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2011.02.17

花田佳明『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』

花田さんから送っていただいた書籍が、今日、自宅にとどいた。ありがとうございます。さっそく一読した。

第一刷発行が2011年2月28日であるから、その10日ほどまえに書評を書くのもおつなものであろう。

彼が愛媛県のある建築家に注目していたことはずっと知っていた。彼が研究をするきっかけとなったのは、1994年の四国建築建学ツアーであったが、ぼくもいっしょにこないかと声はかけてもらったはずであるが、なにしろ当時のぼくは赴任したてで月曜から金曜まで毎日授業やら演習やらがあるという状況で、ほかの大学の先生はいいなあなんて思っていたようなことで、丁重でもなくお断りした記憶がある。

本書は発掘した膨大なドキュメントをバランスよく分析して配置した、どちらかというとドキュメンタリー仕立ての建築家モノグラフである。建築理論的な分析はむしろ抑制されてる。だからぎゃくに、松村の世界にすっとはいってゆけるという好著である。

2011年の時点から松村正恒を回顧すること。それはノスタルジックなことであろう。本書では、正しく、建設的にノスタルジックであると思う。1956年生まれの著者が、同年における蔵田周忠と松村との交信を詳細に紹介するくだり。それは人が、自分の生まれ出た世界を解明しようとしたときに必然的に構造的に生んでしまうロマンティシズムでありノスタルジーである。たとえば1950年代は、戦前の近代化の流れがあり、しかし高度経済成長はまだという過渡期であった。花田さんと同い年の同窓生であるぼくにとっても、それは生まれ出た世界である。それを解明しようとするノスタルジーはなんら恥ずべきことではない。それは客観的で生々しい事実である。だた失われた過去なのでいろいろと再構成の努力が必要である。

1950年代生まれは、すこしばかり社会的正義のようなものの影をひきずっている。すこし後の世代は、もっとはっきりビジネス・コンシャスである。もっとくだって今の学生は、完全に斜陽国日本がインプットされている(本人たちは自覚がないが)。それぞれの時代はそれぞれの世代にすり込まれるのであり、近過去はすべて生きている人口構成のなかにプリントされている。それが歴史を読むときのおもしろさである。

本書には、花田さんの松村正恒への切ないばかりの共感があふれているので、読んでいるぼくもすこし切なくなったりする。若いときから師とあおぐ大建築家への態度とはまったくちがう。花田さんは人を教える立場になって、自分を確立してから、松村正恒に出会った。そして大げさにいえば、そこに自分自身を発見したのである。ある他者を観察することで、ますます自分自身がわかってしまう、そのようなトリッキーな時空のなかで、むしろ「もうひとつの自分自身」のようにドキュメンタリーを書いてゆく。ある意味で「建築家のパラレルワールド」なのだ。建築のプラン、仕様、構法、ディテールをこまかく書いてゆくのも、松村の仕事をすみずみまで、もうひとつの世界のどんなニュアンスも逃さないという態度でのぞんでいるからであろう。

松村正恒は日本の近代建築のまっただなかで修行をして、東京、満州、そして愛媛で活動をした。彼は主義やメディアのためではなく、まさに建築のために建築したような建築家であった。そのように解釈してなにが悪いのだろう、と個人的には思う。

共感するがゆにあえて書くけれど「結論」はまだいらないのではないか。とくに「主義」との関連をつけなければならない理由はないと思う。詳細な分析からあきらかなように、松村正恒はいわゆる建築界・メディア・論壇のなかで用意されていた類の「主義」をいちど払拭した建築家であった。それを花田さんがいろいろな主義を定規にして当てはめてようとしているのが、ぼくにはよく理解できない。もしほんとうに「建築」に可能性があってポジティブなものであれば、頭のいい人びとが構築した座標軸である様式や、主義や、理論などからすこしずつずれていっていくはずである。

松村正恒は色見本にきちんと整理されてしまう色である必要はないと思う。ぼくは具体的な建築の姿や、交流や、発言かなどから織りなされる空間いや宇宙があって、結論などまったくいらなくて、その豊かさがもっとも雄弁に自分自身を語っているような、そういう建築語りがそろそろ誕生する(じつは誕生しているけれど歴史的事実として確認するのはずっとあと)のではないかなんて思っている。

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コメント

土居義岳 様

神戸芸工大の花田です。
拙著『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』を取り上げていただきありがとうございました。
年に2回、九州大学に非常勤でおじゃましていますが、最近はお目にかかる機会がなく、ネット上ではありますが、久しぶりにお話させていただこうと思った次第です。
土居さんは私の高校の1年先輩であり、大学の新入生の頃からお世話になった関係ですので、少しだらだらと書きますがお許し下さい。


まず発行日の2月28日ですが、これは松村さんの命日でもあるのです。
本文中にも彼の没年月日を書いていますのでお気づきかもしれません。
科研の申請書類では発行日を2月20日としていたのですが、校正中に編集者から「どうせなら合わせませんか」という提案がありました。科研の条件は2月末までの刊行なので手続き上の問題はないということを確認し、最後に変更した次第です。
土居さんから指摘された私の「松村正恒への切ないばかりの共感」は、編集者にも憑依していたというわけです。

