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2011.02.19

松村本書評へのコメントにこたえて

花田さんからコメントいただきました。いろいろ感じいりました。

『建築ジャーナル』誌の件があったころは、ぼくもかろうじて30代でした。今思うと、まぶしい感じがしますね。忙しかったなあ。毎日授業どころか、土曜日も演習がありました。いまや歴史的なものとなった奈良のオーセンティシティ会議にも招待されていましたが、なんと学園祭の見回り教員に指名されていて、いけませんでした。とり残された感じがしてあせりました。でもそれなりにがんばりました。全国にさきがけて合同卒計講評会も立ちあげたし(これはもう若手にゆずった感じです)。

それはそれとして花田さんの「うーん」ですが、ぼくなりに解釈すると、ご当惑は二重構造になっているようです。

(1)建築史家としては、概念(様式、主義、方法論)をしっかり提示して、それから建築家なり作品なり文献なりをといった対象を分析するのがスジではないか。建築史家として、概念=定規を使わないほうがいいという指摘をすることが、なりたつのか。

(2)松村正恒はそうした概念=定規を払拭した建築家であると分析しているのに、それでも分析が不足しているというのだろうか。松村正恒は定規を払拭した建築家だし、自分もやはり定規に固執しない建築家であるつもりである。この建築史家は、それでも不満なのか、この本論に賛成なのか反対なのか、よくわからない。

こうした指摘をいただいたことにして、とりあえず律儀にお答えしましょう。

ぼくはいわゆる建築史研究者のワクにはめがたい人間のようで、かつて松山巌さんから、建築史家なのに開発側に立つかのような発言をするのか、と批判をうけたことがあります。しかしぼくは、自分の学問を学問たらしめている枠組みをも批判的にとらえることを心がけており、だから様式概念や主義などをまず批判的にとらえることからはじめるべきだと、つねづね思っています。より正しく建築史家であるためにそう心がけているつもりです。

第二の点です。これはやはり批判めいたことでお気に障るかもしれませんが、やはり結論において、脱主義化が再主義化になっているきらいはあって、あるいは評論家的「レッテル貼り」にたいする「反レッテル貼り」もやはり「再レッテル貼り」に回収されてゆく危険性があります。

純粋な読者という立場がありえるかどうかしりませんが、建築史家であることをさておいて、そういう読者になったつもりで読むと、松村/花田のパラレルワールドの均整のとれた世界がずっとつづいていたのに、結論では花田さんが超越者になってしまった感は否めません。読者としてやや違和感を感じます。

もちろんそこが学術論文と、読み物のちがいかもしれません。研究としてはこの「結論」は不可欠です。その内容にもぼくは同意します。しかし読み物として、著者の存在が最後の最後で顕著になってくるのはあまり心地よくありません。ぼくはこの点をいいたかったのですが、この点こそがいちばん伝わりにくいことであったようです。「論文」と「叙述」はまったく違うものであり、その違いのなかに可能性があって、建築史はその可能性をすこしばかり探究したほうがいいのではないか。そういいたかったのです。可能性とは、いつも、合意できない箇所にあるもののように思えます。

ブログなどではどうも意図したよりも強い調子になるもので、誤解されることを恐れるのですが、ぼくはエールを送っているつもりです。これだけの労作ですから、モダニズム建築のあたらしい側面をあきらかにしたとか、モダニズム再考につながる、といった評価がされるでしょう。そのようなことはご興味のある方がたにお任せしたいと、ぼくは思います。ぼくが関心があるのは、歴史を書くこと、そのものの再検討ですし、それをとおしてひょっとしたら建築を語ることそのものの再検討というようなことです。

ところで村松/花田さんのパラレル関係とは違いますが、花田さん/ぼくの非対称関係もみえてきました。

花田さんは、組織設計事務所で実務の経験もある建築家であり、そして大学で設計の先生をされています。その立場で、建築史の文献を書いた。とうぜん方法論上のとまどいもあっただろうし、建築史専門家からの注文にも過敏になられます。

