« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月の3件の記事

2011.05.28

内田祥哉先生の特別授業

天気に恵まれない土曜日であったにもかかわらず内田先生は大学にいらっしゃって、計2時間以上、自作についてあつく語られた。おもに佐賀市と有田市でかかわられた建築であった。

60年代から80年代までが中心であるが、とくに60年代は日本近代建築史においては、地方の公共建築に建築家たちがかかわった傑作の多い時期である。とくに佐賀県立図書館は、県立図書館としては全国でも初期のもののひとつという。60年代は、そういう意味では地方の主要都市において都市建築が構築された時期であり、戦後民主主義の空間が形成された記念碑的時期かもしれない。それとともに、東京の建築家が、地方の公共建築を手がけるという構図ができた時期でもあろう。ちなみに地方でも建築学科が設立されたのもこの時期であって、その最初の卒業生たちが活躍するのはもっとあとであろう。

今そのようなことを議論する人はすくないが、新制大学における建築教育の全国普遍化がなされたのがこの60年代であって、その歴史的帰結やいかに、あるいは今後の可能性はいかに、というのも政策問題としては意味のある問いだと思う。ただこれに関心のある人は少ないようである。

それはともかく、内田先生は建築家として、建築生産システムのオープン化やそれに立脚しての建築設計を展開されたのである。そういうことを若い学生たちに説明するとどのようなことになるであろうか。学生にとっては戦後の建築もすでに歴史であるので、たとえばオランダの構造主義など研究する学生が増えている。しかしそれに相当するのはこの内田先生たちである、などといった説明も学生には通じたであろうか。

逓信省営繕部でのキャリアも、彼を日本のモダン建築の主流に位置づけるものであるし、堀口捨己との親交があったことも、そうであろう。アーキテクトとしてのベースがあって、そのうえで構法の研究者として主導的立場にあったということで、正統派としてのあり方のひとつを示している。

個人的な追憶をいくつか。大学2年生の時の授業で、吉田鉄郎の『日本の建築』を、最初はドイツ語で出版されてそれから日本語版がでたんだよね、なんて説明されていたことがやけに印象に残っていた。逓信省コネクションなのか、ということに気づいたのはもっとあとであった。その話しをうかがいたかったが、今日の特別講義とは関係が薄いのでつい気後れしてしまった。それから同じ授業で、ユネスコ本部ビルのY字プランは当時の流行であったが半円形の広場に面するものとして都市的文脈を考慮したものであったといったご説明をいただいたこともよく覚えている。そんなことによって、ぼくは建築の見方をならったものであった。ル・コルビュジエのユニテのRC打ちっ放しが粗いね、などといった一言もととても印象深く記憶している。3年時、先生の課題は図書館であった。ぼくは首都高の高架にチューブをぶら下げるという当時のアーキグラム風のプロジェクトを提案した。敷地は有栖川公園であったが、ぼくはあえてその外側に建てたのであった。かなり酷評された記憶がある。たいへん内容のあるご批評も、もっとしっかり聞いておけばよかったのだが、講評時はかなりてんぱっていたのでただちに教訓とするには余裕がなさすぎたようだ。でもこのくらい覚えているのだから、教えをわずかでも役立てているとは思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.05.25

八束はじめ『メタボリズム・ネクサス』

オーム社の三井渉さんから贈っていただきました。ありがとうございます。

大著であるがともかくも夕食後一読した。

メタボリズムの思想的起源を「近代の超克」に求め、1960年代におけるマニフェスト、その後のプロジェクト展開と、グローバル化における限界まで、一気に論じている。噂には聞いていたが、いろいろ新規に取材したり、コールハースと共同でインタビューしたり、といった新情報があるようだ。また最後の丹下研学生ならではの人脈からの情報収集も想像できて、これまでの著作の集大成という側面とともに、八束本愛読者なら、いろいろちりばめられた新ネタを探しながら読むという楽しみ方もできるであろう。

また写真や図版も、確認してはいないが、くやしいけど初見かもしれないと思えるものや、かつてはこの写真だったけれど最近の文献には掲載されないなあ、なんて写真もあった。ネガ再発掘などという作業もされたのであろうか。真相は教えていただくしかないが、そういういみで、じつは写真も見どころで、楽しめた。

素朴な感想。冒頭は面白かったが、だんだん「展覧会のカタログのようだな」と思えてきた。なるだけ多くのプロジェクトを平等に論じようという網羅主義もあるようで、19章におよぶ章は、それぞれテーマ性をもたせ、メタボリズムの多様性を出そうというような意図であると読めよう。ただ(えらそうですみません)全体枠組みと、各論19章のあいだに、中間レベルのストラクチュアがあると読者としてはもっと読みやすいと思った次第です。

全体のフレームは簡素にして明快で、序章の注に書いてあるように、スーパーエゴ(超自我=国家)とエゴ(自我=建築家?)とのフロイト的構造であり、さらに21世紀の状況を説明するためにイド(無意識)や、自身の造語として「アルターエゴ」(分身、日本人が国家を背負ってつくる都市や建築)という概念も準備されている。そして「モダニズム」とはこのスーパーエゴへの熱狂であったと位置づけられている。

