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2011.02.12

国家のアイコンをめぐって----折衷主義・純粋美学・弁証法

冬眠しておりました。気がつくと一カ月ぶりの投稿である。『建築雑誌』2月号に掲載されたものの再録です。とくに注目もされていないようですが、ぼくなりの20世紀のある側面のまとめでもあります。

すこし時間をおいて再考し、さらに『建築雑誌』特集をパラパラめくってみると、また違う観点がでてきます。つまりこの特集は、論争というものが自然にどこかからわいてくる、あるいはある構造的なものからにじみ出てくるもののように想定されています。その態度が「我国将来の建築様式」はどうなるのかという、ちょうど100年前の論争と同じ構図であることがわかります。つまり人為的、意図的に論争を構築するという意図はどうも発生しにくいようです。もちろんこういう指摘をすると、論争への意思が発生しないのは、これはじつは構造的な問題なのだ、という再度のご指摘がありそうです。

いろいろな人が俎上にのせている「我国将来の建築様式を如何にすべきや」会議ですが、まさにこの会議の構造そのものが、いまだに支配的であるようです。この会議は、明治末期のまだプリミティブな時代の建築論争であるかのように思われますし、考察のたんなる一対象のように思えますが、しかしじつは、それを客観化したつもりの私たちの枠組みを支配しているなにかかもしれません。つまり、

1910年「我国将来の建築様式を如何にすべきや」

2011年「我国将来の建築論争を如何にすべきや」

なのです。根本的に変わっていない部分があります。

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「国家のアイコンをめぐって----折衷主義・純粋美学・弁証法」

