« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2010年12月の9件の記事

2010.12.23

山本理顕さんから「atプラス」6号を送っていただいた

山本理顕さんから「atプラス」6号を送っていただいた。ありがとうございます。『建築空間の施設化』という論文を書かれている。いずれしっかり読んで、多少の感想も書いてみたい。

今回は、こうゆう文献が届けられるのも、いろいろなことの符合のように思える、ということを書いてみたい。

なにしろつい半月前、リヨン市の郊外にある「合衆国街」と名付けられた集合住宅をみにいった。トニー・ガルニエ設計である。20世紀初頭の集合住宅街である。19世紀的な労働者住宅から、20世紀の最小限住宅への移行期における、トランジショナルな例であると、ぼくは建築史家として判断している。それが建築遺産となって、アーティストに壁画を描かせたり、トニー・ガルニエ・ミュージアムを建設したりして、地域住民の誇りを高め、多少は観光遺産化にもなっている。20世紀初頭、電気ガスといったエネルギーの家庭化、衛生設備の導入、労働法、社会保障制度、休暇法などの一連の法整備によって、普遍的な市民像が制度的に確立された。近代住宅はその近代市民のための施設なのである。ぼくもそう考えた。

山本さんも、それを「施設化」といっているのである。

つい2~3日前、同僚の経済学の先生と世間話をしていた。それがいろいろな方向へ脱線していった。

まず19世紀の空想的社会主義者たちはさまざまなユートピアを建設した。でもそれらはすべて失敗した。経済学の常識ではそうである。しかしぼくは反論してみた。でもそれは「失敗」の定義によるのではないでしょうか。ユートピアにはすぐつぶれたもの、10年もったもの、20年もったもの、いろいろです。でも最終的に崩壊したからといって、それらはすべて失敗なのでしょうか。たとえばアメリカの上場企業は、20年たつとほとんど入れ替わるそうです。ではそれらはすべて失敗なのでしょうか。民主主義国家の政権もやはりせいぜい数年しかもちません。それらはすべて「失敗」なのでしょうか。そうではないと思います。近代という柔らかい社会は、いわゆる失敗を繰り返しながらも前に前に進めるような構造をもっている、つまり失敗を次々とのみこんでしまい、システムそのものはなかなか崩壊しないようにできている。だから19世紀のユートピアも、一種の企業のようなものと考えれば、それらが失敗したということはできないのではないでしょうか、と。

ぼくはさらに考えてみた。たしかにユートピアは、現実社会のシステムから逃避して、自給自足の社会を構築しようとした。農業ベースであれ、工業ベースであれ、それである。そしてそこそのうまくいったユートピアは、生産物を市場にちゃんと供給して利潤を上げることで存続していた。つまり社会との関係が密であったユートピアほど存続しえたのであった。

前述のガルニエの集合住宅も、工場地帯に併存したものであったが、工場経営と住宅経営はいちおう別個であったようで、つまりこの集合住宅は労働者向けという方向付けはありながら、より一般的な住宅マーケットと折り合いがつくようになっていたと思われる。だから存続しえたのではなだろうか。

ぼくは山本さんが構想する「地域社会圏」は19世紀ユートピア的な側面をもっていると思う。核家族住居が原則ではない、共同性を目指している。フーリエが情念によって媒介された人と人の関係性を構想したように、山本さんは6次産業的な産業への人間の知恵、工夫、インタレストなどが媒介となった人と人の関係性を考えている。

しかし違いはある。19世紀のユートピアは既存の社会から孤立することを目指した。しかし「地域社会圏」はそうではないであろう。ある種の共同体でありながら、いろいろなネットワークを介して社会とさまざまに連絡しているであろうし、固定的ではなくつねに流動しつつ、アイデンティティは守ってゆく、そんな共同体なのであろう。しかしそうすると、共同体の基礎理論的なものへの話しは回帰してゆくのであろうか。

すこし大きな問題でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.12

比較建築史読解006 (5)まとめ

(5)まとめ

 日本とフランスの建築史叙述を比較してはっきりしたのは、日本では断絶、切断、不連続がつねに強調され、その対比を際立たせることが記述の目的であるかのように思えるが、フランスではこうした対比や対立はやがて普遍化という作業によって乗り越えられる傾向があるということである。

