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2011年2月の8件の記事

2011.02.28

伊藤毅研究室『地域の空間と持続』

標記報告書を送っていただきました。ありがとうございました。

これは東京の白山・丸山福山町地区を分析した報告書である。ひところの町並み・都市分析よりもさらに深く、100年間の人口構成の変化、土地所有関係の変化、町会などのコミュニティといった社会の変化、などという包括的な分析をふまえたうえで、フィジカルなさまざまな都市(地域)組織を分析し論じたものである。つまりマクロからミクロまで、100倍ズームで地区をとらえようというもので、なるほど地区の持続を論じよう、さらにいえば「持続可能性」のみならず、ともかくもこの地区が「持続してきたことの事実性」と、それを裏付けてきた背景を押さえようという意志が感じられる。

この地区の周囲は、江戸から明治、さらに戦後にかけて大きく変化したのみならず、大学、相対的に高級な住宅街、あるいは本論で紹介されているという花街、製本業など、時代をへるにしたがって、ますますヘテロジーニアスなモザイクという全体的な構成のなかの一部となってきた。そのなかで「持続」を問うのであるから、しかも科学的に問うのであるから、たんにさまざまな時代の影響を耐えてかいくぐって生きてきたのだあ、などという感嘆調でごまかさない、ということでもある。

パリのレアール地区が再開発されたとき、そこの中世から近代までの地籍図が30段階くらいで紹介され分析されていたことを思い出した。土地の所有あるいは区分のされかたは、諸世紀にわたる好景気と不景気の循環によって左右される。好景気は地価が上昇するので細分化され、不景気になると安くなるので統合され一筆はおおきくなる、というのが如実に示されていた。そのようなことなのであろう。

私事で恐縮だが、遠い昔、学生のころ本郷に下宿していたので、土地勘はないわけではない。本当は西片(『東京の郊外住宅地』でも紹介されていた)に住みたかったが家賃が高くて学生には無理であった。かといって後楽園のほうには建ち始めていたマンションはやはり家賃が高い。だから菊坂の路地裏に住み着いた文人たちと同じ?理由から谷底にある日照ゼロのアパートに落ち着いたのであった。道ひとつ隔てると、さらには、台地と谷底で、まったく違う世界であった。均質なようで都市はとてもヘテロジーニアスであり、人間というフィジカルにも経済的にもさして強くない生き物は、微地形というものにもつよく影響され、微妙で繊細なエコロジーを保ちながら生息してゆく。それが地区でありコミュニティである。

そういえば3年生のころ、演習課題で、本郷は菊坂ウラの、井戸や盆栽などがある路地裏空間をひとりでサーベイして提出したものであった。

つい先日も、卒計の講評会で、路地を復活させたつもりで理解不足のプロジェクトがあったものだから、樋口一葉の話し(今でも菊坂ウラには彼女が使った井戸があるそうである)などして説教してしまったものであった。それはともかく福山アパートの平面図も、地方から上京してきた単身者たちの住処であって、いまではどうでもいいが、まったくの人ごとではないだろうし、屋敷と長屋の関係も、結局は長屋が木賃アパートになり、やがてワンルームマンションとなって仕様は向上しても、構造的にはそんなに変化したというものでもないであろう。

そのようなわけで本報告書はたいへんよくできた地区マルチスキャンなのであるが、そのむこうに、体温をもったひとりひとりの固有な人間たちが見えてきそうである。報告書そのものはマルチ的な性格が強いが、それらが融合され統一されたイメージをむすびはじめると、それはひとつの作品のようなものとなるであろう。

そんなことを考えながら帰宅すると、机の上に、日曜日に公共図書館で借りてきた佐藤健二『社会調査史のリテラシー』(新曜社2011)があった。ちょっとこの偶然はできすぎているなあ、なんて思った。これもたいへん優れたメタ研究的な著作である。それは都市を分析することにおいて、やはり認識と存在の共犯性というものがあって、さすがに社会学者はそのことに敏感で、だからこのようなメタ都市社会学を書くのだなあという素人なりの感慨をもったのであった。だから『東京市社会局調査の研究』で明らかにされた「東京市社会局」による調査の目的はいわゆる下層社会を可視化することであって、・・・・といった位置づけ、さらに1920年代東京のなまなましい記録写真が再録されているあたりも、そういう意味で面白い。

「そこにおける都市とは『認識』の課題であって、実体的=現実的な対象ではない」(『社会調査史・・・』p.83)のだという。調査は「認識生産のプロセス」であるという。であれば『地域の空間と持続』もまた認識の生産をとおして地域をそして調査そのものを作品化するようなことかもしれない。

すこしくわしく読んでみようかな。

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2011.02.27

イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

会議と入試に満ちた素晴らしい一週間が終わろうとしている。日曜日。図書館にいってしばらくたたずむ。書籍を数冊かりる。帰りに点眼薬を買う。花粉対策である。

名作、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』がたまたま目にとまったので、借りてみる。ずっと昔に読んだはずだが、ほとんど忘れてしまっている。ほとんど初読だろうが、そのあいだに都市の認識も、都市そのものもおおきく変わってしまっているから、楽しみは大きかろう。