ぼくはその逆です。建築史の専門家なのですが、こともあろうに大学では設計教育の担当であり、デザインの教育もしていることになっています。もちろん建築史の立場からの設計教育もそれなりに世間的には認められているようですが、それでもアウェイ感はつねにあって、いまや常態化しています。しかし、最終的には建築史というものに回帰して、不器用なほどにオーソドックスに建築史叙述に没頭する一時期をもつ、というのがぼくの夢です。だから花田さんが松村のなかにパラレルを見たように、ぼくもあなたのなかに自分のパラレルを見ているのかもしれないし、だからこんなにたくさん感想を書けるのかもしれません。

そういう非対称の鏡像関係にある花田さんとぼくが、すこしばかりの見解の相違から意見を交換しています。でもそれだからこそ、そしておそらく同年生まれで故郷も近いという偶然もすこしは後押ししてくれて、たんなる自国領土の拡張をめざすというどん欲な動機ではなく、ある意味で純粋に、建築史はどう叙述しうるのか、そして建築はどう語るべきか、を話し合っているのだろうと思います。ぼくたちの交信をさらに客観的にみすえる、第三者の立場からそう見えることを願います。

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コメント

土居義岳 様

神戸芸工大の花田です。

さっそくのお返事、ありがとうございました。
非常にクリアな内容で、読んでいてとても楽しかったです。
やはりコメントを書いてよかったと思いました。
これまで土居さんと話し込む機会はあまりなかったので、調子に乗ってもう一便、だらだらと書かせていただきます。

土居さんはけっこう懐古的な書き方をされるので(「30代でした」とか「若手にゆずった」とか)、いちおうこちらも当時の状況を書いておきます。
私が松村作品を初めて見た1994年というのは、日建設計を辞めて3年目です。その前年に青木淳君と一緒に「サバーバン・ステーション」という仮想プロジェクトをまとめ、『建築文化』の93年11月号に「プログラムをめざして」という文章やこのプロジェクトを発表したりして、それまでとは違う世界におそるおそる入り始めていました。
大学院は駒場の広部達也先生のところへいきましたから(と書くと広部さんからは叱られるかもしれませんが、笑)建築学会関係のつてもなく、かといって日建設計の卒業生には有名アトリエ事務所出身者のように建築ジャーナリズムとの縁もない。ぽつんとひとりになった境遇で、これからどうなるのかなあと不安でもあり、一方で久々の解放感が嬉しくもありという感じでした。
この「後ろ盾のなさ」とでもいう感覚は、大げさにいえばその後の私の唯一の誇りのようなものでもありますし、一方で「建築家でも歴史家でも計画系研究者でもないなあ」という、常に自省の材料となるコウモリのような中途半端さでもあります。
そして、翌95年の1月が阪神大震災。たしかその年度から九州芸工大の1年生課題の非常勤に土居さんが呼んでくださったのですが、神戸の東灘区に住む私には1月中に福岡へ行くことは不可能で、少し時期を遅らせていただき西明石から新幹線に乗ったことを覚えています。
この課題を土居さんが担当されていた数年間、1年生にはおそらく余り通じなかったであろう(笑)建築オタク話を、楽しく2人でやったことを懐かしく思い出します。
あれ以来、九州芸工大が九州大学になってからも、12月と1月には福岡へ行き続けているわけですから、ほんとうに時間の経つのは早いものです。

さて、私の「うーん」という呟き(呻き?、笑)を、さすがに上手く解きほぐしていただきました。
前半に土居さんが書いて下さった(1)と(2)の「二重構造」は、私にもたいへんよく理解できるものでした。
そこにさらに、「もちろんそこが学術論文と、読み物のちがいかもしれません。研究としてはこの「結論」は不可欠です。その内容にもぼくは同意します。しかし読み物として、著者の存在が最後の最後で顕著になってくるのはあまり心地よくありません。ぼくはこの点をいいたかったのですが、この点こそがいちばん伝わりにくいことであったようです」という部分を重ねると、土居さんのおっしゃりたかったことが実によくわかります。
また、(2)についての、「第二の点です。これはやはり批判めいたことでお気に障るかもしれませんが、やはり結論において、脱主義化が再主義化になっているきらいはあって、あるいは評論家的「レッテル貼り」にたいする「反レッテル貼り」もやはり「再レッテル貼り」に回収されてゆく危険性があります。/純粋な読者という立場がありえるかどうかしりませんが、建築史家であることをさておいて、そういう読者になったつもりで読むと、松村/花田のパラレルワールドの均整のとれた世界がずっとつづいていたのに、結論では花田さんが超越者になってしまった感は否めません。読者としてやや違和感を感じます」という部分で、より具体的に土居さんのお考えを噛み砕いて説明していただいており、自分が生み出した本についてのわかりやすく筋の通った解読を聞かせていただいた感じで、本当に嬉しかったです。