 つまり日本建築史における断絶は、ディアクロニック(通時的)なもので、いわば横方向の切断面である。そこでは、なにかが失われれば絶対に回復されない。それと比較するとフランス建築史における断絶は、シンクロニック(共時的)なもので、いわば縦方向の切断面である。そこでは、課題となっているのは関係の調整であって、むしろ失うことが不可能になっているような印象を受ける。

 しかし断絶を際立たせることを目的としている日本建築史というものは、きわめて特異なものだといえよう。非美学/美学、前自意識/自意識、非思想/思想という断絶である。もちろん彼らが意図して断絶を求めているのでもないだろう。しかもこれらの断絶は、すでに述べたようにシンクロニックではなくディアクロニックである。ということはそれらは「建築」の誕生、そのたち現れ、を意味している。堀口、稲垣、八束らはじつは建築の誕生、あるいはその成立を論じているのである。しかし誕生を論じることが、同時に、その終焉を論じることになるという論理的必然があまりにもはやく到来してしまっている、ということなのである。

 《間》展で指摘されたように、日本文化においては空間と時間が未分化である、すなわち西洋的な時間概念がないということであれば、切れ目なく連続している数直線的な時間の概念も、永遠という概念も、不在なのであろう。黒川紀章や菊竹清則らが展開したメタボリズムという運動においても、建築は生と死の循環なのであった。不連続によって活性化される歴史なのである。そう考えてみれば、日本建築史が叙述されるその方法の特性と問題のあり方は、日本の建築のそれそのものではないかと思える。【とりあえず終わり】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.11

シャンゼリゼ劇場で内田光子などを聞く

さすがパリで、充実したアフター5が楽しめる。音楽については趣味も知識もないのだが、人に勧められてアルテミス・カルテットと内田光子を聞いた。

内田光子は、ベートーベン、シューマン、ショパンという今年的なものをやって、アンコールはバッハのフランス組曲というよく配慮されたものであった。

この劇場はオーギュスト・ペレによるとても有名なもので、こけら落としが《春の祭典》でもあったということから、モダン芸術の象徴のようにいわれているし、WEBでもいろいろ解説されている。ただぼくはぼくで、すこし別の感想をもっている。

新旧オペラ座は、都市計画的に重要な位置づけもなされている。ガルニエのほうのオペラ大通りはこの劇場の軸線として開設されたし、バスティーユのほうは革命を象徴する広場に面している。コンペで案が募集され、ゴシックかバロックか、といった様式の闘いもなされた。このように、国家的モニュメントなのである。

しかしシャンゼリゼ劇場は、都市的、市民的である。広場に面しているわけでもないし、大通りの軸線を受けているのでもない。普通の町並みのなかに溶け込んでいる。

シャンゼリゼ劇場はよく、アールヌーボーと新古典主義の折衷などといわれる。たしかにファサードは新古典主義そのものだ。インテリアはむしろアールデコ的でさえある。そしてモダンを推進したペレのなかに残る、ボザール的な折衷主義の残滓などと説明される。こうした理解は、それはそれで間違っているとは思わない。しかしそのなかに日本的偏向のようなものも含まれていると思う。それから新古典主義から、大革命、ファシズム、帝国主義などと連想をはじめるのはいささか一方的である。

というのは、さして上手くもない天井画にアポロとディオニソスが描かれているその紋切り型を眺めながら、やはり古代ギリシアという芸術的理想郷と、20世紀の市民社会は、いわゆるモダニズムの批判的言説にもかかわらず、ベタにつながっていたのであろう、というような気になってきた。

たとえば19世紀中盤、オペラ座ができる前、そのやや東側の地区で、民間業者が《ヌーベル・アテン(新アテネ)》なる分譲地を開発した。芸術の故郷ギリシアをイメージした分譲地で、芸術家や音楽家が移り住んだ。このギリシア熱は、国家表象の建築とはまったく次元の違うものであった。

シャンゼリゼ劇場の新古典主義はむしろそのような市民レベルのギリシア熱のほうに近いのであろう。そのような劇場で、内田光子がリサイタルをバッハで締めくくるのはまことにふさわしいのではないかと、感じ入ったものであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.10

アルスナル博物館でレアール・プロジェクトの模型を見た

本務で海外出張しているが、ブログに書くことはついでの話題ばかりである。なにしろ本務の内容は、報告書なり研究発表のためにとっておかねばならないので、ここでは内緒である。ブログとはそんなもんだ、なのであるが。もし海外出張する研究者たちがリアルタイムで知見を放出しはじめたら、つまりブログがほんとうにコア的な個人メディアになったら、たいへんなことになるであろう。隠居的生活をはじめれば、そんなことになるであろうが。それにぼくが隠居するまでにブログが世の中にあるかどうかわからないし。