マルコ・ポーロが旅したさまざまな都市をフビライに語る、という物語である。マルコははじめ東方の言語をあやつることができなかったので、身振り手振りからはじめた。つまりディスコミュニケーションが出発点である。そしてここでは都市とは「語られる」対象である。見えない都市、という表題は、むしろ語られることを意味している。都市は見えない、というか見ることができない、というのが都市である。

幻想小説などといわれるが、マルコとフビライの会話そのものはむしろ常識的である。語るというのは過去をかたることなのか未来を語るのか、訪れた都市でみる偶然の他者の人生は可能性としての自分のそれだ、などというくだりである。

ぼくには、奇想に満ちたそれぞれの都市よりも、マルコとフビライの会話空間のほうが意味があるように思える。つまり個別/普遍、体験/鳥瞰、移動/帝国という不動、といった対立軸を彼らは具体化している。『「・・・朕にとって重要なものはただアーチだけである。」ポーロは答えて言う。「石なくして、アーチはございませぬ。」』なとというくだりは象徴的である。さらに強引に解釈すると、マルコは世界各地の都市でリサーチして都市プロジェクトをたちあげるコールハースのようなグローバル建築家であり、フビライはそのグローバル資本そのものを代理代表する立場にあったりして。

フビライは地図をもっている。そこにはイェリコ、ウル、カルタゴといった過去の都市もしるされている。しかし同時にニューヨークといった、彼らにとっての未来都市も、太陽の都、ニュー=ラナークといった挫折したユートピアもしるされている。だからカルヴィーノは神話的過去の都市から現代都市までを論じるのであるが、そのための視点を13世紀ころとし、マルコとフビライとの会話をとおして語らせる。フビライは、大帝国の支配者として、とりあえずは20世紀までの道筋は知っていたのだが、それでも、どうもそれが地獄への歩みであることを知っていた。そしてマルコにそれにたいする達観を語らせるのである。

さてこの類の作品は分析しすぎるとつまらなくなるものだが、ついでに借りたピエロ・ベヴィラックア『ヴェネツィアと水』(岩波書店、日本語版は2008年)で、ヴェネツィアがいかにラグーナの陸地化や逆に水位上昇とたたかってきたかを知ると、まさにヴェネツィアが一種の奇想都市であって、いやヴェネツィアだけでなく、都市全般がそもそも奇想的な存在であることにあらためて気がつくのである。さらについでにBevilacquaさんのacquaはたぶん「水」を意味しているのだろうね。

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2011.02.21

冬眠の幸せ、iPadの喜び

去年あたりから体温が下がっていることには、彼は気づいていた。悪寒がして朝3時に目がさめたこともあった。風呂にはいろうとして裸になるとはげしい悪寒がおそったりした。デスクに向かいながら芯から寒いと感じたことがあった。風邪かなとおもったが、熱はないし、咳も鼻水もでない。もう歳かなと思いつつも、このまえの健康診断ではとくに問題はなかったし、とほっておいた。そんな調子で一カ月ほど、さほど危機的でもない軽微な変調をやりすごしていた。

ある朝気がつくと、彼は冬眠していた。もちろん熊のそれとはディテールはかなり違う。体温が下がったといっても平熱からマイナス1度くらいで、健康の範囲内とはいえる。心拍数が10以下にまで下がることはない。昏睡しているのでも睡眠しているのでもない。意識はある。にもかかわらず彼は冬眠していたのだ。

彼は安楽にもベッドに横になっていた。窓が近く、午前中は陽光がさしこむ。昔ふうの、縁側のひなたぼっこのようであった。

今朝そういうことに気がついたから、冬眠はさっきからであるはずだが、こんな生活をもう一カ月以上もおくっているような気もする。こんな生活?食事は三度々々、女性が運んでくる。お膳も下げてくれる。完全エアコンでたいして汗もかかないし、ときどき暖かい濡れタオルで体をふいてくれる。あまりぜいたくはできないが、欲しいものは頼めばもってきてくれる。出勤しなくともいいみたいだし。快適だなあ。

気がつくと枕元にiPadがあることに、彼は気づいた。去年の7月にかったものだ。発注が人よりすこし遅かったので3週間もまったものであったが。ともかく、それで彼はメールを友人たちに送った。グーグルでニュースもみた。you tubeでお気に入りのミュージシャンを堪能した。「午後のパレード」ではノー天気でごめんなさい、ってなんども謝っていた。人に勧められてウィーンのピアニストが演奏するショパンも聴いた。そればかりか電子ブックで小説を読んだりした。『異邦人』も原語で読んでみたほうが、不条理感が増幅されることに気がついた。さらに電子書籍化した自分の専門書も、ストレスを感じない範囲で、目をとおしたりした。彼はきまぐれに、娯楽も、仕事も、趣味も、なにもかにも、細切れにし、それらを混ぜ合わせてミンチにようにし、なんともいいがたい日々を過ごしたのであった。

ようするにベッドとiPad。極楽にはこのふたつでじゅうぶんだな。小心者の彼は、この言葉をおもいつきつつ、それをそっと意識の隅におしやったが、もちろん捨てさりはしない。