ですのでここで御礼を申し上げて終わればよいのですが、また、土居さんが各所に布石も打たれているので、それを敢えて踏んで恥をかくこともないなとも思うのですが、いちおう私自身の言葉でも自分の考えたことを書いておきます。
まず、土居さんが書かれた(1)(2)についてですが、私も概ねそういうことをお考えの上で当初の感想は書いておられるのだろうと予想はしていました。しかし、それを言葉にし整理していただいたことによって、話がとてもクリアになったと思います。心から御礼申し上げます。
そのおかげでといっていいのですが、「ああ、土居さんとここが一番違うのだなあ」という部分が発見できました。それは「レッテル貼り」というご指摘です。
つまり私は、「「自己参照的メカニズム」「非文脈性」「意味の確定の拒否」「価値」「総体的建築」といった、大げさにいえばメタ言語による整理」を、「反」とも「再」とも枕詞がつくような相対的作業としての「レッテル貼り」だとは全く思っていなかったということです。
私はそれを、もっと客観的なものだと思っていました。
まして、そういう言葉を記述する自分を「超越者」だとは全く感じていませんでした。
土居さんからは、「なんと能天気なやつ」と呆れられるかもしれませんが、そういうことなのです。
もちろん科研による出版なので、申請時に提出した完成原稿としての博士論文を「校正」程度以上には修正できないという条件はありました。しかしいうまでもなく、私は「これは「学術論文」だから「読み物」にするためにどこかを直さないといけない」とは、微塵も思わなかったというわけです。
むしろ恥ずかし気もなく喩えを書けば、自然科学の研究(者)という感覚だということです。
「内角の和は180度」という命題が三角形という図形の「レッテル」ではないように、またその事実を発見した数学者が「超越者」ではないように、自分の書いているメタレベルの言葉による結論は、混沌とした現象の中から引き出された客観的な事実としての構造やモデルなのだと考えていました。

ただし、「三角形の内角の和」が180度を超える非ユークリッド幾何学だってあるわけですし、「混沌」を混沌のまま捉える哲学だってありえるとすれば、数学者はそこに余計な秩序をもちこむ「超越者」だともいえるでしょう。
なので、もちろん分かっていただけると思うのですが、別に一方の立場だけの正当性を主張しているのではありません。
土居さんの指摘によって、私は「ああこういうメタ言語であっても相対性の枠を脱していないという批判もありえるのだなあ」と思ったわけですから、そのことにこそ大きな意味があると思っています。
歴史と設計、あるいは建築計画といった近接分野にある、まさに土居さんが書かれた「自国領土の拡張をめざすというどん欲な動機」を払拭した建築の論じ方がないものかと思う私としてのひとつの試み、土居さんのおっしゃる「学術論文と、読み物のちがい」を乗り越えようとしたひとつの試みが本書だと、私は考えていたというわけです。
くどいですね(笑)。そんなことは分かってるよと呆れて下さい。
ただ、あたかも意図していたかのように書きましたが、結局のところ私にはそういう書き方しかできないのだなあと、今回つくづく思いました。最後は、数学や論理学や言語学などが提供してくれるような「モデル」を見つけられないと、何も分かった気にならないのです。『建築文化』に書いた「青木淳論序説」しかり、『植田実の編集現場』しかりです。私にはこういうふうにしか書けないのです。

おそらく土居さんにとっては、すべて予想通りの返事ばかりだと思います。
ただ、土居さんから最初にいただいた感想は、ステップをひとつ飛ばして書いておられる(と私には思えた)ので、その間を埋めたかったというわけです。
結論は正しいけれど、証明の途中の何行かが省略されているので、その溝はきちんと埋めておかないと気持ちが悪い。言葉の彩・含意といったことが大の苦手で、言わずもがななことでも言葉にして確認しないと落ち着かないという無粋者です。どうかお許し下さい。

土居さんが後半に書かれた「建築史(家)」と「設計(者)」の「鏡像関係」、そして光栄なことに「ぼくもあなたのなかに自分のパラレルを見ているのかもしれない」と書いていただいたお話も、大変に興味深かったです。「アウェイ感」!土居さんですらそうなのですかと驚きました。最初に書きましたように、私は「アウェイ感」の塊です。
実はこの本の次は何をしようかなあと考えているのですが(つまり「コウモリ」らしくさっそく「建築史」から逃げる算段です、笑)、漠然とイメージしているのが、建築を語る言葉について考える作業です。
私にとっては、そこでやっと土居さんのおっしゃる「「論文」と「叙述」はまったく違うものであり、その違いのなかに可能性があって、建築史はその可能性をすこしばかり探究したほうがいいのではないか」といった問題が射程に入ってくるような気がしています。
唐突ですが、私は青木淳君の語り口に大変興味をもっていて、そこには少なくとも「設計」と「批評」、あるいは「創造」と「分析」を合体あるいは超越したような総合性があり、彼はその武器によって新しい建築を生み出している。それは、これまでの建築家とは全く違うスタンスだと思っています。この3年間、神戸芸工大の「オープンスタジオ 青木淳と建築を考える」という企画で、彼と対話をしたり彼の講評を聞いたりしてきましたが、まさにそのことを実感した3年間でした。当面、そこで感じたことを手がかりに考えてみようかと思っています。
↓ここに3年間の記録があります。
http://www.kobe-du.ac.jp/env/openstudio2010/
http://www.kobe-du.ac.jp/env/openstudio2009/
http://www.kobe-du.ac.jp/env/openstudio2008/

そんなこんなで、ずいぶん余計なことを書いてしまいましたが、たいへん勉強になりました。ありがとうございました。

投稿: 花田佳明 | 2011.02.20 14:11

お二人の真摯な『建築』交信、興味深く読ませていただきました。

私も同じ時代(1955,6年生)を『建築』を目指して来た仲間として共感できるシンパであることを確認し、このブログにはつぶやき以上のものがあるとその素晴らしさを実感しております。
ありがとうございました。

実は私も、花田さんとはたまたま2006年の神戸芸工大の講演の際に知り合いまして、今回のこのコメントで『建築』に対しても自分と同化してとことん突き詰めて考えている姿勢をよく理解でき、益々近しい存在になりました。さっそくその労作を読んでみたくなりました。

『建築』を計画・設計デザインする立場であれば、誰でも建築論・建築史は特に必要となってきます。ただそれが深いか浅いかの違いだと思います。日本の優れた建築作品は深く考えられた中で創作されてきたものではないでしょうか。例えば最初に建築史のアカデミックな研究をした人でも、建築の理論と実践の間で常に揺れ動いていた伊東忠太や堀口捨巳の様に。

『建築』を真摯に考えれば考えるほど、『研究の為の研究』では収まりきれないのだと思います。その辺の迷いが日本の大学の偏狭な建築アカデミズムの中にいるといつもアウェイにいる様だと言うのはよく解ります。

今までは建築ジャーナリズムが真摯な建築の議論の場として機能を果たしていたように思う(相撲界の様な古い体質構造が原因の一つであるのでは?)のですが、現在ではその機能が十分果たせない状況になってきているのではないかと思います。

『国家のアイコンをめぐって』の反響が余り聞かれないという土居さんの苛立ちが状況をよく現わしているのではないでしょうか・・・

洞窟内での冬眠は心地良かったようで安心しました。
今回のようなブログ上での活発な議論を期待しています。


投稿: ユーイチ | 2011.02.21 02:08

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