ともあれ、アルスナルとはパリの建築博物館であり、市の都市計画のための広報部局のような位置づけである。レアールの計画とは、パリ中心部の再開発のようなものである。かつてここは「パリの胃袋」と呼ばれていたが、今回はその「新しい心臓(心)」ということになっていた。

ここの歴史を、記憶だけを頼りに再構成してみる。

もともとレアールとは「中央市場」の意味であり、中世初期から市場があった。

フィリップ・オーギュスト王はこのレアールを整備した。

16世紀、フィリベール・ドロルムは、カトリーヌ・ド・メディシスのためにソワソン館を建設して、その付属屋として天文塔(これだけ現存)を造った。なにしろ彼女は、ノストラダムスを登用したくらいで、天文学と占星術にこっていた。

18世紀後半に、そのソワソン邸の敷地に、新古典主義の様式で穀物市場だけが整備された。

1860年代、鉄とガラスの近代的な中央市場に大変身する。計画はなかなかまとまらなかったが、「大きな屋根があればいいのだ」というナポレオン3世の意向を、オスマンがこっそりかつての同級生であった建築家バルタールに伝えて、そのようなものができた。今にして思うと、べつにこっそりしなくてもよかったと思いますが。コンペの要項にそのように書けばよかったと思いますが。

1970年代後半、新規格の高速地下鉄ができ、A線とB線が交差するレアールの地下は公共交通の要所となった。広い中央市場の敷地はいっぺんに再整備されたわけではない。中央市場そのものは郊外のランジスというところに引っ越した。その跡地の西半分は、バルタールの鉄とガラスのパヴィリオンが取り壊されたまま、更地になった。地下街建設のために穴が掘られたが、そのままであった。東半分は、フォルム(フォーラム)・レアールと名付けられ、地下鉄へのアクセスのための縦穴が掘られ、周囲は店舗などが収容された。

たしか1977年だったと思うが、ポンピドゥ・センターが竣工した。だからフォルム・レアール駅は、この20世紀美術館へのアクセス駅でもあった。

1980年代中盤、西半分の地下街が整備され、シネコン、スイミングプール。店舗、メディアセンターなどができた。地上は庭園になった。地下の大通路はヴィオレ=ル=デュク風デザインというふれこみだったが、ぼくはそんなもんですかねえ、と思っていた。地下の騒音を聞いている巨大な頭部と手の彫刻が設置され、当時のシラク市長が除幕式にきていた。留学中であったぼくはたまたまそれを目撃した。

・・・前書きが長くなりすぎたが、これが歴史的都市というものです。で、今回のプロジェクトは、1970年代後半にできた最初のフォルム・レアール駅の改装といったところ(ついでに西半分の庭園も再整備されるが一見したところ力は抜けている)。周知のように、パトリック・ベルジェやフィリップ・マンガンのグループが基本構想であるが、コンセプトは、地下鉄駅へのアクセスの上にガラスの大屋根をかぶせるというもの。ぼくは、ナポレオン3世の「大きな屋根さえあれば」という要望が引き合いにだされるかなと思っていたが、そうでもないらしい。社会党の市長は、帝政時代の国家元首の発言をとりあげたくもないであろう。当初案はフラットなガラス屋根のようなものであったが、今回展覧会で展示されたのは、大屋根は大屋根だが、もっと立体的でモニュメンタルで有機的な形態であった。解説では、とくに植物の形状を模倣したのではなく、環境を考慮した最適解なのだということである。

計画内容としては、地下鉄、地下街へのアクセスはよりスムースになっているし、面積的にはそれほど増加していないので周辺商店街への影響などは慎重に考慮されているようで、基本的には1970年代的な中途半端な造形を、よりハイテク的にして、現代の都市組織にもっとフィットさせるという、洗練を狙ったものと理解できる。それにしてもモニュメンタリティーが否応なく求められているといった印象であった。なにしろまわりがすごい建築ばかりだから。

アルスナルの模型展示は大がかりであった。なにしろホールの床いっぱいにレアール地区の航空写真を貼る。その上に、新しい大屋根と、地下鉄ホームや連絡通路を含む地下街全体を再現しているのである。

