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2010.11.28

比較建築史読解003 (3)日本建築(史)後半

(前半からのつづき)

浜口隆一はさらに丹下健三や前川國男のコンペ案を評価するための論文『日本国民建築様式の問題』(Ryu?chi HAMAGUCHI, Le Problème des Styles Nationaux de l’Architecture Japonaise, 1944)のなかで、リーグルやヴェルフリンの理論を借用することで、日本建築における芸術意志ならぬ「建築意志 Bauwollen」は「空間」であると主張した。西洋の折衷主義においては(浜口は言及していないがあきらかに大陸的な建築においても)、建築意志は「彫塑的」である、すなわち、付加的な装飾や細部にむかって造形の意欲がはたらきかけられるのであるが、それとは異なって日本建築では、もっぱら空間を作ろうとする方向に意志がはたらく。

 伊東は、勾配屋根、瓦屋根、独特の木構造の装飾的表現、絵画や彫刻による装飾といった側面に日本建築の東洋的特質を見いだそうとしたのに対し、堀口や岸田や浜口にとっては構成、ザッハリヒカイト、空間といった近代美学と両立しうるもの、そして大陸的建築とは異なるもの、が日本的なのであった。

 そして日本建築とは、グローバルでもなく、ヘレニズム的でもなく、中国的でもなく、なにより日本的であるというトートロジーは、ひとつの抽象的な美学として構築された。

 こうした立場は日本建築史最大の碩学といっていい太田博太郎にも継承されている。その『日本建築史序説』(Ohta HITOTARO, Une introduction pour l’histoire de l’Architecture japonaise, 1947)はさまざまな研究の集大成であり、3部から構成されている。

(1)「序」では、堀口などに倣って、日本の伝統的建築の特質は、近代建築にきわめて類似していると、指摘している。空間、非シンメトリー、素材の率直な使用、一種の機能主義、などである。これは「美学」としてのサマリーである。
(2)本論の各章では、寺院、神社、城、住宅などがテーマごとに論じられ、それまでの多くの研究者の研究が体系的にまとめられている。これは「実証主義」にもとづくサマリーである。
(3)「付録」は参考文献であるが、改訂されるごとに最新の研究成果のリストが追加される。

 重要なのは美学(序)と実証主義(各章)の関係である。慎重に読めばわかるが、両者は完全な併置なのであって、有機的な関連づけははじめから放棄されている。そしてそのようなものとして、「日本建築」は固定されてしまったまま、今日にまできている。

 美学と実証主義の並立という構図から、さらに距離をとるために、歴史をひとつの「意識」の展開として叙述することがなされた。稲垣栄三の『日本の近代建築[その成立過程]』(Inagaki Eizo, L’Architecture moderne du Japon, le processus de sa formation, 1959)である。この包括的な叙述では、様式、技術、法制度、都市計画、職能などを指標として近代化が描かれているが、稲垣はそのなかで「建築運動」にたいして特別な地位を与えている。すなわち日本で最初の建築運動である「日本分離派」を建築家の自意識(conscience en soi)の誕生として、位置づけた。ニコラウス・ペブスナーらが描く近代建築史が基本的に建築運動の歴史であったことを知っており、その観点を日本に応用したのであった。稲垣は、前近代から近代への移行を、無意識から意識へ、という構図で述べた。なるほど近代人とは自意識のことかもしれない。しかしこの書はふたつの問題を残した。「自意識」とはもちろんメタファーにすぎないこと。そして戦争で説明を終えたこと。

 稲垣はその理由をごく簡単に述べている。戦後建築のあらゆる要素はすでに戦前に見られる、と。今日は晴れだ、というような口調でそう指摘した。しかしそれがあとの人びとを拘束する結果となる。新しい史実をも追記された藤森輝信の『日本の近代建築』(Terunobu FUJIMORI, L’Architecture moderne au Japon, 1993)も包括的な書でありながら、戦争をもって終わりとしている。戦後についてはまったく書かれなかった。戦後50年の時点においてさえ。こともあろうに稲垣が、戦後について書かれていないことを批判するありさまであった。

 稲垣の後継者ではないが、類似の枠組みと思われるのが八束はじめ『思想としての日本近代建築』(Hajime YATSUKA, Les Id?ologies dans l’Architecture moderne au Japon, 2005)である。思想とは、近代化、風景、近代建築運動の思想の移入、都市計画理論、植民地政策(日本にとって満州は、フランスにとってのアルジェリアであった)、政治的転向、そして近代建築の理論そのもの、が論じられている。政治的イデオロギーは直接には論じられていないが、そこに社会主義、ファシズム、植民地主義、ナショナリズムといった近代のイデオロギーの影が建築にどう投影されたかを一貫して追及されている。しかし八束もまた、戦後はまったく論じない。おそらく今度は、戦後は思想不在の時代という認識があるのであろう。

 八束は思想を論じた。藤森はある意味で非思想、無思想を論じた。しかし彼らは、稲垣の延長線上にある。つまり建築運動は自意識の誕生であり、自意識を所有する建築家だけが、思想を展開しうるのである。

 以上をまとめてみよう。「日本建築」とは100年ほどまえに探求されはじめたカテゴリーであった。最初それは文明圏のことと素朴に考えられたのちに、「美学」として構想された。大陸的なものとは異なるというのが美学的な定義であった。そののち「自意識」や「思想」としても論じられるようになった。

 こうした方法論では、なぜ戦前と戦後をひとつながりとして描けないのであろうか?

 ここでは仮説をひとつ述べる。日本の歴史家は、意図せずして、断絶をその歴史叙述のなかに持ち込んでしまうのである。

 「美学」は「非美学」との断絶のなかにおいて「美学」なのである。日本建築は、中国建築でないがゆえに、日本的である。あるいは美学をすてた日本建築は、すでに日本的ではない。美学は、伝統と近代を統合した。しかし統合の傍らで、意識されずに、分裂をつくった。だから戦後を歴史に接続して分析するためには、まったく有効ではなかった。

 稲垣のいう「自意識」は、それ以前の自意識不在の時期とは断絶しているからこそ「自意識」の誕生には意義がある。自意識の確立は基本的に不可逆なのであって、それ以前とは完全に分離されている。「思想」もまた「非思想」「無思想」との対比のなかで思想なのである。八束がいう「思想」もまた、彼が論じたい時代に固有のものであり、それ以前は無思想であり、それ以後は非思想なのである。

 そして美学、自意識、思想などにおける断絶はディアクロニク(通事的)なものである。以前/以後の完全な不連続をもたらす。ということは逆に言えば、普遍的な時間、数直線的な無限の時間というようなものがあって、その時間のなかに異質なものが同居しているyという構図は、日本建築史には内在されていない。「永遠」の不在、である。【つづく】
 

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コメント

もし、藤森と八束が稲垣の延長線上にいながら稲垣と同じ戦前までしか書けていないとするのならば、なぜ書かれなかったのかを検証されるべき時期に来ているのではないでしょうか。
また建築を非思想,無思想としてしまうと、技術史は詳細に語れても建築芸術運動、デザインについては語れないのではないかと思います。その場合、実は延長線上には乗っていなかったということもありえますし。
土居さんと同様、これからの日本の建築の為にも、今こそ普遍性のある戦前、戦後を通した日本近代建築通史のより深い議論があってしかるべきであると考えます。

投稿: ユーイチ | 2010.11.29 03:19

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