編集部が考えたテーマであるが、そもそも国家、民族、国民、日本などといった諸概念はすこしずつ違う。さらに近代日本の建築学においては、西洋や日本だけでなく、東洋、大陸、南方といった課題も論じられ、おそらくそれらすべてがこの国家という問題にかかわってくるので、幅をもって論じるべきである。また建築論争ということでは明治以来、学会、専門誌、メディアもあったし、優秀な編集者たちもいて、よく準備されていたのであり、そういう意味でそれらは建築会議でもあった。議院建築以降の論争はさんざん再考されてきたので、ここでは違う整理をしてみたい。
(1)折衷主義的な論争。1910年に建築学会でなされた討論会「我国将来の建築様式を如何にすべきや」では和洋折衷論、新様式創造論、様式推進論、建築進化論が主張され、のちに不毛に終わったと評されるが、様式は人為的に創案されるのではなく社会や技術の発展のなかから自然に定まってゆくという関野貞や長野宇平治らの主張が支配的であった。林昌二の「その社会が建築を創る」という主張は、半世紀後の反響であった。
 ここで折衷主義とは19世紀の趨勢のことだけではない。このように構想される「将来」はひとつに決められないので必然的にハイブリッドになる、ということを意味している。同様に近代国家もまたひとつの国家理性に支配されたロジカルなもののようでいて、経験的には、諸要素を並立させる折衷的なものになることが多かった。下田菊太郎の帝冠併合式、いわゆる帝冠様式、ラッチェンスのインド総督府などは基本的に折衷である。折衷主義の起源のひとつはそもそも19世紀的なグローバル化なのである。だから磯崎新は『都市、国家、その様式を問う』(1983)を書き、「つくばセンタービル」をもって分裂症的折衷主義と自称したことによって、批判的距離はあろうとも、70年前の議院建築論争の正統な嫡子となったのである。
 丹下健三は「ポストモダンに出口はあるか」(1983)においてその出口のなさを結論づけた。彼は生産から情報へのシフトをていねいにフォローするのがモダニズムだとした。いっぽうでアメリカのポストモダンは、まさに製造業から金融サービス業への産業構造転換を反映していた。この錯綜した状況は、折衷主義はそもそも近代社会の産物であるという建築史の常識をもって説明するしかない。統一的な国家アイコンはなくともよく、本来的に分裂症的である折衷主義がいちばん的確なアイコンとなる。磯崎の批評は、逆説的ではなく正統的なのである。逆説的なこととは、このような折衷主義のほうが未来志向的でオープンなことである。
(2)純粋美学的な論争。それにたいし純粋美学的なものは伝統と過去を指向する傾向があり、引きこもり的でもある。「日本的なもの」について議論された時代、堀口捨己は『建築における日本的なもの』(1932)において日本建築の特質として、非左右相称、掘立柱、檜皮葺、記念碑性がないこと、空間をつよく意識していること、茶室がザッハリヒであり機能主義的でもあること、などをあげた。これはヨーロッパの近代美学フレームにより日本の伝統を再解釈するものであるとともに、当時のいわゆる東洋趣味へのアンチテーゼであった。東洋的でも大陸的でないからこそ、日本的であるという図式がこのとき成立した。同時代に南方建築、大陸建築などについて学会的な探求があったことも考えあわせると、美学的に定義された日本建築は、批判性をもった縮小指向であったことが状況的には容易に観察される。ブルーノ・タウトの日本建築理解もこの枠組みに忠実である。
 太田博太郎『日本建築史序説』(1967)の序章にあたる「日本建築の特質」は堀口捨己の美学をかなり忠実に踏襲しているのであって、大陸建築とは異なる点においてこそ日本建築の美学は成立している。しかし半世紀ちかく書き換えられないこの序論における美学と、次章以降で展開される時代ごとビルディングタイプごとの実証とは乖離しているという問題は残される。ただその是非ではなく、乖離がなにを語っているか、である。図式的に仮説をいうと、この乖離が象徴しているのは、国家と日本のギャップであるかもしれない。国家は膨張し、日本は文化的に抑制をかける。日本美学とは隠れアンチ国家であり、国家が大陸へ、東洋へ、南方へ拡張する時代における戦略的な引きこもりであった。そういう意味で「乖離」を位置づけなければならない。
(3)弁証法的な論争。丹下健三の『ミケランジェロ頌』(1939)の重要性は、はミケランジェロ、ル・コルビュジエ、ニーチェのアポロ的とディオニソス的という図式、を引用したことではなく、このニーチェ的二元論から「矛盾の克服」という図式を導入したことにある。弁証法的なものはダイナミックであり創造的であり、一種のブレークスルーの方法でもあり、丹下にときおりみられるやや超然とした態度なのであった。丹下はたびたび論争の渦中にいながら、じつは超然としていたのではなかったか。浜口隆一の「日本国民建築様式の問題」でさえ理論的にはその影響下にあり、西洋的な空間概念と日本的な伝統という二元論の矛盾が克服されようとしている。川添登が1950年代の『新建築』誌において仕掛けた伝統論争もまたそうなのであって、縄文的と弥生的という二元論もまたニーチェ的なそれの繰り返しであった。1970年の大阪万博では、丹下は弥生的なお祭り広場の大屋根への、岡本太郎の縄文的である太陽の塔の介入を許したのであったが、桂を縄文的=民衆的と弥生的=貴族的なものの二元論の克服であるとする丹下にとっては、当然すぎる決着のつけかたなのであった。
(4)比較論。筆者なりの三種類の分類は、日本に固有というわけでもない。たとえばフランスと比較してみると、意外とよく対応する。
 折衷主義そのものが、19世紀ヨーロッパにおける国家アイコンをめぐってなされた論争の結果であったという建築史の常識に立ち戻らねばならない。20世紀のモダン建築はその隙間を埋めたにすぎないが、近代国家としての成熟のスピードにより状況は異なる。
 純粋美学的なものに対応するのは、たとえば、ベルナール・ザンビアンが『シンメトリー・趣味・性格』(1986)のなかで述べたような、フランス17世紀において、古代建築やイタリア建築にたいして「フランス建築」という概念がはじめて登場したというような契機である。つまり大陸に対抗して島国の「日本建築」概念が誕生したように、古典古代とそれを継承するイタリアにたいし「フランス建築」が登場したのであるが、誌面が限られているので詳述しない。
 弁証法的なものにはなにが相当するだろうか。スケールはとても違うが、縄文/弥生はたとえば古典/ゴシックに比べられないか。
 ジャン=マリ・ペルーズ・ド・モンクロが1982年に出版した『建築におけるフランス的なもの』(Jean-Marie Pérouse de Montclos, L’Architecture à la française, 1982)は示唆的である。「日本的なもの」にあてこすってà la françaiseを「フランス的なもの」と訳すのは恣意的であるにしても。ド・モンクロは初期中世にまで遡り、フランス的工法が言及された例を示す。ゴシックは、12世紀末のカペー朝におけるパリ近辺の「地方様式」が、ヨーロッパ各地に普及し、国際様式化したものであった。ゆえにゴシックはフランス起源であり、かつドイツやイギリスの国民様式である。しかし彼は中世から近世へと筆をすすめ、古典主義へと言及してゆく。古典主義はそれと同じように、ヨーロッパ諸国民を融合することもできるが、各国の様式でもありうる。そして彼は、ゴシック建築では「石工技術maçonnerie」であったものにたいして、古典主義では「裁石術(ステレオトミー) stéréotomie」だとして、後者をフランス的なものの中心にすえる。16世紀の建築家ドロルムは、石工の技術を人文主義者の目から明らかにし、18世紀のエンジニアであるロンドレはそれを極みまで発展させた。
 ひとことでいうと19世紀ヴィオレ=ル=デュクによるゴシック再評価にたいする、20世紀ド・モンクロによる古典主義からの対抗歴史観なのである。しかも相手を否定するのではなく、みずからをより普遍化することで相手を包含しようとする一種の弁証法的な論争なのである。
 私見では、ヴィオレ=ル=デュクがそもそも弁証法的なことを論じていた。彼はゴシックを再評価し、古典主義にたいする相対的な地位を高めたにとどまらず、ゴシック建築のなかに普遍的な建築モデルを見いだした。ゴシックは固有性ではなく普遍性において、古典主義を包含しなおそうとさえする。だからその理論は近代建築の支柱のひとつになったし、批判されたとはいえ、ラスキンの保存理論とは異なって、彼にとって修復すべき建物の理想的状態とは、まさにこの普遍的建築なのであった。
 であるからこそド・モンクロは、ゴシック再評価の論法を古典主義に逆輸入することによって、古典の側からゴシックを包含しなおし、ゴシック/古典主義、ヨーロッパ的/国民的を、分断せず和解させながら「フランス的」を定義しようとしているように思える。
 これと比較すると日本における国家アイコンをめぐる議論はニッチ的なのであった。明治以来、個別を論じてきただけであって、普遍がない。普遍を論じられるのは特権的な文化的場においてであるようにも思える。
 折衷主義、純粋美学、弁証法・超越性という3つのアプローチのなかで、可能性として残されている有効なものは弁証法だけではないかと、現段階では、個人的な印象をもつ。折衷主義は永遠であるが要素併存的なその退屈な現実を、私たちは経験によって知っている。純粋美学はスタティックであり排他的な文化コミュニティをうみだす。弁証法はステップアップするなり、なにか新しさへと開かれる可能性がある。ただ丹下健三はそのことをなにより創造に集中させたのであって、論考はあまりに観念論的であり、かならずしも新しい理論や歴史の枠組みとしては描かなかったように思える。ただそこには伸びしろが残されているかもしれない。すくなくとも理論的には。

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