姉妹都市東京でも負けじと、丸の内地下街の立体的な模型などつくったらおもしろそう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.09

ボブールの《DE STIJL1917-1931》展

ポンピドゥ・センターは夜九時までオープンなので、仕事のあとも展覧会がみれて助かる。今年は《デ・スティル1917-1931展》である。

図録の巻頭論文をミゲルが書いてる。まず語彙解説から始めている。De Stijl誌の表紙には赤字でNBとプリントされているが、これはNieuwe Beeldingの略である。つまり新しいBeeldingであるが、Beeldingとは、英語のビルディングでもなく、ドイツ語のBild(像)に近いようで、やはりドイツ語のGestaltungゲシュタルトゥンクと訳しうるのであって、「形態を与えること」なのだそうである。これはドゥースブルグが神智学のSchoenmaekersから借りたのだそうである。したがって普遍的世界の動的で数学的な原理、というような意味だという。

それはともかくミゲルの論文ではDe Stijlが置かれた歴史的・地理的な場をバランス良く詳しく説明している。リーグル、ヴィオレ=ル=デュク、ジンメル、フィードラーらの美学が同時代的に流入していた。当時にメンバーの背骨として、有名な神智学についても、1896年にロージュができ、ルドルフ・シュタイナーも1904年にアムステルダムで講演しているなど、横の関連も説明されている。さらにスピノザ哲学が重要なバックボーンであったこと、など。4次元空間の概念が1914年には紹介されて、その解釈をめぐって分裂が生まれたことも。

個々の項目はすでにそれぞれ紹介されているかもしれないが、それらを整理整頓されたパースペクティヴで説明している。この運動では、線、面、幾何学には超越的な意味がこめられている。それらの根拠になるのが、神智学、哲学、美学などであり、それらを無視して形態的普遍性だけをとりあげて論じることはできない。、

ただとくに興味深いのは《Stijl》=様式、という概念の位置づけである。いわゆる日本固有の「モダニズム建築」観からすると、様式=非モダン、なのであるが、そうなってしまうのは「モダニズム建築」が歴史概念として不適当だからである。様式概念そのものが19世紀の折衷主義の時代に発展し、それが20世紀の建築理論を生む土台となった。ここに「様式」とは、さまざまな芸術のさまざまな現れ、その多様性をつらぬく普遍的原理のことであり、デステイルはそれを目指した。彼らは、建築、絵画、インテリア、都市などがひとつの原理で貫通されると信じたが、そのことが「様式」であり、その解釈はある意味、19世紀的にしてまったく正統的なのである。

すこし脱線すると、エレメンタリズムを要素(構成)主義と訳し、無味乾燥ないわゆる建築=機械論のことと理解するのは短絡にすぎるのではないか。エレメントとは、神智学、神秘学、あるいは哲学においても世界を構成する四元素のことであり、バンハムなどが意図的に説明を省略したとしか思えないのであるが。デステイルとはひとつの世界観なのである。

展示そのものは質量ともに圧倒的であり、よかった。同じカテゴリーのさまざまな作品をみてゆくと、アーティストがなにを探求しているかが自然にわかってくるからである。

モンドリアンについては、具象的な風景画、静物画が、次第に抽象化し、最終的には平面の分割に到着する。移行期の、たとえば木立を描いた、抽象的であるが具象でもある(木の幹や枝がそれとわかる)ものは、むしろシンボリックである。そして彼はそれをインテリアにまで応用する。

模型で面白かったのはとくに原寸大のもの。モドリアンのパリのアトリエ、ドゥースブルグの室内、キースラーの浮遊都市(空中都市)。

これにたいしリートフェルトの住宅、オウトの住宅は、扱いは悪い。そうであろう。実現はされたが、芸術としてはピュアではない。あるいは彼らはアーティストとしてはここでは評価が低いということが伝わってくる。

展示全体は、具象画→象徴的な絵画→抽象画→ボリュームの構成→インテリア→建築→都市(〆が上記の浮遊都市)であり、まことにみごとに組立られていて、キュレーターの構想力を彷彿させる。つまり都市の景観をふくむ風景画が、抽象絵画となり、それが建築をへてふたたび都市にもどる(キースラー《浮遊都市》)という循環である。