彼は夢をみた。冬眠中の夢は、二重の深さの夢だなあと自覚しつつ、みた。夢のなかで、彼は友人が語ったことを回想していた。「全身麻酔から目覚めるとき、まず意識が目覚める。ごく僅かな時間、視覚はまだ回復しない。がすぐ回復する。このような時間差がある。すると気がついたとき、なにも見えない。闇さえみえない。しかし0.1秒後、闇は見えるが、しかしなにも見えない瞬間がある。それから闇のなかに、ほんとうに小さい、針の穴のような、明るい一点が見える。それはトンネルの先の小さな明かりよりも、もっとはるかに小さい一点だ。それからこの明るい微小点が、爆発的に、いっきに広がる。すると病室の天井がみえる。どうじに点滴の容器、執刀医のマスク、さまざまな器具がみえる。睡眠からさめたときとは、まったく違うのだ。睡眠からの覚醒は、じょじょに、段階的になされる。全身麻酔からの覚醒は、ON-OFF的に、デジタルに、ビッグバン的になされるんだ」。友人はそんな体験を語っていた。ということは麻酔では夢をみないのか。普通の睡眠ではたとえばレム睡眠のように、意識はあるのだな。意識とは巨大な無意識の一部にすぎない。でも麻酔がその巨大な無意識まで奪ってしまうのはよくないことだな。

ふたたび夢をみた。夢だからどんな病気なのか、医者の所見はどうなのか、そういうディテールは省略されている。しかしフィジカルに激しい疼痛がする。ナースを呼ぶと、彼女は太い注射器をもってきて彼の肩に鎮痛剤を注射する。しばらく痛みはほとんど去る。しかし3時間もすると痛みは復活する。そしてはげしく彼の肉体をさいなむ。またナースを呼んで打ってもらう。そういうことを繰り返していると、これはシジフォスの神話なのかと思ってしまう。「ねえ看護婦さん、いつかは完治するの?」「さあ」「完治しなければ?」「また注射します。痛みはなくなります。」「無限につづくの?」「かもしれませんが、わたしにはわかりません」「看護婦さん、あなたは天国の天使だと思っていたけど、地獄の悪魔かもしれない」「天使でも悪魔でも、おなじことです」。どっちなの、といいかけて目が覚めた。

またもや夢をみた。こんどはちかくに医者が立っている。「iPadおもちですか。ぼくも個人的にはもってますよ。病院が厳しくて仕事で使わしてくれませんけどね。病院サービスとしては、入院患者用無線LANを提供したっていいと思います。患者さんを社会から隔離してはいけません。精神的にも肉体的にも。当病院では、内臓の半分を摘出した患者さんでさえ、1日は完全休養として、すぐ歩行訓練をしてもらいます。そのほうが回復が早いんです。仕事だって〆切が厳しくない類のものならストレス発散にいいんです。メールもやったほうがいい。ニュース、娯楽、いろいろあったほうがいいんです。孤独になると悲観的なことを考えてしまいますからね。・・・忘れるところでした、3G経由でMRIのお写真ごらんになりますか。そう、こうして、はい、これがあなたの内臓脂肪です、しまっててとてもいいですね、ここが脊椎、ここが・・・え?」。え?ってなんですか。と訪ねようとして目が覚めた。そして自分の夢はとてもいいかげんで、オチを省略した無責任な夢であることに気がついた。

目が覚めるとそんな夢を、iPadの日記帳につけたりした。それらは夢がみた夢として彼のアーカイブとなるであろう。

そして目が覚めた彼は、もういちど目が覚めるのであろう、つまりこの眠りは二重のものであることを知っていた。いま最初の眠りから目覚めたのだから、そのうち二回目の、というか、上階の眠りから覚めるであろう。そしてその覚醒がなんの劇的な演出もなくなされるであろうこと、あたかも駅の改札をスイカで通過するようになされるであろうことも、彼は知っていた。それをいつ、どの段階で知りえたかは知らないほど、知っていたのであった。

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2011.02.20

五十殿利治『「帝国」と美術』

1000頁を超える大著なので、隅々まで眼をとおすわけにもいかないが、堪能できる文献ではある。

1930年代日本の対外美術戦略という副題のとおりの内容である。ローマとベルリンで、それぞれムッソリーニとヒトラーにアピールしようとした日本美術展。仏領インドシナ、朝鮮半島、台湾におけるそれ(アジアへの文化工作)。パリとNYの博覧会における「写真壁画」の問題。そのほか満州、オリンピックをテーマとした章もある。ようするに章構成そのものが本書の思想であり、かつ、1930年代世界における日本の立ち位置を説明するようなものになっている。

ようするに、フランスとソ連がかつて「革命」を輸出したように、日本も、西洋諸国には「近代化」を逆輸出し、アジアの諸国には「近代化」をベタに輸出しようとしたのであろう。そういう意味では1930年代にとどまらない、20世紀全体の問題であろう。

個人的に面白かったのは1930年代は「写真壁画」の時代であった、という指摘である。1937年のパリ万国博日本館についての記述が面白い。これだけ取り出して単行本化できるくらいである。建築史の通説では、坂倉準三による日本館が、日本における(日本人による)近代建築運動の勝利として語られるだけであるが、本書ではこのパヴィリオンは一種のメディア建築であり、壁面全体がいわゆる写真壁画であって、写真技術の発展を物語るとともに、建築とメディア(写真)の不可分の一体化ができてしまっていた、ことが指摘されている。また部分的には紹介されていたことだが、岸田日出刀がフィクサーの立場をおりてしまって混乱し、そのなかから坂倉案がでてくる経緯は面白かった。さらにいえば、写真壁画という展示と、展示空間という建築が、ほんらいは対話をとおして一体として設計されるべきが、そうではならなかったとしごく正当な批判がなされている。専門家はそう批判するにしても、それでも建築とメディアのそこそこの融合はみられるのではないか、とも読者としては思う。

興味をおぼえた点がいくつか。

(1)パリ1937年博では、政府筋がイニシアティブをとろうとして、建築、アート側がしたたかに実質を奪ってしまうような(読み物としては)たいへん面白いストーリーが堪能される。ただそれでいうと大阪万博もおなじストーリーで理解できそうだし。それから、いろいろ批判されている、ポスト大阪の博覧会の無内容を再考するにも、20世紀前半から検討しなければならないということか。

(2)1980年代にポンピドゥ・センターで《日本の前衛》展をみたが、そのズレは印象的であったのであって、「近代化」をテーマとする日本展は原理的にある限界を超えられないのではないか。そういう意味では1977年の《「間」展》を超えるものはまだないといっていい。しかしその「間」展のコンセプトそのものも、おそらく1930年代あたりで、日本人が西洋的な建築・美術を学習した最良の部分ということができるのだが。

(3)本書は一種の「1930年代論」である。いわゆる30年代論はかつて1980年代になされたことがあって、歴史は50年周期か60年周期かなどといわれた。当時の論客たちの中心はおもに1940年代生まれのひとびとであった。端的にいうと団塊の世代が1930年代を問題にしたのであったし、その問題構制の中心にあるものも、ナショナルとインターナショナルの関係であったように記憶している。本書の執筆者たちはそれより若い世代であって、課題が世代をこえて伝わっていることが想像される。

(4)1937年展では渡辺義雄、河野鷹思が担当した《日本の住生活》のなかで、堀口捨己の《岡田邸》が同時代作品的なあつかいで紹介されている。執筆者は建築が専門ではないので、この件にかんする論考は遠慮されているようである。ぼく自身は、すでに神話となっていた堀口捨己《岡田邸》を事後的に学習させられた世代に属しているが、同時代現象としての堀口捨己はどうであったかはまた別であろう。彼の茶室についての思索をどう位置づけるかも、なんども再考されてよいであろう。

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2011.02.19

松村本書評へのコメントにこたえて

花田さんからコメントいただきました。いろいろ感じいりました。

『建築ジャーナル』誌の件があったころは、ぼくもかろうじて30代でした。今思うと、まぶしい感じがしますね。忙しかったなあ。毎日授業どころか、土曜日も演習がありました。いまや歴史的なものとなった奈良のオーセンティシティ会議にも招待されていましたが、なんと学園祭の見回り教員に指名されていて、いけませんでした。とり残された感じがしてあせりました。でもそれなりにがんばりました。全国にさきがけて合同卒計講評会も立ちあげたし(これはもう若手にゆずった感じです)。

それはそれとして花田さんの「うーん」ですが、ぼくなりに解釈すると、ご当惑は二重構造になっているようです。

(1)建築史家としては、概念(様式、主義、方法論)をしっかり提示して、それから建築家なり作品なり文献なりをといった対象を分析するのがスジではないか。建築史家として、概念=定規を使わないほうがいいという指摘をすることが、なりたつのか。

(2)松村正恒はそうした概念=定規を払拭した建築家であると分析しているのに、それでも分析が不足しているというのだろうか。松村正恒は定規を払拭した建築家だし、自分もやはり定規に固執しない建築家であるつもりである。この建築史家は、それでも不満なのか、この本論に賛成なのか反対なのか、よくわからない。

こうした指摘をいただいたことにして、とりあえず律儀にお答えしましょう。

ぼくはいわゆる建築史研究者のワクにはめがたい人間のようで、かつて松山巌さんから、建築史家なのに開発側に立つかのような発言をするのか、と批判をうけたことがあります。しかしぼくは、自分の学問を学問たらしめている枠組みをも批判的にとらえることを心がけており、だから様式概念や主義などをまず批判的にとらえることからはじめるべきだと、つねづね思っています。より正しく建築史家であるためにそう心がけているつもりです。

第二の点です。これはやはり批判めいたことでお気に障るかもしれませんが、やはり結論において、脱主義化が再主義化になっているきらいはあって、あるいは評論家的「レッテル貼り」にたいする「反レッテル貼り」もやはり「再レッテル貼り」に回収されてゆく危険性があります。

純粋な読者という立場がありえるかどうかしりませんが、建築史家であることをさておいて、そういう読者になったつもりで読むと、松村/花田のパラレルワールドの均整のとれた世界がずっとつづいていたのに、結論では花田さんが超越者になってしまった感は否めません。読者としてやや違和感を感じます。

もちろんそこが学術論文と、読み物のちがいかもしれません。研究としてはこの「結論」は不可欠です。その内容にもぼくは同意します。しかし読み物として、著者の存在が最後の最後で顕著になってくるのはあまり心地よくありません。ぼくはこの点をいいたかったのですが、この点こそがいちばん伝わりにくいことであったようです。「論文」と「叙述」はまったく違うものであり、その違いのなかに可能性があって、建築史はその可能性をすこしばかり探究したほうがいいのではないか。そういいたかったのです。可能性とは、いつも、合意できない箇所にあるもののように思えます。

ブログなどではどうも意図したよりも強い調子になるもので、誤解されることを恐れるのですが、ぼくはエールを送っているつもりです。これだけの労作ですから、モダニズム建築のあたらしい側面をあきらかにしたとか、モダニズム再考につながる、といった評価がされるでしょう。そのようなことはご興味のある方がたにお任せしたいと、ぼくは思います。ぼくが関心があるのは、歴史を書くこと、そのものの再検討ですし、それをとおしてひょっとしたら建築を語ることそのものの再検討というようなことです。

ところで村松/花田さんのパラレル関係とは違いますが、花田さん/ぼくの非対称関係もみえてきました。

花田さんは、組織設計事務所で実務の経験もある建築家であり、そして大学で設計の先生をされています。その立場で、建築史の文献を書いた。とうぜん方法論上のとまどいもあっただろうし、建築史専門家からの注文にも過敏になられます。

ぼくはその逆です。建築史の専門家なのですが、こともあろうに大学では設計教育の担当であり、デザインの教育もしていることになっています。もちろん建築史の立場からの設計教育もそれなりに世間的には認められているようですが、それでもアウェイ感はつねにあって、いまや常態化しています。しかし、最終的には建築史というものに回帰して、不器用なほどにオーソドックスに建築史叙述に没頭する一時期をもつ、というのがぼくの夢です。だから花田さんが松村のなかにパラレルを見たように、ぼくもあなたのなかに自分のパラレルを見ているのかもしれないし、だからこんなにたくさん感想を書けるのかもしれません。

そういう非対称の鏡像関係にある花田さんとぼくが、すこしばかりの見解の相違から意見を交換しています。でもそれだからこそ、そしておそらく同年生まれで故郷も近いという偶然もすこしは後押ししてくれて、たんなる自国領土の拡張をめざすというどん欲な動機ではなく、ある意味で純粋に、建築史はどう叙述しうるのか、そして建築はどう語るべきか、を話し合っているのだろうと思います。ぼくたちの交信をさらに客観的にみすえる、第三者の立場からそう見えることを願います。

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2011.02.18

卒業設計の講評会

わが学科の卒業設計である。

家を出る前に、30分ほど書類を作成。留学生関係のもの。

9時30分、大学着。ハンコしたり、雑用。

10時から卒業設計のポスターセッション。学生の話をきいてまわる。というか、お説教が中心。いやなオヤジである。採点結果を井上先生に渡す。

昼前後、同僚の谷先生から、東南アジアの集落サーベイ、腰痛のはなしなどを聞く。

松畑強さんに久しぶりにあう。時間を勘違いしていて、すごい失礼なことをしてしまった。申し訳ありません。松畑さんは10年ほど前に非常勤講師として設計の指導をしていただいた。設計も理論もしっかりされていてたいへん勉強になった。いまは東京と福岡の2拠点で活動中である。世間ではコンバージョン系の仕事がたいへん多いが、不動産業界の圧力があるという。講評もみていただいた。

15時からは講評。全体としては、出発点はそれぞれいいが、あまり展開しておらず、今回がやっとエスキスという感じであった。みんな自分の可能性をつきつめていない。新任の先生が多く、とてもフレッシュな雰囲気であったが、みなさん学生に優しく、ぼくのような超辛口批評家はすこし居づらかった。だからぼく的にはとてもおとなしくしてしまった。フルスロットルにはほど遠く、欲求不満がのこった。でも、学生たちはもっと厳しく追及してもらいたいと思っているはずである。ぼくなりにそれはわかっていたつもりである。なぜなら学生たちは、みんな向上心はあるのだ。

仙台や福岡の合同卒計展で可能性のあるものを評価したが、そのほかでは、カースト制の社会構造のなかでどのようにバイオマスエネルギー施設を設置するかというプロジェクトが面白かった。テクノロジーも、社会というフィルターを経由したときに、善も悪も生み出す可能性がある。そうした建築のヤヌス性を学生に感じとってほしいと思った。

17時。留学生たちの相談をうける。単位取得のことをとても心配していた。こんな留学生ははじめてである。みんなとてもまじめなのである。それでも春休みは、九州一周とか東南アジアツアーに出かけるそうで、意欲的で頼もしいかぎりである。

19時。帰宅。夕食ののち、整骨院にゆく。今日はほとんど立ちっぱなしであったので疲れた。すこし前までは、講評会のあとはかならずビールであったが、同じ快楽原則であっても、整体されたいオヤジになってしまった。コリをほぐして癒される。帰宅途中、ふとコンビニによってひさしぶりにビールを買ってしまう。あれかこれかではなくあれもこれも。