これらの構造を下敷きにして、20世紀初頭から21世紀初頭までが論じられている。もちろんいつもの登場人物はメタボリストであり、丹下、大高、菊竹、磯崎など、ごく限られているようなことは、たとえばそれで歴史を代表しているといえるかという歴史畑からの異論も可能ではあろうが、しかしともかくも、江戸・明治・大正ではなくて、20世紀という抽象的時間の幅における日本建築にある一貫した枠組みを与えて描いてみせた、というようなことが評価されるべきではないかと思う。

いっぽうで、歴史叙述の方法として、事実主義にとらわれやすい建築史家とは違ってさすが八束はじめとまで言わないでおこうと思うのは、前述のフロイト的枠組みのせいである。いずれ刊行されるかもしれない本に1年半まえに書いたことだが。稲垣榮三が日本近代建築史の成立を建築運動におけるアーキテクトの「近代自我の誕生」という比喩を使って描いたことが、建築関係者たちへの、まさにイドを拘束しているように感じられる。建築史が人間の精神に喩えられるのは、そういう書き方はいいとしても、じつはそんなに新しくもないかもしれない。八束さんはそんな影響はただちに否定するであろうが、むしろ建築(史)叙述における無意識として潜在しているのではないかと思う時がある。

八束さん自身が本書でのべているが、日本の建築理論に影響をあたえたのは20世紀初頭のリーグルやヴェルフリンのおもにドイツ語圏の美学理論・美術史理論であった。これらの理論は、作品や対象を論じてはいるが、なによりもそれらを見て感じ分析する「視覚の構造」「目そのもの」を論じたのであった。そこからどういうことが帰結するかというと、美術史は、対象そのものの歴史というよりは、観察する「目」そのものを論じたものとなる。

そういう意味では、彼らの美術史文献を読むときは、作品を鑑賞しているのだが、それ以上にむしろ、「ヴェルフリンの目」そのものを読んでいるのだと思った方がいい。そういう意味では稲垣文献は稲垣意識を読むことであろうし、本書は「八束はじめの思想」そのものを読むことの体験なのであろう。

だから前著『思想としての日本近代建築』ですでに明らかだったのだが、本書のターミノロジーを使えば、八束さんはまさにスーパーエゴとしての近代国家を、理論的にきわめて明晰に客観化したうえで、それにもかかわらず(だからこそ?)、背負おうとするエゴ(建築家)であろうとするのだろう、ということになる。歴史観としては、八束さんはそのことの重さを知っているからあえてそうマニフェストするのであろう。つまりこのような形でのスーパーエゴ/エゴの関係は、長い建築史のなかでは、やはり20世紀特有のものであるし、だからこそそもそもフロイトがこの20世紀の固有性を説明するのにこの用語を創案したのであろうし。20世紀の固有性というものが、書く主体、書かれる対象、両方にプリントされていて、その2層のレイヤーを慎重に判別しながら読む、といったスリリングなことをしてみると面白いかもしれない。そうした構造までふまえ、ある世紀を背負う。これは考えてもみればとても重いことなのである。だからぼく自身は、歴史観としては有効と判断しても、そこまではしないであろう、などと考える。アイロニカルにでもなく、シニカルにでもなく、そう思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.05.06

高村雅彦『タイの水辺都市』

・・・を送っていただいた。ありがとうございます。

著者らが10数年かけてサーベイしていったものの途中報告のような集大成のようなコンパクトで読みやすい案内である。チャオプラヤ-川流域のいくつかの地域という地理的軸×雨期/乾期という季節軸というマトリクスによって自然条件が整理され、それらに高床/浮家/地床式がどう対応しようとしたがが書かれている。

もっとも住居タイポロジーは日本住宅のような階級・階層性を反映したのではなくて、バンダイ(階段)、チャーン(屋外空間)、ラビアン(庇下)、ホン・ノイ(寝室)やホン・ブラ(仏間)という、室外/室内の段階的移行性のいくつかの段階と、それらの組み合わせとして描かれる。

タイの高床式住居は大人20人ほどで持ち上がるほど軽量で、移築はきわめて容易であるなどといった記載とともに勘案すれば、著者はタイの建築をひとつの「システム」として考えているのであろう。そういえば同じ著者から中国建築の文献を恵贈されたときも、大陸建築はすぐれて「システムの建築」であるという点を強調していたが、人為的空間秩序よりも自然的空間秩序のほうが優位であるタイにおいても、その建築はすぐれてひとつのシステムなのであろう。

このひとつのシステムが、都市/農村、他民族・多宗教国家としてのタイの多様な社会的構成、水路、敷地のありよう、などといった指標を代入してゆくことでさまざまに展開してゆく。

読了直後は、社会的背景、歴史的経緯、列強の介入、コミュニティの形成されかた、などについての記載が少なく、不満であった。しかし先に指摘したように、そんな諸条件を背負いつつ、しつこく生き残るシステムがあって、そういう意味で歴史を超越したひとつのシステムの物語があったら面白いなと思ったし、著者たちももちろんそんなことを考えていたのであろう。

『江戸木挽町の芝居町と東京近代の大根川岸』、『島原 歴史都市の復権』も送っていただきました。かさねてお礼申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »