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2011年3月の5件の記事

2011.03.26

卒業式

今年の卒業式は自粛的であった。祝賀会などは省略し、学位記授与などのミニマムなものとなった。

大学の行事としてはそんなかんじで、夜は、個人レベルで卒業生・修了生たちと会った。挨拶でこんなことをしゃべる。先日の地震・津波・原発事故はたんに被害が大きいということだけではなく、システムそのものが破綻したということである。目下の重大な危機をたとえのりこえたにせよ、そのあと、一種のリセット状態からものごとを再考しなければならない。年寄りもがんばりますが、若い人びともがんばってください。・・・などといったことである。

研究室の学生たちから心のこもったプレゼントをもらってたいへんうれしかった。

学生たちといろいろ話し合う。だれそれには「反省力」がある、などといった表現がおもしろかった。コーディネート能力があると自負していたけれどほんとうにそれがある人にくらべれば自分はどってことない、などと自分を客観視できる人もいた。就職先でこんな仕事をまかせられたけれど、どういうアプローチがいいか。卒業しても針路をまよっているがこの一年どうしたらいいか。などなど、いろいろきかれる。信頼してもらっているのだろうし、背筋がのびる時でもある。学生のなかに人間が見える瞬間であるからだ。

同僚たちとは、安全な場所にいた人間としても、大災害にかんする情報や映像の過多でおかしくなりそう、と話し合う。それからリセット状況において建築の研究や教育について方向性を再検討しなければならないのではないか、などといったことも。地方大学はどうしても中央追随的になりがちだが、せめてスパイス的程度には、批判性などといったこともあっていいのかもしれない。

地震の前後、柄谷行人『世界史の構造』を読んでいた。理論的なことについてはぼくがどうこういうことではない。しかしこの場合の構造とは宿命とも読めてしまって、黙示録的な読書感が残ってしまった。話しは違うが、たとえば義援金をおくるというようなことは、どの交換様式なのか、など。

そういえば先日、研究室OBたちと会食した。そのうちひとりが東京勤務で、たまたま用事があってこっちに戻ってきていた。システムが破綻した首都圏の状況を話していた。ほかのOBは、地元の合同卒計展の話しなどをしていたが、冷静に評価していたのが印象的であった。

地震は社会そのものをゆさぶる。避難、疎開、買いだめなどで市民どうしが批判しあっているようだ。

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2011.03.20

留学生たちは帰国した

3月11日の地震と津波、そして原発事故をうけて、留学生たちが帰国しはじめた。ぼくは4人のフランス人学生たちの世話をしている(していた)。そのうちの3人は、フランス政府とかれらが在籍している学校の勧告にしたがって帰国することにした。状況がよくなれば再来日する、という学生もいた。でもおそらく帰ってこない雰囲気であった。

ひとりだけ「ぼくは日本にとどまるよ」という学生がいた。「モスクワはチェルノブイリから700Km離れていて、実質的には被害はなかった。ここは原発から1000Km以上離れている。問題はないよ」という。率直な人間である。「君は正しい」とぼくは答えた「でも帰国をきめたフランス人たちだって正しいよ」。彼は反論して「彼らには同意できない」といった。もちろんぼくは、彼が帰国したっておこりはしない。もちろん、3月19日現在での放射線量は国際線に10時間のるよりもはるかに少ない、といった指摘についても、ぼくは認めない。

そのすぐあと、帰国を決めた留学生がガールフレンドと一緒になってきて、その件についての挨拶と、ちょっと事務的な書類にサインをしていった。彼らは京都旅行からかえってきたばかりで、表情はおだやかで、さして危機感は感じられなかった。

ぼくは1986年のチェルノブイリ事故のときパリに留学していたので、当時の混乱ぶりをよく知っている。新聞の風刺マンガでは、主婦がガイガーカウンターをもって八百屋にいっているのが描かれたりしていた。なおかつフランスは総電力の80%近くを原発でまかなっている。だからあの国は原発問題には敏感である。

まずフランス政府は、技術レベルが低い国には、技術輸出しないという、カントリーリスクを考慮せざるをえないというWEB版新聞記事があった。

またルモンド紙WEBはより即物的である。それによると。チェルノブイリでは炉心が爆発し、放射性物質が高度3000メートルの大気までたちのぼったが、日本の原発ではそうはならない。流出する恐れのある放射線の総量は、チェルノブイリよりも多い。しかし燃料棒の総体は把握していなので評価はむつかしい(IRSNフランス放射線保全局の情報では、第1から第4の燃料棒プールにはそれぞれ292, 587, 514, 1500本の燃料棒があるという)。炉心融解の程度については、第1が70%、第2が部分的、第3が30%、と評価している(がこの数字は?)。事故の影響はチェルノブイリが「グローバル」なら、推移をみなければいけないがとしつつ、今回は「ローカル」であろうとしている。メルトダウンという最悪の事態を想定すると、チェルノブイリのような爆発は起こらない、立入禁止地区はできても(できることはほぼ確実)チェルノブイリよりは範囲は小さい、汚染地域はチェルノブイリよりは小さい、ただ炉心の完全溶融は前例がなく比較評価できない、などということである。またチェルノブイリのときはソ連政府が大量の人員派遣をしたが、日本政府がそこまでできるかどうかという疑問をあげていた。

いずれにせよ日本の政府・マスコミは最善の場合しかいわないが、外国は最悪の場合を基準にして考えている。アメリカもそうで第4炉についてつよい危惧を表明している。

一言いいたいが、被災したからであれ心配からであれ、避難や疎開は、批判されるものではない。批判する自由はある。しかしそんな人のいうことを聞くつもりはない。

ルモンド紙は原発事故の危機を「グローバル」ではなく「ローカル」にとどまるのではないかと希望的観測を述べている。外国からみればそうなのであろう。しかしぼくたちにとっては「ナショナル」であると思う。災害を差別化してはいけないが、東北関東だけでなく、今回は首都圏が終わりの見えない危機的状況にあり、都市機能が部分的になりたたなくなり、人びとは強い物的・心理的なストレスのもとにおかれている。この大災害にはなにか黙示録的なものを感じる。だから、深刻な危機が回避された最善の場合でも、建築、都市、社会、国、の枠組みそのものを修正しなければならないようになるであろう。復興も考えねばならないであろう。しかし、それをふくめて、ぼくたちにとってなにがベーシックなのか、しかも物心両面においてなにがベーシックなのか、というそこから再考しなければならないであろう。

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2011.03.08

特集『アジアアトラス』

ぼく自身が時代の流れを(すこし遅れて)実感したのが1988年ことであったのだが、中東、インド、ネパールなどを数ヶ月かけて旅行したのち、アジア調査旅行をまえにした研究者集会をのぞいて、その熱気に圧倒されたのであった。肩身の狭い人生になるであろうという予想はほぼそのとおりになった。

「建築雑誌」3月号特集なのであるが、大特集といっていい緒論のなかで、やはり佐藤浩司さん(ずいぶんごぶさたしてますがお元気ですか?)の発言がいちばん印象的であった。1940年代の「建築雑誌」におけるアジア特集、1980年代のアジア指向、そして現在という歴史観をしっかりもってられて、そのなかでいっかんしてアジア理念については醒めている。彼は80年からずっとそんなポジションであった。私見でも、1980年代ならアジアはフロンティアであったかもしれないが、もはやフロンティアとはいえない。

先日、中国人建築史家のかいた文献について、専門家の説明を聞く機会があった。日本建築の概念がまだ定まっていなかった伊東忠太の時代、日本人建築史家が大陸で調査研究したことが、中国建築史の基盤のひとつになっているという内容が書かれていた。そうであるなら伊東時代の大陸は、日本建築も中国建築もまだ概念としては確立していない、つまり純粋に「建築」という概念だけと向かい合っていた場所であった。そののちの知的汚染のない純粋な「建築」がある時空があった、ということである。

帰りの新幹線のなかで大橋良介『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』を読んで、日本近代のインテリはなんとヨーロッパに共感的なことよと思い、結局のところ、自分もそうなのであって反省しなければならないと思ったものであった。しかし反省ついでにいうと、1930年代の「日本的なもの」考察が、20世紀の日本美学の基礎をつくったとあらっぽくいってみて、結局のところ「日本的」とは「ヨーロッパ的」そのもの、あるいはせいぜい前者は後者の反転か組換えのようなものであろう。

20世紀前半は、数年ごとに時代の風向きがかわるのであって、歴史家も平板な枠組みを用意していたのでは時代を誤解するかもしれないのだが、戦後のある一時期の視点からは、近代化=西洋化はいきすぎでそれへの異議申し立てとしてアジア指向が位置づけられる、という論調であった。ただ1930年代の雰囲気は、東洋傾斜のなかでの一種の「避難」としての美学であったはずで、するとその時空において、日本的=ヨーロッパ的なものという構想は、やはり時代避難であったのではないか。

世代論をとおして時代予測をしてみるのである。1980年代の空気をすったのが50年代生まれと60年代生まれである。この特集もこれら世代のマニフェストという感じがする。この世代は、上の世代を批判しつつ海外戦略をねった。しかしポストバブルの若い世代は、新しい世界経済、その長期デフレ傾向という利害関係のなかに投げ込まれていて、構造的に、心情的に、親アジア的かどうかはぼくが推測できることではない。今の学生の留学離れをみているとやはり再度、時代は変わっている。「日本的なもの」の隔世遺伝はおこりうるであろうか。

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2011.03.04

ヴェネツィアという建築情報の発信都市?

昨日のつづきですが、16世紀ヴェネツィアで建築書が多く出版されたことを再考したい。

もちろんこれは通説どおりであり、建築史の文献をひもとけば「16世紀ヴェネツィアでは印刷業が盛んで・・」はほとんど枕詞である。しかし通説というのももっと味わうべきかもしれない。なぜなら昨今の港町ブームで、16世紀ヴェネツィアでの産業構造の変化がくわしく調べられた研究もでているが、しかしアッカーマン『パラディオの建築』にもすでに、そのようなことはひととおり述べられている。つまりアッカーマンを読む私たちは、パラディオのネオプラトン主義的側面の理解に関心がいっていたため、アッカーマンがバランスよく書いているいわゆる「背景」の説明をそのまま通り過ぎていたのである。背景を前景化することも、だから、意味があるのである。

たとえば、なぜ、そもそもヴェネツィアにおいて出版産業が盛んになったか?ぼくはアルドゥス・マヌティウスの創業によって15世紀末から印刷業が盛んになったことを漠然と知るのみであって、くわしいことは知らない。ましてや、交易都市だったからこそ、交易するものが、実体商品から印刷物になった、いや印刷物も実体ではあるが、その情報としての側面が重要になった、つまりハードからソフトへの交易になったというような解釈が可能なのかどうか、しりたいものである。そういえばリヨンも内陸の交易都市であり、そこにおいて印刷産業が盛んになった。文献は販路がたいせつであり、交易都市のもつ既存の販路が出版業にとって不可欠であったというような推理はなりたつであろうか?

ヴェネツィアから出版=情報発信をおこなったのはパラディオが最初ではない。本格的にはセルリオである。かれはブラマンテらの盛期ルネサンスにかんする図版情報をもっていて、そのストックを活用して、ヴェネツィアから建築書出版をおこなった。それによってイタリアルネサンスの情報は、フランスやドイツに広まった。セルリオ自身もフランソワ一世というパトロンを見つけることができ、フォンテーヌブローで仕事をし、そして一時期はリヨンに立ち寄ったりしている。

そしてこのような情報発信によって広まったのが古典主義であり、建築の5つのオーダーであった。

しかし古典主義が出版ネットワークの充実により広まったというように一方的に解釈していいのだろうか?世の中でおこるさまざまなことは、しばしば転倒しているように、出版ネットワークのさらなる充実、出版業の発展のためには古典主義のようなものが必要だったのではないか?

たとえばパラディオの建築四書は、サーベイ記録、ポートフォリオ的な性格があるが、よくよく眺めると、古代ローマ建築→ヴィラという農場経営本拠地へのそのままの継続→リアルト橋という都市プロジェクトというように、ちゃんと系譜がとおっている。文献の構成として古典主義は欠かせないし、それはローマとヴェネツィアをつなぐ橋である。

セルリオの建築書も、古典主義=悲劇=シリアス、ゴシック=喜劇=市井、田園=風刺激=滑稽というその枠組みを信じるならば、それはサンソヴィーノのプロジェクトによってこれからシリアスな都市へと変貌しようというヴェネツィアの一種の宣言のようなものとして機能するであろう。それをローマの影響とするのはすこし平板なのであって、影響でもいいのだが、ではすこしばかりローマ的になろうとすることが都市戦略的にはどういう意味なのかをすこし想像してみてもいい。

すると建築情報ネットワークがでたので、そのおかげで古典主義が広まったというようなこともあったかもしれないが、しかしそれ以上に、広域的なネットワークが機能するためには、より普遍的な言語として古典主義が必要であったし、ヴェネツィアがそのネットワーク上で重要な地位をしめるためにはみずから古典主義の言語をしゃべる、つまり古典主義建築によって都市を美装することが必要だったのではないか、ということである。

これを都市プロジェクトの側から言い換えると、ネットワーク、すなわち「想定世界」のようなものがあって、プロジェクトのひとつひとつはそれぞれ都市内の限られた敷地と空間でなされるのだが、計画者の意識のなかではかなり広がりのあるネットワークのなかで構想されているという、16世紀であれ21世紀であれ、あたりまえに構図である。作品はのこる。しかし構想されたネットワークは忘れられがちである。

このようなこともサマーソンが古典主義=ラテン語として解説したこととさほど違わない。しかし通説というものは、通説であるのでぼくたちはなんの考察もしないで通り過ぎてしまうことがほとんどである。だからその深さをときどき確認したほうがいいと思ったのである。

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2011.03.03

名古屋出張

日帰りであった。4時間電車、1時間会議、4時間電車。でも新幹線のなかでは、駅弁+ビール、昼寝、読書、iPad、あれこれ思索、でとてもたのしかった。これで花粉がなければ極楽であった。

パリ。博覧会とミュージアム。ふたつは連動している。19世紀はじめは仮設展示が中心であったが、万国博がなんども開催されるのと並行して、常設のミュージアムが建設される。工芸博物館などがそれである。すると博覧会そのものを、百科全書的な普遍的なものから、しだいに的を絞ったものとなる。そういえば日本語では万国博である。でもフランス語を直訳すると普遍的展示である。普遍。つまりある種の世界観の表明なのであるのだが。それはともかく、20世紀になると美術などに的を絞ったものになった。シャイオ宮の建築遺産都市もそうであろう。これもまた仮設展示であったものの常設化である。すると仮設→常設のながれは、普遍的だが仮設であったものを、パリ市内の各地にすこしずつ常設化し施設化したことの歴史である。そして普遍であったものが個別化するに並行して、セクショナリズムがあらわれる。関連省庁が主役となる。これは日本でも同様で、宮内省と文部省への分割などといったことがフランスでもあったことは想像できる。

ヴェネツィア。都市がある時代にある状況のなかで、いろいろな建築プロジェクトが提案され、それに建築家がアプライしてゆく。それは普遍的な構図である。すると現代的興味をもって16世紀ヴェネツィアを考察することができる。本土での農地経営、交易の斜陽化、それにかわる毛織物産業、あるいは恒常的なラグーナ整備の課題、といったものを抱えていたヴェネツィアのなかで、リアルト橋、サンソヴィーノの図書館などがプロジェクト化される。いちばん知りたいのは、それがルネサンスやマニエリスムの時代だということではなく、そうした産業構造のドラスティックな変化が、どのような思惑を生んで、どのような戦略を考えさせて、一連の建築プロジェクトを要請していったかというその構図であろう。そういう動向にアプライしたパラディオは、古典主義をもたらそうとしたのであったが、それはなぜか?

ぼくの仮説は、当時のヴェネツィアは印刷業もまた主要産業であったということ。そこには市内の建築プロジェクトを外に宣伝する、ウィトルウィウス建築書を出版する、ローマのルネサンス建築をプリントして出版するといったことが、一種の情報発信であり文化発信であり、それが経済活性化につながるというようなこともすこしはもくろまれたりしていたら?だからパラディオによる実現しなかったリアルト橋プロジェクトが、実際に建設されたもの以上に、外国とくにイギリスに影響を与えたことは示唆的である。

ヴェネツィアは人類最初の、本格的な建築情報発信都市であったかもしれない。それは実体の交易ではなく、建築イメージの交易であった、などという仮説は面白いんじゃないかと思う。

中国。建築史の先学たちは明治のころ中国に調査旅行にいった。そこでの調査が現代中国における建築史学の基礎にもなっているらしい。でもそれは日本が先進的であったということを意味しない。なぜならそのころ、日本建築の本質はなにかという定見もまだ確立していなかったのであった。だから当時の大陸は、中国も日本もない、まさに「建築」としかいいようのないものの理解が誕生した、そういう揺籃期であったかもしれない。であればそのあとにできた日本的なもの、日本的美学、といったものにこだわらない立場で、まさに「建築史」を構想し得るのかもしれない。できるできないはともかく、そのような時空が存在したことは確かなようだ。

人民大会堂と天安門広場。私見だが、20世紀はまさに時代錯誤的な誇大妄想的なプロジェクトが展開された時代である。ワシントンDC、ニューデリー、ゲルマニアなどはその典型である。近年の研究で北京のこうした記念碑的構築物の背景もわかってきたが、ぼくの素人的予感では、そのようなことである。それは社会主義とか資本主義とかを超越した、なにか20世紀の陥穽のひとつであったような気がする。

大橋良介『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』も車中読書した。全体としてはどうもであったが、カイヨウ的「遊び」が西洋ニヒリズムと仏教に通底する概念であるという点がなにか使えそうな気がした。ニヒリズムとはあらゆることが無根拠であるという達観である。そのままだと世界は崩壊するが、そこに「遊び」という概念を導入すると、ニヒリズムを生き、それと同時にニヒリズムを相対化することができるのだという。

ぼくの世代では遊び=カイヨウとしてむしろ常識である。しかし気がつくと、最近そういう遊び概念への言及はすくなかったし、昨今の暗い世相のなかではこの概念はすこしは有効なのではないかとも思う。

・・・そのようなことを考えながら今日一日を生きてみた。

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