みなさま、お疲れさまでした。

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2011.02.17

花田佳明『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』

花田さんから送っていただいた書籍が、今日、自宅にとどいた。ありがとうございます。さっそく一読した。

第一刷発行が2011年2月28日であるから、その10日ほどまえに書評を書くのもおつなものであろう。

彼が愛媛県のある建築家に注目していたことはずっと知っていた。彼が研究をするきっかけとなったのは、1994年の四国建築建学ツアーであったが、ぼくもいっしょにこないかと声はかけてもらったはずであるが、なにしろ当時のぼくは赴任したてで月曜から金曜まで毎日授業やら演習やらがあるという状況で、ほかの大学の先生はいいなあなんて思っていたようなことで、丁重でもなくお断りした記憶がある。

本書は発掘した膨大なドキュメントをバランスよく分析して配置した、どちらかというとドキュメンタリー仕立ての建築家モノグラフである。建築理論的な分析はむしろ抑制されてる。だからぎゃくに、松村の世界にすっとはいってゆけるという好著である。

2011年の時点から松村正恒を回顧すること。それはノスタルジックなことであろう。本書では、正しく、建設的にノスタルジックであると思う。1956年生まれの著者が、同年における蔵田周忠と松村との交信を詳細に紹介するくだり。それは人が、自分の生まれ出た世界を解明しようとしたときに必然的に構造的に生んでしまうロマンティシズムでありノスタルジーである。たとえば1950年代は、戦前の近代化の流れがあり、しかし高度経済成長はまだという過渡期であった。花田さんと同い年の同窓生であるぼくにとっても、それは生まれ出た世界である。それを解明しようとするノスタルジーはなんら恥ずべきことではない。それは客観的で生々しい事実である。だた失われた過去なのでいろいろと再構成の努力が必要である。

1950年代生まれは、すこしばかり社会的正義のようなものの影をひきずっている。すこし後の世代は、もっとはっきりビジネス・コンシャスである。もっとくだって今の学生は、完全に斜陽国日本がインプットされている(本人たちは自覚がないが)。それぞれの時代はそれぞれの世代にすり込まれるのであり、近過去はすべて生きている人口構成のなかにプリントされている。それが歴史を読むときのおもしろさである。

本書には、花田さんの松村正恒への切ないばかりの共感があふれているので、読んでいるぼくもすこし切なくなったりする。若いときから師とあおぐ大建築家への態度とはまったくちがう。花田さんは人を教える立場になって、自分を確立してから、松村正恒に出会った。そして大げさにいえば、そこに自分自身を発見したのである。ある他者を観察することで、ますます自分自身がわかってしまう、そのようなトリッキーな時空のなかで、むしろ「もうひとつの自分自身」のようにドキュメンタリーを書いてゆく。ある意味で「建築家のパラレルワールド」なのだ。建築のプラン、仕様、構法、ディテールをこまかく書いてゆくのも、松村の仕事をすみずみまで、もうひとつの世界のどんなニュアンスも逃さないという態度でのぞんでいるからであろう。

松村正恒は日本の近代建築のまっただなかで修行をして、東京、満州、そして愛媛で活動をした。彼は主義やメディアのためではなく、まさに建築のために建築したような建築家であった。そのように解釈してなにが悪いのだろう、と個人的には思う。

共感するがゆにあえて書くけれど「結論」はまだいらないのではないか。とくに「主義」との関連をつけなければならない理由はないと思う。詳細な分析からあきらかなように、松村正恒はいわゆる建築界・メディア・論壇のなかで用意されていた類の「主義」をいちど払拭した建築家であった。それを花田さんがいろいろな主義を定規にして当てはめてようとしているのが、ぼくにはよく理解できない。もしほんとうに「建築」に可能性があってポジティブなものであれば、頭のいい人びとが構築した座標軸である様式や、主義や、理論などからすこしずつずれていっていくはずである。

松村正恒は色見本にきちんと整理されてしまう色である必要はないと思う。ぼくは具体的な建築の姿や、交流や、発言かなどから織りなされる空間いや宇宙があって、結論などまったくいらなくて、その豊かさがもっとも雄弁に自分自身を語っているような、そういう建築語りがそろそろ誕生する(じつは誕生しているけれど歴史的事実として確認するのはずっとあと)のではないかなんて思っている。

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2011.02.12

国家のアイコンをめぐって----折衷主義・純粋美学・弁証法

冬眠しておりました。気がつくと一カ月ぶりの投稿である。『建築雑誌』2月号に掲載されたものの再録です。とくに注目もされていないようですが、ぼくなりの20世紀のある側面のまとめでもあります。

すこし時間をおいて再考し、さらに『建築雑誌』特集をパラパラめくってみると、また違う観点がでてきます。つまりこの特集は、論争というものが自然にどこかからわいてくる、あるいはある構造的なものからにじみ出てくるもののように想定されています。その態度が「我国将来の建築様式」はどうなるのかという、ちょうど100年前の論争と同じ構図であることがわかります。つまり人為的、意図的に論争を構築するという意図はどうも発生しにくいようです。もちろんこういう指摘をすると、論争への意思が発生しないのは、これはじつは構造的な問題なのだ、という再度のご指摘がありそうです。

