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2010.12.12

比較建築史読解006 (5)まとめ

(5)まとめ

 日本とフランスの建築史叙述を比較してはっきりしたのは、日本では断絶、切断、不連続がつねに強調され、その対比を際立たせることが記述の目的であるかのように思えるが、フランスではこうした対比や対立はやがて普遍化という作業によって乗り越えられる傾向があるということである。

 つまり日本建築史における断絶は、ディアクロニック(通時的)なもので、いわば横方向の切断面である。そこでは、なにかが失われれば絶対に回復されない。それと比較するとフランス建築史における断絶は、シンクロニック(共時的)なもので、いわば縦方向の切断面である。そこでは、課題となっているのは関係の調整であって、むしろ失うことが不可能になっているような印象を受ける。

 しかし断絶を際立たせることを目的としている日本建築史というものは、きわめて特異なものだといえよう。非美学/美学、前自意識/自意識、非思想/思想という断絶である。もちろん彼らが意図して断絶を求めているのでもないだろう。しかもこれらの断絶は、すでに述べたようにシンクロニックではなくディアクロニックである。ということはそれらは「建築」の誕生、そのたち現れ、を意味している。堀口、稲垣、八束らはじつは建築の誕生、あるいはその成立を論じているのである。しかし誕生を論じることが、同時に、その終焉を論じることになるという論理的必然があまりにもはやく到来してしまっている、ということなのである。

 《間》展で指摘されたように、日本文化においては空間と時間が未分化である、すなわち西洋的な時間概念がないということであれば、切れ目なく連続している数直線的な時間の概念も、永遠という概念も、不在なのであろう。黒川紀章や菊竹清則らが展開したメタボリズムという運動においても、建築は生と死の循環なのであった。不連続によって活性化される歴史なのである。そう考えてみれば、日本建築史が叙述されるその方法の特性と問題のあり方は、日本の建築のそれそのものではないかと思える。【とりあえず終わり】

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