デステイルの14年は、運動の14年でもあり、精神の高揚の14年間であった。それ以上続かないのも理解できる。

雑感をすこし。西洋においては、あくまで人間中心主義がコアであり、アブストラクトは周辺的である。抽象は、もともと蛮族的、東方的、なのである。ちなみに図録序文でも、この展覧会がフランスでの最初の本格的な回顧であることが書かれている。だからデステイル的な純粋幾何学が、その深い世界観を薄められつつ世界的に広がってゆくのは、ある意味で当然である。この世界観は、ヨーロッパのコアにより深く進入するというより、辺境を求めて拡散し(ある意味で)普遍化するのである。「モダニズム建築」とはその一片のことであろう。

ただ、ぼく的には精神の高揚としての14年というようなことに注目したいし、意義を感じるのであるが、それが都市にまで応用されると、どうかな、と。あまりぞっとしませんでしたね。都市プロジェクトとしては19世紀のもののほうがよっぽど深みを感じるのではあるが。余計なことかもしれませんが。

いずれにせよ今年度必見の展覧会ではある。

(以上は昨夜書きましたが、昼休みを利用してアップさせていただきます)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.08

比較建築史読解005 (4)フランス建築(史)後半

(前半からのつづき)

外国人として見ると、19世紀はゴシック研究の世紀、20世紀は古典主義建築研究の世紀であったように思える。オートクールは浩瀚な『フランス古典主義建築の歴史』(Louis Hautecoeur(1884-1973), L’Histoire de l’Architecture Classique en France, 1943-57)を書いた。あるアメリカ人研究者は、この研究を評して、百科全書的だがどこにコアがあるかよくわからないと言った。しかしイタリア・ルネサンスを吸収し、アカデミーという独自の研究機関で固有の建築理論を確立したという書き方は、古典主義をフランス建築のコアに据えていることは自明である。実際、ブリュケルリの最近の著作(Brucculeri, Louis Hautrecoeur, Picard, 2008)でも、第一次世界大戦のころオートクールがフランスの文化的アイデンティティをつよく考えていたとしている。

 ヴィオレ=ル=デュク、ショワジ、オートクールと読書を続けているうちに、ジャン=マリ・ペルーズ・ド・モンクロが1982年に出版した『建築におけるフランス的なもの』(Jean-Marie Pérouse de Montclos, L’Architecture à la française, 1982)が、奇妙な重要性をもっていることに気づく。そもそも日本人にとってはなぜこの時期に彼が「国民的手法 manière nationale」を問いかけるのは、すこし不思議ではある。彼は初期中世にまで遡り、フランス的工法が言及された例を示す。ゴシックは、12世紀末のカペー朝におけるパリ近辺の「地方様式」が、ヨーロッパ各地に普及し、国際様式化したものであった。ゆえにゴシックはフランス起源であり、かつドイツやイギリスの国民様式である。それと同じように、古典主義は、ヨーロッパ諸国民を融合することもできるが、各国の様式でもありうる。そして彼は、ゴシック建築では「石工術 maçonnerie」であったものにたいして、古典主義では「截石学(ステレオトミー) stéréotomie」だとして、後者をフランス的なものの中心にすえる。それによってヴィオレ=ル=デュクの中世研究を排除するのではなく、それを包含しつつ、乗り越えようとしたのではなかったか。石造構造は中世で終わったのではなかった。ドロルムは、石工の技術を人文主義者の目から明らかにし、ロンドレはそれを極みまで発展させた。このようにモンクロは、19世紀のゴシック研究を否定せず、むし類似した手法をつかって、古典主義を普遍化しようとした。

 いずれにせよモンクロは、ゴシック/古典主義、ヨーロッパ的/国民的を、分断せず和解させながら、フランス的なものの概念を定義づけるのであった。

 日本において通史が書かれないいっぽうで、フランスではロワイエとモニエの著作が出版された。フランソワ・ロワイエは『フランス建築の歴史(3)革命から現在まで』(François Loyer, De la Révolution à nos jours, Menges, 1999)のなかで、建築を支えていた社会的基盤が革命によって失われ、変質したことを述べている。しかしそれでも歴史は現代まで書かれている。革命からの2世紀は「近代性modernité」の歴史として描かれている。政治、社会、技術、思想と理論を基盤として建築がつくられてゆくという記述は、普遍的なスタイルであり客観的であるように見える。彼もまた、歴史の亀裂を指摘する。古典主義は社会システムを反映したものであったが、それに反抗するように19世紀のモデルニテは立ち上がった。17世紀、ゴシックと古典主義を統合し、そこから新しい文明をつくろうという動きが始まった。モダン文化を私たちのアイデンティティに組み込まねばならない。とロワイエは結論づける。モニエも『フランスにおける近代建築』(1997)(Monnier éd., L'Architecture moderne en France 1-3, Picard, 1997)のなかで、過去の1世紀を扱っている。日本に建築の大学ができて、西洋化した時期とほぼ重なる。叙述のスタイルは、稲垣栄三のそれにもっとも近い。技術、制度、政策、経済、建築理論、運動、それらの総体として建築が展開するが、そこにはとくに終点は示されていない。ではなぜ日本では、戦争によって歴史が終わるのであろうか?【つづく】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.05

