ロンシャンはどう綴るの?フランスやっているんでしょ?といかにも頭の回転がはやそうで、でもとてもさわやかにいわれ、とめどもなく混乱していったものであった。・・・大昔の話しである。でも受賞おめでとうございます。

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