いろいろな人が俎上にのせている「我国将来の建築様式を如何にすべきや」会議ですが、まさにこの会議の構造そのものが、いまだに支配的であるようです。この会議は、明治末期のまだプリミティブな時代の建築論争であるかのように思われますし、考察のたんなる一対象のように思えますが、しかしじつは、それを客観化したつもりの私たちの枠組みを支配しているなにかかもしれません。つまり、

1910年「我国将来の建築様式を如何にすべきや」

2011年「我国将来の建築論争を如何にすべきや」

なのです。根本的に変わっていない部分があります。

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「国家のアイコンをめぐって----折衷主義・純粋美学・弁証法」

編集部が考えたテーマであるが、そもそも国家、民族、国民、日本などといった諸概念はすこしずつ違う。さらに近代日本の建築学においては、西洋や日本だけでなく、東洋、大陸、南方といった課題も論じられ、おそらくそれらすべてがこの国家という問題にかかわってくるので、幅をもって論じるべきである。また建築論争ということでは明治以来、学会、専門誌、メディアもあったし、優秀な編集者たちもいて、よく準備されていたのであり、そういう意味でそれらは建築会議でもあった。議院建築以降の論争はさんざん再考されてきたので、ここでは違う整理をしてみたい。
(1)折衷主義的な論争。1910年に建築学会でなされた討論会「我国将来の建築様式を如何にすべきや」では和洋折衷論、新様式創造論、様式推進論、建築進化論が主張され、のちに不毛に終わったと評されるが、様式は人為的に創案されるのではなく社会や技術の発展のなかから自然に定まってゆくという関野貞や長野宇平治らの主張が支配的であった。林昌二の「その社会が建築を創る」という主張は、半世紀後の反響であった。
 ここで折衷主義とは19世紀の趨勢のことだけではない。このように構想される「将来」はひとつに決められないので必然的にハイブリッドになる、ということを意味している。同様に近代国家もまたひとつの国家理性に支配されたロジカルなもののようでいて、経験的には、諸要素を並立させる折衷的なものになることが多かった。下田菊太郎の帝冠併合式、いわゆる帝冠様式、ラッチェンスのインド総督府などは基本的に折衷である。折衷主義の起源のひとつはそもそも19世紀的なグローバル化なのである。だから磯崎新は『都市、国家、その様式を問う』(1983)を書き、「つくばセンタービル」をもって分裂症的折衷主義と自称したことによって、批判的距離はあろうとも、70年前の議院建築論争の正統な嫡子となったのである。
 丹下健三は「ポストモダンに出口はあるか」(1983)においてその出口のなさを結論づけた。彼は生産から情報へのシフトをていねいにフォローするのがモダニズムだとした。いっぽうでアメリカのポストモダンは、まさに製造業から金融サービス業への産業構造転換を反映していた。この錯綜した状況は、折衷主義はそもそも近代社会の産物であるという建築史の常識をもって説明するしかない。統一的な国家アイコンはなくともよく、本来的に分裂症的である折衷主義がいちばん的確なアイコンとなる。磯崎の批評は、逆説的ではなく正統的なのである。逆説的なこととは、このような折衷主義のほうが未来志向的でオープンなことである。
(2)純粋美学的な論争。それにたいし純粋美学的なものは伝統と過去を指向する傾向があり、引きこもり的でもある。「日本的なもの」について議論された時代、堀口捨己は『建築における日本的なもの』(1932)において日本建築の特質として、非左右相称、掘立柱、檜皮葺、記念碑性がないこと、空間をつよく意識していること、茶室がザッハリヒであり機能主義的でもあること、などをあげた。これはヨーロッパの近代美学フレームにより日本の伝統を再解釈するものであるとともに、当時のいわゆる東洋趣味へのアンチテーゼであった。東洋的でも大陸的でないからこそ、日本的であるという図式がこのとき成立した。同時代に南方建築、大陸建築などについて学会的な探求があったことも考えあわせると、美学的に定義された日本建築は、批判性をもった縮小指向であったことが状況的には容易に観察される。ブルーノ・タウトの日本建築理解もこの枠組みに忠実である。
 太田博太郎『日本建築史序説』(1967)の序章にあたる「日本建築の特質」は堀口捨己の美学をかなり忠実に踏襲しているのであって、大陸建築とは異なる点においてこそ日本建築の美学は成立している。しかし半世紀ちかく書き換えられないこの序論における美学と、次章以降で展開される時代ごとビルディングタイプごとの実証とは乖離しているという問題は残される。ただその是非ではなく、乖離がなにを語っているか、である。図式的に仮説をいうと、この乖離が象徴しているのは、国家と日本のギャップであるかもしれない。国家は膨張し、日本は文化的に抑制をかける。日本美学とは隠れアンチ国家であり、国家が大陸へ、東洋へ、南方へ拡張する時代における戦略的な引きこもりであった。そういう意味で「乖離」を位置づけなければならない。