私が松村正恒を知るきっかけとなった1994年の『建築ジャーナル』誌による取材旅行は、たしか同誌が3度ほど企画したもののひとつで、最初が熊本アートポリスを巡る企画、次が四国、そして最後が山陰だったと思います。
土居さんは「当時のぼくは赴任したてで月曜から金曜まで毎日授業やら演習やらがあるという状況で、ほかの大学の先生はいいなあなんて思っていたようなことで、丁重でもなくお断りした記憶がある」と書いておられますが、僕はそのあたりの事情は全く知りませんでした。
なにしろこちらも日建設計を辞めて間もなくの頃で右も左も分からず、このような「雑誌の仕事」に自分が参加していることの不思議さを感じつつ、四国と山陰の回に、京都工芸繊維大の助教授だった中川理さん、そしてまだ前川事務所に勤めていた松隈洋さんと旅したことを思い出します。
そういえば、熊本アートポリス篇には藤原恵洋さんが参加されていましたが、次からの企画は都合がつかないということで土居さんに声がかかり、それを土居さんが断ったので私に回ってきたのかもしれませんね。だとしたら、私の松村研究はきわめて偶然の産物だったということになります。


さて、土居さんの文章の初めから3分の2までは、博士論文を書きながら私が思っていたこと、そしてそれを単行本化するに当たってさらに実感したことを、たいへんうまく言い当ててくださっていて嬉しかったです。

ひとつは、本書の「モノグラフ」というスタイルです。
歴史研出身ではない私は、松村さんについて調べてきたことを博士論文にしようとしたとき、一体何をどう書けば「論文」になるのか戸惑いました。
しかし、自分しか知らないこと、自分しかもっていない資料をこのままにしていてはいけないという義務感から、「書く」という行為を1年半自分に強いてみると、結果的に「モノグラフ」としか呼べないものになりました。
ひとりの人間に関する多くの事実の積み重ねの先に論理的な分析があり、そこから何らかの一般性ある解釈モデルが導かれていること。それが「モノグラフ」の定義かどうかはわかりませんが、少なくとも私がめざしたのはそういう言葉のかたまりであり、それは「モノグラフ」という言葉でしか表わせないと思いました。
避けたかったのは「伝記」です。限られた資料に想像を加え、そこから人物像を膨張させて描く作業。それは違うと思いました。

もうひとつ嬉しかったのが「パラレルワールド」というご指摘です。
「花田さんは人を教える立場になって、自分を確立してから、松村正恒に出会った。そして大げさにいえば、そこに自分自身を発見したのである」という土居さんの言葉は、まさに「大げさ」であり、私と松村さんが合同図形であるはずはありません。「そこに自分自身を発見した」などと自分で言えば、分不相応な発言と笑われるでしょう。
ただし、自分の中にかなり小さな松村さんの相似形を見いだしたことは間違いなく、土居さんはそれを「パラレルワールド」と呼んで下さった。
これは、私が1994年に日土小学校を初めて見て以来感じてきたことそのものです。
そしてその「ワールド=世界」を構成する要素とその間に存在する関係を見いだす作業が本書であり、その作業をできるだけ正確におこなうための道具が「モノグラフ」というスタイルだったというわけです。
そしてこれも土居さんが指摘された通りですが、その作業はまさに私自身の生まれた時代を確認する作業でもありました。しかも同郷なのですから、「私自身の生まれた空間」の確認でもあったのです。

本書のもつ、このようないわば「私的」で「自分探し」的な性格をズバリと指摘されたのは、さすがというほかありません。
それは私としては最も気にしていた部分であり、一方で、本書の特徴を生んだ要因であると若干の自負を感じてもいた部分でした。したがって土居さんの文章を読み、私はまさに「嬉し恥ずかし」状態だったのです。


ところで、土居さんの文章でひとつ意外だったのは、最後の3つの段落です。
そこで土居さんは、「それを花田さんがいろいろな主義を定規にして当てはめてようとしているのが、ぼくにはよく理解できない」と書き、松村は「主義」からは遠い人物だからきちんと整理された結論などいらないと指摘しておられます。

私は、思わず「うーん」と唸ってしまいました。

まさに私は、「いろいろな主義を定規にして当てはめる」のではない解釈を、本書でおこなったつもりだったからです。それが「自己参照的メカニズム」「非文脈性」「意味の確定の拒否」「価値」「総体的建築」といった、大げさにいえばメタ言語による整理でした。

むしろ私は、本書は「主義」を無視しすぎている、もっと「主義」や「歴史」側からの解釈をすべきだという批判を、それこそ「歴史」を専攻される方から受けるのではないかと予想していたのです。

「彼は主義やメディアのためではなく、まさに建築のために建築したような建築家であった。そのように解釈してなにが悪いのだろう、と個人的には思う」という土居さんの指摘は、まさに私が本書の結論において前記のメタ言語群によって示した内容であり、青木淳さんも帯文で指摘している松村の本質だと思います。
そして、「その豊かさがもっとも雄弁に自分自身を語っているような、そういう建築語りがそろそろ誕生する」と土居さんが書いておられる「建築語り」の一例が松村であり、本書の「モノグラフ」というスタイルであると、私は考えていたわけです。

ですので、土居さんが最後の3つの段落で書かれたことは、私としてはきわめて意外でした。

そうは読めないぞと言われれば自分の筆力のなさを恥じるばかりですが、土居さんの書かれていることが私の思いとはあまりにも逆だったので、ひと言お伝えしておきたいと思った次第です。

投稿: 花田佳明 | 2011.02.18 03:44

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