すこし暖かくなったかな

久しぶりに気温が0度を超えた。

週末はすこし時間ができたので、支部研の梗概を書く。帰国したら時差ボケで原稿どころではなくなるので、今のうちに書いてしまって、投稿しなければならない。というわけでなんとか書き上げた。原稿も支部に送ったものね。ぼくの研究室の学生は、みんな投稿しなければならない掟となっている。みなさんがんばってくださいね。

土曜の夜は、シャイヨ宮の建築・遺産都市をぶらぶら散策する。集合住宅の展覧会をやっていた。いわゆる社会的住宅はいまでも建築の重要な一部をしめているし、政策の重要な柱でありつづけているのが日本と違うところである。

建築書店も覗くが、いまだに出版熱はある。建築についても、テーマのとらえ方や写真のアングルなど、いわゆるコンテンツ産出能力は高い。タブレットや電子書籍の時代になったら、やはりヨーロッパの時代ではないか。つまり文化としての建築に、圧倒的な蓄積がある。その過去の編集によってつぎつぎと新規なものを産出する能力があるのである。

こういうものへのリテラシーをもっていると隠居生活は楽しくなるであろう。書籍や資料はWEBからダウンロードすればいいのだし。現場/隠居の差はなくなりはしないが、昔に比べれば、すっと小さくなるであろう。

日曜の朝は、アルテミスを聞いて、帰りは市で野菜などを買う。午後は明日にそなえて、アーカイブの確認をしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.03

比較建築史読解004 (4)フランス建築(史)前半

(4)フランス建築(史)

 比較のためにフランス建築史がいかに記述されてきたかを概観してみよう。

 書名としては「フランス建築」の概念は17世紀にはあった。研究者はさらに初期中世まで遡及する。しかしこの概念は、時代によってはっきり異なる。そして「フランス建築」のなかにも、古典主義/ゴシック、伝統/近代といった断絶がある。しかしそれを、より普遍的な枠組みで統合しようという試みが常にあったと思われる。

 古典主義時代の文献としては;

Ducerceau, Les plus excellents Bâtiments de la France, 1576, 1578(デュセルソ『フランスの最も卓越した建物』1576, 1578)
Louis Savot, L’Architecture française des bastiments particuliers, 1624, 1642, 1673, 1685(ルイ・サヴォ『フランス建築』1624 etc)
Jean Marot(1619-1679), L'Architecture françoise, ou Plans... des églises, palais, hôtels et maisons particulières de Paris..., (ジャン・マロ『フランス建築・・・』)
Jacque-François Blondel(1681-1756), Architecture françoise, ou Recueil des plans, ・・・・・, Paris, , 1752-1756(ジャック=フランソワ・ブロンデル『フランス建築・・・』1752-1756)

などがある。

 ヴェルナール・ザンビアンは『シンメトリー・趣味・性格』のなかで、古典主義時代において「フランス建築」は、古代建築、イタリア建築、に対して「フランス的」なのであったと指摘している(Werner Szambien, Symétrie Goût Caractère, Picard, 1986, pp.47-52, 89, 90)。ちょうど日本建築が中国的でないものとして定義されたように。古代建築やイタリアのルネサンス建築は、美しさ、壮麗さで優れているが、フランス建築は室内の間取りの快適さなどで優れている、というような比較的理解が一般的であった。また「フランス建築」は、世俗建築であった。王の宮殿、貴族の城館やオテル建築、ブルジョワの館などの民間建築がそのカテゴリーに入る。いっぽう宗教建築、ゴシック建築は、そうではなかった。

 そうしたことを考えるとシャトーブリアン、ユゴー、アレクサンドル・ルノワールらが中世建築はフランス国民の遺産であると主張したとき、「フランス的なもの」の定義は変更されたように思える。

 さらにヴィオレ=ル=デュクは『中世建築辞典』(1954-68)や『建築講話』(1858-72)(Eugène-Emmanuel Viollet-le-Duc(1814-1879), Dictionnaire raisonné de l’architecture française du XIe au XVIe siècle, 1954-68; Entretiens sur l’architecture, 1858-72)などにおいて、周知のとおり、中世建築を合理主義の立場から再解釈するのだが、それはゴシック建築の普遍化であり、それが建築の普遍的モデルとしてされえたので、近代建築運動にまで影響を与えたのであった。ゴシックの固有性ではなく、あらゆる建築に通用する普遍的原理となりうるものを構築した。彼は「フランス建築」という言葉はあまり使わなかった。しかし彼が確立したのは、合理主義を担うまさに「フランス建築」というカテゴリーではなかったか。

  ヴィオレ=ル=デュクがゴシックの理論的な普遍性を論じたとしたら、オーギュスト・ショワジは『建築史』(Auguste Choisy, L’Histoire de l’architecture, 1899)のなかで、そのグローバルな広がりとネットワークを考察した。マンドゥールによれば(Mandoul, Entre raison et utopie, Mardaga, 2008)、ショワジはエコール・ポロテクニク出身のエンジニアであり、サン=シモン主義、実証主義、生物学、建築プロムナード、など同時代のさまざまな理論を活用し、宗教建築の内部空間に注目し、ベイを空間の単位として、それをアクソノメトリックで下から見上げるという手法で分析した。マンドゥールはとくにネットワークの概念を活用し、地中海世界のなかでいかにロマネスク、ゴシックが伝播したかを図示した。伊東忠太とほとんど同時代であることは興味深いし、さらに建築の地理的広がり、そのネットワークに注目する視点は類似しているといえる。【つづく】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.12.02

リヨンに雪はふる・・・・

11月30日、やけに寒いなと感じた。あまりに寒いのでランチに地酒ワインをたのむ。とても美味。夕方から雪が振りだす。天気予報は注視していなかったので、そんなに気にしなかった。しかし夜になるとかなり雪は積もってきた。さすがに心配になってテレビやらインターネットで気象情報を集める。心配になる。明日は予定どおりパリに移動できるのだろうか?

12月1日10時。窓から悪戦苦闘するマイカーを眺める。スリップして、とても車で通勤といった状況ではない。子供たちははしゃいでいた。

大家と清算などする。滞在はどうでした?とてもよかったです。成果もあがったし。でもすごい雪ですね。交通はどうなっていますかね。バスもタクシーも止まってしまったようだし。リヨンはね、雪がふるとすべて麻痺するの。そう決まっています。そうですか。メトロまでガラガラ転がして、リヨン駅までいって、そこでTGVにのります。それが一番いいわ。そう、ここの名刺わたすわね。ありがとう。よいご旅行を。パリもいいでしょうね。さよなら。さよなら。

大家は、推測するところ、中学校か高校の教師で、退職したっていうところ。大きめのアパルトマンをふたつにわけて、自分の住まいと、旅行者用のアパルトマンとした。観光局みたいなところにちゃんと登録していて、ホテル扱いである。ほっといてくれるのでとても楽。でも隣には大家が常駐していてとても安心感がある。フランスならではか。部屋は50㎡もあって、天井も高い。機会があったらまた来たいものである。

地下鉄の駅まで、ガラガラを引きずる。15分歩く。バスもタクシーも走っていない。旅行者にも、これが大雪による非日常だとすぐわかる。ごくまれにマイカーや商業車がとおる。慎重に、ゆっくり走る。どうやらチェーンなど準備していないようだ。雪が降ったらあきらめる、そんな観念した態度で、ゆったりしている。

リヨン駅。みんな心配そうに発着の掲示板を見つめる。ぼくのTGVは定刻3分前にやっと掲示がでて、みんないそいで乗車。座ってやっと安堵感。6分遅れで発車し、パリには20分遅れで到着。リヨンでは積雪30センチだったことを考えると、順当すぎるくらいであった。

パリも氷点下で、寒い。でも宿につくと、また安堵感に満たされる。定宿。いつものモノプリ。いつものブランジュリ。夕刻、みんなそれぞれのささやかな幸せのために急ぎ足で歩く。パリはパリ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »