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2011.05.25

八束はじめ『メタボリズム・ネクサス』

オーム社の三井渉さんから贈っていただきました。ありがとうございます。

大著であるがともかくも夕食後一読した。

メタボリズムの思想的起源を「近代の超克」に求め、1960年代におけるマニフェスト、その後のプロジェクト展開と、グローバル化における限界まで、一気に論じている。噂には聞いていたが、いろいろ新規に取材したり、コールハースと共同でインタビューしたり、といった新情報があるようだ。また最後の丹下研学生ならではの人脈からの情報収集も想像できて、これまでの著作の集大成という側面とともに、八束本愛読者なら、いろいろちりばめられた新ネタを探しながら読むという楽しみ方もできるであろう。

また写真や図版も、確認してはいないが、くやしいけど初見かもしれないと思えるものや、かつてはこの写真だったけれど最近の文献には掲載されないなあ、なんて写真もあった。ネガ再発掘などという作業もされたのであろうか。真相は教えていただくしかないが、そういういみで、じつは写真も見どころで、楽しめた。

素朴な感想。冒頭は面白かったが、だんだん「展覧会のカタログのようだな」と思えてきた。なるだけ多くのプロジェクトを平等に論じようという網羅主義もあるようで、19章におよぶ章は、それぞれテーマ性をもたせ、メタボリズムの多様性を出そうというような意図であると読めよう。ただ(えらそうですみません)全体枠組みと、各論19章のあいだに、中間レベルのストラクチュアがあると読者としてはもっと読みやすいと思った次第です。

全体のフレームは簡素にして明快で、序章の注に書いてあるように、スーパーエゴ(超自我=国家)とエゴ(自我=建築家?)とのフロイト的構造であり、さらに21世紀の状況を説明するためにイド(無意識)や、自身の造語として「アルターエゴ」(分身、日本人が国家を背負ってつくる都市や建築)という概念も準備されている。そして「モダニズム」とはこのスーパーエゴへの熱狂であったと位置づけられている。

これらの構造を下敷きにして、20世紀初頭から21世紀初頭までが論じられている。もちろんいつもの登場人物はメタボリストであり、丹下、大高、菊竹、磯崎など、ごく限られているようなことは、たとえばそれで歴史を代表しているといえるかという歴史畑からの異論も可能ではあろうが、しかしともかくも、江戸・明治・大正ではなくて、20世紀という抽象的時間の幅における日本建築にある一貫した枠組みを与えて描いてみせた、というようなことが評価されるべきではないかと思う。

いっぽうで、歴史叙述の方法として、事実主義にとらわれやすい建築史家とは違ってさすが八束はじめとまで言わないでおこうと思うのは、前述のフロイト的枠組みのせいである。いずれ刊行されるかもしれない本に1年半まえに書いたことだが。稲垣榮三が日本近代建築史の成立を建築運動におけるアーキテクトの「近代自我の誕生」という比喩を使って描いたことが、建築関係者たちへの、まさにイドを拘束しているように感じられる。建築史が人間の精神に喩えられるのは、そういう書き方はいいとしても、じつはそんなに新しくもないかもしれない。八束さんはそんな影響はただちに否定するであろうが、むしろ建築(史)叙述における無意識として潜在しているのではないかと思う時がある。

八束さん自身が本書でのべているが、日本の建築理論に影響をあたえたのは20世紀初頭のリーグルやヴェルフリンのおもにドイツ語圏の美学理論・美術史理論であった。これらの理論は、作品や対象を論じてはいるが、なによりもそれらを見て感じ分析する「視覚の構造」「目そのもの」を論じたのであった。そこからどういうことが帰結するかというと、美術史は、対象そのものの歴史というよりは、観察する「目」そのものを論じたものとなる。

そういう意味では、彼らの美術史文献を読むときは、作品を鑑賞しているのだが、それ以上にむしろ、「ヴェルフリンの目」そのものを読んでいるのだと思った方がいい。そういう意味では稲垣文献は稲垣意識を読むことであろうし、本書は「八束はじめの思想」そのものを読むことの体験なのであろう。

だから前著『思想としての日本近代建築』ですでに明らかだったのだが、本書のターミノロジーを使えば、八束さんはまさにスーパーエゴとしての近代国家を、理論的にきわめて明晰に客観化したうえで、それにもかかわらず(だからこそ?)、背負おうとするエゴ(建築家)であろうとするのだろう、ということになる。歴史観としては、八束さんはそのことの重さを知っているからあえてそうマニフェストするのであろう。つまりこのような形でのスーパーエゴ/エゴの関係は、長い建築史のなかでは、やはり20世紀特有のものであるし、だからこそそもそもフロイトがこの20世紀の固有性を説明するのにこの用語を創案したのであろうし。20世紀の固有性というものが、書く主体、書かれる対象、両方にプリントされていて、その2層のレイヤーを慎重に判別しながら読む、といったスリリングなことをしてみると面白いかもしれない。そうした構造までふまえ、ある世紀を背負う。これは考えてもみればとても重いことなのである。だからぼく自身は、歴史観としては有効と判断しても、そこまではしないであろう、などと考える。アイロニカルにでもなく、シニカルにでもなく、そう思う。

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