« 比較建築史読解001 (1)問題の所在(2)これまでの取り組み | トップページ | ウラ学園祭 »

2010.11.23

比較建築史読解002 (3)日本建築(史)前半

(3)日本建築(史)

 そもそもarchitectureが「建築」に翻訳されてから1世紀半もたっていない。同様に1900年ごろの時点で、「日本建築」という概念はなかった。この概念は20世紀前半、アジア建築や西洋建築との関係を検討するなかから生まれた。そしてこの歴史は「美学」、「自意識」、「思想」などという概念によって成立しているとともに、深い断絶を内包するものとなったた。

 日本で最初の建築史家である伊東忠太の仕事は、日本の国土の上にある建築を、世界あるいはアジアといった枠組みのなかにどう位置づけるかを検討することであった。彼の位置づけかたは時期によって変化した。とりわけ内在的な特質というより、外部との関係性から日本建築の定義が模索された。彼はまず論文『法隆寺建築論』(Chuta ITO, De l’Architecture du Temple Horyu-ji, 1893)において、法隆寺の柱には膨らみあり、その膨らみの起源がギリシア神殿の円柱にあると考えた。エンタシスがギリシアから中東、アジアを経由して日本に伝わってきた。すなわちそれはヘレニズムの一翼を担うものであり、グローバルな古代建築の一部であった。ちょうどフェノロサが、法隆寺の壁画はヘレニズム絵画の影響下にあると考え、極東においてギリシアを発見したように。彼にとってこのとき世界はひとつであった。

  つぎに伊東は論文『建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途』(Chuta ITO, L’avenir de l’architecture de notre pays selon l’évolutionnisme architectural, 1909)のなかでは、ヘレニズムという単純な原点は破棄し、世界を分節化したものとして考えている。すなわち世界建築は古代(エジプト、アッシリアなど)、ヨーロッパ(ギリシア、ローマ、ロマネスク、ゴシック)、アジア(イスラム、インド、中国)という3大文化圏からなる。さらに彼は「分離」すなわち近代化ということにまで視野を広げている。すなわち西洋ルネサンスという文化圏からアール・ヌーボー(すなわちヨーロッパ)とアメリカが分離しているのと同様に、アジア文化圏からは日本が分離しつつある。しかし分離とは完全な離脱を意味するのではなく、もともとの文化圏との関係は切断されていない。

 このように伊東は、日本建築は東洋というカテゴリーに属すると考えるようになった。この態度は、論文においても、また設計やコンペ審査活動において顕著であった。伊東は東京の築地本願寺をインドの仏教建築の様式で建設したのだし、また1930年代の建築コンペにおいて審査員をつとめ、「東洋趣味」で設計するように建築家たちに要求した。渡辺仁が設計した東京の帝室博物館はその一例である。

 伊東忠太は、まず日本建築はヘレニズム=世界建築の一部と考えたが、やがてそれは東洋建築に属すると考えるようになった。そして理論的には、日本建築の枠組みは日本であるという次の段階がある。このトートロジー的な論理を展開したのが堀口捨己であった。彼は同時代の「日本的なもの」に関する論考に触発されて、論文『建築における日本的なもの』(Sutemi HORIGUCHI, L’Architecture à la japonaise, 1932)を書き、日本建築の特質として、非左右相称(非シンメトリー)、掘立柱、檜皮葺(瓦ではなく)、記念碑性がないこと、空間をつよく意識していること、茶室がザッハリヒであり機能主義的でもあること、などをあげた。これらの指摘は今日では当たり前すぎる。しかし重要な点は、堀口にとって中国的でないものが日本的であった、という点である。つまり中国建築は、左右対称であり、礎石の上に柱を立てるのであり、瓦葺きであり、記念碑的であり、彫塑的であり、見かけの効果が計算されたものである・・・。彼は歴史をレビューしながら、古代や中世の日本建築、とくに寺院建築はむしろ、こうした大陸建築の直輸入であり、その意味で中国的であったと論じた。しかしそこから日本的なものが誕生し、成長し、拡散し、展開していったのであった。

 堀口にとって「日本的なもの」とは、近代芸術運動におけるいくつかの特性を日本の過去の遺産のなかから抽出したものであって、それは大陸的あるいは中国的な特性を反転させたものであった。すなわち日本建築は、中国的でないから、日本的なのであった。

 こうした観点は日本的モダンといえよう。そしてそれは戦後のある時期まで支配的であった。とりあえずそれを継承したのは岸田日出刀であった。みずから撮影した写真に論考を加えた『過去の構成』(Hideto KISHIDA, La composition du passé, 1938)において、彼は日本建築を「構成」として論じた。彼はモダン・アートの概念を学習したうえで、デスティル、バウハウス、構成主義などと親近性のあるひとつの美意識をいだきつつ、朝鮮神社や東大寺南大門などをみずから撮影していた。近代アートを認識している目で、日本建築を語っている。【つづく】

|

« 比較建築史読解001 (1)問題の所在(2)これまでの取り組み | トップページ | ウラ学園祭 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/37717448

この記事へのトラックバック一覧です: 比較建築史読解002 (3)日本建築(史)前半:

« 比較建築史読解001 (1)問題の所在(2)これまでの取り組み | トップページ | ウラ学園祭 »