(3)弁証法的な論争。丹下健三の『ミケランジェロ頌』(1939)の重要性は、はミケランジェロ、ル・コルビュジエ、ニーチェのアポロ的とディオニソス的という図式、を引用したことではなく、このニーチェ的二元論から「矛盾の克服」という図式を導入したことにある。弁証法的なものはダイナミックであり創造的であり、一種のブレークスルーの方法でもあり、丹下にときおりみられるやや超然とした態度なのであった。丹下はたびたび論争の渦中にいながら、じつは超然としていたのではなかったか。浜口隆一の「日本国民建築様式の問題」でさえ理論的にはその影響下にあり、西洋的な空間概念と日本的な伝統という二元論の矛盾が克服されようとしている。川添登が1950年代の『新建築』誌において仕掛けた伝統論争もまたそうなのであって、縄文的と弥生的という二元論もまたニーチェ的なそれの繰り返しであった。1970年の大阪万博では、丹下は弥生的なお祭り広場の大屋根への、岡本太郎の縄文的である太陽の塔の介入を許したのであったが、桂を縄文的=民衆的と弥生的=貴族的なものの二元論の克服であるとする丹下にとっては、当然すぎる決着のつけかたなのであった。
(4)比較論。筆者なりの三種類の分類は、日本に固有というわけでもない。たとえばフランスと比較してみると、意外とよく対応する。
 折衷主義そのものが、19世紀ヨーロッパにおける国家アイコンをめぐってなされた論争の結果であったという建築史の常識に立ち戻らねばならない。20世紀のモダン建築はその隙間を埋めたにすぎないが、近代国家としての成熟のスピードにより状況は異なる。
 純粋美学的なものに対応するのは、たとえば、ベルナール・ザンビアンが『シンメトリー・趣味・性格』(1986)のなかで述べたような、フランス17世紀において、古代建築やイタリア建築にたいして「フランス建築」という概念がはじめて登場したというような契機である。つまり大陸に対抗して島国の「日本建築」概念が誕生したように、古典古代とそれを継承するイタリアにたいし「フランス建築」が登場したのであるが、誌面が限られているので詳述しない。
 弁証法的なものにはなにが相当するだろうか。スケールはとても違うが、縄文/弥生はたとえば古典/ゴシックに比べられないか。
 ジャン=マリ・ペルーズ・ド・モンクロが1982年に出版した『建築におけるフランス的なもの』(Jean-Marie Pérouse de Montclos, L’Architecture à la française, 1982)は示唆的である。「日本的なもの」にあてこすってà la françaiseを「フランス的なもの」と訳すのは恣意的であるにしても。ド・モンクロは初期中世にまで遡り、フランス的工法が言及された例を示す。ゴシックは、12世紀末のカペー朝におけるパリ近辺の「地方様式」が、ヨーロッパ各地に普及し、国際様式化したものであった。ゆえにゴシックはフランス起源であり、かつドイツやイギリスの国民様式である。しかし彼は中世から近世へと筆をすすめ、古典主義へと言及してゆく。古典主義はそれと同じように、ヨーロッパ諸国民を融合することもできるが、各国の様式でもありうる。そして彼は、ゴシック建築では「石工技術maçonnerie」であったものにたいして、古典主義では「裁石術(ステレオトミー) stéréotomie」だとして、後者をフランス的なものの中心にすえる。16世紀の建築家ドロルムは、石工の技術を人文主義者の目から明らかにし、18世紀のエンジニアであるロンドレはそれを極みまで発展させた。
 ひとことでいうと19世紀ヴィオレ=ル=デュクによるゴシック再評価にたいする、20世紀ド・モンクロによる古典主義からの対抗歴史観なのである。しかも相手を否定するのではなく、みずからをより普遍化することで相手を包含しようとする一種の弁証法的な論争なのである。
 私見では、ヴィオレ=ル=デュクがそもそも弁証法的なことを論じていた。彼はゴシックを再評価し、古典主義にたいする相対的な地位を高めたにとどまらず、ゴシック建築のなかに普遍的な建築モデルを見いだした。ゴシックは固有性ではなく普遍性において、古典主義を包含しなおそうとさえする。だからその理論は近代建築の支柱のひとつになったし、批判されたとはいえ、ラスキンの保存理論とは異なって、彼にとって修復すべき建物の理想的状態とは、まさにこの普遍的建築なのであった。
 であるからこそド・モンクロは、ゴシック再評価の論法を古典主義に逆輸入することによって、古典の側からゴシックを包含しなおし、ゴシック/古典主義、ヨーロッパ的/国民的を、分断せず和解させながら「フランス的」を定義しようとしているように思える。
 これと比較すると日本における国家アイコンをめぐる議論はニッチ的なのであった。明治以来、個別を論じてきただけであって、普遍がない。普遍を論じられるのは特権的な文化的場においてであるようにも思える。
 折衷主義、純粋美学、弁証法・超越性という3つのアプローチのなかで、可能性として残されている有効なものは弁証法だけではないかと、現段階では、個人的な印象をもつ。折衷主義は永遠であるが要素併存的なその退屈な現実を、私たちは経験によって知っている。純粋美学はスタティックであり排他的な文化コミュニティをうみだす。弁証法はステップアップするなり、なにか新しさへと開かれる可能性がある。ただ丹下健三はそのことをなにより創造に集中させたのであって、論考はあまりに観念論的であり、かならずしも新しい理論や歴史の枠組みとしては描かなかったように思える。ただそこには伸びしろが残されているかもしれない。すくなくとも理論的には。

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